上の画像は金華山と、その山頂にそびえる岐阜城。(拡大すると分かり易いかも)
金華山は標高が300メートルを超える山で、信長が1567年に斎藤家を滅ぼして入城する前は
稲葉山と呼ばれていました。 城の名前も稲葉山城です。
そもそも「岐阜」という地名は信長が命名したと伝わっており
地名まで変えるという行為は、信長以前は天皇クラスの公家が行っていた事。
武家がそこまでやってしまうのは極めて稀な事だったのでしょう。
明らかに狙ってるな。(天下統一)
この頃から信長の書状には「天下布武」という御朱印(上の画像)が使用されているそうです。
標高300メートルの山頂に城を構えれば、遠くからもそれと認識出来る。
もっとも、信長の時代には天守閣が存在しなかった可能性はあるけれど
石垣の上には何らかの建物が作られていた記録は残されています。
周囲を威圧するには充分だと思いますね。
山麓には信長の居館と推定される遺跡が発見されてまして
その一部が再現されてます。
上の画像は館の入り口部分。
門を潜ると、クランクになっており、後の城郭の桝形を連想させます。
現在も発掘調査が続けられていました。
今後もいろいろな事が分かって来るでしょうね。
数年経ったら、もう一度訪れてみたいものです。
山頂までロープウェイで登る事が可能です。
飛び石連休の土曜日でしたが、観光客は案外多い。
上の画像は模擬天守で、昭和の時代に建てられたそうです。
山頂付近は所々に岩が露出しており
金華山の殆どが強固な岩で構成されている事が良く分かります。
国宝天守が残る犬山城にしても
川の浸食で残された部分、つまり地質の硬い地域が
現在の山となって、そこに軍事拠点を完成させた事が読み取れる。
昔の人はちゃんと地形を考えていたようです。
山頂からそれほど離れていない場所に、井戸が掘られていました。
山城は水の確保が難しい訳ですが、地質が緻密であれば標高があっても水は確保できる。
柔らかいと、途中で染み出す事がありませんから水源には適さない訳です。
ちなみに、上の画像の石垣部分は信長の時代のものだとか。
金華山山頂に高くそびえる天守が無かったとしても
物々しい砦が作られていた事は容易に想像できました。
天守からは濃尾平野の大パノラマを眺める事が出来ます。(上の画像は拡大可です)
いや~、こんなに凄い景色だとは思わなかった!
関東平野、例えば奥多摩あたりだと
山の稜線が長く連なり、それが平野部に落ちるまでかなりの距離があります。
そういう場合、人々が生活する地域が遠方に見えてしまうけれど
ここは標高の低い山の直下に平野部が広がっている所為か
かなり壮観な景色を拝む事が出来る。
これを毎日見ていると、天下を治めてみたいという欲求に駆られても不思議ではありません。
安土城の天守跡から琵琶湖越しに、比叡山と京都を望んだ事がありました。
今回の景色と共通性があるような・・・・・・・
どう見ても、信長はヤル気満々ですわ。
本当に飽きない景色です。
上の画像はロープウェイ乗り場展望台からの図。(拡大可)
濃尾平野は木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)が形成した沖積平野。
湿地帯が多く、古くから稲作が盛んに行われていた地域なので
豪族の石高も多いし、川を利用した水運或いは、伊勢湾の海運も盛んだったのでしょう
どう考えても、「地形が天下人を育んだ。」と言えそうです。
地形や気候というものは、歴史の重要な構成要素である事は間違いなさそうですね。
安土城にしても、岐阜城にしても信長の“気”が
未だに残っているような気がします。
相当に強烈なオーラで、「よくぞこんな人間が歴史に現れたものよ!」と感心します。
ある種の“狂気”と言えるかもしれない。
この迫力には本当に脱帽です。
山頂からの下りは徒歩にしました。
やや険しいコースを選んだので40分くらいかかりました。
山麓の公園に下りてくると、何やら多くの人が集まってスマホを覗いています。
ポケモンですよ、ポケモン・・・・・・・・・
やってる人は面白いのかもしれないけれど
端から見ていると、これにもある種の“狂気”を感じます。
“信長の狂気”と“ポケモンの狂気”・・・・・・・・
殺戮がないだけに、ポケモンの方がマシかもしれません。
信長関連の城のお話しはこれでおしまい。
安土城の記事はこちらからです。http://blogs.yahoo.co.jp/ranpante37/35295281.html