726冊目『ボブ・ディラン・グレーテスト・ヒット第三集』(宮沢章夫 新潮社) | 図書礼賛!

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死ぬまでに1万冊の書評をめざす。たぶん、無理。

 

 

新宿をよく散歩していた時期がある。近所に住んでいた同僚と、金がかからない遊び方を考えた挙句、ひたすら歩けばいいということになった。思えば、私の地元沖縄は完全なる車社会で散歩の習慣は全くなかった。職場に行くのでもコンビニ行くのでも、必ず車を使う。一日のなかで歩くのは家から駐車場に向かうまでという人もいる。沖縄出身の私にとって、東京の散歩は新鮮だった。東京の大地を歩きながら、感じたことがある。まずひとつは、中心と周縁がないことである。以前、名古屋市を歩いたとき、駅周辺はたしかに大都会だったが、ある程度歩くと、廃れた商店街に行き着いた。私はそこに近代都市の分断を感じ取ったわけだが、東京にはこのような分断を感じる瞬間がない。新宿駅周辺を歩いている気分のまま、新大久保に着いてしまう。

 

一般的に都市論の文脈では、東京のような大都市は、巨大資本によって自然を簒奪された均質的な空間として論じられる傾向にある。たしかに新宿を散歩することは、それ自体が巨大な商業施設内を歩き回っているような感じがある。私は映画を観る時は、東口にある新宿武蔵野館、シネマート新宿によく行くし、本屋に行く場合は、西口にあるブックファースト新宿店をよく利用している。飯を食う時はだいたい南口が多い。新宿とは巨大なモールなのだ。それゆえ一方で新宿を散歩しても、特段歴史を感じない。小説「ボブ・ディラン・グレーテスト・ヒット第三集」の主人公サトルが角筈図書館で初めて新宿の歴史に触れるのは、いかにも象徴的で、いくら新宿に住んでいても知識として学ぼうという姿勢がない限り、新宿の歴史に目を向けることはない。

 

たしかに、一部の都市論がいうように、巨大資本の下で編成される都市の論理は、その土地に根付く歴史や共同性をぐじゃぐじゃにしてしまうかもしれない。しかし、私は新宿を散歩をしながら感じたことであるが、この都市は決して均質ではないし、あらゆるものが全て資本に包含されているわけでもない。むしろ、新宿を歩くことの意味は、この都市の論理の裂け目を探すことなのかもしれない。地方から上京したサトルには、この都会の隙間がよく見えているように感じる。「疎外論では捉えられない愛着性」『東京から考える』(387冊目)、51頁)という観点から、都市を見つめていくことが必要なのではないだろうか。私も最初は喧噪な人混みでごった返している新宿が嫌いだったが、今ではこの街を歩くのが何とも楽しい。

 

小説『ボブ・ディラン・グレーテスト・ヒット第三集』は、2001年の新宿を舞台にした小説である。この時代はツイッターもインスタもなかった。どこか懐かしさを感じさせる時代の雰囲気と、歌舞伎町で起った大災害との間にある緊張と緩和が、作品世界に見事にはまっている。中古レコード店を経営している内田は、あまり商売で儲ける気がなく、「現状維持」を人生哲学としている。あと嫌な思い出があるのか、新宿の東口だけは絶対に行かない。大学生のサトルは店の清掃や雑用などをやらされるが、バイト代は出ない。その代わりに店内で好きなだけレコードを聴いていいことになっている。一方で、なぜ内田が頑なに東口を嫌うのかを疑問に思ってもいる。新宿という場所は、ここで生きる人間にどんな物語を用意するのだろうか。新宿を舞台にした小説を読んでいきたい。