図書礼賛!

図書礼賛!

死ぬまでに1万冊の書評をめざす。たぶん、無理。

 

 

ふたたびデカルトである。私自身が、デカルトの著作を読みながら考えてきた問題については、前回の『省察』を扱った記事で一通り書き切ったわけだが(900冊目『デカルト著作集2』)、今回は違った角度から考え残していた問題について考えてみたい。スピノザには、『デカルトの哲学原理』という本がある。スピノザは1632年の生まれで、デカルトは1850年に没しているから、この二人は18年というわずかな時間ではあるが、二人の生きていた時間は重なる。ホッブズはデカルトとの書簡のやりとりがあるが、スピノザはまだ年齢的に早熟なので、デカルトと書簡のやり取りをしたことはないであろう。スピノザにとって、デカルトは直接応答できない哲学の巨人であり、ひたすらデカルトが紡いだ思想を考え抜くということだけが、スピノザに残された方法だった。

 

絶対確実な哲学の原理を取り出そうとするデカルトのラディカルな学問態度は、当時において、まさに衝撃であったろう。ただ、デカルトがなぜそこまでラディカルにならざるをえないのかを考えてみる必要がある。『デカルトの哲学原理』には、ロデウェイク・マイエルによる序文があるが、それによると、デカルトが生きた時代の哲学は、「自己の主張を何ら不可疑的理由で証明することをせず、ただ尤もらしい蓋然的な論拠で支持しようと努力」しているにすぎない。そこには確実なものが何も含まれていないし、結果として「論争と意見の相違とに満ちている莫大な書籍の雑然たる山が作り上げられ」ることになる。実際、デカルトの『方法序説』には、当時の哲学者をくさした次のような文言がある。「哲学はどんなことについても、もっともらしく語り、学識の劣る人に自分を賞賛させる手立てを授ける」(13頁)。デカルトにとって、当時の哲学は、何の論拠にも支えられていない空理空論を弄んでいるように見えたのである。

 

だからこそ、デカルトは絶対に疑えない、学問の基盤を求めた。「何よりもまず、哲学において原理を打ち立てることに努めるべきだと考えた」(『方法序説』、32頁)。その思索の結果として、「考える私」に辿り着いたのは、前回の記事で見た通りであるが、やはり、ここで疑問に思うのは、人間が等しく理性を配分されているにもかかわらず、どうして我々は判断や認識を間違うのかという問題である。『省察』は、まさにこの問題に取り組んでいる(第四省察)。デカルトによれば、私たちがついつい間違った判断をしてしまうのは、人間に意志があるからである。神が与えたもうた理性を意志によって正しく導き得ないとき、私たちは誤謬を犯す。この誤謬は神の責任では全くなく、ひとえに人間だけの責任である。なぜなら、理性は神が作り与えたものだが、意志は神は与えなかったからである。逆に言えば、意志を理性の範囲内で正しく運用できたとき、私たちは決して誤謬に陥らないのである。スピノザもデカルトのこの趣旨に賛同し、以下のように述べている。

もし知性が意志能力と同じ範囲にまで及ぶなら、或はまた意志能力が知性より広い範囲まで及び得ないのなら、或は最後に、もし我々が意思能力を知性の限界内に保ち得るなら、我々は決して誤謬に陥らないのである。(73頁)

デカルトもスピノザも、人間の意志を、真理への障害物であるかのように見なしている。たとえば、目の前の赤い球体を「リンゴだ」であると思い込んだとする。これは、食欲や嗜好という感覚的な欲求が、赤い球体をリンゴであると誤認させているわけであり、したがって誤謬に陥っている。だから、感覚を一切信用せず、理性的に対象を見つめることが大事なのだという話になるのだが、私としては、この「誤謬」こそ、人間が人間であるがゆえの存在根拠だと思うのだ。

 

 そのためには、「誤謬」を「表象」と読み替えることを提案したい。表象とはイメージとも観念とも捉えてよいが、ここで注意したいのは、表象には必ず誤謬可能性があることだ。先ほどの赤い球体をリンゴだと勘違いしてしまうのは、表象が表象である所以である。しかし、私はデカルトやスピノザのように、表象であるがゆえに対象を正しく理解できないとは考えない。というより、その結論には興味がない。私が強く思うのは、表象の誤謬可能性によって私人類は生存の有利さを確保していったのではないかということである。表象の誤謬可能性があるからこそ、私たちは現実にはまだない未来への目標や計画をイメージすることができる。表象がなければ、私たちは現実にただ適応するだけの即物的な生物に成り下がるのかもしれない。誤謬があるからこそ、夢があり、未来があり、思想がある。そういう意味では、デカルト的に大袈裟に言えば、誤謬こそ神が授けたものではないかと思うのだ。

 

 

自分でもなぜか分からないが、ここ最近ずっとデカルトを読んできた。一体なぜデカルトなのか。現在、デカルトを読む意味がどれだけあると言うのだろうか。そんな疑問を常に抱きながら、デカルトのテキストに向き合った。今回読んだのは、『省察』である。デカルトといえば、まっさきに思い浮かぶのが『方法序説』である(814冊目)。『方法序説』はデカルトの思想がコンパクトにまとめられた書物であり、「我思う。ゆえに我あり」という有名な言葉もこの本の中に出てくる。しかし、『方法序説』は入門書という性格上、どうしてもデカルトの思想の微妙で複雑な部分をそぎ落としてしまっている。だから、デカルトが何を考えていたのかをもう少し細かく知ろうとするなら、『省察』は避けては通れない。『省察』は、『方法序説』以上に言葉を費やして、精神と身体の関係、物体の性質、そして神の存在証明が丁寧に書かれている。さらには、以前の記事でも指摘したが、この書物には、「反論と分析」という、自説への反論まで載せている(898冊目『デカルト伝』)。とはいえ、ここでは「反論と分析」について取り上げるのは止めておこう。本来であれば、「反論と答弁」までじっくり分析した上で、デカルト思想を体系立てるべきであろうが、それは私の手に余る。デカルト=ホッブズ論争はわりと興味深いものではあるものの、ここでは、あくまで『省察』本文だけを取り上げることにしたい。

 

デカルトを読んだことがない人でも、「我思う。ゆえに我あり」がデカルトの言葉だということは知っている。より詳しい人なら、デカルトは方法的懐疑を通して、絶対に疑えない存在として「絶対確実な私」を取り出し、主観性哲学を切り開いたということも知っているかもしれない。実際、デカルトの哲学は近代に大きな影響を与えたとされており、たとえば、『方法序説』の岩波文庫の解説(谷川多佳子)では、次のように書かれている。

考えるわたし、近代の意識や理性の原型、精神と物質(身体)、あるいは主体と客体の二元論、数学をモデルとする方法、自然研究の発展……。デカルト主義は近代合理思想の中心原理となっていった。

私たちは、近代に影響を与えたという観点から、「考える私」の哲学的意義をデカルト思想から取り出そうとするが、しかし、この「我思う。ゆえに我あり」という命題は、デカルト思想の出発点であって、決して着地点ではない。私たちは、「我思う。ゆえに我あり」という奇抜な思考実験に注目するあまり、どうもデカルトの思想をつまみ食い的に消費している節がある。ここはもう少しデカルト思想の全貌を見ていこう。デカルトは『方法序説』で、哲学の原理を確立させるために、ありとあらゆるものを疑う方法的懐疑を実行したことを記しているが、『省察』にも同じような記述がある。「懸案の私の意見の全面的転覆に乗り出そう」(第一省察)。この方法的懐疑が第一省察に置かれていることからもわかる通り、デカルトにとって、疑うことはまず思考の出発点なのである。そして、『方法序説』と同じく、コギト・エルゴ・スムの命題が顔を出す。ただし、ここでは「われあり、われ存在す」(第二省察)という言い方で出てくる。ここで、デカルトが「絶対確実な私」を導くまでの理路を整理しておこう。デカルトは「全面的転覆」と言ったように、文字通りありとあらゆることを疑った。学問も習慣も常識も全て疑わしい。そもそも今が現実なのか夢なのかも分からない。しかし、ありとあらゆることを疑ったあとで、どうしても決して疑いえないあるものが残る。それが、「考える私」である。私は夢を見ているのかもしれないし、極端なことを言えば、そもそも存在すらしていないのかもしれないが、それでも、そのように存在の否定を考えている私自身まで疑うことはできない。スピノザはこう書いている。「彼が欺かれると想定しても、欺かれる限りにおいて彼が存在することは容認されねばならぬからである」(『デカルトの哲学原理』岩波文庫、25頁)。だから、「考える私」は絶対に疑いえないのだ。これがデカルトの論理だ。

 

デカルトが、このように思惟の力を取り出したとき、考えるという理性の働きは人間の存在条件となった。実際、デカルトは、人間と動物を分かつ根拠を、理性の有無に求めている(『方法序説』)。ところで、デカルトのいう理性とは何だろう。『方法序説』では、理性の具体的な中身についてそれほど詳述されていないが、『省察』では、思惟することが、想像することや感覚することとは違う、極めて独自な精神領域であることを詳しく語っている。その象徴的な例が、蜜蠟の議論である(第二省察)。目の前に蜜蠟がある。この蜜蠟は蜜の味をもっており、香りもほどよく匂い、色、形、大きさもはっかりと分かり、そして触れば硬さも確認できる。しかし、その蜜蠟に火を近づける。蜜蠟はやがて溶け出し、味や香りは消え、形は崩れるだろう。先ほど見た蜜蠟とは全く違う物体がそこにある。そこでデカルトは言う。この物体はさきほどの蜜蠟と同じ蜜蠟だろうか、と。そして、デカルトの答えは、勿論そうだ、というものだ。たしかにそうかもしれない。たとえば、知人が亡くなり、火葬されたとき、骨になった知人を以前とは別の何かだと思う人はいないだろう。では、さっきの蜜蠟と、火にくべられもはや原形をとどめていない物体を同じ蜜蠟と判断できるのは、なぜだろうか。もう、お分かりだろう。そう、その判断を担うのが思惟する力(精神)の役割だとデカルトは言うのだ。感覚も想像力もあてにならない。この思惟する力こそ、人間に平等に割り与えられた良識であり、真理への道しるべとなるものなのだ。さて、デカルトの議論が本格化するのはここからである。実はデカルトはここから神の存在証明への導くのだ。デカルトの理路はこうである。人間には思惟する力がある→その中で完全性の観念を持つことができる→人間自身は不完全だから、この完全性は外部から与えられたに違いない→神は存在する、という理屈だ(第三省察)。この論証は本当はもう少し議論が複雑だが、興味がある人は『デカルト入門講義』(冨田恭彦 ちくま学芸文庫)を参照されたい(813冊目)。

 

ところで、神は完全性な存在であり、完全性の観念を人間に与えることができるのに、人間がしばしば間違った認識や判断をしてしまうのはなぜなのか。神は完全な存在であり、人間に過誤を与えないことはデカルトも繰り返し述べている。それでは、なぜ人間はしばしば間違うのだろうか。デカルトによれば、それは人間に意志があることによって、しばしば間違いを起こすのだ。

私の過誤はどこから生まれるのであろうか。思うに、意志は知性よりもいっそう広い射程を有するものであるために、私が意志を、[知性と]と同じ限界のうちに引き留めずして、また私の和解していないものにまでも拡げる、というこの一事から、である。(第四省察)

この場合、知性は理性と言い換えてもよい。『方法序説』でも述べられているように、理性はすべての人間に平等に割り当てられている。これは理性はアプリオリであるということを意味する。一方で、意志とはアポステリオリなものであり、この理性と意志の落差が、私たち人間の過誤の原因になる。逆に言えば、意志を常に理性に合わせることができれば、私たちは決して間違うことはない、ということになる。さて、ここまで『省察』の内容を追ってきたことからも分かる通り、デカルトの「我思う。ゆえに我あり」はデカルト思想の出発点であり、絶対確実な私を起点として、神の存在証明へと導くところにこそ、デカルトの主張の力点がある。

 

さて、二〇二四年の現在、デカルトを読む意味がどれだけあると言うのだろうか。船木亨は、ダーウィンの進化論が現代思想の始まりだった位置づける(『現代思想史入門』ちくま新書)。ダーウィンの進化論は、人間も生物的存在に過ぎないことを示し、人間の歴史を生物学の歴史として書き直す契機となった。進化論の観点からみれば、人間の精神というのは何も特別なものではない。ヒトという種の進化の上で生存上有利に働くように生じた物質的な現象であり、その意味では他種生命体が生存上、進化していく現象と何ら変わりがない。ダーウィンの進化論は、それまで哲学の世界で自明視されていた人間精神の存在意義を根本から揺さぶったものである。現代思想は、この人間精神の退場を宣告されたときに、いかにして思想は可能となるのかという問いに根本的に向き合ったことから防波堤的に生まれてきた思想の営みである。そして、実際、人間精神を根底から揺さぶる問いはたて続けに出てきている。ジョン・サールの「中国語の部屋」は、我々の扱う言葉が、実はアルゴリズム的な数理処理と全く変わらない原理で機能している可能性を示唆している。「意味を理解する」というコミュニケーションの根本においても、私たちは人間であることから弾き出されようとしているのだ。シンギュラリティーの到来も、このような観点から考えねばならないだろう。とはいえ、いくら生物学的な知見やシンギュラリティーを持ち出していたところで、私たちはどこかで人間の思惟する力の固有性を求めているのではないか。たとえば、近い将来、ロボットは文章をかなりの精度で正確に読解する日が来ることだろう。しかし、自分の関心に従って読むという行為はロボットにはできないのではないか。ここに、やはり人間が思惟する意義がある。いや、もしかしたら、ロボットもまた自分の関心にしたがって読書をするようになるかもしれない。その場合、私たちは思惟する力が人間固有の力ではなくなったことを嘆くべきだろうか、それともロボットが人間になったことを喜ぶべきだろうか。現在、AIによって人間の能力がどんどん代替されることで、人間固有の能力とは何なのかということが逆に問われている時代である。オムッカの剃刀式に引き算的発想でそぎ落とされた、「残りのもの」の正体は一体何なのか。デカルトの思想の跡を追うことは、この「残りのもの」に接近するヒントを与えてくれるだろう。デカルトを読むということは、この精神の危機の時代において、人間とは何かを考えるアクチュアルな試みである。

 

 

デカルト、ホッブズ、スピノザに共通するのは、十七世紀の思想家ということである。それぞれの生年と没年は以下の通り。

 

ホッブズ 1588ー1679

デカルト 1596ー1650

スピノザ 1632ー1677

 

それでは、十七世紀の哲学とは、一体どういうものであったのだろうか。著者は、十七世紀は「機械論」の世紀であったと述べる。まず、ホッブズのかの有名な「万人の万人に対する闘争」(『ホッブズ』)は、機械論から自然と演繹される科学理論であった。スピノザの言葉に「人間は自分の意思作用および衝動を意識しているが、自分を衝動ないし意思作用に駆る原因は知らない」という言葉がある(128頁)。つまり、人間には自由意志があるわけだが、その自由意志の出所である根源的な動機を意識することはできないという意味である。しかし、この根源的な動機(衝動)が、しばしば各人の間で衝突を起こせば、抗争は避けられない。そうした世界での人々の生は弱く、脆いものとなる。だからこそ、人々は、至高の第三者の審級にすべての権利を譲渡することによって、己れの生を安全を得るのである。そして、社会にも安寧がもたらされる。

 

ホッブズの「万人の万人に対する闘争」の思想を支えていたのは、機械論であった。この場合、機械論とは、人間の自由意志すら支配下に置く生理的な衝動のことを指す。生理的な衝動は自然の摂理による以上、そこから導かれる私の行動は機械論的に解釈されるというわけである。さて、機械論といえば、デカルトを忘れるわけにはいかない。デカルトは、方法的懐疑を経て、絶対確実な私(精神)を取り出すのであるが、このようにデカルトが精神を身体から分離できると思想したとき、近代を支配する主客二元論が始まったと言ってよい。デカルトは「考える私」から精神の存在を確実なものとして取り出す。精神は身体から分離可能で、たとえ身体が消滅しても、この精神は生き残るのだ考えた。強力に人間精神を肯定するデカルトの思想は、身体や動物は魂をもたない物質的な集合に過ぎないだと考えるラディカルで危険な発想を生み出したもしたが、実は、近代というのは、この危険な思想に駆動されているのだ、ということはかつて述べた(897冊目『動物に魂はあるのか』)。

 

ホッブズとデカルトは、ともにその機械論的世界観がその思想の前提となっているが、両者の相違は、ホッブズが、機械論の演繹的な類推から社会の誕生を説いたのに対して、デカルトは、精神と身体を見事にぶった切り、機械論の射程から精神を守ったことにある(ただ、デカルトの著作を読んでも、機械論と自由意志の関係は大変分かりづらい)。さて、最後にスピノザである。スピノザは、ホッブズとデカルトがそれぞれの領域で打ち立てた仕事を引き継ぎなら、独自の思想を展開した。まず、スピノザが直面したのは、聖書解釈の問題であった。というのも、デカルトが人間存在の根源に理性を置いたことで、デカルト以降のデカルト主義者が聖書も合理的に解釈せねばならないと主張していたのである。しかし、神話というのは、根拠がないからこそ神話と言えるのであって、神話に合理性を求めることは、合理性という暴力による聖性への浸食である。さて、このデカルト主義者のこの物言いについて、スピノザはどう答えたのであろうか。

 

スピノザによれば、聖書は真理を伝えるものではない。もちろん、このデカルトの見解は、神学者から大変な批判を受けた。しかし、スピノザが言いたいのは次のことである。聖書がなぜこれまで長きにわたって守られてきたのかと言えば、それはそこに群衆の力能が現れているからである。これは、一体どういうことか。たとえば、聖書には、隣人愛の記述がある。これは人々が従うべき規範であり、さらには誰もがそれがきちんと実践されているかどうか確認ができるようなものである。つまり、聖書の記述は、真理の表現ではなく、そこに誰もが従う規範を書き込むことで、その行動を確認する周囲の同調圧力を作り出すものなのである。スピノザのこのような聖書解釈の妥当性はここでは問わない。大事なのは、デカルト問題へ回答が、そのままホッブズへの問いとつながっていることだ。ホッブズの『リヴァイアサン』の骨子は、個人間の相互不信が、権力という審級を生み出すというものだが、実はホッブズのこの想定には、従来から多くの問題点が指摘されている(1)。スピノザも同様に、生理的な現象として人々の衝突が起こると考えていた。具体的には、身体を起点に、人は自分自身と同等なものとの差異を志向し、その過程で承認欲求や相互不信が芽生えると考えていた。しかし、スピノザはそこから第三者的審級を導き出すのではなく、自分以外の残りの者、つまり、群衆が生まれてくると考えたのである。本書は、機械論を軸に十七世紀の思想について述べたものであり、私の今回の記事はせいぜい覚え書き程度のものである。とはいえ、AIの加速的な発展は、機械というものを根本から我々に考えさせることとなった。その意味では、十七世紀の思想家から我々が得るものは決して少なくないはずである。

 

(1)たとえば、万人に対する闘争を終わらせるために、第三者にすべての権利を譲渡するとして、一体誰が先にその権利を差し出すのか。一方が武力放棄をしたのを見計らって、もう一方は裏切ってくる可能性もある。誰が先に権利を譲渡するのか、という権力生成過程の問題について、ホッブズは何も答えてくれない。

 

 

デカルトは、一五九六年にフランスのトゥレーヌ州のラ・エーに生まれた。後に「近代哲学の父」と言われる偉大な哲学者のイメージとは違って、体力的には虚弱な子供だった。また、母はデカルトを出産した数日後に命を落としている。ただ勉学への素質はあったようで、デカルトは名門ラ・フレーシュ学院に進学することになり、そこで熱心に勉強した。ラ・フレーシュ学院は、彼がのちに『方法序説』で、「地上のどこかに学識ある人びとがいるとすれば、この学校にこそいるはずだとわたしは思っていた」と賛辞を送るほどであった。デカルト自身は、尊敬する学校の先生がしばしば言っていた文字による学問に専念することで、「人生に有用なあらゆることの、明らかで確実な認識」を得たいと思っていた。ラ・フレーシュ学院時代にデカルトについて、興味深いエピソードがある。

討論の席で何か論証を持ち出さねばならないとき、彼はまず名辞の定義に関してたくさん質問をする。ついで、スコラにおいて受け入れられている一定の原理を人がどう解しているかを知ろうとする。さらに、誰しも同意見であるにちがいない或る既知の真理について、承認するかどうかをたずねる。かくして最期に、のっぴきならぬ唯一の論証を形づくるのであった。(12頁)

このエピソードから分かることは、デカルトは討論においても唯一解をも求めるということである。誰もが受け入れざるをえない真理にこだわる、この姿勢には、『方法序説』において「絶対確実な私」を取り出そうとするデカルト思想の淵源が見られる。当初、デカルトは文字による学問で真理を探そうとしていたが、やがて文字による学問もまやかしであることに気づいてしまう。文字による学問を信じられなくなったデカルトは、旅に出ることにした。これをデカルトは「世間という大きな書物」と呼んでいる。オランダを訪れた際、軍務についたのも、「ただ人々のさまざまな風習をもっとありのままに研究せんがため」(23頁)だった。ここでひとつ疑問が沸く。絶対確実な真理を求めて旅を始めたはずのデカルトが、どうして人間の様々な様態を学ぼうなどと思ったのだろうか。

 

実は、デカルトが、「ただ人々のさまざまな風習をもっとありのままに研究」したいと思ったのは、「多様性」などという、昨今の社会情勢のようなものとはわけが違う。デカルトが人々の多様性に注目したのは、あくまでも絶対確実な真理のためであった。つまり、いろいろな人々と出会うことで生起するいろいろな出来事を、自分自身に関わりある問題として、どれだけ多くの真理を取り出せるか、ということをデカルトは目指したのである。この試みがどれだけ功を奏したのか、デカルト本人にしか知り得ないところだが、デカルトの真理への情熱がとにかく半端ではないことが分かるエピソードである。さらに、デカルトは真理のためには、自説への賛同者よりも批判者を歓迎すべきだと考え、批判者には答弁しなければならないという義務を己に課していた。『省察』には、本文の倍以上の「反論」と「答弁」が付されているのだが、「序文」において、「本文だけを読んで理解した気にならないようにお願いする」とわざわざ書いているのは、批判者への応答がいかに重要であるかということをデカルトが考えたからである。たしかに、世には多くの哲学書があるが、自説に対する反論をわざわざ掲載し、さらに著者の答弁を置くという構成はちょっと見当たらない。この叙述スタイルの画期性はもっと注目されてよいだろう。

 

 

動物は可愛い。タテゴトアザラシとか柴犬とか、なんでこんなにも愛くるしい動物がこの世に存在するのだろうかと感謝さえしたくなる。一方で、私たち人間は、そんな動物をこれまでたくさん殺してきたし、今も殺している。むろん、これは人間が何かを食べないと生きていけないからで、我々が背負うべき原罪のようなものである。いくら人間が生きるためとはいえ、本来であれば動物は殺したくない。そのやましさから目を反らせるために、人間と動物のあいだに絶対に覆せない優劣関係を作り上げる。この世の主人公は人間であり、だからこそ、人間が生きるために動物を殺して食べることは正当化されるのだ。しかし、哲学者は、動物を人間の道具とは考えなかったようである。ストア派の哲学者セネカは動物にも知恵があると述べたし、プルタルコスは美徳さえあると述べた、さらにモンテーニュにいたっては動物もまた人間と同じように技術を生み出す生き物であると述べるわけだが、しかし、モンテーニュの動物にも言語があるという主張は、言語の概念を拡張しすぎだろう(44頁)(1)。

 

それぞれの主張はともかく、これらの哲学者に共通する動物観は、動物は人間ほど高度な思念や想像力を持ち合わせてはいないかもしれないが、逆に動物だけが持っている能力もあり、さらには知恵や勇気という道徳的性質も備えている点で、動物もまた高等な生き物であるということだ。これは我々の常識とも合致する、きわめてまっとうな動物観だろう。人間は生きるために動物を殺して食べざるをえないが、動物もまた人間と同じ生き物だ。だからこそ、むやみやたらに動物を殺してはいけないし、それを食べる場合でも、殺された動物のために最後まで残さずおいしく食べなければならないという倫理観も芽生えるのである。哲学の世界でも、我々の常識でも、動物にある種の「人間性」を見るという点では大きな違いはない。その意味で、デカルトの「動物機械論」は、動物思想史のなかでもきわめて異色な動物観である。「動物機械論」とは読んで字のごとく、動物を機械だと捉える思想である。デカルトは『方法序説』(814冊目)で、動物は機械人形のようなものであり、ただの物質でしかないと書かれている。デカルトによれば、動物の鳴き声は、ドアが軋む音、太鼓を叩く音と同様に、物質的なものであり、魂の叫びなどというものではない。だから、動物を蹴飛ばしたところで何の倫理的痛痒を感じる必要はない。それは石ころを蹴飛ばすのと何の違いもないからである。ただデカルト自身、動物に感覚は備わっているとは考えていたそうで(65頁)、そうであれば、「動物機械論」という名称自体も問い直す必要があろう。

 

しかし、デカルトの動物機械論はやはりおかしい、と多くの人は考えるのではないか。実際、動物思想史を振り返ってみても、動物を単なる機械だという、このデカルトのラディカルな立場は後世に大きな影響を与えていない。現代ではむしろ、ピーター・シンガーが「動物の権利」を訴えたり、ダナ・ハラウェイが「伴侶種」という概念を導入したり、動物をより人間に近づけていこうとする思想も登場してきているし、また思想とは離れた場所で、動物解放運動に邁進する活動家も存在する。動物の思想は、動物を少しでも人間に近づけようとしてきたと要約したとしても大きく外れてはいない。したがって、デカルトの動物機械論は、動物思想における突然変異であり、異端であり、革命なのだ。デカルトの動物機械論をここで詳しく見ることはしないが、ただデカルトが動物に決して認めない人間理性については考えておこう。たとえば、ジョン・サールの「中国語の部屋」という思考実験は、デカルトの「思惟する私」をひっくり返す。我々の言語活動は実は機械的に処理されており、ただ我々がそれに気づいていないだけだという可能性を突きつけた(2)。この思考実験によれば、人間は実は何も意味を了解しないでコミュニケーションを行っていることになるが、このサールの議論に興味のある方は、戸田山和久の『哲学入門』(891冊目)を読んでいただきたい。

 

デカルトの「動物機械論」は、動物思想史における突然変異にようにして現れたが、その思想は後世に引き継がれることもなく、時代に埋没した感がある。そういう意味では、現代において、ことさらデカルトの「動物機械論」を取り上げる必要もなさそうに見える。しかし、「動物機械論」が捉える射程をもう少し広く見れば、この思想の残酷さに戦慄するはずである。というのも、動物から魂を抜き取るという発想は、対象的世界から魂を抜き取るということで「文明」を気づいてきた近代の発想そのものであるからだ。その観点から見れば、資源収奪、植民地経営は、「動物機械論」を下敷きにして成立しているとも言えなくはない。さらに、恐ろしいのは、この「動物機械論」は、最終的には、人間の選別に行き着くことである。デカルトが、動物と人間を分かつものとして理性というものを称揚したとき、その時から、理性的思考が欠如している見なされた人は、非人間として囲い込まれるのだ。動物機械論によれば、聾唖者や痴呆症の人は機械だと捉えられることになる。

〈動物機械論〉は、〈自〉でなく〈他〉を単純化し貶下する眼差しを内包させており、その〈他〉のカテゴリーには遅かれ早かれ、人間以外の動物だけでなく、人間自身も入ることになるだろうという指摘である。(97頁)

「動物機械論」は、最終的には人間否定に行き着く。現代社会もまた、何らかの身体の障害を抱えてるもの、ホームレス、病弱者といった人たちの生が不当に貶められてはいないだろうか。「動物機械論」のラディカルさは、ラディカルであるゆえに現代社会の問題にまで射程を開いているのである。

 

(1)動物にも言語があると主張する者は、たとえば動物は鳴き声や行動で、感情や要求などの伝達を行っているのであり、これもまた一種の言語コミュニケーションであると述べるが、これはあまりに皮相な言語観である。言語が言語であるためには、文法がなければならない。ある種の動物は歓喜を伝えることができるかもしれないが、「嬉しくない」という否定形の思念は表せないはずである。文法の有無こそ、人間と動物を徹底的に分かつものなのだ。

(2)中国語の部屋 - Wikipedia

 

 

左右という概念は、アプリオリ(先験的)だろうか、それともアポステリオリ(後天的)だろうか。この問題に関して、カントに有名な思考実験がある(130頁)。宇宙空間に片方の手以外にいかなるものも存在しなかった場合、その手は左手だろうか右手だろうか、という思考実験である。カントは、この場合、左手か右手かのいずれかでならねばならないと考えたそうだ。カントは、因果関係などの概念は人間にあらかじめインストールされていると考える哲学者であり、左右という概念もまた人間にとってアプリオリに構成されていると考えたのだろう。たしかに左右という概念は、その概念が存在しない世界を想像することすら難しいほどに人間の生にとって根源的なものである。その意味で、左右を哲学するとはどのような意味を持つのだろうか。

 

本書では、「上下」概念や「前後」概念と比較して、「左右」概念の特殊性を説明する。たとえば、上下や前後は、物的な基準によって定めることができる。下とは何かを説明しようとすれば、身体を使って、頭から足の方にイメージの矢印を引いてもらい、これが「下」だよと言うことができる。逆に足から頭に矢印を引けば、それは「上」になる。前後も同様に説明できる。前とは何かを説明するためには、背中から胸にイメージの矢印を引いてもらい、これが「前」だと言えばいい。逆に胸から背中に矢印を引いてもらえば、「後」になる。ところが、左右だけはこのように説明することはできない。なぜなら人間の身体は左右対称で、左から右への矢印も、右から左への矢印も同じになってしまうからだ。強引に説明すれば、「左肩から右肩へ」ということになるが、これだと左右概念の根拠自体に左右概念が持ち込まれるというトートロジーになってしまう。

 

とはいえ、私たちが左右概念を難なく理解できるのは、前後概念と上下概念にとって軸を固定されているからである。いわば、前後概念や上下概念は、左右概念の土台というわけだ。しかし、これは左右概念は別の概念からの転用という形でしか私たちは理解できないということでもある。ところで、この転用という言葉は、左右概念のキーワードである。たとえば、目隠しをされてスイカ割りに挑戦している人に、外野の人は「右だ」「左だ」と声をかける。これは目隠しをされている人の立ち位置から見ての「右だ」「左だ」という意味である。つまり、私たちは、相手に左右を分からせるためには、相手の身体に自分の身体を重ね合わせる必要がある。上下や前後を伝えるために、わざわざ相手の身体に重ね合わせる必要はない。上下や前後は自明だからだ。しかし左右だけは、相手の身体に自分の身体を転用しなければならない。

 

本書は、一貫として左右概念だけを議論の俎上に載せた哲学書である。哲学書といっても、いろいろなタイプがあり、例えば東浩樹は哲学は時事問題に還元できる思索でなければならないと考える哲学者だが、本書は、いわば「ドーナツの穴は穴なのか」、「何粒の砂が集まれば砂山と言えるか」といった、哲学オタク向けの本だ。だから、この本を読んだところで、特に実生活上の教訓はない。とは言いつつ、著者の意図とはだいぶ離れるが、私はこの左右概念にひとつの倫理的な契機があるのではないかと思った。先ほども述べたとおり、左右概念は転用を本質とする。相手に向かって「右側の手を挙げてください」と言うとき、これは自分の身体を相手の身体に転用して、相手の立場から物を見るということである。他者理解の方法として異文化理解や多文化共生といった啓蒙が説かれるが、より根源的には私たちは左右概念を取得したときから、他者理解は始まっているのである。そうであれば、この左右概念をどう工夫すれば、他者理解へのスムーズに接続することができるのかを考えることが課題だろう。

 

 

言語研究には主に二種類ある。理論言語学と社会言語学である。本書では、両者の違いを次のように説明する。

理論言語学は、記号としての言葉の内部構造を明らかにすることを目指す内部志向の言語学ですが、社会言語学は、発話された言葉と発話された外部環境の関係を明らかにすることを目指す外部志向の言語学です(13頁)

理論言語学とは、言語が自律したメカニズムを持つことを前提にして、その内部に潜む普遍的な構造を明らかにする学問である。たとえば、どの言語にも名詞はあるし、主語ー述語という対応もある。これは文化の制約を受けない普遍的な言語の特性である。いわば、理論言語学はアプリオリな言語的事実を解明しようとする学問であり、ノーム・チョムスキーの生成文法がその代表的な例だ。一方で、社会言語学は理論言語学とは全く異なるアプローチをする。理論言語学が言語内部の解明に向かうのに対して、社会言語学は言語と環境の関係性に目を向ける。言い換えれば、理論言語学が言葉の「正しさ」を問題にするのに対して、社会言語学は言葉の「ふさわしさ」を問題にするといえよう(17頁)。本書は社会言語学の立場で書かれた日本語についての本である。本書の『日本語は「空気」が決める』というタイトルは、状況や文脈に照らした日本語としての「ふさわしさ」の探求という意味が込められている。

 

実は、この本は日本語学習をしている外国人によく読まれているようだ。「正しさ」だけでは分からない日本語の「ふさわしさ」を理解するために読んでいるのだろう。外国語を学習するとき、私たちはまず理論的に学ぶ。初学者は文型や特殊な文法を理屈を通して学ぶことが効果的だ。しかし、よく言われるように、日本人は中学校から大学生まで英語を勉強し続けても碌に英語を話せない。これをもって英語教育改革が常に叫ばれるわけだが、私に言わせれば、ひとつの言語を身につけようと思えば、血の滲むような努力をする以外にないのであって、教育を変えれば英語が上達すると考える方がおかしいわけだが、それはともかく、私が大変困ったのは、かつて大学院にいたとき、英語の授業で英語のレポートを提出したときに、米国人の指導教官から「ネイティブはそんな言い方はしない」とよく言われたことだ。この言葉は水戸黄門の印籠のような効果があり、それを言われた途端、もうどうしようもなくなる。

 

ここで問題にされてるのは、「正しさ」と「ふさわしさ」のズレである。私は理屈的には間違っていない英文を仕上げたつもりだったのだが、指導教官はその言葉の「ふさわしさ」を問題にしていたのだ。本書でも紹介されているが、言語的コミュニケーション能力は、以下の四つで構成されていることが現在のアカデミックの常識のようだ。

①文法的能力…小さな要素を組み合わせて正し語や文を組み立てる能力。

②社会言語学的能力…その場の状況に合ったふさわしい表現を選びだす能力。

③談話的能力…前後の文脈をつながげ、一貫したわかりやすい談話を作りだす能力。

④方略的能力…その言語の知識が不十分なときに、それを補うために使う能力。(272頁)

外国語として私たちが勉強に費やすのは、基本的には①のみである。私は正規の学校教育のルートでしか英語を勉強したことがなかったから、英語のふさわしさを測る②の社会言語学的能力はない。②の力を身につけるには、豊富な実戦経験を積む以外にないだろう。だが、当時の私としては別に英語は文献が読めればそれで充分と考えたいたので、英語のふさわしさまで勉強する必要はないと考えていた。

 

ところが、大学受験の英語は、英語のふさわしさまで会得しないと、少なくとも難関大合格はおぼつかないらしい。難関大では大学入試の英語問題に英作文の試験があり、京都大学とか慶応大は本当に難しい英作文問題を出題するらしいのだが、文章を書くと営みは、その性格上、必ずふさわしさを要求する。ここに英作文対策の難しさがある。先月、代々木ゼミナール主催の早慶入試研究会で、慶応英語のパート(担当:西川彰一先生)を視聴したのだが、とにかく一番の英作文対策は、語彙力増強、英文のフレーズをたくさん覚えることというものだった。西川先生曰く、難しい英文でも読めるだけなら高校生でもごまんといるが、英語を書ける人間は本当に少ない、だからこそたくさんの英語の表現を覚えろ、とのことだったが、私はこの講演を聴きながら、高校生でここまで英語を勉強しなければならないものだろうかと思った。

 

先ほども述べた通り、文章を書く以上、必ずふさわしさの問題に直面する。私は大学院の授業で「ネイティブはそんな言い方をしない」と何度も言われた。ただ、ふさわしい英語を駆使できる実力に到達するまでの努力は、実質無限だろう。ここには理論が入る余地はなく、とにかくただどれだけ覚えたかが問題になってくる。誤解しないでほしいのだが、私はこのやり方を邪道だと批判したいわけではない。むしろ、これは外国語学習の王道だ。外国語の勉強はとにかく言葉の暗記に尽きる。しかし、無限の努力を押し付けるほど、高校生にそこまで英語を勉強させることには大きな疑問を禁じない。外国語学習には色んなやり方がある。私は韓国語なら会話まで勉強したいが、英語なら文献が読めればそれでいい。しかし現行の英語教育は、とにかくコミュニケーション重視であり、英語のふさわしさまで求められる。高校生に求める能力としては過剰と言うべきではないだろうか。日本の外国語教育はとにもかくにも英語、英語、英語の一辺倒で、たとえば、学校教育で英語以外の外国語を学んだことのある生徒は1.4%しかいない(482冊目『外国語教育は英語だけでいいのか』)。多様性が掲げられていながら、ここまでの英語偏重は実に不健全であると感じる。とはいえ、教師も生徒も親までも英語帝国主義を内面化した日本の現状では、私のような立場は多勢に無勢だ。個人的には、「ネイティブはそんな言い方しない」と言われても、「そんなの、知るか」と返事して、小さな抵抗だけ続けていこうと思っている。

 

前々回は松本清張『北の詩人』(892冊目)、前回は梁石日『Z』(893冊目)を取り上げたが、これらの小説に共通するのは混迷する解放直後の朝鮮半島を舞台にしているところだ。周知のように、帝国日本が解体し、植民地から解放された朝鮮半島は、そのまますぐに独立したわけではなかった。帝国日本の代わりに、今度は米国とソ連が乗り込んできたからである。これは宗主国のすげ替えでしかなかった。当初、朝鮮半島統治をめぐっては、信託統治が提案された(モスクワ三国外相会議、1945年)。信託統治の提案は、朝鮮人には統治能力がないということを前提にするものであり、当然ながら、朝鮮半島では信託統治反対デモが相次いで起こった。実は、米軍は朝鮮人のデモを影ながら支持していたらしい。というのも、もし信託統治が実施されたとき、地理的に朝鮮と近いソ連が実質的な支配権を持つことが予想されたからである。松本清張の『北の詩人』では、これらの事情が詳しく描かれている。

 

結局、朝鮮半島は米国の思惑通りとなった。米軍庁が支配する南朝鮮では単独選挙が行われ、李承晩が大統領となった。実は、この大統領選挙を唯一実施できなかったのが済州島である。済州島では、単独選挙による激しい反対運動が起こった。単独選挙に反対する武装隊は漢拏山(ハルラ山、韓国で最も標高が高い山)に籠り、陸地から派遣された鎮圧部隊と抗戦したが、わずか二〇〇人程度の武装隊をなかなか攻略できなかった鎮圧部隊は、島民を皆殺しにするという、とんでもない暴挙に犯した。島民の中に武装隊が隠れているはずだ、という論理である。学校の校庭に集められた島民は、鎮圧部隊の機銃掃射で瞬く間に虐殺された。子供も女も老人も関係なかった。常識外れのこの鎮圧は、共産主義への激しい嫌悪感に基づくものである。実際、鎮圧部隊に参加した西北青年会の一部は、朝鮮半島の北部にいた者たちであり、資産を全て取り上げられ追放された恨みが、このような虐殺をさらにエスカレートさせたのだった。

 

島民のおよそ三万人が虐殺されたという、この事件は「済州島四・三事件」と呼ばれ、あまりの悲劇にもかかわらず、韓国では長い間タブーであった。軍事独裁政権時代における言論弾圧もさることながら、なによりも悲惨と形容するにもあまりにもむごい虐殺を体験した済州島民にとって、もはや権力に刃向かう力などなく、ただひたすら「羊のように従順になること」(727冊目『済州島 四・三事件』、173頁)だけが生存戦略になってしまっていたからである。済州島四・三事件が脚光を浴び、犠牲者の名誉が回復されるのは、金大中政権時に公布された「済州四・三事件真相糾明および犠牲者名誉回復に関する特別法」(二〇〇〇年)まで待たねばならない。また済州島四・三事件については、非常に難しい問題がある。南朝鮮の単独選挙は、現代の韓国の起源であり、これを阻止しようとした勢力を国家が犠牲の英雄として顕彰することは、建国のアイデンティティの根幹を揺るがしかねない危うさがあるからである(前掲書、181頁)。そういう意味で、済州島四・三事件は、決して過去の話ではなく、きわめて現代的でアクチュアルな問題なのだ。

 

ハン・ガンの『別れを告げない』という小説は、この済州島四・三事件を扱った小説である。物語構成的な観点から言えば、おそらく、この小説は、済州島四・三事件について上記のようなことを知らなければ、物語の重みがなかなか理解できない。同じく済州島四・三事件を扱った玄基栄『順伊佐おばさん』(728冊目)にも共通するところだが、『別れをつげない』では、四・三事件の背後にあるイデオロギー戦争の匂いがほとんど脱色されている。この事件の黒幕であるアメリカもソ連もそれほど出てこない。多くの島民が「お前はアカか?愛国者か?」というイデオロギーの選択を突きつけられ、虐殺されたことを思えば、これは実に不思議なことだ。しかし、もしこの小説がイデオロギーを主語にした物語だったら、それは残念ながら通俗的な歴史物語にしかならなかっただろう。人が人を殺すということの、なんともいえないやり切れなさ、不条理、無力感、トラウマ……こういったものを、ハン・ガンはイデオロギーに責任転嫁せず、まっすぐに人間を見つめて書いている。アウシュビッツの虐殺が世界を震撼させたことによって知識人の間では、ホロコーストは表象できるのかという問いに関心が集まったが、ハン・ガンは、この小説で、済州島四・三事件の表象不可能性に挑戦したのだといえよう。

 

 

 

 

朝鮮半島の現代史を舞台にした歴史ミステリーである。おそらく在日の主人公は、著者の梁石日自身をモデルにしたものだろう。この小説は、ジャンルとしては歴史ミステリーだが、歴史の方は朝鮮半島が舞台となり、ミステリーの方は日本が舞台というふうに役割分担になっている。朝鮮半島の近現代史の悲劇が、日本に住む主人公の境遇とつながっていく物語の構想は実に読み応えがあったし、小説として抜群に面白かった。とりあえずのあらすじは、こうだ。主人公の朴敬徳は文学者として成功し、招待された韓国で滞在しているあいだ、自分のルーツである済州島に向かう。しかし、済州島の役所で自分の戸籍を確認すると、なんと戦時中の大阪の大空襲で一家もろとも死んでいることにされていたのだ。単なる役所のミスのなのか、それとも何者かによる計略か。居心地の悪い思いをしながらも、日本に帰国した朴敬徳は、その後、様々な事件に巻き込まれていくことになる。

 

その後、朴敬徳の物語はいったん閉じられ、小説の舞台は朝鮮半島に移る。個人的には解放直後の朝鮮半島を描いた小説中盤の物語が大変興味深かった。前回紹介した松本清張『北の詩人』も、解放期の朝鮮半島を扱った小説である。日本では、敗戦直後の日本人引揚者の苦労がクローズアップされることが多いが、解放直後の朝鮮半島の混乱ぶりについてほとんど知る機会がない。朝鮮半島は、帝国日本の敗戦によって植民地から解放されたが、それはただちに独立を意味したわけではなかった。なぜなら日本亡き後、この権力の空白地帯に乗り込んできたのは、米国とソ連だったからだ。朝鮮半島の三十八度戦以北をソ連が、三十八度以南を米国が管理することになったが、これが朝鮮半島分断の起源となる。米国主導の南の単独選挙、および朝鮮戦争によって南北の分断はもはや後戻りできないほど決定的になったが、解放直後においては、まだ統一の可能性があった。本書もそうだが、前回紹介した松本清張『北の詩人』(892冊目)などの朝鮮半島の解放直後を扱った小説を読むときのポイントは、統一の可能性がどこで潰えてしまったのかに注意して読むことだろう。

 

小説『Z』を読んで驚くのは、朝鮮半島が解放されたにもかかわらず、あいかわらず朝鮮総督府がこの地を管理し続けていたことだ。むろん、朝鮮総督府が解放後も権力を持つことができた理由は、背後に米軍の存在があったからである。朝鮮半島が東西のイデオロギーが衝突する冷戦の最前線となってから、米軍庁は南朝鮮を共産主義から守るために、朝鮮総督府の旧警務部警察庁を復活させた。帝国は解体しても、宗主国はまだ残っていたのだ。それだけではない。GHQの総司令官ダグラス・マッカーサーが、朝鮮戦争に深入りし、戦局を打開するために、日本に警察予備隊という、実質的には軍隊としか言い様がない部隊組織を作らせたが、驚くことは、この警察予備隊から朝鮮戦争に参加した日本人兵士たちがいたという事実である。仁川上陸作戦では、急造の日本軍兵士と米軍が北朝鮮軍を挟み撃ちにし撃退した。ちなみに、済州島四・三事件でも、日本人兵士が現地の騒動鎮圧に参加したという証言がある。解放された朝鮮半島で、かつての宗主国がリターンし、かつての植民地の民に銃口を向けた事実は、植民地支配とは何なのかという根本的なところを突きつける問題であろう。宗主国が撤退しても、宗主国は妖怪のようにまた舞い戻ってくる。

 

朝鮮戦争は泥沼の状態になり、ブルース・カミングスが言うように「何も生まなかった戦争」であった。しかし、戦局が激しさを増すほど、国内の締め付けがより厳しくなる。南朝鮮では、反共精神が跋扈し、かつて民衆から支持を得ていた大物の共産主義者の朴憲永や呂運享たちは行き場をなくしていく。朝鮮戦争はイデオロギー戦争であったために、南朝鮮では内戦とも言っていい、抗争が起こっていた。本書のタイトルである『Z』は、この激動の混乱期に、共産主義者を抹殺するために暗躍した朝鮮人のカミソリ男のことを刺している。解放の混乱期に暗躍したカミソリ男が実はまだ生きていたという、サスペンス仕立ての小説の構想はそれだけで面白いが、私としては、五十年以上前の南朝鮮で起こった出来事(小説『Z』の刊行は1996年)が現代的な主題にもなるという、朝鮮半島の近現代史の奥深さの方を考えこまざるをえなかった。小説『Z』もまた、松本清張『北の詩人』と同じく、親日派をテーマ性に持つ作品だが、親日という問題は韓国の国家の起源に組み込まれているのかもしれない。この建国の侵略性を、我々日本人はどのように考えたらいいのだろうか。

 

 

近年、日韓の文化交流はめざましいものがあり、日韓のドラマや映画がお互いの国で見られたり、お互いの言語を学習する人が増えていることは大変喜ばしいことだと思う。特に最近、韓国の音楽番組で放送された「韓日歌王戦」は、両国の文化交流を一層深めた感がある(1)。とはいえ、「親日派」という言葉は、韓国では相変わらず否定的な意味合いを持つ。この言葉は売国奴という含みを多分に持っているものと思われる。金泳三政権時代に、朝鮮総督府を解体し、盧武鉉政権時代に、過去清算事業の一環として「日帝強占下反民族行為真相究明に関する特別法」が制定されるなど、「親日」清算は、戦後韓国にとって大きな国家的課題だった。朝鮮半島は、三六年間、日帝の植民地に苦しみ、解放された後も、朝鮮総督府はその権限を渡そうとせず、それどころか、米軍庁とグルになって、朝鮮半島の独立を阻害さえした。もちろん、これには親日派の朝鮮人も関わっている。私は解放後の朝鮮半島の混乱ぶりを、本書『北の詩人』や、梁石日の『Z』を読んで知ったのだが、親日の問題は本当に根が深いものだと思った。

 

松本清張『北の詩人』は、親日派の朝鮮人・林和を扱った小説である。帝国日本が敗戦し、朝鮮半島が解放されたとき、林和も朝鮮人の一人として大きな喜びと誇りを感じた。しかし、林和にはひとつ引っかかることがあった。それは、林和がかつて植民地時代において日帝のイデオロギーを正当化し拡散させる文章を認めたことだった。解放後の朝鮮半島において、民族としての芸術や文学を振興したいと考えていた林和にとって、かつての親日行為に加担していた罪は自身の経歴における大きな傷だった。むろん、林和は本心から日帝のイデロオギーに共鳴していたわけではない。日帝の支配に逆らえば、牢獄に連れて行かれ拷問が待っている。ただでさえ身体的に弱い林和にとって、牢獄暮らしをすることは死を意味することであった。林和は、次のように自分の「親日」を正当化する。

誰だってあのときは仕方がなかった。肺を侵されているし、監獄に入れば死ぬに決まっていた。しかし、心から日本官憲に屈服したのではない。あれは見せかけなのだ。偽装「転向」だ。16頁。

ところで、親日派の文学者には、李光洙がある。李光洙は、民族主義者として朝鮮独立運動にも関わったが、最終的には林和と同じように、朝鮮人として日帝のイデオロギーを広める御用文学者となった。李光洙は、解放後いち早く、その親日派として過去の行為が問題にされ、反民族処罰行為法において検挙されたが、その際に放った「私は民族のために親日をしました」という言葉は有名である(774冊目『李光洙』)。そういう意味では、林和も「民族のために親日をした」と言えるのかもしれない。独立という民族の悲願が達成されるまで、この屈辱を耐え忍ぶことも立派な愛国精神ではないか、拷問されて死んだらそれまでじゃないか、そのように林和は自分に言い聞かせる。さらに、林和は次のように思索を進める。海外にいる民族運動家は、日帝の弾圧を逃れて国外に移動したに過ぎない。これも広く考えれば反民族的行為と言えるのではないか。自分も身体さえ健康なら各地を動き回って独立運動に邁進していたのだ、と。

 

四方田犬彦は、今の韓国映画に足りないのは「親日派をいかに描くことか」だという(511冊目『われらが〈無意識〉なる韓国』)。植民地時代における独立主義者の抵抗を描いた『暗殺』(2015年)、『密偵』(2016年)には、親日派が登場するが、それはあくまでも裏切りものとしての親日派であり、断罪すべき存在として描かれている。それは『北の詩人』で描かれる親日派の林和の人物像と極めて対照的である。根っからの裏切り者から、戦略的な転向者や暴力に怯え意思を挫かれた者まで親日にも様々なバリエーションがある。韓国内で、親日に関する多様な問題についてどのように議論されているか私は知らないが、少なくとも韓国映画では、李光洙、林和といった哀れむべき親日派に居場所は与えられていない。ところで、林和はまさに悲劇の主人公であった。米軍庁の進言に従い、北に渡った林和だが、過去のスパイ行為が仇となったのか、北朝鮮の米軍庁のスパイとして死刑に処されている。小説『北の詩人』の冒頭には、林和の詩が引用されている。この小説を読んで後で、この詩をもう一度読み返すと、林和の塗炭の苦しみが伝わってくる。なお、この小説『北の詩人』を読むきっかけは、アリラン・ブックトークの「『北の詩人』と林和」(5月18日)に参加したことによるゲストは、植民地文学研究者の渡辺直紀氏(武蔵大学教授)であった。

 

(1)韓国で高視聴率を記録、『日韓歌王戦』に出演した「トロット・ガールズ・ジャパン」シンガーが凱旋(田中久勝) - エキスパート - Yahoo!ニュース

(2)文化センター・アリラン公式サイト | 韓国・朝鮮の図書館。 在日韓国人・朝鮮人と日本人との出会いの場。(東京都新宿区大久保) (arirang.or.jp)