設楽原:モノ作り立国ニッポン | オヤジのおもちゃ箱

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行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず・・・・・・

 

その昔、故堺屋太一さんが仰ってました。

「戦国時代の日本には、世界で最も多くの鉄砲が存在していました。」と・・・・😲

つまり種子島に上陸した火縄銃は日本各地で

夥しい数がノックダウン生産された訳です。

 

そして鉄砲という当時のハイテク機器が

最初に大量導入されたのが

織田・徳川連合軍と武田勝頼軍が戦った

設楽原(したらがはら)の戦いです。

 

学生時代にこの事を知ったオヤジは

一度は設楽原を訪れてみたかった。

かれこれ40年近く経って実現しました。😃

 

 

一枚目と二枚目の画像は

設楽原歴史資料館で撮影したものです。

2枚目の発掘された弾丸は

タイの鉱山で産出された鉛で作られており

恐らく織田軍で使用されたものでしょう。

信長の南蛮貿易が鉄砲隊を支えた証だな。

ちなみに武田軍の弾は

銅銭を鋳潰して作られたとの説も。

 

 

やって来ました!設楽原の合戦場!😲

歴史番組で何度も目にしているので

ほぼ想像どおりの景観です。

画像右側に連合軍の馬防柵が見える。

 

 

 

これ(↑)が再現された馬防柵です。

こういうところが信長の凄いところ。

武田の騎馬隊の突進を防ぐと同時に

防御する兵の心理的な負担を軽くして

合戦を有利に展開させる・・・・・・🤔

パワハライメージの信長ですが

超合理主義的考えの持ち主だと思います。

 

 

武田軍から見た連合軍の陣はこんな感じ。↑

全長2キロにも及ぶ馬防柵に向かって

水田のあぜ道が数本伸びています。

馬や兵隊は水田の中を行軍出来ないので

武田軍は自ずと細いあぜ道に集中します。

正に連合軍の思う壺ですよね。😒

 

 

前回もご紹介した長篠合戦図屏風。↑

右側の長篠城の攻防戦で連合軍によって

鳶ヶ巣山砦を急襲された武田軍は退路を断たれ

左側の連合軍が万全の態勢で待ち構える

設楽原の陣に猛進して行きます。

勝頼は殆ど‟やけくそ”状態。😱

 

ところで面白いのは

屏風図の赤く囲った部分です。

拡大しますと・・・・・・・・🔍

 

 

なんと!徳川方の一部が

馬防柵の前で戦っているのです!😲

実は長篠・設楽原の戦いは

元々長篠城を巡る武田と徳川の攻防戦。

徳川にしてみれば戦の手柄を

援軍の織田勢に持って行かれたくはない。

「リスクを冒しても自分達の力で敵を破る!」

三河武士の‟生きざま”なのでしょうか?

 

男って、バカですよねぇ~😁

 

 

新東名の長篠設楽PAで撮影しました。↑

PAから信長が陣を張った茶臼山に登れます。

 

 

茶臼山の登り口。↑

 

 

茶臼山からはこんな(↑)光景が広がります。

残念ながら設楽原方面は

木が生い茂って展望は望めませんが

当時は戦局を粒さに把握する事が出来たと思う。

 

それにしても信長は高い場所が好きです。

安土城址もそうだったし、岐阜城も然り。

やはり自分は神だと思っているのか?

リンクを貼っておきます。

 

 

夥しい数の鉄砲が導入された設楽原の戦いは

犠牲者の数もそれ以前の戦とは

比べ物にならないくらいの命が失われています。

戦死者は三方ヶ原、姉川の戦いの10倍前後

という説もあるくらいです。

 

上の画像は信玄塚という

武田軍の犠牲者を埋葬した塚です。

そして塚から発生する蜂を退治したのが

「火おんどり」という祭りの起源らしい。

 

戦争はいつも悲惨なもの。

 

宿泊する岡崎のホテルに向かいました。