できたことも縁
できなかったことも縁
そうとしか起こらざるを得ない縁があった
それら縁によって
その時の”己”が浮かび上がった
条件がそろって空に出た”虹”のように
できたことに執着することなく
できなかった己を責めることなく
出来事に翻弄されているのではない
心に翻弄され
辛いと思っている
心とは
その思考
その思考が生まれた物の見方
しかし
そうとしか思考がでざるを得ない縁
それを分かった上で
八正道を実践し
さらに手放すことを模索していく
■私は、ここでこういうブログを書いているように
内観タイプというか
考えすぎタイプというか、
思慮深いタイプというか、
どちらかというと
冷静に物事をみる落ち着いたタイプ、だと思う。
■昔、父がよく
何気ない会話で軽い私の発言に
「●●は、すごいなぁ・・・。
どうしてそんなことが分かったんだ。
苦労したんだなぁ。」
という言葉を私にかけていた。
(といっても、晩年の10年ぐらいだろうか)
ちなみに、父は
褒めて子育てするようなタイプではない。
だいぶ、怖くて、若い頃は
ほぼ怒られている記憶ばかりだ。
■なので、
「これほどまで褒められること言ったかな?
これ普通じゃないかな?」
そんな感じがしていた。
悪い気はしなかったが。
でも、色々考えてきたので、
他の兄弟よりは思慮深い発言はしていたのかな、とは思う。
■そんな、父が亡くなり、
気が付いたことがある。
「それを分かる、父が凄かったのだなぁ」
「分かる・理解できる人が、褒めるのだ」
と。
■父亡き後に、
残された親兄弟とつきあっていて思ったのは、
以前より、
もっと物事の道理の理解が深まっているはずのに
私と話していても
他の親兄弟からは一言も
父のような言葉をかけられることがない。
そういう褒められる快楽からも
自由になっていきたいとは思っているのだが、
ここに書いているぐらいだから、
執着、欲が働く”自分”がいる
のは自覚している。(苦笑)
■同じことを言っても、
人の反応はさまざま。
同じ反応は帰ってこない、と心して、
期待せず、
何か悪く、また、誤解されることさえもある。
完全に正しくみえても、
道理が通らないことさえもある。
そんなこともあるのが人生。
人の反応に期待せず、
ただ、たんたんと
必ずこのことが良くなる道と生きていきたいものだ。
すべてに感謝。
万人万物の幸を祈ります。
■繰り返し、
あることについて「後悔」の念がでることがある。
「後悔」することが償いぐらいにも思っていた。
これが、なかなかしぶとく思考として度々出てくる。
思考を観察していても
あまりに深い心境。
巻き込まれても仕方ないぐらいに思っていた。
しかし、先日、
あれっ!後悔ってなんだろう?
という念がでてきた。
■私は、たいていの人は基本
刺激を求めて生きていると思っている。
音楽、スポーツ、映画、恋愛、褒められる快楽、ギャンブル、スマホなど、
みな刺激だと思っている。
何かに没頭(我を忘れる)ことで、
ある意味トランスというかゾーンというか
現実を忘れる快楽のような状態なる。
刺激中毒を疑った方がいいぐらい、自覚なく刺激を求めて生活している。
そして、先日思った。
あっ、
「後悔も
強い落ち込みの刺激なのではないか?!」
■今まで、
「後悔」は反省ぐらいに思っていた。
むしろ、反省し
大切なことをしているぐらいに思っていた。
そうすることで(自分責め)、
罪を補っているぐらいな勘違いもあったかもしれない。
そして、
仏教の話になるが、
「後悔」は
貪瞋痴(とんじんち:欲・怒り・痴)の
「怒り」に分類される。
なぜ「後悔」が怒りに分類されているのか?
だって反省しているだけなのに。
ずっと疑問だった。
それも解けたように思った。
■以下のようなのだと思った。
・後悔も強い刺激(強い落ち込みの感情に浸る)
・トランス的な状態になり、我を忘れる快感
つまり、後悔も
ある意味刺激、ある意味快楽だったのだ。
そして、
・怒り=他人を責める、こうあるべきなのになぜ!!
・後悔=自分を責める、こうあるべきだったのになぜ・・・!
・嫉妬=状況を責める、なぜあの人が!私の方がすごいのに!
つまり、こうあるべき・こうしたい、が満たされないことで、
怒ったり、
後悔したり、
嫉妬したり、
結局何かしらの対象を責めて不快に思っている状態。
だから、
後悔も「瞋(じん)」に分類されているのだと分かった。
■さらに、今回は考えが発展された。
あることを「後悔」していたが、
もしかして、
自分は悪くなかったかもしれない、と。
実は、
何事も誰も悪くないかもしれないと。
または、
全員に自覚はなかれど
責任があるのかもしれないと。
そんな見え方もしてきた。
■”ラストワンマイル”
最後の主役が起こしたことのようについ見えがちだが、
あらゆる縁起でその状況が起こらざるを得ないよう
起こったのならば、誰に責任があるのだろう?
そして究極を言えば、
それでもラストの人、
途中の人含め
ベストなことをしていた。
それしかできなかった。
それでいい・・・。
これは話すと長くなるので、今回は書かないでおこう。
■とにかく、
「後悔」という自責が度々起こっていたある事について
はじめて、
それを手放していくことを選択していく視点が持てた気がした。
少しすっきりとした心とともに。
■まとめ
- 後悔は刺激
- 後悔は自分への怒り
- ラストワンマイル(=悪)は存在しない
- 自分一人でどうにかできることなどない
- こういうこともあると何事も受け入れる穏やかさで人生を生きる
すべてに感謝。
万物万人のさらなる幸を祈ります。
■昔、「悟り」というものがあると知った時、
「悟れば苦しみが、一切なくなるんだ!」
と思っていた。
■あくまで、今の段階の”私”の感想だが、
悟りで苦がなくなるというのは、
苦はなくなるわけではなく
ただ、
苦となることは生じるが、
苦と感じる見え方、捉え方が減ってゼロに近くなっていく、
そんな気がしている。
■今の”私”は、悟ってはいない。
では、
どんな立場から言っているかというと、
下記の「3」の立場かなと思っている。
1.街中にいる: 悟りに関心がない人
2.登山決意 : 悟りの入口に立った人(発心)
3.登山中 : 悟りへのどこかの段階の人(修行中)
4.頂上到着 : 悟った人(仏・阿羅漢・覚者)
■登山中でも
だいぶ気付きが多い。
「あぁ、見つけた!こうだったんだ!」
となることが多い。
途中で1つ1つ思い込みが崩壊していくのだと知った。
それは意外だったが、嬉しい誤算だった。
頂上にいかなくても、登っている途中で
さまざまな景色が楽しめる。
今見える景色を楽しんでいきたい。
すべてに感謝。
万人万物にさらに幸がありますように。
・・・つづき。
■前回のつづきだが、
分かってほしい、
認めてほしい、
褒めてほしい、
と、人は他者に「自己承認欲求」を
満たしてもらうことを求めがちだ。
■”私”は最近こんな風に思う。
他者が「自己承認欲求」を満たしてくれることは、
ありえない。
■同じ人間、ならだいたい一緒。
そんな風に人は、他者を見てしまいがちだ。
しかし、他者は、
生まれも、環境も、常識も、家族も、仕事も・・・違う。
つまり、自分のモノサシとは
違うモノサシをもっている。
だから他者に承認を求めるとしたら、
鳥、ネズミ、草木などに
自分を認め受け入れ褒めて欲しいと言っている、
ようなものだと思う。
■我々は、
そういう「期待」がおかしいことを習ってはこなかった。
小学校などでしっかり習う機会が必要なのでは?
そんな教えを幼少期に得ていたら、
世にある苦はだいぶ減ったと思う。
■ではどうしたらいいか。
もし一番満たせる存在があるとしたら、
それは、自分以外いないだろう。
なぜなら、
自分の本当の状況、苦労、気持ちを分かりうるのは、
自分であるだろうから。
■しかし、
さらにいうと、違うなぁと思った。
究極は、
目を覚ましていくしかないとも思う。
それを判断した価値観、
その期待という欲、
そう判断した狭い視点・無知、
それが三悪だと気付けば、ヒドイ、などという思考も出ずらかった。
三悪で世を見ていることに気づき
手放していく。
執着を横における。
■そしてさらにその先には、
その認めてもらうべき
”自分”さえも本当はいない・・・
思考や感覚、感情の産物だった、と気づいていく。
またまたさらには、
それを観賞している大いなる存在が本当の自分と思っている、
その大いなる自分さえいないと思う・・・。
■まだまだ”自分”がいる身であるが、
”自分”をなくそうと力むわけでもなく、
注視しながらも気楽に、
目覚めが起こる時は起こる、
起こらない時は起こらない、
という態度が良いような気はしている。
■スマナサーラ長老の幸せを祈る瞑想の最後にも
人としての究極の姿が願われていた。
多くの人が幸せでありますように。
多くの人の願いが叶いますように。
多くの人の悩み苦しみがなくなりますように。
そして、
多くの人が悟りの光に照らされますように。
■まとめ
・三悪(モノサシ、欲、無知)で見る視点をもつ。
他人は自分と同じ状況だと思わない。
他人は自分の状況は決して理解できないと思う。
同じように他人に対して自分も不十分でありながら、
付き合っていると思う謙虚さ、他者への許し・慈愛をもつ。
・自分が自分を認めるしかない。
しかし、その自分さえも、本当は幻想。
・究極は、悟りの光に照らされること。
しかし、義務でも、特別でもなく、正誤もなく、
起こる時には起こる、起こらない時は起こらない。
ただ、そうなっただけ。
すべてに感謝。
万人万物が幸せでありますように。
■先日、急にこんなことを思い出した。
Bさんは連絡をくれなかった。
ひどいなぁ、義理がない、常識がない・・・、
という思考、そして、怒り
が出かかったのに気が付いた。
■ずいぶん思考が落ち着いてきた話を
書くことが多いが、
こんな思考は今でも出る。
よく悟り本などにも書かれているが
思考や感情が、出なくなることはないらしい。
ただし、早く気付くようになるとのこと。
”私”が、以前と確実に変わったのは
・こういう思考自体全体的に減った
・出ても、思考がでたな!とそれに早く気付く
・巻き込まれすぎずに、早めに客観視点になる
ことであるように思う。
■さて、
Bさんはヒドイ、
という思考と怒りが出かかったが、
以前なら、
あーだこーだ何度も反芻し、
私は正しい、
相手はこうすべきだ、
今度こうはっきりつたえようか、などなど
それにしても・・・、などなど
こういう妄想(自分がいるという人生ドラマ)に入り込んでいた。
■それが今は、
・自分の常識というモノサシ(正しさ)で測っている
思考が出たなぁ
・こうあってほしいという期待という欲が出ているなぁ
・Bさんらだって、そこまで思い馳せない未経験があったり、
逆に自分との関係性もあったのかもしれない
とすぐに3悪(モノサシ、欲、無知(痴))でとらえる
思考がでるようになってきた。
■何より、”自分”だって、
きっとBさんと同じだった。
特に若い頃など、悪意はないものの
どれだけ今より適当で、自分勝手で、
無知で、迷惑も自覚せず、
等々多数だったと思う。
それを思うと、
とても、Bさんのことを言えたものではない。
それなのに”自分”は清廉潔白正義のように記憶を封じ、
他人にばかりに要求する思考がでる傾向が
人間にはあると思う。
■この話は、
物差し、欲、無知があったとは書いたが、
特に、
Bさんに連絡を欲しいという気持ちがあった。
つまり、
今回パッと起こった自動思考は、
もっと大事にしてほしい、
気持ちをわかってほしい、
自分を認めてほしい、
という
欲の1つある「自己承認欲求」がでていたような気がする。
■はたして、
その「自己承認欲求:は満たされるのだろうか?
つづく・・・。
すべてに感謝。
生きとし生けるものすべてが幸せでありますように。
前回のつづき・・・。
■美輪さんのいう結果をはってみて、
使っていた「技」より手間がなく十分
効果があるなぁ、と思った。
もしかしたら、
それも今「技」というものを理解しているから
美輪さんの結界も十分機能させられたのかもしれない。
■結局、
自分がある状態になる、
すでによい状態である、
よい運命になる、
もしくはその状態にすでになっている、
などと
どれだけ落ち着いた心でそれと一致し、
意図し続けられたかによるのだと思った。
つい人は、
己の常識で物事を見て、
期待や比較やもっとという欲がおこり、
無知・知らないことで誤解等して、
怒り、比較、嫉妬、心配、後悔、貪欲、など
で心をいっぱいにしてしまう
つまりその不快な状態、
それを”意図”していることになる。
”意図”がうまくできなくても、
その怒り等の心からいかに離れるか、
だけでも、まずは十分よい効果があるかと思う。
そのために、ありがとうを1万回言う、
と人生が変わると言われているのではないかと思っている。
■しかし、さらに気が付いたことがある。
意図は大事。
だが、
その意図がでるのは
結局、縁(ご縁や環境)から
生じるものではないか、と。
いや、
縁からしか生じ得ないと、思った。
■それでは、縁をかえれば、
現状が変わるのではないのか?
でも、その縁も
そうとしか起こりようがない、
そうとしか縁が配置されようがないように、
起こっていることなのではないか、
だから仕方がない、
というようにも思っていた。
■しかし、
少し違うかなぁという視点も出てきた。
縁を変えようと思えば、
(その思いも起こっただけではあるのだが)
縁を変えたなりに現実も変わるのではないかと。
■それというのも
下記を思い出したから。
ブッダは
「八正道」というものを提唱していた。
正しい行いや生活をすることが、
悟りにつながる、ということだった。
本当は、
悟りが起こる「個人」もいない、
悟りが起こるときはおこるし
起こらない時は起こらない
起こったとしたらそれは神の恩寵、
そしてすべてのことは起こっているだけ、
それを観賞している意識が本当の自分、
というブッダの悟りからしたら、
個人が八正道をすれば悟りが起こりうる、
というのは矛盾に聞こえると思う。
それでも、
それが大事だというブッダ。
なんだか
それに似ている気がした。
■最近”私”には、
「どうせ起こることが起こるのだから」
という気持ちで
ある意味、よくいえばゆったりと気楽に深刻にならずに、
ある意味、どーでもいいかなと投げやりに、
世の中を見ていることが起こっていた。
それでもいいのだが、
どうせ現世を観賞して生きている”私”なのだから
もう少し面白がってみたい、
という気持ちも起こっていた。
■八正道で悟りに近づくとブッダが言ったように、
縁を変え、意図をかえる、ことで望む現実をつくる。
2026年は、さらに悟り的視点をすすめながら、
そういう現実化も楽しんでみようかなと思う。
良いお年を。
すべてに感謝。
すべての幸せを祈ります。
・・・前回のつづき。
■そこで習った「技」というものがある。
体調とか、現実とか、を変えられるものだ。
最初その話を聞いた時、
「うそでしょ」、と思っていたが、
試しに受けてみたら変化があった。
おまけに、悟れるかもしれない講座らしい。
それで受講を決めた。
■そのやり方である「技」を習ったが、
実際、大小されど現実が変わる。
特に、自分や人の体調を変えることが
手軽にできると感じた。
今は当たり前になっている
いろいろな状態も
よく考えれば
講座以降変化があったものだったりするのを思い出した。
■結局、
そう”意図”したことが現実になる、
ということだと思うようになった。
最近よく言われる、
量子力学とか、
波動とか、
周波数とか、
と結局同じことだと思う。
■技をかけるとき、
こういう状態になるように、と意図をしている。
ここまで書いて、
「技」って何?と思われる方もいるかもしれないが、
上手に”意図”する方法の1つと言えると思う。
でも、「技」がなくても、
意図がうまくできればいい。
意図の仕方もコツがあるので、
望めば叶うんでしょ、とは少し違うとは思う。
■今日ちょうど、これもいいかも、
と思ったことがあった。
あやしい話になるが、
技で「結界」を張ることもできるのだが、
(これも結局、意図しているのだと思う)
今日たまたま美輪明宏さんが動画で
美輪さん流結界のはり方を伝えてくれていた。
●朝起きたとき布団の中でいいから目を閉じ、
ゆっくり深呼吸を3回
●自分の周りを光の膜につつまれているイメージをもつ
●膜は、柔らかくて強い膜、白でも金でも好きな色でいい
●今日1日、その光の膜に守られています
私に必要なエネルギーだけが入り
不要なエネルギーはすべて跳ね返されます、と心の中でとなえる
さらに、美輪さんは言っていた。
「これはおまじないじゃない。
自分の意識を守りのモードに切り替える。
大切な儀式なの。」
「技」というもので結界ははることはあったが、
美輪さんの結界を張ってみよう!
と思って行ってみた。
つづく・・・。
すべてに感謝。
すべての幸せを祈ります。