■悟りの「自覚」。
その視点は持てるようになったとは
書いてきたが、
でもこの段階では、
すべての「苦」がなくなるわけでもない
と、感じている。
「苦」は以前より減少はするが、
苦の減少を求めるなら、
悟り半分、
その他半分、
と、その他についても理解を深めることが
大変大事だと思う発見をした。
発見といっても、
もう既に言っている人はいるが、
自分でも気が付いたということだ。
■以前、「悟り」に強く憧れた時期があった。
「悟り」という状態に
憧れていたのではなかった。
つまるところ、楽になりたい、
「悟り=苦しみが一切ない」
という状態にあこがれていた。
■以前よく読んでいた「悟り」の本。
以前は、
さっぱり意味が分からない。
至福?
そういう世界があるのだなぁ、
いいなぁ、
悟りって何なのだろう、と思っていた。
自覚が起こってからは、
本の意味が分かってきた。
自覚の感動からしばらくすると、
「苦」の思考、感情は自覚できるし、
「苦」は減少はしているものの
楽になりきっていない・・・??、
ということに気づきだす。
そして、最近、思考や感情、
その発生自体に原因因子があり、
あるパターンがあると思うようになった。
ただ、現状の「自覚」段階ゆえの考えではある。
※ブッダの達した「涅槃」という域にいけば
何もこだわらずに
「苦」も生じない状態になるとは思う。
■その残り半分の重要な部分。
「なんだ全部これじゃないか!」
という認識になりつつある。
今の”自分”も
”他人”についても
ある程度、
その視点でみると合点がいくようになった。
■水漏れに例えると、
今までは、水漏れに対して、
大きいバケツでそれを受けたり、
とりあえず、テープで巻いたり、
対処療法的に修理していたのに対し、
最近は、
水漏れの根本原因箇所をつきとめ、
たいへん大がかりだが、
土を掘り返して、
新しい管を入れ直すような、
根本修理をし始めた感じに似ている。
■ここ1-2か月、
それについて調べ学んでみて、
書くことは沢山あるのだが、
「悟り」とテーマがずれ、
また、
そう簡単に
一時的に書く類のモノではないと感じている。
■軽く一言だけ書くと、
何かというと
幼少期に
無自覚に各自それぞれが身につけたもの。
詳細は今は伏せたい。
■もっと早い段階で知りたかったなぁ、
と思うが、
それに触れられなかったのも
また縁だったのか…。
別の言い方をすれば、
知らなかった(無知)から
知ることで視野を広げ、
「苦」をさらに減少させている状態。
知るのが今になったが、
今であっても、気づきに感謝。
人生はいつもベターか、モアベター。
すべてに感謝。
万人万物のさらなる幸を祈ります。
■「諸行無常」という言葉がある。
世の中に一瞬たりとも一定のものはなく、
常に必ず移り変わる。
仏教の三法印(もしくは、四法印)の一つ。
これを人生の「前提」として心することで、
●変化に抵抗(苦)が減る
●常識を疑い、改善や工夫の視点をもてる
ように思う。
■以上のことは、
「執着を手放す」として受け取っていた。
しかし、最近、
心 (思考・感情)も同じ諸行無常ではないか、
という気付きがあった。
■ここのところ、多くの出来事があり、
つい、思考観察を忘れがちになっていた。
そうすると、出来事や感情に巻き込まれやすくなる。
まぁ、巻き込まれたら巻き込まれたでもいいのだが。
少し落ち着いて、また思考観察をしはじめたら、
思考や気分が、”瞬時” にあちこちに飛ぶのに
ハッキリと気が付いた。
というか、
腑に落ちたように自覚できた、
といった方がいいかもしれない。
よく言われるように、
心コロコロ、だった。
■つまり、
・一瞬たりとも、思考も気分も一定でない
・心は常に移り変わる(思考や感情がコロコロ)
それならば、
つまり「心コロコロ」を「前提」のうえで、
生活を工夫すればよいのだなぁ、と思った。
■例えば、
内面的には、
・思考、感情を観察するよう意識する
・マインドフルネスなどで
心の動きを観察できる落ち着き状態をつくる
・心の仕組みを学ぶ
■実生活的には、
・やることを紙に書き出し行動をはじめる
( 紙をみて、今やることに集中できる )
・ピッパの法則(北の達人、木下社長)実施
( 考えすぎる前にまず動く )
・焦らずゆっくり動く
( 自動思考が出ずらくなる )
など・・・、
これらは、心コロコロだからこそ有効なのだと思う。
■ただ、人はみな違うので、方法の選択は、
しないもよし、するもよし。
するならば、
・時と場合
・自分に合った方法
・無理がない量
で、ほんの1分、1つやってみるだけでもいい、
そんな気がしている。
■心コロコロありきで、
平安で、何事も楽しめる己で生きる
縁を増やしていけたらと思う。
まとめ:
●世は諸行無常
●心も諸行無常(心コロコロ)
●その前提で執着を減らし、
平安で、楽しめる縁を増やす
すべてに感謝。
すべての人、モノのさらなる幸を祈ります。
自分がやった
自分の手柄
自分のおかげで、人がよくなった etc.
そう見えることがある
自分も縁の一つだが、
それ以外にも多くの縁があり
それが起こった
手柄も
評価も
すごいも
静かに手放していく
人の態度は
相手が育ってきた環境・境遇のあらわれ
人の態度は
その時点でどんな縁に囲まれてきたかによって
起こるべくして起こった現象
天候が
地形、季節、風、太陽、水蒸気などによって
そう起こったように
「自分」も一つの「縁」であったとしても
己一人で起こした現象ではない
己もまたあらわれとみつつ
穏やかにその起こりと対峙する
「X」で詐欺にかかりかけたので、書いておきます。
「WW IQテスト」 というものにはご注意ください。
■ X を見ていたら、”12キャラクターテスト”があり、
無料とのこと。
結果が、一文だけの簡素なもので、
詳細は、「199円」で受け取れるとのことだった。
199円なら詳細を見たいと購入しました。
それがなんと、
199円 + 1990円 も請求されている。
Paypal支払をすぐ停止し、
その会社におかしいという連絡をいれた。
1990円は返金されたが、1週間たっていたら
さらに 4990円/4W 請求され続けたようだ。
199円支払い後に、
性格レポートを見ようとした画面が下記です。
一応IQテストについて紹介の記載はあったようですが、
この書き方で分かりますか??
無料に惑わされない、
支払画面をよく確認する、
常に内側にいる落ち着いた”自分”でいようと思います。
ご参考まで。
●被害 X (引用紹介させていただきました)
→IQテストを見るための990円は支払ったつもりだけど、この4,990円の請求はなんだ…?!ここで色々と調べてみると、どうやらIQテストの結果を見るのと同時に、IQ能力を今後高めるプログラムに加入する流れになっていて、それが4,990円かかっていたということらしい。そして、僕と同じように二重で請求…
— つっきー (@psypsytuki) February 10, 2025
●被害 ブログ (引用紹介させていただきました)
「自分という存在は価値があるのか?」
という疑問はよく語られたりすると思う。
■あるネットにて
「生きていることで周りに影響している=だから価値がある」
と語られていた。
コメント欄を見ても賛同が多かった。
その意見に、んっ?少し違うのかな、という違和感が出た。
■少し考えを巡らせ、いくつか見えてきた視点があった。
●影響がある=それだけで価値があるだと、
影響が多くあったほうがいいとか、
影響の種類とか、
本当に救いがあるのか?
●勇気付けられる人が多いと思うが、
対処療法的なのかなと感じた。
これは、真理でないかもしれない。
●しかし、
「人の心にエネルギーを与えられる」
という力がある。
音楽やスポーツのように、その分野だと思うと
素晴らしいものという視点がおきた。
■では、”自分”はどう考えるのか?
こんな風に思った。
「影響を何かしら与えているから」、
「役に立つから」、
「認められるから」、
「誰かを励ますから」、
価値があるというのではなく、
・・・
そもそもその存在は、
宇宙の因果の流れでおこるべくしておこった存在。
「価値があるから存在していい」のではなく、
「存在したことは、 宇宙の因果での必然」
であるように思った。
つまり、
『必然として起こっている存在』
その必然性に
「価値」という認識を飛び越えた
意味、
がある気がした。
この認識を土台にすることで、
よりシンプルに生きられるのではないかと思った。
■まとめると、
●「存在していることが、宇宙の正解である(決定事項・必須事項)」という価値判断を超えた認識
●ただ、「表面上は社会のルールというゲームに参加する」という二段構えが必要
以上のように思う。
■それでも人は、意味や価値をつけずにはいられない。
そのことについては、また別の機会に書きたいと思う。
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全てに感謝。
万人万物のさらなる幸を祈ります。
「愛情は、相手の望む形でないと届かないことがある」
また、
「何事もやはり自分の視点で見ていることから起こる」
そんなことを、ある出来事から強く実感した。
■昔、困っているというAに
許容範囲で支援したことがあった。
金額にして50万円ほど。
結果的には100万円ほどの損失になった。
お金は1円も返ってこなかった。
■人に渡したお金は返ってこない。
物も、手から離れた時点で
戻らないものと思っている。
よく聞く話で、
貸した側が返済要求しようものなら
「ヒドイ人間だ」と言われてしまうという。
同じように言われた。
■予定通り返ってこなかったが、それ自体は受け入れていた。
ただ、後日こんなことを言っていると耳にした。
「自分より余裕があるのだから、
もっと出してくれてもいいのにあれっぽちでケチだ。
自分だったらもっとこうしてあげるのに。」
もっと提供されるべき、
ぐらいに思っていたようだった。
■大変驚き、しばらく理解不能だった。
何だかおかしいと思いながらも
うまく反論できなかった。
その時は、そういう人なのだ、
と思うようにしていたが、
最近あらためて考えてみて、気づいた。
■相手の望む形でないと、
愛情として認識されないこともある、と思った。
愛情はかけたつもりだったが、
相手の望む形でなかったのだと思う。
相手の認識次第で
どんな評価にも変わる。
相手次第なのだ。
そう、
他人の態度は、相手の手中にあり、
自分はコントロールできない。
■そして、Aは、
こんな受け取り方もしていたと思う。
・貸りたのに、返していない
→ 困っているのだからと、当然化、無効化、正当化
・他人の余裕
→ 分けられるべきと、権利化
・ありえない仮定話
→ 自己正当化しこれを武器に相手を逆に、攻撃化
まさに「人の褌(ふんどし)で相撲を取る」
これが、人が苦しいとき起こしがちな
行動とも学んだ。
またその背景には、
「自立心」・「境界線」・「他人の立場への想像」が欠けた
視点があった気がする。
■また返済はなくとも
それなりの感謝の念が相手の心にはあったはずだ、
と私は勝手に思っていた。
そう、「結果」に「執着」し、
自分のモノサシで、「期待」していた”自分”がいた。
そして、
相手の精神的未熟さ
(依存心=自立心がない=人のせいにしたがる)を
”私”が過小評価しすぎていたのだと思う(無知)。
■今後は、借入申出は以下方針をたてている。
●基本は借金は一切断る
●何かするなら、無理ない小さい範囲で「あげる」
●あげたとしたら、恩着せがましい気持ちを、一切捨てる
相手の土俵に乗る必要はない。
執着しない自分でいられる範囲で、
自分ができることをしていく。
いろいろな分野においても、
受け取り方は相手次第。
相手の受け取り方を手放す。
そんなことを心に留めたい。
一つ区切りがついた気がした。
すべてに感謝。
最近、無意識の思考や感情に気づくのが早くなってきた。
先日、運転中にそのパターンにハッと気づいた。
■信号は青。
「このタイミングなら、
なんとか渡り切れるだろう」
そう思って青信号の交差点を進んだ。
時間的に、少し焦っていたのもある。
■ところが、
前の車が、さらに前の車と
予想以上に車間を大きく取り止まった。
それにより、
私の車の車体が、半分
横断歩道にかぶって停車することになった。
■「えっ!、早く行ってよー」
という頭の中の声。
イラっとした感情がでたことにすぐ気付いた。
ハッと気づいた。
「あぁ、こうやって、
”思い通り(予想通り)にならない”ことを
いつも不満の因子にしているんだ!」
■自分が勝手に、
「流れ的にギリギリ信号を渡り切れると判断した」
「青なのに、信号を渡れないなんて嫌」
「早く行きたい」と、
思っていた。
結局、原因は、自分にあった。
■イライラするのは、
現実のせいというよりも、
自分が“こんな風に思い通りになるはず”と思っており、
それが上手くいかなかったから
起こる感情なのだと気付いた。
■先日気づいた
「現実は、日々3-7割想定外が起こる」
との想定も忘れていたことも思い出した。
思いどおりにしたい、
想定内なはずだ、
これだけ書くと
ある意味、
子供のように望みに自由で、
楽観主義に見えてきた(笑)。
大人の顔して生きているが、
心の中は
子供がベースだったのかもしれない。
■一度気付いても
また何度も忘れることは起こると思う。
●思い通りにしたいが、イライラをつくる
●現実は日々3-7割想定外の世界
忘れて、また、反復していこう。
すべてに感謝。
万人万物のさらなる幸を祈ります。




