近代哲学の父として名高いルネ・デカルトは、「我思う、ゆえに我有り」の格言で有名だが、この格言が示すのは、人間理性の強調である。身体は、むしろ健全な思考を阻害する要因でさえあるし(例えば、体調不良のときは頭が冴えない)、感情が高ぶっていてもまた理性はちゃんと機能しない。デカルトは、この理性の能力は誰にも等しく与えられており、この能力に導かれて、我々は世界の真理に到達できると考えた。この理性信奉は、合理的思考を重んじる近代精神でもある。近代という時代は、合理的思考を貫く科学革命、産業革命によって、人類の生活を便利にしたけれども、一方で、自然資源の収奪、科学万能主義、管理社会といった弊害も目立つようになってきた。近代批判を基調とする評論文の世界では、たとえデカルトの名前が出てこないにしても、デカルトが端緒を開いた近代合理主義の功罪の文脈の上に成り立っているものが多い。
同僚に博士課程までデカルトを研究してた人がいる。その同僚によれば、本書の著者ドゥニ・カンブシュネルはデカルト研究の世界的権威なのだそうだ。さて、そんな本書のタイトルは、『デカルトはそんなこと言ってない』である。「感覚は私たちを欺く」「人間の精神は、思考するのに身体を必要としない」「物質は延長に他ならない、すなわち空間」等々、これらはいかにもデカルトが言いそうな言葉として広く認識されている。しかしながら、ドゥニ博士は「デカルトはそんなこと言ってない」と言うのだ。確かに偉人の言葉というのは、尾鰭がついたり、過度に簡略化されたりして、当初の思想が正確に伝わっていない場合がある。「自然に帰れ」という言葉で有名なルソーだが、彼の著作のどこにもそのような言葉はないらしい。思想は継承されるに従って、少なからぬ歪曲を受ける運命にある。だからこそ、「本人が述べたことと、他人-先人や、場合によっては師匠、友人や弟子、衣鉢を継ぐ者を含む-が述べたことを区別」(はじめに)が大事になってくる。
以下、ドゥニ博士による、デカルト思想についての主な誤解を二点、確認しておこう。まず、「感情は思考を乱すもの」という誤解である。たしかにデカルトは、『方法序説』で懐疑を強調したわけだが、決して感情が人間理性にとって邪魔者、あるいは無用と考えていたわけではない。そもそもデカルトには『情念論』という書物があるではないか。それだけで「感情は思考を乱す」などというのは俗説だと分かる。興味深いのは、デカルトは、『情念論』で感情に序列をつけて分類していることだ。そして、その序列の第一の位置を占めるのが「驚き」という感情であるらしい。実は、驚きに価値を見出したのは、デカルトが初めてではない。プラトンもまたこの「驚き」という感情は世界の真理を見せてくれるものとして重視した(清水真木『感情とは何か』ちくま新書、95頁)。たとえば、ものすごい論文を読んで、おおっと感動することがある。それは真理との出会いでもある。しかしその感動だけでは真理の到達にはならない。その際、理性的な推論が必要である。つまり、感情は、私たちの理性的思考のノイズになるのではなく、理性的思考に導くひとつのきっかけを与えてくれるものなのである。
次にドゥニ博士が槍玉にあげるのは、「人間の精神は、思考するのに身体を必要としない」(第8章)という誤解についてである。一般的な理解では、デカルトは精神は身体から完全に独立し、身体に依存することなしに存在すると考えたとされている。感覚という曖昧なものに反応する身体の所作は、むしろ理性の独立性を阻むものだというわけだ。しかし、ドゥニ教授はここでも従来の通説をひっくり返す。というのも、デカルト自身、『方法序説』のなかで次のように書いている。「掴み始めたときは本当だと思われたものが、紙に書こうと思ったとたんに、間違いに見えてくることがよくあった」(第六部)。これはたしかにその通りで、頭の中だけで考えるときは筋が通っていた理屈が、いざ文章にしてみると論理の飛躍だらけで、支離滅裂になっていることがよくある。ここでは思考のバグを、書き出すという身体の所作が修正してくれている。卑近な例だが、数学でも一定レベル以上の問題を解こうとすると、式を書き出すという身体行為が必要となってくるはずである。そもそも我々は身体を通さない思考を経験したことがないわけだが、デカルトは、そんなことは百も承知だったのである。