895冊目『日本語は「空気」が決める』(石黒圭 光文社新書) | 図書礼賛!

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言語研究には主に二種類ある。理論言語学と社会言語学である。本書では、両者の違いを次のように説明する。

理論言語学は、記号としての言葉の内部構造を明らかにすることを目指す内部志向の言語学ですが、社会言語学は、発話された言葉と発話された外部環境の関係を明らかにすることを目指す外部志向の言語学です(13頁)

理論言語学とは、言語が自律したメカニズムを持つことを前提にして、その内部に潜む普遍的な構造を明らかにする学問である。たとえば、どの言語にも名詞はあるし、主語ー述語という対応もある。これは文化の制約を受けない普遍的な言語の特性である。いわば、理論言語学はアプリオリな言語的事実を解明しようとする学問であり、ノーム・チョムスキーの生成文法がその代表的な例だ。一方で、社会言語学は理論言語学とは全く異なるアプローチをする。理論言語学が言語内部の解明に向かうのに対して、社会言語学は言語と環境の関係性に目を向ける。言い換えれば、理論言語学が言葉の「正しさ」を問題にするのに対して、社会言語学は言葉の「ふさわしさ」を問題にするといえよう(17頁)。本書は社会言語学の立場で書かれた日本語についての本である。本書の『日本語は「空気」が決める』というタイトルは、状況や文脈に照らした日本語としての「ふさわしさ」の探求という意味が込められている。

 

実は、この本は日本語学習をしている外国人によく読まれているようだ。「正しさ」だけでは分からない日本語の「ふさわしさ」を理解するために読んでいるのだろう。外国語を学習するとき、私たちはまず理論的に学ぶ。初学者は文型や特殊な文法を理屈を通して学ぶことが効果的だ。しかし、よく言われるように、日本人は中学校から大学生まで英語を勉強し続けても碌に英語を話せない。これをもって英語教育改革が常に叫ばれるわけだが、私に言わせれば、ひとつの言語を身につけようと思えば、血の滲むような努力をする以外にないのであって、教育を変えれば英語が上達すると考える方がおかしいわけだが、それはともかく、私が大変困ったのは、かつて大学院にいたとき、英語の授業で英語のレポートを提出したときに、米国人の指導教官から「ネイティブはそんな言い方はしない」とよく言われたことだ。この言葉は水戸黄門の印籠のような効果があり、それを言われた途端、もうどうしようもなくなる。

 

ここで問題にされてるのは、「正しさ」と「ふさわしさ」のズレである。私は理屈的には間違っていない英文を仕上げたつもりだったのだが、指導教官はその言葉の「ふさわしさ」を問題にしていたのだ。本書でも紹介されているが、言語的コミュニケーション能力は、以下の四つで構成されていることが現在のアカデミックの常識のようだ。

①文法的能力…小さな要素を組み合わせて正し語や文を組み立てる能力。

②社会言語学的能力…その場の状況に合ったふさわしい表現を選びだす能力。

③談話的能力…前後の文脈をつながげ、一貫したわかりやすい談話を作りだす能力。

④方略的能力…その言語の知識が不十分なときに、それを補うために使う能力。(272頁)

外国語として私たちが勉強に費やすのは、基本的には①のみである。私は正規の学校教育のルートでしか英語を勉強したことがなかったから、英語のふさわしさを測る②の社会言語学的能力はない。②の力を身につけるには、豊富な実戦経験を積む以外にないだろう。だが、当時の私としては別に英語は文献が読めればそれで充分と考えたいたので、英語のふさわしさまで勉強する必要はないと考えていた。

 

ところが、大学受験の英語は、英語のふさわしさまで会得しないと、少なくとも難関大合格はおぼつかないらしい。難関大では大学入試の英語問題に英作文の試験があり、京都大学とか慶応大は本当に難しい英作文問題を出題するらしいのだが、文章を書くと営みは、その性格上、必ずふさわしさを要求する。ここに英作文対策の難しさがある。先月、代々木ゼミナール主催の早慶入試研究会で、慶応英語のパート(担当:西川彰一先生)を視聴したのだが、とにかく一番の英作文対策は、語彙力増強、英文のフレーズをたくさん覚えることというものだった。西川先生曰く、難しい英文でも読めるだけなら高校生でもごまんといるが、英語を書ける人間は本当に少ない、だからこそたくさんの英語の表現を覚えろ、とのことだったが、私はこの講演を聴きながら、高校生でここまで英語を勉強しなければならないものだろうかと思った。

 

先ほども述べた通り、文章を書く以上、必ずふさわしさの問題に直面する。私は大学院の授業で「ネイティブはそんな言い方をしない」と何度も言われた。ただ、ふさわしい英語を駆使できる実力に到達するまでの努力は、実質無限だろう。ここには理論が入る余地はなく、とにかくただどれだけ覚えたかが問題になってくる。誤解しないでほしいのだが、私はこのやり方を邪道だと批判したいわけではない。むしろ、これは外国語学習の王道だ。外国語の勉強はとにかく言葉の暗記に尽きる。しかし、無限の努力を押し付けるほど、高校生にそこまで英語を勉強させることには大きな疑問を禁じない。外国語学習には色んなやり方がある。私は韓国語なら会話まで勉強したいが、英語なら文献が読めればそれでいい。しかし現行の英語教育は、とにかくコミュニケーション重視であり、英語のふさわしさまで求められる。高校生に求める能力としては過剰と言うべきではないだろうか。日本の外国語教育はとにもかくにも英語、英語、英語の一辺倒で、たとえば、学校教育で英語以外の外国語を学んだことのある生徒は1.4%しかいない(482冊目『外国語教育は英語だけでいいのか』)。多様性が掲げられていながら、ここまでの英語偏重は実に不健全であると感じる。とはいえ、教師も生徒も親までも英語帝国主義を内面化した日本の現状では、私のような立場は多勢に無勢だ。個人的には、「ネイティブはそんな言い方しない」と言われても、「そんなの、知るか」と返事して、小さな抵抗だけ続けていこうと思っている。