815冊目『デカルト入門』(小林道夫 ちくま新書) | 図書礼賛!

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さて、今回もデカルトの話である。前回のブログ記事(814冊目『方法序説』)では、デカルトの心身二元論を再考してみたのだが、今回は、あの有名な格言、「我思う。ゆえに我あり」(コギト・エルゴ・スム)についてもう一度考えてみたいと思う。デカルトは、さまざまなことは疑いえても、その疑っている主体(私)だけは存在するという理路から、絶対確実な存在としての「考える私」を取り出すわけだが、絶対確実な私以外の存在は、本当に疑いうるのかについてまず考えておく必要があるだろう。たとえば、デカルトはしきりに感覚はあてにならないと述べている。これは確かにその通りで、目に見えている星は視覚上は粒ほどの存在でも、実際は巨大な存在である。だから感覚は疑わしい。たしかにこれなら分かる。

 

一方で、数学的真理はどうだろうか。2+3=5であるというのは、別解が存在しない真理ではないか。それすらも疑うことができると言うのだろうか。ここでデカルトが持ち出すのは、「欺く神」である。神は全能な存在なので、私たちが、2+3の足し算をするたびに間違うようにしているのかもしれないと疑うことはできるというわけだ。数学的真理でさえも、条件依存的であるという考えは、ウィトゲンシュタインと共通する部分がある(122冊目『ウィトゲンシュタインはこう考えた』)。ここで重要なのは、デカルトが、「考える私」を、数学的真理よりも確実なものとして取り出していることである。つまり、「考える私」は論理を超えた存在なのだ。

 

この点に関して少し雑談を挟むと、「考える私」が論理を超えた存在だとすれば、教育や職場などで「論理的に考えること」をやたら重視することは、人間としての存立条件をひどく損なうものではないだろうか。特に昨今の論理ブームは、どうもコスパ思考的な意味合いが強く、深く考えなくていいのだという知の劣化だとしか思えない部分がある。そのような論理的思考が、どれだけ創造的で生産的な知をもたらすのか、個人的にはおおいに疑問である。さて、デカルトの「考える私」の話に戻す。デカルトは、絶対確実な存在として「考える私」を取り出したが、実は、「考える私」は、デカルトの議論の帰結ではなく、まだ序盤である。デカルトは「考える私」を起点に、神の存在証明へ向かっていくのだ。

 

理性の哲学者デカルトが、神の存在を信じていたことを訝しむ人もいるかもしれない。しかし、デカルトの生きた一六、一七世紀の学問というのは、神を統べる宇宙観や神話的世界観と矛盾しない。科学が、古典的な理論体系から脱し、効率性と生産性の追求へとシフトしたのは一八世紀になってからである。さて、デカルトは、一体どのようにして、「考える私」を起点に神の存在を証明しようとするのであろうか。ここでデカルトが持ち出すのは、「観念」である。「考える私」自身は不完全な存在でも、全能の神という観念を思考することができるのは、私の外部に全能なものの存在があるからである。そして、それは「神」しかありえない。こうした理路を通して、デカルトは神の存在証明へと辿り着くのである。さて、おそらくここがデカルト哲学で最も重要なところだが、デカルトは理性や明証性は神に依存するとする。だから、デカルトは決して理性を祭り上げたのではない。「神を頂点とした形而上学」(108頁)を学問の原理として打ち立てたのである。