古事記と日本書紀に仕掛けられた時間のトリック | 運の良い座敷童子的な生き方

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こんにちは。

ちょっとコナンのようなタイトルですよね😅

さて、わたしはこう見えて、BTSが好きで、ジン押しです✨✨

ですが、どうも日本と韓国の間には歴史的認識が多くて、なんだか不穏な時期も多々ありますよね。

さて、こんな日本と韓国ですが、昔は分かり合えたと思いますか?

 

 

 

 

いや、もしかして古代から仲がイマイチなんてこと…

 

 

 

 

あるかも😅?




さて、今日は古事記と日本書紀に潜んでいる時間のトリックについて書きたいと思います。

以前、「歴代の卑弥呼」という記事を書いたとき、一番ラストにこのような文章を書きました。




「この卑弥呼論を確立するには、ひとつ大きな壁があるのですが、それこそ、古事記や日本書紀の細工でもあり、切実な時代背景があるのです」

 

 

 

 

ですね。

この大きな壁こそ、「時間のトリック」でして、実は日本書紀や古事記は、「時間の流れ」が違っているのです。




さて、初代神武天皇の即位は紀元前660年だとされているのですが、これが事実だとすれば、縄文時代の末期になるのです😅

ですが、神武天皇が活躍した時代背景はどう見ても弥生時代なのです。

それより以前とされている出雲神話の国造りも、弥生時代なのです。

さらに、スサノオが登場する場面では、馬が出てきますが、当時の日本列島に馬がいません🐴

 

 

 

 

これを、古事記と日本書紀は時間のトリックでつなぎ合わせた、のですね。

雄略天皇までの代を、今でいう1年を「2年」で計算していたのです。

もともとそういった「2年サイクル」にしているのが、祭祀なのですね。

だから、水無月の大祓の風習が6月末にあるのです。

あれは、おおみそかにあたるのです😅

つまり、1月~6月→1年

7月→12月→1年

で計算している、ということになります。

 

 

 

 

 

ちょうど推古天皇の即位9年が「辛酉(かのととり)」でして、この辛酉の年には革命が起こると言われています。

これを、軸にしようと、奈良時代に考えたのですね。




辛とは、古代中国の暦で、60年サイクルになっており、大革命が起こるサイクルに、神武天皇が即位したように設定した、ということですね。





推古天皇と言えば、新羅の対応に非常に苦慮しており、遣隋使を派遣した天皇でした。

これがちょうど西暦600年だとされております。

 

 

 

 

すると、「辛酉元年1月1日」を神武天皇即位の日と定めると、紀元前660年となり、推古天皇からさかのぼると、1260年前ということになります。

それに合わせて、歴代天皇の寿命がとても長くなった…のかもしれないですね。




なお、神武天皇は東征の部分がとても詳細が書かれているので、これは口伝でも史実のようです。



 

なお、魏志倭人伝に出てくる邪馬台国の卑弥呼が亡くなったのは、西暦248年。

これは正確な年であろうとされています。

この卑弥呼と神功皇后を、日本書紀は同一人物にしたかったのです。

 


 

 

なぜかというと、神功皇后は朝鮮半島に出兵して、新羅など三国征伐を成し遂げた人物だったからです。

戦前までの日本では、とても人気のある女神さまで、明治時代のお札にもなっており、宇佐神宮でも、応神天皇を産んだお母様として、本殿に祀られております。




ですが…❗️

 

 

 

 

現代の考古学でもわかっていることですが、

 

 

 

 

卑弥呼が存在していた時代に、こういった史実がないことがわかっているのです。

 

 

 

 

日本は卑弥呼やトヨ(イヨ)が亡くなったのち、朝鮮半島との交易が途絶えているのですが、内乱が生じていたようですね。





ですが、「広開土王碑」という石碑に、倭国が新羅と百済の征伐を行ったのは、かろうじて西暦391年であることが書かれているのです。




それを、神功皇后であるという証拠はないのですが、それを神功皇后に当てはめてみると、

 

 

 

 

御子である第15代応神天皇が即位したのは、




考古学的に少なくとも4世紀末であるのです。

西暦でいうと、西暦390年くらいです。

卑弥呼の時代と、140年くらい時間の差があるのですね。

 

 


 

この時間の差を埋めるため、歴代天皇のエピソードを2年サイクルで記載していった、のかもしれないですね。



 

なお、日本書紀や古事記の編纂は奈良時代となりますが、

三国志と日本書紀は、参考資料が同じですので、一致する内容が多く、聖徳太子などは、色んなことを知っていたのだろうと思われます。

 

 

 

 

ちなみに、考古学的に実在が証明されている天皇は、第21代雄略天皇からです。

教科書にも出ていた、有名な「ワカタケル大王」と刻まれた剣の年が、西暦471年だとわかったのです。

雄略天皇の在位期間は西暦457年~479年。

なお、この時代に高句麗が百済を滅ぼしたのですね。


 

 

 

4世紀終わりに朝鮮半島に出兵したのが、神功皇后かどうかはわかりません。

ですが、それを成し遂げたとすると、神功皇后だけではなく、強力なバックアップがあったはずです。




それが、




住吉三神なのです。





オリオンの三つ星ですね⭐️

そうやって三韓出兵の帰りに生まれた応神天皇とというのは、特別な存在でもあったのでしょう。




海=ウミ=産み




という言葉が生まれた新世代の天皇の誕生だったのです。

だからこそ、八幡神として全国にあれだけ信仰が広がっていったからです。

 

 

 

 

 

推古天皇は任那奪還を目指していたので、に対して、日本の立場を説明しなければいけない立場にありました。

そこで聖徳太子は「日本国記」などを編纂して、隋に献上して、対等な交易を求めたのです。

聖徳太子は国家として整えていくために、「十七条の憲法」や「冠位十二階」などさまざまなルールを作り、日本は律令国家となっていきました。

 

 

 


そういった苦しい時代背景をもとに、海外向けの歴史書「日本書紀」が作られました。

これは、日本という国の成立の正統性を海外向けに記すことを目的に作られています。

国内に向けて書かれたのが、古事記ですね。

 

 

 

 

 

なお、この応神天皇の代から、時代はがらりと変わりまして、「日本は応神天皇から変わった」と言っても過言ではありません。

秦氏など渡来人がたくさん来日して、新しい観念や技術が入ってきたのです。





そんな謎をはらんだ宇佐神宮は、地方の神社から、一気に全国区になっていきます。

応神天皇=ヤハタノカミ、の登場です✨

 

 

 

 

そんな応神天皇は、父親である仲哀天皇の死後に生まれています。





どうも、





出生の秘密があるようですね😅

 

 

 

 

神功皇后が家臣である竹内宿祢と3年一緒に住んでいたのが、九州にある幣立神宮です⛩️

竹内宿祢が赤ん坊を抱いた石像がありますが、あの赤ん坊が応神天皇であり、竹内宿祢は育ての親でもあったのです。

ぴったりと応神天皇に寄り添い、その後も、「忠実な家臣」として長く歴代の天皇家に仕えたのでした。

 

 

 

 

というわけで、時間のトリック、というお話でした✨

 



 

謎をはらんだ宇佐神宮、しかし、みんなが知っているという分かりやすいトリック😅

 

 

 

 

今もそうなのですが、外交は難しいんでしょうね。

そんな日本は、なんとか侵略されずに世界最古の国となっておりますが、その背景には、たくさんの苦労や努力があり、その中でも最大の救世主は、聖徳太子であろう、と思っておりますよ。