自分でもなぜか分からないが、ここ最近ずっとデカルトを読んできた。一体なぜデカルトなのか。現在、デカルトを読む意味がどれだけあると言うのだろうか。そんな疑問を常に抱きながら、デカルトのテキストに向き合った。今回読んだのは、『省察』である。デカルトといえば、まっさきに思い浮かぶのが『方法序説』である(814冊目)。『方法序説』はデカルトの思想がコンパクトにまとめられた書物であり、「我思う。ゆえに我あり」という有名な言葉もこの本の中に出てくる。しかし、『方法序説』は入門書という性格上、どうしてもデカルトの思想の微妙で複雑な部分をそぎ落としてしまっている。だから、デカルトが何を考えていたのかをもう少し細かく知ろうとするなら、『省察』は避けては通れない。『省察』は、『方法序説』以上に言葉を費やして、精神と身体の関係、物体の性質、そして神の存在証明が丁寧に書かれている。さらには、以前の記事でも指摘したが、この書物には、「反論と分析」という、自説への反論まで載せている(898冊目『デカルト伝』)。とはいえ、ここでは「反論と分析」について取り上げるのは止めておこう。本来であれば、「反論と答弁」までじっくり分析した上で、デカルト思想を体系立てるべきであろうが、それは私の手に余る。デカルト=ホッブズ論争はわりと興味深いものではあるものの、ここでは、あくまで『省察』本文だけを取り上げることにしたい。
デカルトを読んだことがない人でも、「我思う。ゆえに我あり」がデカルトの言葉だということは知っている。より詳しい人なら、デカルトは方法的懐疑を通して、絶対に疑えない存在として「絶対確実な私」を取り出し、主観性哲学を切り開いたということも知っているかもしれない。実際、デカルトの哲学は近代に大きな影響を与えたとされており、たとえば、『方法序説』の岩波文庫の解説(谷川多佳子)では、次のように書かれている。
考えるわたし、近代の意識や理性の原型、精神と物質(身体)、あるいは主体と客体の二元論、数学をモデルとする方法、自然研究の発展……。デカルト主義は近代合理思想の中心原理となっていった。
私たちは、近代に影響を与えたという観点から、「考える私」の哲学的意義をデカルト思想から取り出そうとするが、しかし、この「我思う。ゆえに我あり」という命題は、デカルト思想の出発点であって、決して着地点ではない。私たちは、「我思う。ゆえに我あり」という奇抜な思考実験に注目するあまり、どうもデカルトの思想をつまみ食い的に消費している節がある。ここはもう少しデカルト思想の全貌を見ていこう。デカルトは『方法序説』で、哲学の原理を確立させるために、ありとあらゆるものを疑う方法的懐疑を実行したことを記しているが、『省察』にも同じような記述がある。「懸案の私の意見の全面的転覆に乗り出そう」(第一省察)。この方法的懐疑が第一省察に置かれていることからもわかる通り、デカルトにとって、疑うことはまず思考の出発点なのである。そして、『方法序説』と同じく、コギト・エルゴ・スムの命題が顔を出す。ただし、ここでは「われあり、われ存在す」(第二省察)という言い方で出てくる。ここで、デカルトが「絶対確実な私」を導くまでの理路を整理しておこう。デカルトは「全面的転覆」と言ったように、文字通りありとあらゆることを疑った。学問も習慣も常識も全て疑わしい。そもそも今が現実なのか夢なのかも分からない。しかし、ありとあらゆることを疑ったあとで、どうしても決して疑いえないあるものが残る。それが、「考える私」である。私は夢を見ているのかもしれないし、極端なことを言えば、そもそも存在すらしていないのかもしれないが、それでも、そのように存在の否定を考えている私自身まで疑うことはできない。スピノザはこう書いている。「彼が欺かれると想定しても、欺かれる限りにおいて彼が存在することは容認されねばならぬからである」(『デカルトの哲学原理』岩波文庫、25頁)。だから、「考える私」は絶対に疑いえないのだ。これがデカルトの論理だ。
デカルトが、このように思惟の力を取り出したとき、考えるという理性の働きは人間の存在条件となった。実際、デカルトは、人間と動物を分かつ根拠を、理性の有無に求めている(『方法序説』)。ところで、デカルトのいう理性とは何だろう。『方法序説』では、理性の具体的な中身についてそれほど詳述されていないが、『省察』では、思惟することが、想像することや感覚することとは違う、極めて独自な精神領域であることを詳しく語っている。その象徴的な例が、蜜蠟の議論である(第二省察)。目の前に蜜蠟がある。この蜜蠟は蜜の味をもっており、香りもほどよく匂い、色、形、大きさもはっかりと分かり、そして触れば硬さも確認できる。しかし、その蜜蠟に火を近づける。蜜蠟はやがて溶け出し、味や香りは消え、形は崩れるだろう。先ほど見た蜜蠟とは全く違う物体がそこにある。そこでデカルトは言う。この物体はさきほどの蜜蠟と同じ蜜蠟だろうか、と。そして、デカルトの答えは、勿論そうだ、というものだ。たしかにそうかもしれない。たとえば、知人が亡くなり、火葬されたとき、骨になった知人を以前とは別の何かだと思う人はいないだろう。では、さっきの蜜蠟と、火にくべられもはや原形をとどめていない物体を同じ蜜蠟と判断できるのは、なぜだろうか。もう、お分かりだろう。そう、その判断を担うのが思惟する力(精神)の役割だとデカルトは言うのだ。感覚も想像力もあてにならない。この思惟する力こそ、人間に平等に割り与えられた良識であり、真理への道しるべとなるものなのだ。さて、デカルトの議論が本格化するのはここからである。実はデカルトはここから神の存在証明への導くのだ。デカルトの理路はこうである。人間には思惟する力がある→その中で完全性の観念を持つことができる→人間自身は不完全だから、この完全性は外部から与えられたに違いない→神は存在する、という理屈だ(第三省察)。この論証は本当はもう少し議論が複雑だが、興味がある人は『デカルト入門講義』(冨田恭彦 ちくま学芸文庫)を参照されたい(813冊目)。
ところで、神は完全性な存在であり、完全性の観念を人間に与えることができるのに、人間がしばしば間違った認識や判断をしてしまうのはなぜなのか。神は完全な存在であり、人間に過誤を与えないことはデカルトも繰り返し述べている。それでは、なぜ人間はしばしば間違うのだろうか。デカルトによれば、それは人間に意志があることによって、しばしば間違いを起こすのだ。
私の過誤はどこから生まれるのであろうか。思うに、意志は知性よりもいっそう広い射程を有するものであるために、私が意志を、[知性と]と同じ限界のうちに引き留めずして、また私の和解していないものにまでも拡げる、というこの一事から、である。(第四省察)
この場合、知性は理性と言い換えてもよい。『方法序説』でも述べられているように、理性はすべての人間に平等に割り当てられている。これは理性はアプリオリであるということを意味する。一方で、意志とはアポステリオリなものであり、この理性と意志の落差が、私たち人間の過誤の原因になる。逆に言えば、意志を常に理性に合わせることができれば、私たちは決して間違うことはない、ということになる。さて、ここまで『省察』の内容を追ってきたことからも分かる通り、デカルトの「我思う。ゆえに我あり」はデカルト思想の出発点であり、絶対確実な私を起点として、神の存在証明へと導くところにこそ、デカルトの主張の力点がある。
さて、二〇二四年の現在、デカルトを読む意味がどれだけあると言うのだろうか。船木亨は、ダーウィンの進化論が現代思想の始まりだった位置づける(『現代思想史入門』ちくま新書)。ダーウィンの進化論は、人間も生物的存在に過ぎないことを示し、人間の歴史を生物学の歴史として書き直す契機となった。進化論の観点からみれば、人間の精神というのは何も特別なものではない。ヒトという種の進化の上で生存上有利に働くように生じた物質的な現象であり、その意味では他種生命体が生存上、進化していく現象と何ら変わりがない。ダーウィンの進化論は、それまで哲学の世界で自明視されていた人間精神の存在意義を根本から揺さぶったものである。現代思想は、この人間精神の退場を宣告されたときに、いかにして思想は可能となるのかという問いに根本的に向き合ったことから防波堤的に生まれてきた思想の営みである。そして、実際、人間精神を根底から揺さぶる問いはたて続けに出てきている。ジョン・サールの「中国語の部屋」は、我々の扱う言葉が、実はアルゴリズム的な数理処理と全く変わらない原理で機能している可能性を示唆している。「意味を理解する」というコミュニケーションの根本においても、私たちは人間であることから弾き出されようとしているのだ。シンギュラリティーの到来も、このような観点から考えねばならないだろう。とはいえ、いくら生物学的な知見やシンギュラリティーを持ち出していたところで、私たちはどこかで人間の思惟する力の固有性を求めているのではないか。たとえば、近い将来、ロボットは文章をかなりの精度で正確に読解する日が来ることだろう。しかし、自分の関心に従って読むという行為はロボットにはできないのではないか。ここに、やはり人間が思惟する意義がある。いや、もしかしたら、ロボットもまた自分の関心にしたがって読書をするようになるかもしれない。その場合、私たちは思惟する力が人間固有の力ではなくなったことを嘆くべきだろうか、それともロボットが人間になったことを喜ぶべきだろうか。現在、AIによって人間の能力がどんどん代替されることで、人間固有の能力とは何なのかということが逆に問われている時代である。オムッカの剃刀式に引き算的発想でそぎ落とされた、「残りのもの」の正体は一体何なのか。デカルトの思想の跡を追うことは、この「残りのもの」に接近するヒントを与えてくれるだろう。デカルトを読むということは、この精神の危機の時代において、人間とは何かを考えるアクチュアルな試みである。