・・・つづき。
■前回のつづきだが、
分かってほしい、
認めてほしい、
褒めてほしい、
と、人は他者に「自己承認欲求」を
満たしてもらうことを求めがちだ。
■”私”は最近こんな風に思う。
他者が「自己承認欲求」を満たしてくれることは、
ありえない。
■同じ人間、ならだいたい一緒。
そんな風に人は、他者を見てしまいがちだ。
しかし、他者は、
生まれも、環境も、常識も、家族も、仕事も・・・違う。
つまり、自分のモノサシとは
違うモノサシをもっている。
だから他者に承認を求めるとしたら、
鳥、ネズミ、草木などに
自分を認め受け入れ褒めて欲しいと言っている、
ようなものだと思う。
■我々は、
そういう「期待」がおかしいことを習ってはこなかった。
小学校などでしっかり習う機会が必要なのでは?
そんな教えを幼少期に得ていたら、
世にある苦はだいぶ減ったと思う。
■ではどうしたらいいか。
もし一番満たせる存在があるとしたら、
それは、自分以外いないだろう。
なぜなら、
自分の本当の状況、苦労、気持ちを分かりうるのは、
自分であるだろうから。
■しかし、
さらにいうと、違うなぁと思った。
究極は、
目を覚ましていくしかないとも思う。
それを判断した価値観、
その期待という欲、
そう判断した狭い視点・無知、
それが三悪だと気付けば、ヒドイ、などという思考も出ずらかった。
三悪で世を見ていることに気づき
手放していく。
執着を横における。
■そしてさらにその先には、
その認めてもらうべき
”自分”さえも本当はいない・・・
思考や感覚、感情の産物だった、と気づいていく。
またまたさらには、
それを観賞している大いなる存在が本当の自分と思っている、
その大いなる自分さえいないと思う・・・。
■まだまだ”自分”がいる身であるが、
”自分”をなくそうと力むわけでもなく、
注視しながらも気楽に、
目覚めが起こる時は起こる、
起こらない時は起こらない、
という態度が良いような気はしている。
■スマナサーラ長老の幸せを祈る瞑想の最後にも
人としての究極の姿が願われていた。
多くの人が幸せでありますように。
多くの人の願いが叶いますように。
多くの人の悩み苦しみがなくなりますように。
そして、
多くの人が悟りの光に照らされますように。
■まとめ
・三悪(モノサシ、欲、無知)で見る視点をもつ。
他人は自分と同じ状況だと思わない。
他人は自分の状況は決して理解できないと思う。
同じように他人に対して自分も不十分でありながら、
付き合っていると思う謙虚さ、他者への許し・慈愛をもつ。
・自分が自分を認めるしかない。
しかし、その自分さえも、本当は幻想。
・究極は、悟りの光に照らされること。
しかし、義務でも、特別でもなく、正誤もなく、
起こる時には起こる、起こらない時は起こらない。
ただ、そうなっただけ。
すべてに感謝。
万人万物が幸せでありますように。