814冊目『方法序説』(岩波文庫 デカルト 谷川多佳子訳) | 図書礼賛!

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『方法序説』は、「良識はこの世でもっとも公平に分け与えられているものである」(8頁)という文言から始まる。デカルトの言う「良識」とは、「正しく判断し、真と偽を区別する能力」(同)のことで、デカルトいわく、この能力はすべての人に生まれつき平等に具わっているものらしい。つまり、人間であれば、誰もが理性の命じるとおり、考えることができ、真実に辿りつけるということである。『方法序説』とは、正式名称が『理性を正しく導き、学問において真理を探究するための方法の話』という長ったらしいタイトルだが、まさにこの名の通り、この書は理性を正しく使うための指南書である。興味深いのは、デカルトはいったん学問を捨てた後でこの境地に辿り着いたということである。

 

わたしは子供のころから文字による学問で養われてきた。そして、それによって人生に有益なすべてなことについて明晰で確実な知識を獲得できると説き聞かされていたので、これを習得すべくこのうえない強い願望をもっていた。けれども、それを終了すれば学者の列に加えられる習わしとなっている学業の全課程を終えるや、わたしは全く意見を変えてしまった。というのは、多くの疑いと誤りに悩まされている自分に気がつき、勉学に努めながらもますます自分の無知を知らされたという以外、何も得ることがなかったように思えたからだ。11ー12頁

 

デカルトは、ラ・フレーシュ学院で学んだ。ラ・フレーシュ学院は、デカルト自身が「地上のどこかに学識ある人びとがいるとすれば、この学校にこそいるはずだとわたしは思っていた」と言うほどの名門校だが、デカルトはここでの学びに満足したわけではなかった。正規の課程を終え、図書館にある本を読破しても、そこに真理があるようには思えなかった。こうしてデカルトは、学問を放棄するのである。「以上の理由で、わたしは教師たちへの従属から解放されるとすぐに、文字による学問ををまったく放棄してしまった」(17頁)。さて、文字による学問を放棄したデカルトが次にしたことは何であったそうか。それは、旅だったのである。

 

旅をし、あちこちの宮廷や軍隊を見、気質や身分の異なるさまざまな人たちと交わり、さまざまな体験を積み、運命の巡り合わる機械をとらえて自分に試練を課し、いたるところで目の前に現われる事柄について反省を加え、そこから何らかの利点を引き出すことだ。17頁

 

その上で、「文字の学問をする学者が書斎でめぐらす空疎な思弁についてよりも、はるかに多くの真理を見つけ出せると思われたからだ」(同前)と述べるのである。一般的にデカルトは、意識中心主義の哲学者として思索だけに専念したかのように思われているが、『方法序説』を読む限り、むしろ、そうした姿をデカルト自身が否定している。真理を見つけ出すためには、書斎のなかに籠もって思索するよりも、旅に出て体験を積んだ方がいい。そう、デカルトは、体験(身体)こそ真理の条件だと言っているようにさえ読めるのだ。実際、別のところで、デカルトは哲学の原理を打ち立てるためには、「たくさんの経験を積み重ね」、修練を積んだ後でなければならないと言っている(33頁)。こうなってくると、デカルトの心身二元論という通説さえ怪しくなってくるではないか。デカルト研究の世界的権威ルニ・カンブシュネルの『デカルトはそんなこと言ってない』(661冊目)は、デカルトに関する通説をぶった斬る本なのだが、ここでもデカルトの心身二元論が議論の俎上に載せられている。偉大な哲学者の言葉は、その偉大さのあまりにその言葉が簡略化されたり、時には尾鰭がついて伝わったりする。デカルト哲学の誤解が、原典も読まず、そうした後人だけの言葉をありがたがった結果生まれたものだとすれば、哲学をする者はは、まずしっかり原典を虚心坦懐に読むことが何よりも重視されなければならないということを肝に銘じるべきだろう。