![イメージ 1](https://stat.ameba.jp/user_images/20190604/05/ranpante2002/b3/fa/j/o0560037314423351415.jpg?caw=800)
1560年の桶狭間の戦いに勝利し、尾張を統一した信長は
居城を清州から小牧山に移します。
美濃攻略の為には主要街道に沿ったこの地が適切だったのでしょう。
小牧山は現在、公園になっており
山頂には歴史博物館が建てられています。
内部を覗いてみると本当に立派な作りで
住民の方々の「郷土の歴史を何とかアピールしよう!」という
強い思いを感じました。
但し、信長の時代には天守閣は存在していません。
お城というより、山頂は砦(とりで)になっていた筈です。
![イメージ 2](https://stat.ameba.jp/user_images/20190604/05/ranpante2002/26/86/j/o0560037314423351426.jpg?caw=800)
とは言っても、砦には石垣が施されており
小牧山城以前の土を盛った砦と比較すると
他者を威圧する“ビジュアル的効果”を持っていたと考えられます。
「信長は石を積む職人を雇っていた。」という見方もあるようですね。
上の画像は、その石垣が崩れた跡。
小牧山の標高は約86メートル。
頂上からは尾張の国が見渡せます。
清州城は周囲の動向把握が不利なので
この城に引っ越しするのも頷けました。
![イメージ 3](https://stat.ameba.jp/user_images/20190604/05/ranpante2002/be/40/j/o0560037314423351451.jpg?caw=800)
山腹には空堀の跡がハッキリと残っています。
![イメージ 4](https://stat.ameba.jp/user_images/20190604/05/ranpante2002/02/0f/j/o0560037314423351465.jpg?caw=800)
山麓には曲輪の跡がありまして
上の画像の402曲輪は、信長の館が建てられていたと推測されます。
かなり広大な敷地ですねぇ~
実際の政務はこの場所で行われていたのでしょう。
意外だったのは、掘りの直ぐ近くだった事。
防衛上は、もう少し奥まった場所の方が良い筈なのに
意外でした。
![イメージ 5](https://stat.ameba.jp/user_images/20190604/05/ranpante2002/e9/8f/j/o0560037314423351475.jpg?caw=800)
濠の外部から、曲輪の内部に侵入する際は
上の画像の虎口を利用していた様です。
ここはクランクになっており
内部が見えないように工夫されています。
常に有事と背中合わせだった事を彷彿とさせますね。
![イメージ 6](https://stat.ameba.jp/user_images/20190604/05/ranpante2002/c6/e7/j/o0687048314423351492.jpg?caw=800)
上空から小牧山城を見ると、こんな感じです。
次はいよいよ岐阜城です。