897冊目『動物に魂はあるのか』(金森修 中公新書) | 図書礼賛!

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動物は可愛い。タテゴトアザラシとか柴犬とか、なんでこんなにも愛くるしい動物がこの世に存在するのだろうかと感謝さえしたくなる。一方で、私たち人間は、そんな動物をこれまでたくさん殺してきたし、今も殺している。むろん、これは人間が何かを食べないと生きていけないからで、我々が背負うべき原罪のようなものである。いくら人間が生きるためとはいえ、本来であれば動物は殺したくない。そのやましさから目を反らせるために、人間と動物のあいだに絶対に覆せない優劣関係を作り上げる。この世の主人公は人間であり、だからこそ、人間が生きるために動物を殺して食べることは正当化されるのだ。しかし、哲学者は、動物を人間の道具とは考えなかったようである。ストア派の哲学者セネカは動物にも知恵があると述べたし、プルタルコスは美徳さえあると述べた、さらにモンテーニュにいたっては動物もまた人間と同じように技術を生み出す生き物であると述べるわけだが、しかし、モンテーニュの動物にも言語があるという主張は、言語の概念を拡張しすぎだろう(44頁)(1)。

 

それぞれの主張はともかく、これらの哲学者に共通する動物観は、動物は人間ほど高度な思念や想像力を持ち合わせてはいないかもしれないが、逆に動物だけが持っている能力もあり、さらには知恵や勇気という道徳的性質も備えている点で、動物もまた高等な生き物であるということだ。これは我々の常識とも合致する、きわめてまっとうな動物観だろう。人間は生きるために動物を殺して食べざるをえないが、動物もまた人間と同じ生き物だ。だからこそ、むやみやたらに動物を殺してはいけないし、それを食べる場合でも、殺された動物のために最後まで残さずおいしく食べなければならないという倫理観も芽生えるのである。哲学の世界でも、我々の常識でも、動物にある種の「人間性」を見るという点では大きな違いはない。その意味で、デカルトの「動物機械論」は、動物思想史のなかでもきわめて異色な動物観である。「動物機械論」とは読んで字のごとく、動物を機械だと捉える思想である。デカルトは『方法序説』(814冊目)で、動物は機械人形のようなものであり、ただの物質でしかないと書かれている。デカルトによれば、動物の鳴き声は、ドアが軋む音、太鼓を叩く音と同様に、物質的なものであり、魂の叫びなどというものではない。だから、動物を蹴飛ばしたところで何の倫理的痛痒を感じる必要はない。それは石ころを蹴飛ばすのと何の違いもないからである。ただデカルト自身、動物に感覚は備わっているとは考えていたそうで(65頁)、そうであれば、「動物機械論」という名称自体も問い直す必要があろう。

 

しかし、デカルトの動物機械論はやはりおかしい、と多くの人は考えるのではないか。実際、動物思想史を振り返ってみても、動物を単なる機械だという、このデカルトのラディカルな立場は後世に大きな影響を与えていない。現代ではむしろ、ピーター・シンガーが「動物の権利」を訴えたり、ダナ・ハラウェイが「伴侶種」という概念を導入したり、動物をより人間に近づけていこうとする思想も登場してきているし、また思想とは離れた場所で、動物解放運動に邁進する活動家も存在する。動物の思想は、動物を少しでも人間に近づけようとしてきたと要約したとしても大きく外れてはいない。したがって、デカルトの動物機械論は、動物思想における突然変異であり、異端であり、革命なのだ。デカルトの動物機械論をここで詳しく見ることはしないが、ただデカルトが動物に決して認めない人間理性については考えておこう。たとえば、ジョン・サールの「中国語の部屋」という思考実験は、デカルトの「思惟する私」をひっくり返す。我々の言語活動は実は機械的に処理されており、ただ我々がそれに気づいていないだけだという可能性を突きつけた(2)。この思考実験によれば、人間は実は何も意味を了解しないでコミュニケーションを行っていることになるが、このサールの議論に興味のある方は、戸田山和久の『哲学入門』(891冊目)を読んでいただきたい。

 

デカルトの「動物機械論」は、動物思想史における突然変異にようにして現れたが、その思想は後世に引き継がれることもなく、時代に埋没した感がある。そういう意味では、現代において、ことさらデカルトの「動物機械論」を取り上げる必要もなさそうに見える。しかし、「動物機械論」が捉える射程をもう少し広く見れば、この思想の残酷さに戦慄するはずである。というのも、動物から魂を抜き取るという発想は、対象的世界から魂を抜き取るということで「文明」を気づいてきた近代の発想そのものであるからだ。その観点から見れば、資源収奪、植民地経営は、「動物機械論」を下敷きにして成立しているとも言えなくはない。さらに、恐ろしいのは、この「動物機械論」は、最終的には、人間の選別に行き着くことである。デカルトが、動物と人間を分かつものとして理性というものを称揚したとき、その時から、理性的思考が欠如している見なされた人は、非人間として囲い込まれるのだ。動物機械論によれば、聾唖者や痴呆症の人は機械だと捉えられることになる。

〈動物機械論〉は、〈自〉でなく〈他〉を単純化し貶下する眼差しを内包させており、その〈他〉のカテゴリーには遅かれ早かれ、人間以外の動物だけでなく、人間自身も入ることになるだろうという指摘である。(97頁)

「動物機械論」は、最終的には人間否定に行き着く。現代社会もまた、何らかの身体の障害を抱えてるもの、ホームレス、病弱者といった人たちの生が不当に貶められてはいないだろうか。「動物機械論」のラディカルさは、ラディカルであるゆえに現代社会の問題にまで射程を開いているのである。

 

(1)動物にも言語があると主張する者は、たとえば動物は鳴き声や行動で、感情や要求などの伝達を行っているのであり、これもまた一種の言語コミュニケーションであると述べるが、これはあまりに皮相な言語観である。言語が言語であるためには、文法がなければならない。ある種の動物は歓喜を伝えることができるかもしれないが、「嬉しくない」という否定形の思念は表せないはずである。文法の有無こそ、人間と動物を徹底的に分かつものなのだ。

(2)中国語の部屋 - Wikipedia