思想水脈~本を読む~

思想水脈~本を読む~

死ぬまでに1万冊の書評をめざす。たぶん、無理。

 

 

中央大学附属杉並高校(以降、中杉)の国語は、5つの大問で構成されている。1⃣漢字、2⃣資料読解、3⃣古文、4⃣要約、5⃣論説というのが、基本的な構成である。1⃣漢字問題は何度は標準だが、年度によってはだいぶ厳しいものもある。2⃣資料読解に関しては、語の係り受けや、文解釈の問題が出ることもある。古文、要約、論説はオーソドックスな出題だが、まず直近三年分の出典から確認しておこう。

 

2023年 3⃣『半日閑話』 4⃣加本宏邦「そして観光のまなざしだけが残った」 5⃣筒井清輝『人権の国家』

2024年 3⃣『北遊記』  4⃣学校作成  5⃣貫成人『哲学マップ』  

2025年 3⃣『今昔拾遺物語』  4⃣梅澤祐介『民主主義を疑ってみる』  5⃣村上陽一郎「科学教育と科学史」

 

古文に関しては、決まって江戸期の出典が採用されるのだが、これは何か意図があるのだろうか。文章自体は読みやすく、話も短いため、ここは得点源にしたいところである。4⃣の要約文は、中大杉並国語特有の問題である。本文を200字で要約するわけだが、条件として①三文で構成し、②…しかし、…つまり…の形式で書くことである。数年前までは、本文中の「しかし」という言葉を起点に前後内容を掘り起こせばよかったのだが、ここ二、三年の要約問題を見ると、傾向が変わっている。つまり、本文中の接続詞を見つけて機械的に解くのではなく、もっと文章内容の構造を理解してまとめあげる必要があるのだ。あきらかに知的レベルがワンランク上がっており、中大杉並を受験する生徒は、このことを必ず頭に置いて過去問演習をこなしていく必要があるだろう。5⃣の論説は、おそらく一番配点が大きいと思われるので、ここでの立て続けのミスは不合格の大きな要因となる。出典を見ても明らかなように、岩波新書やちくま新書といった一般書から出題されており、本文レベルで言えば難関トップ校にも引けを取らない。設問は抜き出しと選択肢が主にであり、設問と文章の対応関係や言い換え表現に丁寧に着目できれば、正当はそれほど難しくない。しかし、それはあくまでも文章を読めていればの話であり、表層的な読みではとても太刀打ちできない。

 

さて、中杉国語の合格点をクリアするためには、どういう対策が有効だろうか。まず配点の大きい5⃣論説の対策をしっかりすることが肝要だ。それなりに生硬な文章が出てくるため、過去問演習だけでは不十分で、このレベルの文章を日頃から読む訓練を積んでおくべきである。たとえば岩波新書や中公新著を一日三〇頁という具合に目安を決めて、通学時間や隙間時間を利用して勉強すればいい。4⃣要約に関しては、さきほども述べたように、近年は難度がワンランクあがっている。要約に関しては問題集の模範解答にもいい加減なものがあるから、可能であれば、信頼できる先生に添削をお願いするのがいいだろう。私も教え子に中杉を受験する子がいたので、要約だけは毎回添削をしていた。そして1⃣漢字問題は侮れない。年度によってはかなり難しいのも出る。2026年では、「多孔」の書き取り問題があった。おそらく正答者は1%くらいだろう。漢字は10問出題されるので意外と差が付く。意識的な漢字学習を取り入れていくべきである。最後に解く順番であるが、最終的に個人の判断で決めたらいいと思うが、私個人としては、1⃣漢字→3⃣古文→4⃣要約→5⃣論説→2⃣資料読解の順番がいいと思う。2⃣資料読解は設問自体がバラエティに富み、対策が立てにくし、時間がなくて焦って速読みになっても、まあどうにかなる。逆に古文や論説のような得点源の大問には充分な時間を割かねばならない。声の教育社のスーパー過去問では、推薦入試と帰国生入試の問題も載っているから、時間があればそれも解くとよかろう。

 

 

2025年に観た映画ランキング(全49作品) ★は映画館で鑑賞

 

1 洗骨 日本 2018 (素晴らしい)

2 アウトレイジ 日本 2010 (大友組壊滅)

3 東京ゴッドファーザーズ 2003 (傑作!)

4 市民捜査官ドッキ 韓国 2024 (実話というのがすごい)

5 シビル・ウォー 米国 2024 (米国で内戦勃発)

6 入国審査 スペイン 2023 (理不尽という一言に尽きる)★

7 満ち足りた家族 韓国 2023 (原題は「普通の家族」)

8 市民ルース 米国 1996 (中絶論争を嘲笑う)★

9 アウトレイジ ビヨンド 日本 2012 (ヤクザ映画の金字塔)

10 戦国自衛隊 日本 1979 (戦闘シーンの迫力)

11 サマーフィルムにのって 日本 2021 (青春映画、万歳)

12 手紙と線路と小さな奇跡 韓国 2021 (泣ける)

13 プロジェクト・サイレンス 韓国 2024 (軍用犬のパニック・ホラー)

14 連邦議会襲撃事件 米国 2021 (食い入るように観た)

15 今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は 日本 2025 (甘酸っぱい)★

16 ロボットドリームズ スペイン、フランス 2023 (ロボットの友情)★

17 宝くじの不時着 韓国 2022 (かなり笑える)

18 宝島 日本 2025 (コザ暴動の迫力)★

19 人間の境界 ポーランド 2023 (ポーランドの問題作)

20 琉麻溝十五号 台湾 2022 (白色テロの時代)

21 同意 フランス 2023 (少女の性搾取)

22 バディモン 望まれざる者 フランス 2023 (移民社会フランスの闇)

23 狂気の桜 日本 2002 (圧倒的平成感)

24 コメント部隊 韓国 2025 (記者が陰謀論にはまっていく話)

25 木の上の軍隊 日本 2025 (敗戦を知らない日本兵)★

26 ケナは韓国が嫌いで 韓国 2024 (海の向こうが天国だと思ってはいけない)★

27 パニック・ルーム 米国 2002 (犯人、意外といいひと)

28 深く青い夜 韓国 1985 (海外コリアンの苦難)

29 フィリップ ポーランド 2022 (当時の世相を知れる)

30 ゲッベルス ドイル 2024 (ナチスのプロパガンダ)★

31 ラストマイル 日本 2024 (テロを防げるか)

32 AI崩壊 日本 2020 (ハラリ『ホモ・デウス』の世界観)

33 フロントライン 日本 2025 (コロナの初期対応)

34 偶然にも最悪な少年 日本 2003 (在日映画として必見)

35 フローズン・ブレイク ロシア 2018 (極寒地獄)

36 アッテンバーグ ギリシャ 2010 (性を扱うことへのラディカルな問い)★

37 シュシュシュの娘 日本 2021 (一応、社会派映画)

38 孤独のグルメ 日本 2025 (最初のオニオンスープがうまそうだった)★

39 ある男 日本 2022 (別人でした)

40 ベテラン 凶悪犯罪捜査班 韓国 2025 (正直、期待外れ)★

41 ミニヴァー夫人 米国 1942 (中流家庭の戦争)

42 修学旅行 韓国 1968 (youtubeで観た)

43 ラブソングができるまで 米国 2007 (音楽ビジネス再考)

44 ナミビアの砂漠 日本 2024 (河合優合のおっぱいが見れる)

45 ツイスターズ 米国 2024 (普通のパニック災害映画)

46 レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ フィンランド 1989 (ザ・シュール)

47 動物界 フランス 2023 (人間の動物化を許せるか)

48 消された男 韓国 2024 (金融サスペンスはよくわからん)

49 となり町戦争 日本 2006 (くだらん)

 

 

 

 

 

職場の中学一年生の女子生徒にお勧めしてもらった本である。とにかくめちゃくちゃ売れているらしい。私が買った本書の帯には、50万部とある。本書は、第23回『このミステリーがすごい!』大賞・文庫グランプリ受賞作作品である。私は、あまりミステリ-小説を好まないので、従来のミステリーに対してここの部分がどうとか、ミステリーの定石を覆す斬新な設定みたいなこと、つまり、ミステリーの文法の話は全くできないのだけど、単純にそれなりに面白くは読めた。なにより設定に強く惹かれる。文庫本の裏表紙にある紹介文の一部をそのまま借りよう。

ヒマラヤ山中で発掘された二〇〇年前の人骨。大学院で遺伝人類学を学ぶ悠がDNA鑑定にかけると、四年前に失踪した妹のもとと一致した。

これだけでもう興味がそそられる。四年前に失踪した妹と、二〇〇年前の人骨のDNAが一致するはずがない。DNA鑑定の精度が甘かった一昔前ならいざ知らず、現在において、兆単位で人間を個々に類別できるDNA鑑定の結果は疑うべくもない。この謎解きを求心力として強力で、ストーリーに力強さを与えている。

 

さて、ここからは、いわゆるネタバレになってしまうので、以下の文章は自己責任で読んで欲しい。

 

 

 

なぜヒマラヤ山中で発掘された人骨と、失踪した妹とのDNAが一致するのか。それは、なんと妹はその人骨から作られたクローン人間だったからだ。クローン人間というのは、テーマとしてはもはや飽きられてきた感もある。それがゆえに、ミステリーの謎がクローン人間だったというのは、私としては虚をつかれた思いだった。クローン人間を扱った映画や小説は、数多くある。スカーレット・ヨハンソン主演の『アイランド』(米国 2005)は、臓器移植の材料のためだけに生産されていたクローン人間が自我に目覚め、巨大な陰謀に抗うという映画だ。クローン人間を主題とした映画は、クローン人間が人間になろうとしてなれない悲劇を扱ったものが多い。小説『一次元の挿し木』も、クローン人間が人間になろうとするところにすべての悲劇は始まっている。

 

クローン人間は、どうやら技術的には可能らしい。しかし、現状ではその製造は法的には禁止されている。日本では「クローン技術規制法」が2001年に施行されているし、欧州では1998年に国際法として明確に禁じている(オビエド条約)。生命の誕生とはある種、人知でどうすることもできない次元であり、これを人間の手でコントロールできるようになることは、人類史のなかでも未曾有の大事態になるので、技術的には可能でも、実施すべきではないという判断は正しい。それと同時に私が思うことは、クローン技術の誕生は、人間の知能が臨界点にまで達したことを意味し、それはハラリの言うように、人間の退場でもある(1006冊目『ホモ・デウス 上』)。人間の退場を象徴するクローン人間を描いた映画が、人間になりきれない悲劇を描いていることは、実に意味深長ではないだろうか。

 

 

 

 

作家乗代雄介の書評集である。ここ最近、乗代の作品をずっと読んできた。乗代は大学生時代に、とことん文学を読むために休学したくらいに本の虫なのだが、この圧倒的な読書量をもって、乗代の作品は作られている。ところで、乗代はどんな本を読んでいるのだろう。私もこんなブログを運営するくらいだから、まあ読書家に分類される方だと思うが、この書評で乗代が紹介している本で私が読んだことがあるものは一冊とてなかった。まあ、本というのは人生を千周くらいしても読んでない本の方が圧倒的に多いわけだから、別に驚くことでもないが、私とほとんど年齢の変わらない乗代の読書量に恐れ入った。

 

乗代は小説ばかり読んでいるのかと思いきや、『ナチを欺いた死体』、『自然な構造体』、『声と日本人』といった歴史もの、自然科学的な本を読んでおり、かなり幅広い。私は、自分が読んだことがない本の書評は、全く興味が沸かないので、乗代の書いた文章はほとんど斜め読みだが、それでも感心したのは、乗代の読むことへの傾倒である。一般に、文章が素晴らしいとか、リズミカルな文体といった褒め言葉があるように、書かれたものに対しては称賛が贈られることがある。私自身、この人の文章は素晴らしいなと思う作家は何人もいる。一方で、読むことは書くことに比べて嫉妬されることは滅多にない。

 

もちろん、読みの鋭さや深さに舌を巻く識者はいるのだが、乗代の場合、ただ言葉を愛するものとしての読むことが実践されている。新自由主義が蔓延るコスパの時代のなかで、読むことが少しずつおかしくなり始めている。速読やビジネス書が流行り、読むことが素早く情報を取り入れるだけの浅薄な行為になりさがっている。じっくり考えながら読む、時間をかけて読む、そういったことがなかなか出来にくくなっている。乗代の書評を読んで思うのは、読むということは、ひとつひとつの言葉を愛しながら、その言葉がもたらす愉悦や異和を堪能することではないだろうか。

 

たとえば、味わい深い文章を手書きで書いたり、ワープロで書いたりすることを「楽しかった」(173頁)と表現する乗代にとって、言葉は単に意味を受け取るだけのものでは決してない。ことばを受け取ることは、享楽であり、精神的な喜びである。私は、乗代の文章自体も好きなのだけど、何より、乗代の読むことへの嫉妬が勝った。自分もこのように言葉にもっとのめりこんで、愛でるように言葉を受け取りたい。もっともっと言葉を読めるようになりたい。そんなことを思わせてくれる書評集である。

 

 

私には、姉がいる。三つ上である。私が1、2歳の頃は、わずか三つ上でしかない姉がよく面倒を見てくれたそうだ。そういうわけで、私が姉っこになるのは必然だった。どこに行くにしても、何をやるにしても、姉が指針になる。家に両親がいなくても、姉がいれば安心であり、姉がいなければ死ぬほど不安になる。私はまったく覚えていないが、保育園生くらいのときに、姉と映画館に行き、「お姉ちゃんはトイレに行ってくるから、絶対にどこにも行かないで」と言われたのに、姉の不在に一分も耐えきれず、姉を探しに出かけ、結果、迷子になって泣いていたということもあったそうだ。とにかく、私は姉なしでは生きていけず、姉を追いかけるようにして生きてきたと言っていい。

 

そんな事情もあってか、姉と弟が登場する小説や映画にいつも感涙してしまうのである。二つだけ紹介しておく。近所の図書館で鑑賞した『ユー・キャン・カウント・オン・ミー』(米国、2000)は素晴らしい作品だった。しっかり者ではあるのだが、ふらふらして定職にもつかない弟が、放浪生活の果てに地元に帰ってくる。一時的に姉の家に居候し、姉の息子と交遊しながら心温まる時間を過ごす。弟はまたこの街を出て行くが、その別れ際、心配する姉が「ほんと、あなたはどうなっちゃうのよ」と言うセリフが、自分のことを言われているようで、私自身の姉を思い出してしまう。『手紙と線路の小さな奇跡』(韓国 2022)も、弟を思う姉の姿に胸を打たれる良作だ。一応、キャストだけ紹介しておこう。以下の通りである。

 

『ユー・キャン・カウント・オン・ミー』(米国 2000)

姉 ローラ・リニー

弟 マーク・ラファロ

 

『手紙と線路の小さな奇跡』(韓国 2022)

姉 イ・スギョン

弟 パク・ジョンミン

 

さて、小説『二十四五』は、姉が弟の結婚式に出席するために仙台に降り立つところから始まる。この小説は、とりたてての姉弟のハートウォーミングな話が綴られているわけではないのだが、遊園地で親とはぐれてしまった話などは、先ほど述べたような私の映画館での体験談と似たような話でやはり微笑ましい。姉と弟だけが知る秘密の物語として味わい深い。親を探す姉、姉について来るしかない弟。わんわん泣く弟の手に持っているぶどうジュースは、とうとう家まで持ち帰られた。なんてことない話である。おそらく、姉がいたり、弟がいたりする人であれば、似たような経験は誰でもあるだろう。その姉弟にしか分からない秘密の物語を、こうして小説にしてくれるのはありがたい。


 

 

 

 

付録の「生き方の問題」がとにかく良かった。いとこ同士の恋みたいな話を描いたものだ。主人公の祥は、二個上のいとこの女性が気になっている。いとこの姉は、豊満な胸をもち、高校生でグラビアデビューを果たしている。幼少期には性の匂いなど微塵も感じさせなかったいとこが成長するにつれ、胸の膨らみやふとした仕草に性的魅力を感じることがたしかにある。はたして、これは恋なのだろうか。ある日、祥は、いとこの姉から直接、いとこの水着姿のDVDを渡される。祥はひそかに自分の部屋でその動画を見て自慰にふける。祥の頭の中は、いとこの姉の身体的魅力でいっぱいだ。

 

そんないとこの姉だが、グラビアとして鳴かず飛ばずで、早々と結婚出産を経験したが、いまでは離婚して、足利の実家に帰っている。そんな折、祥は久しぶりにいとこの姉から連絡が来て、会うことになる。久しぶりに会った従姉妹同士のぎこちなさもなく、いとこの姉は祥に気さくに話かけ、一緒に山に登ることを誘う。もちろん、祥は承諾する。山を散歩してる途中で、二人が茂みに隠れてまぐわうシーンがあるが、ここの場面がまあすごい。言ってしまえば、めちゃくちゃエロい。描写のひとつひとつにセックスの汗臭さを感じるくらいにそそられる。そこらへんのAVよりもよっぽど興奮する。

 

さて、そういう意味で二人はめでたく(?)結ばれたように感じるのだが、いとこ同士は恋愛対象になりうるのだろうか。むろん、なりうる。好きになってしまえば従姉妹だろうがどうだろうが関係ない。それどころか、法律的にもいとこ同士は結婚できる。何の問題もない。ちなみに菅直人元首相は、いとこの女性と結婚した。とはいえ、いとこ同士の結婚はいろいろと問題がありそうだ。たとえば、もし離婚した場合、通常なら夫婦は赤の他人になるが、いとこ関係までは解消できない。親族の結婚式や葬式では顔を合わせることになる。これは気まずい。


そもそも、いとこ同士でどうやって恋愛にまで発展していくのだろう。普通、恋愛とは気がつけば好きになってるという場合が多く、この人を好きになろうという決意からは愛情は芽生えない。いとこの場合、幼少時から付き合いがあるわけで、この「気づけば」という段階はとっくに過ぎている。とすれば、残るは性的な魅力しかない。実際、祥はあきらかに2個上のいとこの身体的な魅力に惹かれている。性への衝動は、人間が作った「いとこ」などというフィクションを簡単に突き破るだろう。いとこの恋愛、結婚は興味深い。是非、当事者に話を聞いてみたい。

 

 

間氷という、きわめて珍しい苗字の主人公は、大叔父を老人施設に入れるために途中まで同行する役目を任されている。移動の新幹線のなかで彼が気になっていたのは、とある噂である。なんでも大叔父は、川端康成と手紙のやりとりをしたことがあるというのだ。川端康成といえば、文豪という形容するだけでは物足りないほどの大作家であり、言わずもがな、日本人初のノーベル文学賞受賞者である。そんな川端と大叔父が手紙のやりとりをしていたなんて、到底にわかには信じられない。「老害」などという、汚い言葉は使いたくないが、老いに足を踏み入れたものが抱くような肥大化した自己意識から出てくる法螺話の可能性もある。しかし、もし事実だったら...少しばかりの興奮を味わいながら、間氷は大叔父がいつ川端からもらった手紙の話を始めるのか、気を揉んでいた。

 

道中の新幹線の中で、奇妙な中年男性を相席する。ひょんなことから、この中年男性の文学談義に花が咲き、間氷はその逞しい文学に関する造形に圧倒される。そもそも並の知識ではない。雑誌に掲載されただけの、誰も知らないような太宰治の文章を難なく諳んじているような男である。驚愕よりも、畏敬の方が先に来る。そもそも間氷自身も大変な読書家である。中年男性が読んでいる本を、ハードカバーのデザインだけで当てることもできる。それに間氷は読書家としてのプライドもある。「死ぬ危険のないことに命を賭したつもりで甘美で不穏な時間を過ごしたり過ごさなかったりするような行為の詳細をむざむざ開陳できる恥知らずの読書家を、わたしは世の中に認めるつもりはない」(22頁)。これほどまでに読書に矜持を持っているひとを私は知らない。そんな主人公にとって、目の前の中年男性は脅威の存在である。

 

と、まあこれがこの小説のあらすじで、肝心の大叔父と川端康成との関係もどうやら本当らしいということに話が収まっていく。それどころか、大叔父は川端のゴーストライターであった可能性が高い。というのも、川端に『片腕』という作品があるが、この作品が完結したのは1964年1月だが、前年の4月に、実は大叔父の日記には『片腕』の冒頭文が書かれいたのだ。これは文学上の事件である。しかし、私は、この川端の件にはたいして感銘を受けなかった。やはり、この小説の醍醐味は、間氷という若者と、中年男性との、読書としてのプライドをかけた文学格闘にある。この二人のやりとりは、文学についての多くの問いが含まれている。たとえば、「読者家にとって、書くことも必要か」、「読者家とは、多くの名文を諳んじている人のことなのか」、「読者とは、オリジナルに敬意を持つべきか」といった類いだ。はたして、読者家とは、どういう人なのか。

 

「若者の読書離れ」というのは昔から言われてきたテーマだが、これはもはや若者に限らず、全世代に及んでいる。月にたったの一冊も本を読まないひとの割合はおよそ6割だということだ(1)。私は、月に5~10冊くらい読書しているが、月に7冊くらい読んでれば、日本人の上位2%には入るらしい。とはいえ、多読をしているからといって、人間的にランクがあがるわけではないし、そんな高慢な考えを身につけてしまうくらいなら本など読まない方がいい。私にとって読書とは、常に「未知の発見に驚きたいという衝動」と「おのれの卑小を知る」ことにある。だから私にとって、本を読むということは常に考え続けることであるし、読書家とは常に考える人のことだと思っている。相手のマウントを取るための読書なんてむなしいだけだ。なんでも「答え」を手っ取り早く手に入れたいコスパの風潮が強い時代において、読書家であることは覚悟の問題でもある。

 

(1)「月に1冊も本読まない」が6割超:進む読書離れ―文化庁調査 | nippon.com

 

 

 

小説「十七八より」は、第58回群像新人文学賞受賞作であり、作家乗代雄介のデビュー作でもある。非常に不可解な話の連続で、読めば読むほど迷宮に入っていくような作品である。選評の言葉として、「文学は、あるいは、小説という試みは、ついに掴むことのできない秘密を追い求めることばの運動であることを、この作品は教えてくれるのである」(高橋源一郎)だったり、「言語からはまじめに受け取るべきものは何もない、世界は表層のゆらぎに過ぎない、解くべき真の謎など存在しない、という埒もないメッセージだ」(辻原登)というものがあったりする。たしかに、物語の結末や構造がそもそもあるのかどうかも分からない作品を評するとしたら、作者の言語遊戯に触れるしかない。言葉による異化作用。既存の意味の秩序を揺るがし、組み替えていく営みは、たしかに文学の醍醐味である。

 

とはいえ、難解な作品に出会ったときに、意味に固執するな、あるのは言語の戯れがあるだけだというのは、批評の言葉としてはどうも陳腐になっているように思うし、もはやテンプレだ。そもそも、選評の高橋源一郎と辻原登は全く同じことを言っているのであり、このことは純文学を評するときの批評の解像度の浅さを物語っているのではないだろうか。言ってしまえば、「言葉の律動」のようなタームは、誰にでも言えるものでもあり、その作品の固有性を捉えきれていないのではないか。これは文芸評論が今後取り組むべき課題だろう。とにかく、わけの分からない、奇をてらった作品が書かれた場合に、言葉の異化作用について何か言えば、とりあえず批評したことになるし、〈解釈〉の労力から逃れられるので、楽ではある。しかし、言葉の律動に注目するにしても、それが成功しているのか失敗しているのかは問われなければならない問題のはずで、そうした批評が求められているはずなのだ。

 

たとえば、私は小説『十七八より』は、「意味なんてない小説」と言っていいのかどうか大変疑問である。文学研究のイロハとして、作者とテクストは別物だということは誰もが知っている。テクストがテクストとして成立したその瞬間から、作者の意図から離れ、テクストは自由な解釈にさらされる。しかし、作者の意図から解放されたとしても、意味から解放されたわけではない。たとえ、言葉の異化作用に粉飾されたテクストでも、作者のその意図に気づかなければならないし(1)、その言語遊戯が成功しているのか失敗しているのかはもっと問わなければならない。私たちは、テクストに内在する一定の秩序を信じないで、言葉の律動の妙味だけを取り出すことはできないのだ。やはり、テクストが一冊という装丁を身にまとう以上、そこには作者が作品をしっかりコントロールできているのかという次元を無視することはできない。

 

私が思うに、読む者を唸らせる純文学には秩序がある。私は実は小説はわりあいエンタメ寄りで読みたい派なので、純文学は好んで読むことはあまりない。しかし、例えば高山羽根子の作品を読んで、なるほど純文学とはこういうものかもしれないと思った。高山羽根子の小説は、出征して帰国した夫が別人だったとか(485冊目『如何様』)、祖父の死をきっかけに台湾をめぐる話だとか(939冊目『パレードのシステム』)、日常を異化する不思議な体験をベースに、心が落ち着くようなテイストも用意されている。これは私の小説観を一変させるくらいの読書体験だった。高山羽根子の作品は、言葉の律動と作品世界が作者によって手懐けられ、きちんとコントロールできている作品である。一方で、乗代雄介の本作については、作者が作品を統御できず、不可解さが放置され、意味が暴れている。もちろん、小説とは不可解さを突きつけることが重要な任務であると思うし、第一、私も含めて読者がそう賢いわけでもない。ただ、だからといって、よく分からない小説を「意味のないのが小説」「言語遊戯だ」と条件反射的に言ってしまうのは、何も読んでないことにならないだろうか。こういう小説を語るための言葉がもっと出てこなければならない。

 

(1)辻原登は、「作者の目的が言語遊戯にある」と言ってしまっている。

 

 

 

 

森田まさのりの『ルーキーズ』は、不良高校生が甲子園を目指す漫画として幅広く読まれ、ドラマ化までされた。『ルーキーズ』は、喧嘩っ早い不良たちがわんさか登場する野郎漫画なのだが、その中で紅一点と輝くヒロインが、雨宮という女性マネージャーである。雨宮は、エース安仁屋と幼なじみで、どうやらお互いに好意を寄せているような描きぶりだが、ストーリー上では、この二人は恋愛関係には発展しない。さて、この漫画のなかで極めて興味深い場面がある。それは、雨宮が、不良男子の戯れを見て、「男子の友情っていいな」と言う場面である。そのとき、私が思ったのは、男子の友情と女子の友情に優劣があるのだろうか、ということだったし、そもそも男女で友情に違いがあるのだろうか、ということも疑問に思った。

 

戸谷洋志の『友情を哲学する』(947冊目)は、女子の友情について興味深いことが書かれている。女子の友情の特徴として、相手に対して、「あなたが好き」ということをはっきり言うことが挙げられる。たしかに言われてみれば、男同士で「お前、かっこいいな」「オレはお前、好きだぜ」というようなことはまず言わないし、そういうことを言う男子は気色悪いと思われる。しかし、女子は相手へに好意をあることを言語化する。つまり、女子同士の友情は内面を語ることを重視するのである。さらには、「互いの相違点を理解し合おうとする相互理解活動や、仲が良いことを確認しようとする親密確認行動」(前掲書、167頁)を取ることも女子の友情に特徴である。

 

実は、私は女子の友情を羨ましいなと思うことがよくある。男子が友人相手に赤裸々な感情を披瀝することはまずない。本音やありのままの感情を吐露することは男子としてあまりにも弱々しく、男子としての沽券にかかわるのだ。だから、大切なひとが死んだ時、女子は感情のままに泣くことを許されるが、男子は口を真一文字にぐっと込み上げる感情を押さえつけねばならない。こうした男子の規範は制度であり、フィクションである。しかし、そのフィクションを通して、男らしさを演出して、既存のジェンダー秩序を強化してきたのだ。その意味では、

女子のおしゃべりは、この男らしさのこの規範を骨抜きにし、人間関係のひとつの可能性を開いている。そこが、私には羨ましいのだ。


パパが嫌な「パパイヤ」とママが嫌な「ママイヤ」の、二人の女子高生が登場する小説である。この小説はほとんど二人の女子高生がただしゃべっているだけの小説である。これが男子二人のトークティブなら話なら小説にならない。女子のおしゃべりだなら意味があるのだ。塾講師の仕事をしていて、好きな光景は女子中学生たちの談笑である。話の内容までは聞き耳を立てないが(実際、たいした話ではないだろう)、ただ話をしているその行為自体が尊い

。お互いを励まし合いながら、自身の内面を率直にさらけ出す。男子には到底できないコミュニティーである。他愛のない女子グループの談笑が聞こえるとき、私は思わず「女子の友情っていいな」と呟く。

 


 

 

第三部は、漱石が英国留学から帰国してから、朝日新聞入社までを扱っている。漱石がイギリスから帰国したのは明治35年(1902年)12月であり、朝日新聞入社は明治40年(1907)である。この間に漱石は実に多くの作品を発表している。雑誌『ホトトギス』に「吾輩は猫である」を連載したのが、明治38年(1905年)1月であり、ものの数日でほぼ推敲なしに書き上げた「坊っちゃん」の発表が明治39年(1906年)4月である。『猫』と『坊っちゃん』は、作品のテイスト的にも全く毛色が違う作品であるが、漱石は、この『猫』と『坊っちゃん』のあいだに、実に多くの短編を発表しており、しかも英雄譚やらロマンス、はたまた思索的、ユーモアといったジャンルにも富んでいる。漱石は、さまざまなジャンルを書き分けたのはこの時期しかなく、私はこれを「明治38年」問題と名付けた(958冊目『倫敦塔・幻影の盾』)。

 

その前に、明治35年から明治40年という時代がどういう時代だったのかを確認しておこう。1902年に日英同盟が締結され、官民挙げて日本中が熱狂したが、漱石は冷ややかな目で見ていた。そして、1904年に日露戦争が起こる。朝鮮半島の支配をめぐり、日ロが一戦を交えるのは時間の問題だったが、日本は、同盟関係にあるイギリスから戦費調達などの支援を受けて、この大戦に勝利し、アジアの一等国に躍り出ることになる。そして歴史学的に注目すべきは、この日露戦争のときに、日本人の「国民化」が成立したということだ(957冊目『日本の歴史21 明治人の力量』)。こうした時代状況であったことを踏まえて、改めて漱石の作品を読解していくと、いろいろなことが見えてくる。

 

先述の通り、日露戦争のときに「国民化」が成立した。「国民化」とは言い換えれば、ナショナリズムであり、その原理は、「同一性」である。国民化という装置がうまく機能するためには、強力な権力をもった審級が存在しなければならない。国民国家を成立させた国は、例外なく中央集権を原理とした政治体制を執っている。国民国家の権力は、北海道にいる者も、沖縄にいる者も、若い者も、老いた者、富める者も、貧しい者も、みな同じ同胞として抱え込む精神の作用を通して「国民」を成立させる一方で、国民にそぐわない人間を「異物」として排除する。この国民国家による国民/非国民の分割は、言うまでもなく虚構であり、時代状況によっていくらでも可変する恣意的なものである。現今のダイバーシティと呼ばれるさまざまな問題は、ほとんどがこの分割から生まれてくる社会的な問題である。

 

しかし、おそらく漱石は、国民として内側に抱え込まれたものたちに悲哀の目を注いでいると私は思う。内側に囲い込まれた国民もまた、国民たらねばならないという負荷の中で生きていくことになる。ナショナリズムが強烈に発揮される戦争の時代であれば、勝利に歓喜し、勇士の凱旋に涙を流すのが「国民」の証だ。この時期の漱石の戦争に対する態度は分からないことが多いが、少なくとも反戦を唱える人間ではなかったらしい。それどころか、明治38年の雑誌の取材では、「軍人がえらいと思う」などと言っている(75頁)。とはいえ、漱石は、国民の物語に飲み込まれてしまうことは警戒していたことは間違いない。明治39年発表の「趣味の遺伝」では、漱石にしては珍しく、戦場の臨場感が描かれている小説である。しかし、小説の中盤からは、戦死した知人とその知人の墓を訪れる謎の女との関係を探っていくという話になっている。また息子に先立たれた母の胸中についても漱石は書くことを忘れていない。ナショナリズムが炸裂する時代においても、ひとりひとりの物語が私たちを動かしている。国民化が成立するなかで、固有の生の問題を描き続けたことは、この時代に生きた漱石なりの抵抗であったように思える。