桶狭間 | オヤジのおもちゃ箱

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行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず・・・・・・

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桶狭間は“狭間”ではなく、山でした・・・・・・

上の画像は桶狭間山の山頂から撮影した画像です。
標高は55メートルくらいかな?
今でさえ、住宅が立ち並び
周囲を見渡す事は難しいけれど
400年以上前だと、視界を遮るものなど皆無に近かった筈。
ここは軍事拠点と言えそうですね。

桶狭間の戦いのイメージは
大軍勢の今川義元軍が、狭間(谷間)を進軍中に
信長の奇襲攻撃を受けるという感じだと思いますが
資料として信ぴょう性の高い「信長公記」によりますと
「桶狭間山山頂で一息入れていた今川義元本体めがけて
山をよじ登って攻撃した。」と書かれているそうです。

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えっ? この坂を登ったの?
まさか、坂の下から敵めがけて攻撃するなんてこと有り得ないよなぁ~ 
土砂降りになり視界が殆ど効かなかったという説があるそうですが
それにしても信じ難い。

実は信秀(信長の父)の時代に
“小豆坂の戦い”で、織田と今川は二度にわたり衝突しています。
信秀が急死して、織田家は内紛だらけだったし
今川に付け込まれても不思議ではありませんからね。

独断と偏見ですが、信長は今川の進軍を予想していた可能性はあるかも。
ある程度の準備がないと、ここまで上手く戦える筈がないですよ。
低山とはいえ、“奇襲登山”ですからねぇ~
大勝負をするには、やはり周到な準備は必要って事だな。
イチかバチかの大博打では無さそうです。

“乾坤一擲の桶狭間”・・・・・・
このイメージは江戸時代の歌舞伎の影響も大きいかもしれない。

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上の画像は信長坂と言われるもので
釜が谷に集結した信長の義元討伐軍が
ここから坂を登ったと伝えられる場所です。

某学校の敷地になっており
学校側はヴィクトリーロードとして整備しているみたいですね。
縁起が良いから、気持ち分かりますよ。

信長坂から桶狭間山まで約一キロの登り坂。
これりゃ~、凄い気迫です!

信長は天才か?或いは狂人か?

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この地で武士が行軍した形跡が、地名に残っていました。
歴史を物語っていますねぇ~


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                  死のうは、一定!

次は小牧山城です。