727冊目『済州島 四・三事件』(文京洙 岩波現代文庫) | 図書礼賛!

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先日、早稲田松竹で『スープとイデオロギー』(ヤン・ヨンヒ監督)を観てきた。この映画は、ヤン・ヨンヒ監督が自らのオモニ(母)の半生を主題に据えたノンフィクションである。大日本帝国時代に生を受けたオモニは、帝国市民として大阪の地に生まれた。戦局が厳しくなり、空襲が激しさを増すなかで、オモニは済州島へ避難することに決める。しかし、そこでオモニに待っていたのは想像を絶する体験だった。済州島四・三事件。韓国現代史最大のタブーともいわれるこの事件は、牧歌的な済州島の雰囲気に全く似合わない、殺戮の歴史である。映画冒頭で語られるオモニが目撃した殺戮の現場である朝正は、もっとも多くの犠牲者を出した場所だ。村は焼き尽くされ、洞窟に逃げた住民も見つかれば銃殺された。「校庭で多くの人間が銃殺された」というオモニの証言は、おそらく次の場面を指していると思われる。「武装軍人が村に火を放ち、村人全員(一〇〇〇人余り)が、北村国民学校の運動場に集められた。運動場では、まず、歩哨が不十分だったとの理由で民保団の責任者が即決処分にされた。運動場は瞬く間にパニックとなった。軍人たちは、数十名ずつ住民たちを近くの畑に連行して射殺し始めた」(133頁)。玄基栄『順伊おばさん』では、そのときの場面を生々しい描写で描いている。本書では討伐隊によるおぞましい虐殺の証言が数多く採用されているが、しかし、狂気としかいいようがない、この殺戮行為に至る経緯は何だったのか。

 

原子爆弾を二発落とされ、ソ連が日ソ中立条約を破棄して侵攻してきたことで、大日本帝国は降伏をした。帝国の解体は同時に、植民地の解放でもあった。しかし、朝鮮半島の悲劇は、日本という宗主国が退いた後でも、米ソによる分割占領が行なわれたことである。朝鮮半島は、冷戦の最前線として常に緊張状態を孕むようになった。そんななか、南では、李承晩が大統領の単独選挙を強行しようとしていた。もしこの選挙が実行されれば、分断が決定的になり、悲願の半島統一が叶わくなってしまう。済州島では、五・一〇単独選挙の阻止に向けて、四月三日に左翼勢力の武装蜂起が起った。済州島の左翼勢力を中心に構成された武装隊は山に籠りながら、陸地から派遣される討伐隊と抗戦することになる。途中、討伐に差し向けられる予定だった駐屯部隊の反乱(麗水・順天事件)が起こったものの、一か月にも及ぶ陸海軍の手段を択ばぬ凄まじい鎮圧作戦は、武装隊を追いつめ、非力化した。この武装蜂起が北朝鮮と共振する共産主義運動であったことは間違いなく、紛れもなく、イデオロギー戦争であった。イデオロギー戦争であるゆえに、戦局は敵の殲滅へと傾く。軍、警察は当初、焦土化作戦を断行しており、村々を次々と放火し、「代殺」も行うなど、そのやり方は虐殺そのものだった。代殺とは、戸籍に照らして青年がいない家族を、息子が山に入った「逃避者家族」だとして敵認定し、代わりに両親や妻子を殺害することで(125頁)、軍、警察の標的はもはや武装隊だけに限定されず、済州島人民がいつでも虐殺の対象になりえた。実際、犠牲者には子供や老人も多く含まれる。

 

結果的に、済州島は五・一〇単独選挙が全国で唯一行われない地区となってしまった。済州島での1954年まで武力衝突と鎮圧は続いたが、これほど長きに渡って騒擾事態が続いていたのは、これがまさに冷戦そのものであったからである。済州島四・三事件は、二大強国の米ソの代理戦争であった。実際、済州島での反乱の鎮圧を任されたのは、米軍事顧問官ハウスマンであり、その強行な鎮圧過程で多くの無辜な島民が犠牲になっている。ちなみ、韓国は現在でも有事の際の指揮権は米軍が持っており、米軍政の桎梏は韓国現代史の理解に欠かせないものとなっている。鎮圧の過程で、西北青年会と呼ばれる反共右翼団体が、赤狩りを名目に無差別殺戮を行い、住民に心底の恐怖を味わせたが、一方で、ハルラ山に入山した左翼の武装隊の方でも、島の警察署や、親族に警察官がいる島民家族への襲撃を繰り返し、後には武装隊に非協力的な村に無差別攻撃を行うなど、多くの犠牲者を出した。島民にとって安全な場所はもはやどこにも存在しなかった。普通の人々でも、アカ、反動分子だと認定されて殺戮された。極限状態においては常に敵か味方の判断を迫られたのでり、中立という真空地帯は事実上、存在しなかった。「済州の若者たちは、山に入るか、警察・警備隊・右翼などになって軍政の手先になるか、それともこの地を捨て日本などに逃れるか、三つのうちのどれかを選ばざるを得なくなっていた」、「左翼(山)につくか、右翼(軍政)につくかは、イデオロギーの問題よりも、生き残るための方便ともなっていた」(85頁)。映画『スープとイデオロギー』でも、イデオロギーから離れた選択はなかった、というナレーションが流れている。

 

韓国では、二〇〇〇年一月に、「済州四・三事件真相糾明および犠牲者名誉回復に関する特別法」が公布され、五月に施工された。軍部独裁時代ならばともかく、一九八七年に民主化を達成し、金泳三、金大中となった文民政権になってからも、済州島四・三事件の真相糾明、犠牲者の名誉回復が早急になされたわけではなかった。その背景には、凄惨としか言いようがない体験を味わった済州島民の「レッド・コンプレックス」がある。西北会をはじめ、軍や警察によって村を焼かれ、家族を殺戮された済州島民はもはや完全に骨抜きにされ、権力へ歯向かうことは破滅の道にしかならないことを悟り、「羊のように従順であること」(173頁)を生存戦略としてきたのである。アカではないことの証明に朝鮮戦争に勇んで参加してみせたり、大統領選挙が行われるたびに民主化を訴える野党よりも、反共を掲げる与党を支持し、民主化達成後も殺戮の証言を拒んできた済州島民の姿には、権力に逆らえば何をされるか分からないという、屈折した心理が反映されている。もはや先進国として人権意識の高まった韓国で、済州島四・三事件のような悲劇が起こる可能性はきわめて低いだろうが、しかし保守派の大統領であった李明博が済州島四・三事件の真相糾明を担う「四・三委員会」の廃止を目論んだこともあり、この四・三事件は現代においてもイデオロギー上の争いから免れていない。さらに、この四・三事件が韓国現代史の最大のタブーとされるのは、この殺戮劇が韓国の建国の起原と結びているからである。「五・一〇単独選挙の阻止を目的に断行された四・三の武装蜂起を民族的大義にかなう正義の抗争として位置付けることは、韓国という国家の正統性そのものを揺るがしかねない重大事」(181頁)。それゆえ、済州島での悲劇をどのように位置づけるのかは、現在においても政治的なテーマであり続けている。そして、この悲劇を生み出した戒厳令の発令根拠が植民地支配下における勅令であったことは、日本人も済州島の悲劇に向き合う責任があることを示している。