悟りへの道 -4ページ目

悟りへの道

今にある 
-笑う門には福来る、有難いことに気づく人は幸せである、後悔より未来へ1歩、いいんだよ-
仕事、本、感じたこと、学び、今は、悟り的考え、等いろいろ書いています。

できたことも縁

できなかったことも縁

そうとしか起こらざるを得ない縁があった





それら縁によって

その時の”己”が浮かび上がった

条件がそろって空に出た”虹”のように

 





できたことに執着することなく

できなかった己を責めることなく
 

出来事に翻弄されているのではない

 

心に翻弄され

 

辛いと思っている

 

 

 

心とは

 

その思考

 

その思考が生まれた物の見方

 

 

 

しかし

 

そうとしか思考がでざるを得ない縁

 

それを分かった上で

 

八正道を実践し

 

さらに手放すことを模索していく

 

 

 

■私は、ここでこういうブログを書いているように

内観タイプというか
考えすぎタイプというか、
思慮深いタイプというか、

どちらかというと
冷静に物事をみる落ち着いたタイプ、だと思う。




■昔、父がよく
何気ない会話で軽い私の発言に


「●●は、すごいなぁ・・・。

 どうしてそんなことが分かったんだ。

 苦労したんだなぁ。」

 

という言葉を私にかけていた。

(といっても、晩年の10年ぐらいだろうか)



ちなみに、父は

褒めて子育てするようなタイプではない。

だいぶ、怖くて、若い頃は

ほぼ怒られている記憶ばかりだ。




■なので、

「これほどまで褒められること言ったかな?
 これ普通じゃないかな?」

そんな感じがしていた。

悪い気はしなかったが。


でも、色々考えてきたので、
他の兄弟よりは思慮深い発言はしていたのかな、とは思う。




■そんな、父が亡くなり、

 気が付いたことがある。

「それを分かる、父が凄かったのだなぁ」
「分かる・理解できる人が、褒めるのだ」


と。




■父亡き後に、
残された親兄弟とつきあっていて思ったのは、


以前より、
もっと物事の道理の理解が深まっているはずのに


私と話していても
他の親兄弟からは一言も


父のような言葉をかけられることがない。

 

 

そういう褒められる快楽からも

自由になっていきたいとは思っているのだが、

 

ここに書いているぐらいだから、

執着、欲が働く”自分”がいる

のは自覚している。(苦笑)





■同じことを言っても、

人の反応はさまざま。




同じ反応は帰ってこない、と心して、

期待せず、

何か悪く、また、誤解されることさえもある。

 

 

 

完全に正しくみえても、

 

道理が通らないことさえもある。



そんなこともあるのが人生。

 

 

 

人の反応に期待せず、

ただ、たんたんと

 

 

必ずこのことが良くなる道と生きていきたいものだ。






すべてに感謝。

万人万物の幸を祈ります。








 

■繰り返し、

あることについて「後悔」の念がでることがある。

 

「後悔」することが償いぐらいにも思っていた。

 

 

これが、なかなかしぶとく思考として度々出てくる。

 

思考を観察していても

あまりに深い心境。

 

巻き込まれても仕方ないぐらいに思っていた。

 

 

 

しかし、先日、

 

あれっ!後悔ってなんだろう?

という念がでてきた。

 

 

 

■私は、たいていの人は基本

刺激を求めて生きていると思っている。

 

音楽、スポーツ、映画、恋愛、褒められる快楽、ギャンブル、スマホなど、

みな刺激だと思っている。


 

何かに没頭(我を忘れる)ことで、

ある意味トランスというかゾーンというか

現実を忘れる快楽のような状態なる。


刺激中毒を疑った方がいいぐらい、自覚なく刺激を求めて生活している。



 


そして、先日思った。

 

あっ、

 

「後悔も

強い落ち込みの刺激なのではないか?!」

 

 

 


 

■今まで、

「後悔」は反省ぐらいに思っていた。

 

むしろ、反省し

大切なことをしているぐらいに思っていた。

 

そうすることで(自分責め)、

罪を補っているぐらいな勘違いもあったかもしれない。

 

 

 

そして、

仏教の話になるが、

 

「後悔」は

貪瞋痴(とんじんち:欲・怒り・痴)の

「怒り」に分類される。

 

なぜ「後悔」が怒りに分類されているのか?

だって反省しているだけなのに。

 

ずっと疑問だった。

 

それも解けたように思った。

 

 

 

■以下のようなのだと思った。

 

・後悔も強い刺激(強い落ち込みの感情に浸る)

・トランス的な状態になり、我を忘れる快感

 

つまり、後悔も

ある意味刺激、ある意味快楽だったのだ。

 

 

 

そして、

 

・怒り=他人を責める、こうあるべきなのになぜ!!

・後悔=自分を責める、こうあるべきだったのになぜ・・・!

・嫉妬=状況を責める、なぜあの人が!私の方がすごいのに!

 

つまり、こうあるべき・こうしたい、が満たされないことで、

 

怒ったり、

後悔したり、

嫉妬したり、

 

結局何かしらの対象を責めて不快に思っている状態。

 

だから、

後悔も「瞋(じん)」に分類されているのだと分かった。

 

 

 

 

■さらに、今回は考えが発展された。

 

あることを「後悔」していたが、

 

もしかして、

自分は悪くなかったかもしれない、と。

 

 

実は、

何事も誰も悪くないかもしれないと。

 

または、

全員に自覚はなかれど

責任があるのかもしれないと。

 

 

そんな見え方もしてきた。

 

 

 

 

■”ラストワンマイル”

 

最後の主役が起こしたことのようについ見えがちだが、

 

あらゆる縁起でその状況が起こらざるを得ないよう

起こったのならば、誰に責任があるのだろう?

 

そして究極を言えば、

 

それでもラストの人、

途中の人含め

ベストなことをしていた。

それしかできなかった。

それでいい・・・。

 

これは話すと長くなるので、今回は書かないでおこう。

 

 

 

 

 

■とにかく、

「後悔」という自責が度々起こっていたある事について

 

はじめて、

それを手放していくことを選択していく視点が持てた気がした。

 

少しすっきりとした心とともに。

 

 

 

 

■まとめ

  • 後悔は刺激
  • 後悔は自分への怒り
  • ラストワンマイル(=悪)は存在しない
  • 自分一人でどうにかできることなどない
  • こういうこともあると何事も受け入れる穏やかさで人生を生きる

 

 

 

すべてに感謝。

万物万人のさらなる幸を祈ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

■昔、「悟り」というものがあると知った時、

 

「悟れば苦しみが、一切なくなるんだ!」

 

と思っていた。

 

 

 

 

■あくまで、今の段階の”私”の感想だが、

 

悟りで苦がなくなるというのは、

 

苦はなくなるわけではなく

ただ、

 

苦となることは生じるが、

苦と感じる見え方、捉え方が減ってゼロに近くなっていく、

 

そんな気がしている。

 

 

 

 

 

■今の”私”は、悟ってはいない。

 

 

では、

どんな立場から言っているかというと、

下記の「3」の立場かなと思っている。

 

 

1.街中にいる: 悟りに関心がない人

2.登山決意 : 悟りの入口に立った人(発心)

3.登山中  : 悟りへのどこかの段階の人(修行中)

4.頂上到着 : 悟った人(仏・阿羅漢・覚者)

 

 

 

 

■登山中でも

だいぶ気付きが多い。

 

 

「あぁ、見つけた!こうだったんだ!」

 

となることが多い。

 

 

 

途中で1つ1つ思い込みが崩壊していくのだと知った。

それは意外だったが、嬉しい誤算だった。

 

 

 

頂上にいかなくても、登っている途中で

さまざまな景色が楽しめる。

 

 

今見える景色を楽しんでいきたい。

 

 

 

 

すべてに感謝。

万人万物にさらに幸がありますように。

 

 

 

・・・つづき。

 

 

■前回のつづきだが、

 

分かってほしい、

認めてほしい、

褒めてほしい、

 

と、人は他者に「自己承認欲求」を

 

満たしてもらうことを求めがちだ。

 

 

 

 

■”私”は最近こんな風に思う。

 

他者が「自己承認欲求」を満たしてくれることは、

 

ありえない。

 

 

 

 

同じ人間、ならだいたい一緒。

 

そんな風に人は、他者を見てしまいがちだ。

 

 

 

しかし、他者は、

生まれも、環境も、常識も、家族も、仕事も・・・違う。

 

つまり、自分のモノサシとは

違うモノサシをもっている。

 

 

 

だから他者に承認を求めるとしたら、
 

鳥、ネズミ、草木などに

自分を認め受け入れ褒めて欲しいと言っている、

 

ようなものだと思う。

 

 

 

■我々は、

 

そういう「期待」がおかしいことを習ってはこなかった。

 

小学校などでしっかり習う機会が必要なのでは?

 

 

そんな教えを幼少期に得ていたら、

 

世にある苦はだいぶ減ったと思う。

 

 

 

■ではどうしたらいいか。

 

 

もし一番満たせる存在があるとしたら、

 

 

それは、自分以外いないだろう。

 

 

なぜなら、

 

自分の本当の状況、苦労、気持ちを分かりうるのは、

 

自分であるだろうから。

 

 

 

 

■しかし、

 

さらにいうと、違うなぁと思った。

 

 

 

究極は、

 

目を覚ましていくしかないとも思う。

 

 

 

それを判断した価値観、

その期待という欲、

そう判断した狭い視点・無知、

 

 

それが三悪だと気付けば、ヒドイ、などという思考も出ずらかった。

 

三悪で世を見ていることに気づき

手放していく。

 

 

執着を横における。

 

 

 

 

 

■そしてさらにその先には、

 

その認めてもらうべき

”自分”さえも本当はいない・・・

 

思考や感覚、感情の産物だった、と気づいていく。

 

 

 

またまたさらには、

 

それを観賞している大いなる存在が本当の自分と思っている、

 

その大いなる自分さえいないと思う・・・。

 

 

 

■まだまだ”自分”がいる身であるが、

 

”自分”をなくそうと力むわけでもなく、

 

注視しながらも気楽に、

 

目覚めが起こる時は起こる、

起こらない時は起こらない、

 

という態度が良いような気はしている。

 

 

 

 

■スマナサーラ長老の幸せを祈る瞑想の最後にも

人としての究極の姿が願われていた。

 

 

多くの人が幸せでありますように。

多くの人の願いが叶いますように。

多くの人の悩み苦しみがなくなりますように。

 

そして、

多くの人が悟りの光に照らされますように。

 

 

 

 

 

■まとめ

 

・三悪(モノサシ、欲、無知)で見る視点をもつ。

 

 他人は自分と同じ状況だと思わない。

 他人は自分の状況は決して理解できないと思う。

 

 同じように他人に対して自分も不十分でありながら、

 付き合っていると思う謙虚さ、他者への許し・慈愛をもつ。

 

・自分が自分を認めるしかない。

 しかし、その自分さえも、本当は幻想。

 

・究極は、悟りの光に照らされること。

 しかし、義務でも、特別でもなく、正誤もなく、

 起こる時には起こる、起こらない時は起こらない。

 ただ、そうなっただけ。

 

 

 

 

 

すべてに感謝。

万人万物が幸せでありますように。

 

■先日、急にこんなことを思い出した。

 

Bさんは連絡をくれなかった。

ひどいなぁ、義理がない、常識がない・・・、

という思考、そして、怒り
が出かかったのに気が付いた。

 

 

 

 

■ずいぶん思考が落ち着いてきた話を

書くことが多いが、

 

 

こんな思考は今でも出る。


よく悟り本などにも書かれているが

思考や感情が、出なくなることはないらしい。

 

ただし、早く気付くようになるとのこと。
 

 

”私”が、以前と確実に変わったのは

 

・こういう思考自体全体的に減った

・出ても、思考がでたな!とそれに早く気付く

・巻き込まれすぎずに、早めに客観視点になる

 

ことであるように思う。

 

 

 

■さて、

Bさんはヒドイ、

という思考と怒りが出かかったが、

 

以前なら、

 

あーだこーだ何度も反芻し、

私は正しい、

相手はこうすべきだ、

今度こうはっきりつたえようか、などなど

それにしても・・・、などなど

 

こういう妄想(自分がいるという人生ドラマ)に入り込んでいた。

 

 

 

 

■それが今は、

 

・自分の常識というモノサシ(正しさ)で測っている

 思考が出たなぁ

・こうあってほしいという期待という欲が出ているなぁ

・Bさんらだって、そこまで思い馳せない未経験があったり、

 逆に自分との関係性もあったのかもしれない

 

とすぐに3悪(モノサシ、欲、無知(痴))でとらえる

思考がでるようになってきた。

 

 

 

 

■何より、”自分”だって、

 

きっとBさんと同じだった。

 

特に若い頃など、悪意はないものの

 

どれだけ今より適当で、自分勝手で、

無知で、迷惑も自覚せず、

等々多数だったと思う。

 

 

それを思うと、

とても、Bさんのことを言えたものではない。

 

 

それなのに”自分”は清廉潔白正義のように記憶を封じ、

 

他人にばかりに要求する思考がでる傾向が

人間にはあると思う。

 

 

 

 

■この話は、

 

物差し、欲、無知があったとは書いたが、

 

特に、

Bさんに連絡を欲しいという気持ちがあった。

 

つまり、

今回パッと起こった自動思考は、

 

もっと大事にしてほしい、

気持ちをわかってほしい、

自分を認めてほしい、

 

という

欲の1つある「自己承認欲求」がでていたような気がする。

 

 

 

 

■はたして、

 

その「自己承認欲求:は満たされるのだろうか?

 

 

 

つづく・・・。

 

 

 

 

 

すべてに感謝。

生きとし生けるものすべてが幸せでありますように。

 

前回のつづき・・・。

 

 

 

 

■美輪さんのいう結果をはってみて、

 

使っていた「技」より手間がなく十分

効果があるなぁ、と思った。

 

もしかしたら、

それも今「技」というものを理解しているから

美輪さんの結界も十分機能させられたのかもしれない。

 

 

 

 

 

■結局、

 

自分がある状態になる、

すでによい状態である、

よい運命になる、

もしくはその状態にすでになっている、

 

などと

 

どれだけ落ち着いた心でそれと一致し、

 

意図し続けられたかによるのだと思った。

 

 

 

 

つい人は、

 

己の常識で物事を見て、

期待や比較やもっとという欲がおこり、

無知・知らないことで誤解等して、

 

怒り、比較、嫉妬、心配、後悔、貪欲、など

で心をいっぱいにしてしまう

 

つまりその不快な状態、

それを”意図”していることになる。

 

 

 

 

”意図”がうまくできなくても、

 

その怒り等の心からいかに離れるか、

だけでも、まずは十分よい効果があるかと思う。

 

そのために、ありがとうを1万回言う

と人生が変わると言われているのではないかと思っている。

 

 

 

 

 

■しかし、さらに気が付いたことがある。

 

意図は大事。

 

だが、

その意図がでるのは

 

結局、縁(ご縁や環境)から

生じるものではないか、と。

 

いや、

縁からしか生じ得ないと、思った。

 

 

 

 

 

それでは、縁をかえれば、

現状が変わるのではないのか?

 

でも、その縁も

そうとしか起こりようがない、

そうとしか縁が配置されようがないように、

 

起こっていることなのではないか、

 

だから仕方がない、

 

というようにも思っていた。

 

 

 

 

■しかし、

少し違うかなぁという視点も出てきた。

 

縁を変えようと思えば、

(その思いも起こっただけではあるのだが)

 

縁を変えたなりに現実も変わるのではないかと。

 

 

 

 

■それというのも

下記を思い出したから。

 

ブッダは

「八正道」というものを提唱していた。

 

正しい行いや生活をすることが、

悟りにつながる、ということだった。

 

 

本当は、

悟りが起こる「個人」もいない、

悟りが起こるときはおこるし

起こらない時は起こらない

起こったとしたらそれは神の恩寵、

そしてすべてのことは起こっているだけ、

それを観賞している意識が本当の自分、

というブッダの悟りからしたら、

 

個人が八正道をすれば悟りが起こりうる、

というのは矛盾に聞こえると思う。

 

 

それでも、

それが大事だというブッダ。

 

 

なんだか

それに似ている気がした。

 

 

 

 

■最近”私”には、

 

「どうせ起こることが起こるのだから」

 

という気持ちで

 

ある意味、よくいえばゆったりと気楽に深刻にならずに、

ある意味、どーでもいいかなと投げやりに、

 

世の中を見ていることが起こっていた。

 

 

 

それでもいいのだが、

どうせ現世を観賞して生きている”私”なのだから


もう少し面白がってみたい、

 

という気持ちも起こっていた。

 

 

 

 

 

■八正道で悟りに近づくとブッダが言ったように、

 

縁を変え、意図をかえる、ことで望む現実をつくる。

 

 

2026年は、さらに悟り的視点をすすめながら、

 

そういう現実化も楽しんでみようかなと思う。

 

 

良いお年を。

 

 

 

 

すべてに感謝。

すべての幸せを祈ります。

 

 

 

・・・前回のつづき。

 

 

■そこで習った「技」というものがある。

 

体調とか、現実とか、を変えられるものだ。

 

 

 

 

 

最初その話を聞いた時、

 

「うそでしょ」、と思っていたが、

 

試しに受けてみたら変化があった。

 

おまけに、悟れるかもしれない講座らしい。

 

それで受講を決めた。

 

 

 

 

 

■そのやり方である「技」を習ったが、

 

実際、大小されど現実が変わる。

 

特に、自分や人の体調を変えることが

手軽にできると感じた。

 

 

 

今は当たり前になっている

いろいろな状態も

 

よく考えれば

講座以降変化があったものだったりするのを思い出した。

 

 

 

 

 

■結局、

 

そう”意図”したことが現実になる、

 

ということだと思うようになった。

 

 

 

 

 

最近よく言われる、

 

量子力学とか、

波動とか、

周波数とか、

 

と結局同じことだと思う。

 

 

 

 

■技をかけるとき、

 

こういう状態になるように、と意図をしている。

 

 

 

 

ここまで書いて、

 

「技」って何?と思われる方もいるかもしれないが、

 

上手に”意図”する方法の1つと言えると思う。

 

 

でも、「技」がなくても、

意図がうまくできればいい。

 

 

 

 

意図の仕方もコツがあるので、

望めば叶うんでしょ、とは少し違うとは思う。

 

 

 

 

 

 

■今日ちょうど、これもいいかも、

と思ったことがあった。

 

 

あやしい話になるが、

 

技で「結界」を張ることもできるのだが、

(これも結局、意図しているのだと思う)

 

 

 

今日たまたま美輪明宏さんが動画で

美輪さん流結界のはり方を伝えてくれていた。

 

 

●朝起きたとき布団の中でいいから目を閉じ、

 ゆっくり深呼吸を3回

●自分の周りを光の膜につつまれているイメージをもつ

●膜は、柔らかくて強い膜、白でも金でも好きな色でいい

●今日1日、その光の膜に守られています

 私に必要なエネルギーだけが入り

 不要なエネルギーはすべて跳ね返されます、と心の中でとなえる

 

 

 

 

 

 

 

さらに、美輪さんは言っていた。

 

「これはおまじないじゃない。

 自分の意識を守りのモードに切り替える。

 大切な儀式なの。」

 

 

 

 

 

「技」というもので結界ははることはあったが、

美輪さんの結界を張ってみよう!

 

と思って行ってみた。

 

 

 

 

 

つづく・・・。

 

 

 

 

すべてに感謝。

すべての幸せを祈ります。