今回は愛知県新城市の長篠城のお話。
上の画像中央部の川に挟まれた
台地の先端部分が長篠城です。
中学の時に習った長篠の戦いは
強く印象に残っていまして
これを契機に織田信長という武将が
脳裏に焼き付いてしまいました。
長篠城は宇連川と豊川を天然の堀にした
東三河の入り口に位置する
正に要衝という名が相応しい砦です。
思いの外、城はその痕跡を留めています。
上の画像は見取図の「堀1」の部分。
武田方から徳川に寝返った奥平貞正は
500の兵力で15,000の武田勝頼の攻撃から
城を守り続けます。😲
広大な本丸の跡。↑
前年の大河が「どうする家康」ですから
良く整備されている訳だ。😃
これ(↑)は長篠合戦図屏風で
右側の白く囲った部分が長篠城です。
更に今回発見したのは赤い丸の部分。
拡大しますと・・・・・・・🔍
敵の首を刎ねんとする武将が描かれています。
「小栗又市」の名が記してある。😲
実は長篠の戦いの約300年後に
又市の子孫は反対に首を刎ねられてしまう。
子孫の名は小栗上野介忠順。
忠順の祖先は三河時代から家康の重臣でした。
関連記事のリンクを貼っておきます。
要衝での戦いでしたので
多くの犠牲者が出ています。
特に武田方の重臣は殆ど壊滅状態。
上の画像は馬場信春の墓で
長篠城から数百メートルの場所にあります。
享年61歳ですから
なんとオヤジと同じ年齢です。😲
還暦過ぎての殿(しんがり)は
想像を絶するほど過酷だった筈。
胸が痛みます。
そしてこの近辺に
一番見たかったものが・・・・・・
これですよ! これ! これ!!😍
中央構造線長篠露頭です。
長篠城から伊那谷そして高遠城。
更に諏訪湖まで日本最大の断層が走ります。
現地の説明版の解説図です。↑
地質図で見るとこんな(↑)感じです。
赤いフリーハンドの線が中央構造線で
画像の右上方面が信州になり
今は国道152号が断層に並行して走ります。
断層を境に異なる地質が接している様子を
色分けした地質図が現わしています。
標高差が相対的に少ない断層は
軍隊の行軍には‟もってこい”でしょう。🤔
ちなみに新潟の糸魚川で生成された塩は
「塩の道」と呼ばれる糸魚川静岡構造線上の街道を利用して
江戸に届けられたそうです。
1573年の三方ヶ原の戦いで
家康に大打撃を与えた後に
武田信玄は行軍中に亡くなります。
実は信玄が退却する時も
中央構造線に沿って甲州に戻りました。
「3年間は喪に服すべし」という信玄の遺言を破り
武田勝頼は中央構造線を南下して
長篠城に襲い掛かりました。
もしも中央構造線という大断層が無ければ
勝頼のフライングは無かったのかも?
長篠の戦いは構造線の‟誘惑”か?🤔
(完全に‟こじ付け”ています)
人は地形という神の見えざる手の上で
踊っているだけ?
次は設楽原へ向かいます。