an•an SPECIAL 2014/11/28号(マガジンハウス)
起源の物語と、リテラシー
「A型は几帳面で常識人」「B型はマイペースで自己中」「O型は騒々しくて大雑把」「AB型は何を考えてるかわからない」──たったひと言で人の性格を説明できるとしたら、これほど便利な“ラベル”はない。誰かをすばやく理解できた気になり、会話も弾む。そんな魔法のような言葉が、いつの間にか日本人の心に深く根を下ろしてきた。
けれど、私たちは一度立ち止まって考える。「なぜ、こんなにも信じられてきたのか?」「それは、どこから来たのか?」
はじまりは“仮説”にすぎなかった
この言説の起源は、1927年、ある日本人心理学者によって提唱された一つの仮説にさかのぼる。名前は古川竹二。当時、医学界では血液型(ABO式)の分類が世界的に注目され始めていた。カール・ラントシュタイナーによって血液型が発見されたのが1900年。その後、国際的には1928年に現在のABOという呼称が統一され、研究が進みつつあった。
古川は、この“まだ目新しかった血液型”と人の性格(気質)との関係に目を向け、「教育に活かせるのではないか」という動機から研究を始める。しかし、その内容はあくまで仮説の域を出るものではなかった。
そして1933年、日本法医学会はこの説に対して明確な否定を表明する。「統計的根拠が不十分であり、科学的とは言えない」という判断からだった。以後、この説はしばらく忘れ去られていく。
70年代、エンタメとしての「再発見」
時を経て、舞台は1970年代の日本。作家・能見正比古が『血液型でわかる相性』(1971年)を出版した。この一冊がブームの火種となり、血液型性格診断は「学説」ではなく「エンタメ」として再び脚光を浴び、売れたもん勝ちの時代、二匹目のドジョウを狙った類似本が飛ぶように売れた。
雑誌、特にテレビのクイズ番組や占いコーナー──どこでも血液型が取り上げられ、いつしか「知ってて当たり前」「話のネタにちょうどいい」情報として、日本人の生活に定着していった。
若者文化へ──「B型 自分の説明書」が象徴するもの
2007年、ある一冊の書籍が再びこの言説に火をつけた。『B型 自分の説明書』。著者はJamais Jamais。このライトな自己分析本は瞬く間にヒットし、A型・O型・AB型とシリーズ展開。総発行部数は480万部を超えるベストセラーとなった。
科学的根拠が希薄であるにもかかわらず、“みんなが信じている”という空気が、そのまま信憑性にすり替えられてしまった。それが今なお私たちの思考と行動に深く根を張っていることを思えば、このブームは単なる一過性の流行ではなく、むしろ“信仰”として内面化されたぶん、より根深く、より罪深いものだったのではないだろうか。
現にSNSが台頭し、「自分をわかりやすく説明する」ことが求められる時代に、血液型は自己紹介の道具としてますます重宝された。若い世代にとっては、もはや性格を分類する格好の”共通言語”ですらあった。
「なぜ」信じてしまうのか
ここで冷静に考えたいのは、なぜ科学的根拠がないにもかかわらず、私たちは信じてしまうのかという点だ。
答えの一つは、人間が──と言いたいところだが、世界中で今も信仰しているのは日本人だけのようだ──本能的に「分類したい」「理解した気になりたい」生き物だからだ。複雑でつかみどころのない“他者”という存在を、わかりやすい枠に押し込めたい──そんな心理が働いているように思える。
とくに日本社会では、空気を読むことが重視されるため、「自分をわかりやすく定義し、相手もそう理解する」という態度が、円滑な人間関係を築く“作法”とされがちだ。
リテラシーとは、「わかったつもり」を疑う力
ここで問いたいのは、「それ、本当に信じていいの?」という問いそのものだ。
現代において「リテラシー」という言葉は、単に文字を読めるという意味ではなく、情報を批判的に読み解き、選び取る力を指す。
そしてこれは、フェイクニュースが日常的に拡散されるいまの時代を生き抜くための、まさに“生存戦略”でもある。
血液型診断のような話題は、一見して無害に見える。けれどその背後には、「自分の頭で考え、自分の目で見なくなる」ことを促す、罠が潜んでいる。
「わかった気になる」瞬間に、私たちは思考を止める。そして、それは他者と真に向き合うことを放棄することでもある。
すでに結論は出ている
今時、科学万能主義は流行らない。が、松井豊氏(筑波大学)による統計研究(1991年、都立立川短大紀要)や、縄田健悟氏(福岡大)の国際調査(2014年、京都文教大)をはじめとする国内外の研究は、一貫して「血液型と性格に有意な関連性は認められない」と報告している。台湾、カナダ、オーストラリアなど複数国での追試やメタ分析でも、結果は同様だった。
それでもこの言説が残り続けているのは、「科学的な事実」よりも「信じたい物語」の方が、ある種の人々にとって都合がよいからだろう。
BPOによる勧告が出る
このような状況を受けて、2004年12月8日以降、BPO(放送倫理・番組向上機構)の勧告により、テレビ局や制作現場では、番組で取り上げる際は、「血液型性格診断に科学的根拠はありません」と明示するように義務付けられた。
それでも、「わかりやすい物語」は現在でも消えない。消えるどころか、カウンセラーやセラピスト、講師、コンサルタントを名乗る人たちや、学校や教育の現場でも──無知からなのか、確信犯なのか、血液型信仰の布教に手を貸している。
善意の中の悪
大手結婚支援サイトでは、今も堂々と、プロフィールに血液型欄があり、登録時に記入を求められる。”親切”にも、(たぶん、相性が合うと本気で信じている)血液型で相手を選ぶ検索が可能だ。
それを信じ続け、広め続けることは、事実に基づかない情報──つまり誤情報の拡散に、自ら加担してしまっているという、倫理的かつコンプライアンス上の重大な過失でもある。”善意の中の悪”ほど怖いものはない!
えにあひろ






