悟りへの道 -3ページ目

悟りへの道

今にある 
-笑う門には福来る、有難いことに気づく人は幸せである、後悔より未来へ1歩、いいんだよ-
仕事、本、感じたこと、学び、今は、悟り的考え、等いろいろ書いています。

2/8 選挙

このことで身内を責めたくなった




あとで一緒に行こうというので合わせたら

雪が降り止まず、行けない可能性がでてきた

選挙にいけなくなる!と責める気持ちがでかかった

 

自分もそれに同意し

自分が選んだ行動でもあるのに

 

他責しているなぁ(笑)
と十分自覚しつつ、

 

イライラしかかったとき

そこで相手の立場について気付きがあった

 

 

 

 

”私”は、自分の行動について失敗したと思ったとき

 

「故意・悪意がなければよし

 ベストをつくしてこれだった

 

 反省より、学びとし、

 改善し以降に生かすことこそ大切」

 

と思うようにしている

 

 

 

 

身内について思いをめぐらすと、

 

そうだ!

身内だって故意・悪意なんてなかった

 

午後は晴れの予報をもとに

良かれと思って後にしようと提案しただけ

 

 

 

 

 

それに気づいた

 

他人も故意悪意がなければ許すことを今日学べた

 

 

 

 

 

ちなみに、

前回ブログに書いた、

 

視点を変えることも試みた

 

 

 

 

選挙に行けなくなるかも、

という残念さが出ていたのだが

 

視点をかえることを試み

だいぶ気持ちがおさまった

 

自分で言うのもなんだが

前回気付いた視点を変えるって

とてもいいなぁと思う

 

 

 

 

選挙も日本も

幻想といえば幻想なのかもしれないし

 

こういう1票がないことで

日本に何か影響があれば

 

それはそれで、

 

それが必要だったのだとも思った

 

 

 

まとめ:

故意・悪意がなければ自分も許し他人も許していく

苦が生じはじめたら視点を変える(前回のブログの内容)

 

 

 

結局、午後には晴れた

無事選挙には行けた🌈

 

やっぱり結局なんでも

うまくいくようになっていますね

 

 

 

 

すべてに感謝

万人万物の幸せを祈ります🍀

 

 

『人生迷路』

 

●最初の人

 

迷路を進む

 

あっちぶつかり

こっちぶつかり

 

戻って

進んで

 

また戻り

 

途中嫌になったり

休憩したり

気を取り直したり

 

その道が

 

ゴールに至るかは

神のみぞ知る

 

 

 

 

●次の人

 

人生迷路をぬける地図を

 

手に入れた

 

 

迷路の地図を見ながら

 

ゴールへすすむ

 

 

 

 

●最後の人

 

ブッダ

 

人生に

 

迷路自体が立ち上がらなくなった

 

 

 

 

 

 

■「苦しみ」にある人は
「楽」はどうしたら得られるのだろう?

 

と思った。

「3悪」*の逆をすればいいとは思うが、
一言でいえば、

「今とは別のあらたな視点を持つ」

ことではないかと思った。




※「3悪」とは(私が勝手に定義したもの)
●物差し(常識、価値観、正しさ、当たり前)

 =こうすべきだ、自分は正しい
●欲  (思い通りにしたい、もっと、期待、比較、嫉妬)

 =外に目を向け、不足に目を向け、不満
●無知 (知らない、未経験、勘違い、思い込み)
 =狭い視野、完全な勘違い





■つまり、

 

今の物の見方が固定され、


これが当たり前、
こうあるべきだ、
からぬけられなくなり、

他の見え方がないことで、人に苦が生じているように思う。


これを「執着」と呼ぶのだと思う。





■ここでいう「モノの見方」には2種類あると思っている。

 

①そのモノの見方自体

 

②その見方を発生させている、さらに奥の信じ込み

 

 

ここでは①について軽く扱うが、

 

いづれは②の信じ込みに気づいていくことが

根本からの変化につながるとは思っている。

 





■必要なのは以下の視点ではないかと思った。

・違う視点(知識)を取り入れる: 人に相談、本を読むなど

・違う視点(経験)とつながる: 音楽、スポーツ、移動するなど

 ※刺激中毒・依存にならない程度に行う

・元の視点に戻る: フラットになる内側に戻る

 すべきことをする
 小さいこと目の前のことを丁寧にする

 自分(呼吸、姿勢など)や場(整理、掃除など)を整えるなど



いろいろと述べてきたが、要するに


「視点を変えられればいい」

 

これが大切で、視点が変えられれば
 

常識の範囲内であれば、

基本は何でもよいのだとは思う。



 

■逆に「苦」が継続していたら、

自分の視点を変えることを考える。



そして、

前向きになる質問、
明るい自己暗示なども


適切に心掛けるとだいぶ楽になると思う。




■「あらたな視点をもっていく」

 

 

このことが大事なのだが、

 

つまるところ人生は、

 

どれだけ思い込みを手放せたか?

 

になる気がした。

 

 

 

 

■生まれた時はゼロだった思い込みが、

思い込んで

思い込んで

 

その後、

手放して

手放して

 

と、なんだか

 

矛盾しているようだが、

 

これが

これこそが

 

「あるべき人の辿る道」

 

とただただ

 

知らなかっただけかもしれない。

 

 

 

 

 

すべてに感謝。

すべての人・モノにさらなる幸がありますように。🍀




 

できたことも縁

できなかったことも縁

そうとしか起こらざるを得ない縁があった





それら縁によって

その時の”己”が浮かび上がった

条件がそろって空に出た”虹”のように

 





できたことに執着することなく

できなかった己を責めることなく
 

出来事に翻弄されているのではない

 

心に翻弄され

 

辛いと思っている

 

 

 

心とは

 

その思考

 

その思考が生まれた物の見方

 

 

 

しかし

 

そうとしか思考がでざるを得ない縁

 

それを分かった上で

 

八正道を実践し

 

さらに手放すことを模索していく

 

 

 

■私は、ここでこういうブログを書いているように

内観タイプというか
考えすぎタイプというか、
思慮深いタイプというか、

どちらかというと
冷静に物事をみる落ち着いたタイプ、だと思う。




■昔、父がよく
何気ない会話で軽い私の発言に


「●●は、すごいなぁ・・・。

 どうしてそんなことが分かったんだ。

 苦労したんだなぁ。」

 

という言葉を私にかけていた。

(といっても、晩年の10年ぐらいだろうか)



ちなみに、父は

褒めて子育てするようなタイプではない。

だいぶ、怖くて、若い頃は

ほぼ怒られている記憶ばかりだ。




■なので、

「これほどまで褒められること言ったかな?
 これ普通じゃないかな?」

そんな感じがしていた。

悪い気はしなかったが。


でも、色々考えてきたので、
他の兄弟よりは思慮深い発言はしていたのかな、とは思う。




■そんな、父が亡くなり、

 気が付いたことがある。

「それを分かる、父が凄かったのだなぁ」
「分かる・理解できる人が、褒めるのだ」


と。




■父亡き後に、
残された親兄弟とつきあっていて思ったのは、


以前より、
もっと物事の道理の理解が深まっているはずのに


私と話していても
他の親兄弟からは一言も


父のような言葉をかけられることがない。

 

 

そういう褒められる快楽からも

自由になっていきたいとは思っているのだが、

 

ここに書いているぐらいだから、

執着、欲が働く”自分”がいる

のは自覚している。(苦笑)





■同じことを言っても、

人の反応はさまざま。




同じ反応は帰ってこない、と心して、

期待せず、

何か悪く、また、誤解されることさえもある。

 

 

 

完全に正しくみえても、

 

道理が通らないことさえもある。



そんなこともあるのが人生。

 

 

 

人の反応に期待せず、

ただ、たんたんと

 

 

必ずこのことが良くなる道と生きていきたいものだ。






すべてに感謝。

万人万物の幸を祈ります。








 

■繰り返し、

あることについて「後悔」の念がでることがある。

 

「後悔」することが償いぐらいにも思っていた。

 

 

これが、なかなかしぶとく思考として度々出てくる。

 

思考を観察していても

あまりに深い心境。

 

巻き込まれても仕方ないぐらいに思っていた。

 

 

 

しかし、先日、

 

あれっ!後悔ってなんだろう?

という念がでてきた。

 

 

 

■私は、たいていの人は基本

刺激を求めて生きていると思っている。

 

音楽、スポーツ、映画、恋愛、褒められる快楽、ギャンブル、スマホなど、

みな刺激だと思っている。


 

何かに没頭(我を忘れる)ことで、

ある意味トランスというかゾーンというか

現実を忘れる快楽のような状態なる。


刺激中毒を疑った方がいいぐらい、自覚なく刺激を求めて生活している。



 


そして、先日思った。

 

あっ、

 

「後悔も

強い落ち込みの刺激なのではないか?!」

 

 

 


 

■今まで、

「後悔」は反省ぐらいに思っていた。

 

むしろ、反省し

大切なことをしているぐらいに思っていた。

 

そうすることで(自分責め)、

罪を補っているぐらいな勘違いもあったかもしれない。

 

 

 

そして、

仏教の話になるが、

 

「後悔」は

貪瞋痴(とんじんち:欲・怒り・痴)の

「怒り」に分類される。

 

なぜ「後悔」が怒りに分類されているのか?

だって反省しているだけなのに。

 

ずっと疑問だった。

 

それも解けたように思った。

 

 

 

■以下のようなのだと思った。

 

・後悔も強い刺激(強い落ち込みの感情に浸る)

・トランス的な状態になり、我を忘れる快感

 

つまり、後悔も

ある意味刺激、ある意味快楽だったのだ。

 

 

 

そして、

 

・怒り=他人を責める、こうあるべきなのになぜ!!

・後悔=自分を責める、こうあるべきだったのになぜ・・・!

・嫉妬=状況を責める、なぜあの人が!私の方がすごいのに!

 

つまり、こうあるべき・こうしたい、が満たされないことで、

 

怒ったり、

後悔したり、

嫉妬したり、

 

結局何かしらの対象を責めて不快に思っている状態。

 

だから、

後悔も「瞋(じん)」に分類されているのだと分かった。

 

 

 

 

■さらに、今回は考えが発展された。

 

あることを「後悔」していたが、

 

もしかして、

自分は悪くなかったかもしれない、と。

 

 

実は、

何事も誰も悪くないかもしれないと。

 

または、

全員に自覚はなかれど

責任があるのかもしれないと。

 

 

そんな見え方もしてきた。

 

 

 

 

■”ラストワンマイル”

 

最後の主役が起こしたことのようについ見えがちだが、

 

あらゆる縁起でその状況が起こらざるを得ないよう

起こったのならば、誰に責任があるのだろう?

 

そして究極を言えば、

 

それでもラストの人、

途中の人含め

ベストなことをしていた。

それしかできなかった。

それでいい・・・。

 

これは話すと長くなるので、今回は書かないでおこう。

 

 

 

 

 

■とにかく、

「後悔」という自責が度々起こっていたある事について

 

はじめて、

それを手放していくことを選択していく視点が持てた気がした。

 

少しすっきりとした心とともに。

 

 

 

 

■まとめ

  • 後悔は刺激
  • 後悔は自分への怒り
  • ラストワンマイル(=悪)は存在しない
  • 自分一人でどうにかできることなどない
  • こういうこともあると何事も受け入れる穏やかさで人生を生きる

 

 

 

すべてに感謝。

万物万人のさらなる幸を祈ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

■昔、「悟り」というものがあると知った時、

 

「悟れば苦しみが、一切なくなるんだ!」

 

と思っていた。

 

 

 

 

■あくまで、今の段階の”私”の感想だが、

 

悟りで苦がなくなるというのは、

 

苦はなくなるわけではなく

ただ、

 

苦となることは生じるが、

苦と感じる見え方、捉え方が減ってゼロに近くなっていく、

 

そんな気がしている。

 

 

 

 

 

■今の”私”は、悟ってはいない。

 

 

では、

どんな立場から言っているかというと、

下記の「3」の立場かなと思っている。

 

 

1.街中にいる: 悟りに関心がない人

2.登山決意 : 悟りの入口に立った人(発心)

3.登山中  : 悟りへのどこかの段階の人(修行中)

4.頂上到着 : 悟った人(仏・阿羅漢・覚者)

 

 

 

 

■登山中でも

だいぶ気付きが多い。

 

 

「あぁ、見つけた!こうだったんだ!」

 

となることが多い。

 

 

 

途中で1つ1つ思い込みが崩壊していくのだと知った。

それは意外だったが、嬉しい誤算だった。

 

 

 

頂上にいかなくても、登っている途中で

さまざまな景色が楽しめる。

 

 

今見える景色を楽しんでいきたい。

 

 

 

 

すべてに感謝。

万人万物にさらに幸がありますように。

 

 

 

・・・つづき。

 

 

■前回のつづきだが、

 

分かってほしい、

認めてほしい、

褒めてほしい、

 

と、人は他者に「自己承認欲求」を

 

満たしてもらうことを求めがちだ。

 

 

 

 

■”私”は最近こんな風に思う。

 

他者が「自己承認欲求」を満たしてくれることは、

 

ありえない。

 

 

 

 

同じ人間、ならだいたい一緒。

 

そんな風に人は、他者を見てしまいがちだ。

 

 

 

しかし、他者は、

生まれも、環境も、常識も、家族も、仕事も・・・違う。

 

つまり、自分のモノサシとは

違うモノサシをもっている。

 

 

 

だから他者に承認を求めるとしたら、
 

鳥、ネズミ、草木などに

自分を認め受け入れ褒めて欲しいと言っている、

 

ようなものだと思う。

 

 

 

■我々は、

 

そういう「期待」がおかしいことを習ってはこなかった。

 

小学校などでしっかり習う機会が必要なのでは?

 

 

そんな教えを幼少期に得ていたら、

 

世にある苦はだいぶ減ったと思う。

 

 

 

■ではどうしたらいいか。

 

 

もし一番満たせる存在があるとしたら、

 

 

それは、自分以外いないだろう。

 

 

なぜなら、

 

自分の本当の状況、苦労、気持ちを分かりうるのは、

 

自分であるだろうから。

 

 

 

 

■しかし、

 

さらにいうと、違うなぁと思った。

 

 

 

究極は、

 

目を覚ましていくしかないとも思う。

 

 

 

それを判断した価値観、

その期待という欲、

そう判断した狭い視点・無知、

 

 

それが三悪だと気付けば、ヒドイ、などという思考も出ずらかった。

 

三悪で世を見ていることに気づき

手放していく。

 

 

執着を横における。

 

 

 

 

 

■そしてさらにその先には、

 

その認めてもらうべき

”自分”さえも本当はいない・・・

 

思考や感覚、感情の産物だった、と気づいていく。

 

 

 

またまたさらには、

 

それを観賞している大いなる存在が本当の自分と思っている、

 

その大いなる自分さえいないと思う・・・。

 

 

 

■まだまだ”自分”がいる身であるが、

 

”自分”をなくそうと力むわけでもなく、

 

注視しながらも気楽に、

 

目覚めが起こる時は起こる、

起こらない時は起こらない、

 

という態度が良いような気はしている。

 

 

 

 

■スマナサーラ長老の幸せを祈る瞑想の最後にも

人としての究極の姿が願われていた。

 

 

多くの人が幸せでありますように。

多くの人の願いが叶いますように。

多くの人の悩み苦しみがなくなりますように。

 

そして、

多くの人が悟りの光に照らされますように。

 

 

 

 

 

■まとめ

 

・三悪(モノサシ、欲、無知)で見る視点をもつ。

 

 他人は自分と同じ状況だと思わない。

 他人は自分の状況は決して理解できないと思う。

 

 同じように他人に対して自分も不十分でありながら、

 付き合っていると思う謙虚さ、他者への許し・慈愛をもつ。

 

・自分が自分を認めるしかない。

 しかし、その自分さえも、本当は幻想。

 

・究極は、悟りの光に照らされること。

 しかし、義務でも、特別でもなく、正誤もなく、

 起こる時には起こる、起こらない時は起こらない。

 ただ、そうなっただけ。

 

 

 

 

 

すべてに感謝。

万人万物が幸せでありますように。