TシャツのレガーロからLEDのレガーロへ、転身
みなさま、あけましておめでとうございます。
昨年12月に始めましたこのブログ、自己紹介も佳境に入ってきました。
今年も鋭意執筆して参りますので、よろしくお願いいたします。
さて、21世紀に入り、Tシャツ加工業として業績を上げ、評価もいただいていたレガーロでしたが、僕自身の109ブランドへの興味は薄れ、ターゲットとのジェネレーション・ギャップを感じるようになっていました。
わくわくしないといきいきと仕事できない僕にとっては、停滞したかのような毎日でした。
そこに、天の声ならぬ、知人からの誘いが舞い込んできたのです。
それは、「LEDの代理店になって売ってみないか」というものでした。
僕の最初の感想は「洋服屋なのに照明器具が売れるわけがないじゃん」。
実際、LEDと自分との間に接点があるとは思えませんでした。
しかし、しばらくして、僕が所属している東京中小企業家同友会でLEDメーカーの社長を招いての講演会が開かれることになり、僕も企画に携わりました。
そこで改めて、LEDについての詳しい話を聞いてみると、まず僕の感性が「面白い」と反応しました。
そして、LEDに将来への可能性を感じたのです。
2000年からAEONの「セルフサービス」というエコロジー・ブランドの洋服部門をお手伝いしていて、僕自身エコロジーの観点からものを見るようになっていたという下地もありました。
LEDのエコロジカルな面にも魅せられたわけです。
周りの人から「7年以上前にLEDを扱い始めたとは、先見の明がありますね」
といわれることがあるのですが、僕は「そうではないんです」といつも答えます。
目の前にやってきた縁、それも二重三重になって僕に訪れた縁を大事にし、肌で感じたことを信じて、それを受け取っただけなのです。
こうして、レガーロは、ついにLEDのレガーロとして、再びスタートを切ることになりました。
2003年のことでした。
昨年12月に始めましたこのブログ、自己紹介も佳境に入ってきました。
今年も鋭意執筆して参りますので、よろしくお願いいたします。
さて、21世紀に入り、Tシャツ加工業として業績を上げ、評価もいただいていたレガーロでしたが、僕自身の109ブランドへの興味は薄れ、ターゲットとのジェネレーション・ギャップを感じるようになっていました。
わくわくしないといきいきと仕事できない僕にとっては、停滞したかのような毎日でした。
そこに、天の声ならぬ、知人からの誘いが舞い込んできたのです。
それは、「LEDの代理店になって売ってみないか」というものでした。
僕の最初の感想は「洋服屋なのに照明器具が売れるわけがないじゃん」。
実際、LEDと自分との間に接点があるとは思えませんでした。
しかし、しばらくして、僕が所属している東京中小企業家同友会でLEDメーカーの社長を招いての講演会が開かれることになり、僕も企画に携わりました。
そこで改めて、LEDについての詳しい話を聞いてみると、まず僕の感性が「面白い」と反応しました。
そして、LEDに将来への可能性を感じたのです。
2000年からAEONの「セルフサービス」というエコロジー・ブランドの洋服部門をお手伝いしていて、僕自身エコロジーの観点からものを見るようになっていたという下地もありました。
LEDのエコロジカルな面にも魅せられたわけです。
周りの人から「7年以上前にLEDを扱い始めたとは、先見の明がありますね」
といわれることがあるのですが、僕は「そうではないんです」といつも答えます。
目の前にやってきた縁、それも二重三重になって僕に訪れた縁を大事にし、肌で感じたことを信じて、それを受け取っただけなのです。
こうして、レガーロは、ついにLEDのレガーロとして、再びスタートを切ることになりました。
2003年のことでした。
レガーロのアパレル時代
「レガーロ」とは、イタリア語で「贈り物」の意味です。
綴りは、ご覧の通り「REGALO」。
この社名でTシャツ加工業としてスタートしました。
1998年のことでした。
いわゆる「109ブランド」であるBEAMSやSHIPSのTシャツを作り、次第に勢いに乗っていきました。
20代の終わりから30にかけての頃で、僕自身が109ブランドを楽しんでいました。
こうしたらかっこいい、こういうのがあったらかわいいんじゃないか、とアイデアやデザインも現場での打ち合わせでどんどん生まれてきたのです。
そこへ、浜崎あゆみのオリジナル・ブランド「マテリアル・ガール」の仕事が入ってきました。
彼女の絶頂期の3年間、このブランドとコンサートのTシャツはレガーロが手がけました。
僕もこの時期、Tシャツ加工業者として、トップまでいけたと思います。
そして、僕は32歳になりました。
なんとなく、109ブランドに興味がわかなくなっている自分に気がつきました。
109ブランド世代は15歳から20歳くらいまでです。
きょう、あした、のサイクルで、かっこいいと思うものが移っていきます。
そのとんがった現場を楽しんでいた僕の感性や体が、いつの間にかシンプルでオーソドックスなものを求めるようになっていたのです。
年齢や人生の経験がうながす自然な変化ですね。
僕より年上の先輩業者を見ると、若作りしていて、格好も言動もどこか苦しそう。
対象への興味、わくわくした楽しさがないと、テクニックだけで仕事をすることになります。
僕にはそれはできないと思いました。
綴りは、ご覧の通り「REGALO」。
この社名でTシャツ加工業としてスタートしました。
1998年のことでした。
いわゆる「109ブランド」であるBEAMSやSHIPSのTシャツを作り、次第に勢いに乗っていきました。
20代の終わりから30にかけての頃で、僕自身が109ブランドを楽しんでいました。
こうしたらかっこいい、こういうのがあったらかわいいんじゃないか、とアイデアやデザインも現場での打ち合わせでどんどん生まれてきたのです。
そこへ、浜崎あゆみのオリジナル・ブランド「マテリアル・ガール」の仕事が入ってきました。
彼女の絶頂期の3年間、このブランドとコンサートのTシャツはレガーロが手がけました。
僕もこの時期、Tシャツ加工業者として、トップまでいけたと思います。
そして、僕は32歳になりました。
なんとなく、109ブランドに興味がわかなくなっている自分に気がつきました。
109ブランド世代は15歳から20歳くらいまでです。
きょう、あした、のサイクルで、かっこいいと思うものが移っていきます。
そのとんがった現場を楽しんでいた僕の感性や体が、いつの間にかシンプルでオーソドックスなものを求めるようになっていたのです。
年齢や人生の経験がうながす自然な変化ですね。
僕より年上の先輩業者を見ると、若作りしていて、格好も言動もどこか苦しそう。
対象への興味、わくわくした楽しさがないと、テクニックだけで仕事をすることになります。
僕にはそれはできないと思いました。
先輩との創業から独立まで
25歳の僕。
父の会社を辞めて、取引先の先輩と二人で、Tシャツの加工業を始めました。
先輩は、当初、僕が2000万円売り上げたら特別賞与を出すといってくれました。
その言葉を励みに、営業をし、どんどん自分の顧客を開拓していったのです。
目標の2000万円を達成したとき、先輩から賞与は出ませんでした。
それでもがんばって、倍の4000万円に達したのですが、やはり賞与はなかったんです。
僕は、高い額のボーナスを期待していたわけではありませんでした。
先輩の要求水準を超える実績を上げて、経営に参画したかったのです。
年末に、僕は先輩に話をしたい、と切り出しました。
来年の年俸を決めるため、1日だけ、お金の話をさせてください、
お金のことを根に持たずに、すっきりと新しい年を迎えたいからと。
しかし、話し合いは不調に終わりました。
先輩には、僕を経営に参画させる気持ちがないこともわかりました。
2年間、仕事を学ばせてくれた先輩への感謝をもって、僕は独立することを決めました。
そして「レガーロ」を自ら創業したのでした。
僕は28歳になっていました。
LEDの「レガーロ」になってからのご縁の方には意外に思われるかも知れませんが、このような経緯で、レガーロはTシャツ加工業として始まったのです。
父の会社を辞めて、取引先の先輩と二人で、Tシャツの加工業を始めました。
先輩は、当初、僕が2000万円売り上げたら特別賞与を出すといってくれました。
その言葉を励みに、営業をし、どんどん自分の顧客を開拓していったのです。
目標の2000万円を達成したとき、先輩から賞与は出ませんでした。
それでもがんばって、倍の4000万円に達したのですが、やはり賞与はなかったんです。
僕は、高い額のボーナスを期待していたわけではありませんでした。
先輩の要求水準を超える実績を上げて、経営に参画したかったのです。
年末に、僕は先輩に話をしたい、と切り出しました。
来年の年俸を決めるため、1日だけ、お金の話をさせてください、
お金のことを根に持たずに、すっきりと新しい年を迎えたいからと。
しかし、話し合いは不調に終わりました。
先輩には、僕を経営に参画させる気持ちがないこともわかりました。
2年間、仕事を学ばせてくれた先輩への感謝をもって、僕は独立することを決めました。
そして「レガーロ」を自ら創業したのでした。
僕は28歳になっていました。
LEDの「レガーロ」になってからのご縁の方には意外に思われるかも知れませんが、このような経緯で、レガーロはTシャツ加工業として始まったのです。