こんにちは。
昨日は遠くからたくさんの方が座敷童子的座談会のために来てくださいました。
本当にありがとうございました♪
来てくださったかたから「岸田総理に爆弾が放り込まれたらしいですよ」と聞いてびっくりです😅💦
※座敷童子的座談会
さて、今日は「歴代の卑弥呼たち」の続きです😅
卑弥呼といえば、魏志倭人伝に出てくる卑弥呼さんの他に、卑弥呼の前身になったかた、その後のかたなどがいらっしゃいます。
卑弥呼は役職名なので、ひとりではなかった、ということですね。
ちなみに西暦に直すと、
147年〜189年 倭国大乱
239年 倭国卑弥呼が魏へ遣使
248年 卑弥呼没
この卑弥呼が亡くなった年は、ほぼ確実とされています。
「卑弥呼が没すると、宗教的、思考的な求心力が失われて、男王を立てたが、国内は服従せず、殺し合いが続き、一千人くらいの死者が出た」
「そこで、トヨ(イヨとも呼ばれる)を王として立てたところ、国内は定まった」
と魏志倭人伝には書かれています。
倭国大乱のときに、すでに「男王」が祭祀王だった時代が続き、だからこそ混乱になったので、これは原始にならって、女性を祭祀王にしたほうがいいのではないか、と考えられて卑弥呼が王として立ったのです。
女性優位の社会は縄文時代でしたので、ここで一度原点回帰したようですね😅
トヨは卑弥呼の宋女であると記録されていますが、争乱がピークに達するまで立てなかった、ということでもあります。
時代はすでに、祭祀力よりも武力のほうが有効、という考えが基盤にあったのかもしれません。
ちなみに愛媛県は別名、イヨ(伊予)と呼ばれております😆✨
広島県は神武天皇の東遷経路が点在しており、わたしの会社の氏神神社にも神武天皇が腰掛けた岩がありますよ🪨
さて、倭国というのは、けっこう魏国とは密接な関係があったことがわかっております。
卑弥呼が亡くなったあとに、再び倭国が争乱状態に突入するということは、
卑弥呼の死とともに、連合国が解かれはじめた、ということでもあります。
つまり、
九州から畿内に邪馬台国が移った、というよりは、
九州→畿内に遷都した、
ということなのだろうと思います。
邪馬台国は人が大移動したのではなく、連合国であった、ということですね。
遷都した回数が、一回ではなかった、というのがこの卑弥呼の謎を解く鍵でもあります。
この卑弥呼というのは、特定の人物を指すのではなく、太陽神に仕える巫女自身が、特別な存在として崇められていた祭祀王であった。
つまり、
太陽神アマテラス=卑弥呼なのですが、
卑弥呼(ヒメミコ)→
神格化(ヒメカミ)→
天照大御神(アマテラス)
ということになったのかな、と思っております。
アマテラスは太陽神に使える巫女であった、
現人神が神上がりして、さらに神そのものとなったのがアマテラスである、ということですね。
アマテラスの本名は日本書紀では、「大日孁貴(オオヒルメノムチ)」という難しい漢字が使われていますが、この「孁」は「巫」と同意語なので、
「太陽神に仕える巫女」こそ、天照大神そのものであり、なおかつ神の代弁をすることで、クニをまとめていた、のです。
だからアマテラスは日本では女性神として描かれているのだろうと思います😅
世界では太陽神は男神なのですが、日本では、「男神に身を捧げる巫女」なので、女神さまなのです。
なお、過去記事でも書きましたが、日本は弥生時代が始まりではなく、縄文時代から人間が居住する国ですので、そういった「クニ」はたくさん各地にあったはずです。
それを、「東征」したのが神武天皇率いる天皇家の始祖であった、ということですね。
※高千穂峡
天皇家の始まりはここですね、日向の国。
阿蘇山の近くにある高千穂がある南九州エリアですが、この阿蘇山周辺に邪馬台国の前身は存在していました。
なお、
邪馬台国=ヤマト国
倭国=和国
つまり、
古代ヤマト国の前身=邪馬台国
なのですね。
※阿蘇山より
祭祀王は未婚の女性がつとめ、
統治王は男性が担っていた。
この祭祀王は卑弥呼ですが、統治王こそ、天皇なのですね。
と言うことで、有名な卑弥呼だった方々のお名前をここで書いていきたいと思います😅
なお、
247年に皆既日食が起こっております。
斎藤国治さんの「古天文学の道」では、
247年3月24日 午後5時〜 九州北部で観測
248年9月5日 午前5時〜大和地方で観測
がわかっているそうです。
卑弥呼が亡くなったのは、まさしく248年。
卑弥呼の死を「天も悲しんだ」のかもしれません。
これこそ、「天岩戸伝説」なのかもしれないですね。
まず、ひとりめの卑弥呼をご紹介します。
わたくし実は、阿蘇山旅行のメインはこのかたでした。
宇佐神宮の二之御殿にいらっしゃる比売大神(ヒメノオオカミ)ですね。
これがもっとも古い卑弥呼なのでは、と思っております。
縄文時代からの聖地、御許山の大元神社というのは、古代の卑弥呼の祭祀場でもあるのです。
※宇佐神宮奥宮 大元神社
続きまして、神武天皇の時代の卑弥呼(祭祀王)は、媛蹈鞴五十鈴媛(ヒメタタライスズヒメ)です。
神武天皇の奥さまですね。
この時点で、邪馬台国は九州→畿内に遷都しております。
これを「神武東遷」と呼びますよ。
こちらは日本書紀のお名前ですが、古事記名ではヒメタタライスケヨリヒメです。
お父さんはコトシロヌシや大物主だと伝わっておりますが、ここで出雲族と再統合しているのかもしれないですね。
なお、ここから卑弥呼が途絶えます😅💦
すっかり男性優位になりまして、国を統治するのも、祭主も、男王が立てられたのですが、これが原因で、
倭国大乱
が起こってしまうのです😅
ここで、原点に戻って神武天皇の頃に戻そうとしたのです。
このお方こそ、「魏志倭人伝」に出てくる卑弥呼でもあります。
第7代孝霊天皇の娘、倭迹迹日百襲(ヤマトトトヒモモソヒメ)
そう、桃太郎伝説のもとになった大吉備津彦のお姉さまですね。
このかたが、「卑弥呼」であります。
奈良県桜井市にある箸墓古墳はこの倭迹迹日百襲お墓ではないかと伝えられておりますね。
実は、桃太郎伝説でわかるように、岡山の吉備国にはこのとき、「鬼」がいたのですよ👹
卑弥呼不在でしたので、「倭国大乱」のときに、九州にまた遷都しているのです。
だから、各地で桃太郎伝説が伝わっているのですね😅
この箸墓古墳よりも古い卑弥呼のお墓が、お向かいの徳島県(アワの国)から発掘されております。
愛媛県にも山口県にも「八幡」がありますが、力をつけてまた東に向けて東征していったのですね。
だから10代崇神天皇は神武天皇と同じく、「ハツクニシラス」なのです。
ということで、宇佐を含める「豊の国」こそが、
トヨの国、
邪馬台国であった、ということです。
宇佐だけではなく、福岡県や大分県、熊本県や宮崎県にまたがる阿蘇周辺には、こういったクニがあったのだろうと思います。
たまたまこのとき、九州に遷都されていたので、畿内も邪馬台国である、ということだと思います。
その次の卑弥呼が、まさしく「台与(トヨ)」ですね。
これが、崇神天皇の娘、豊鍬入姫(トヨスキイリヒメ)です。
そう、伊勢神宮を建立したヤマトヒメの叔母、大神神社の檜原神社から出発した「元伊勢の巡幸ルート」の始まりはトヨであった、ということですね。
いったい、いつ九州→畿内に移ったの?
というと、トヨ(豊鍬入姫)の代なのかなあと感じられるのですが😅
だから、
トヨの国(豊前国、豊後国)なのですね。
「なぜアマテラスは桜井市から出たのか?」も推測すると、けっこう謎に包まれておりますね😅
もちろん、伊勢神宮を建立したヤマトヒメも、卑弥呼でありました。
なお、15代応神天皇の母君である神功皇后も歴代の卑弥呼のおひとりでございます。
天皇のそばには、神を下せる巫女がいた、ということですね。
日本書紀は、この方を卑弥呼として書きたかった、という切実な時代背景がありますよ😭
古事記や日本書紀の中で、アマテラスは神御衣をまとっています。
ひみこは日の巫女、日本を平定した偉大な女神である、ということですね。
なお、
「宇佐から卑弥呼が始まった」ということは、だからこそ、奈良時代に起きた道鏡事件でもわかるように、
国を揺るがすような恐るべき何者かが鎮っている、宇佐神宮そのものに、
なにか秘密が隠されているのかもしれません。
というわけで、卑弥呼にまつわる壮大な歴史ロマン、でした😆♪
長々と本当に読んでくださって、本当にありがとうございました。
なお、
この卑弥呼論を確立するには、ひとつ大きな壁があるのですが、それこそ、古事記や日本書紀の細工でもあり、切実な時代背景があるのです😭