鏡と向き合う
”鏡”とは、
”神の依り代”(よりしろ)として使われます。
鏡は、現実をそのまま
映し出します。
鏡と向きあうとは、
ありのままの自分と向きあうこと。
客観的に鏡と向き合ってみよう。
新たな発見がある。
穏やかだけど心の底から自分を奮い立たせる言葉
みなさんは
自分を心の底から奮い立たせてくれる言葉
を持っていますか?
僕は持っています。
心の奥にしみわたっている言葉
があるのです。
その言葉は、僕が尊敬している
諸葛亮孔明が息子にあてた
『誠子書』の中で述べられています。
「寧静致遠」(ねいせいちえん)
意訳例は、
心を穏やかに保つことで
遠くの目標に到達できる
ただ、心を穏やかにするという
話ではなく、もっと
意味の深い言葉だと思っています。
では、どうしたら
そのような状況をつくれるか?
ずばり!瞑想だと考えます。
📝<寧静致遠へのキーワード>
★正確な視覚化
★高揚した感情
★真の存在感
★明確な意図
★一貫性
★明晰さ
★同調・調和
皮のように生きる
川のように生きる
そして
皮のようにも生きる
癒し王ふじです。
みなさんも
皮製品をいくつか身近に持っている
かと思います。
例えば、
財布、ベルトやカバンなど。
皮のように生きるとは
どのようなことでしょう?
皮は、塑性(そせい)
という性質を持ちます。
布にはない
それ自体で形が現れる。
わざとゆがませたり
へこませたり
カーブをつけることもできる。
つまり自由自在に
変形が可能なのです。
皮のように生きるとは、
塑性をもって生きること
と言い換えることができます。
僕がオススメする生き方は
塑性を忘れるな!ということ。
雄大な自然を体感せよ
定期的に大自然を肌で体感しています
癒し王ふじです。
現代人の多くは
圧倒的に”本物の”自然体験が少ないと思います。
本物の自然体験ができない方は
グランピングのような疑似的自然体験でも
しないよりはマシです。
本当の圧倒的な大自然を目の前にすると
人間なんてちっぽけなもので
大自然の前では
何もすることができないのが事実なのです。
僕は、カナダのケベックというところに
旅をしたことがあるのですが
そこで出会った滝のスケールが
あまりにもでかすぎて自然むき出しだったので
その後、訪れたナイアガラの滝が
ちょっと小さく(ショボく)見えたくらいです。
※ナイアガラは人工的に観光地化され過ぎていた・・・
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人間が自然を都合よく支配しようとするのは
人間の思い上がりに過ぎません。
大自然を体感し、まさに肌で感じると
そこには畏敬の念が自然と生まれてくるのでは?
今、現代人が持つべきは
自然に対する畏敬の念だと思います。
市村正親氏からの学び
彼は以前、次のような話をしていた。
「他の役者へのダメ出しは
自分事として受け入れる」
実際にあった僕の話
他のマッサージ師の方が
98歳のおばあちゃんを施術した際
全身内出血状態(紫色)になってしまい
そのマッサージ師は担当から外れてしまいました。
僕がその後引き継ぎました。おばあちゃんは
細身でほぼ”骨皮すじえもん”状態でしたので
圧には細心の注意を払い施術を行いました。
その後、3年間僕が施術を担当。
<ポイント>
★すべてが教師
★視点を変える
★他人の失敗も必ず敗因分析して自分に活かす
★自分事とする
長すぎる支配は、光を遮る
世界の歴史、日本の歴史をみれば
あきらかです。
同じ支配者・権力者が
長く居座れば居座るほど
次のような事態が起こる。
既得権益は膨らみ
利権は増える一方
天下りも横行
国民から搾り上げた税金を
身内内輪・一部の上級階級だけで
無駄遣いするようになる。
つまり、一部の権力を握った者が
やりたい放題、お金も使い放題となる。
最初は素晴らしい志をもって
組織を立ち上げたとしても
どんなに素晴らしい政権を樹立しようが
時間が経てば経つほど腐敗してくる。
当初の教えやルールは崩れて
秩序が乱れていく。
何事にも賞味期限があるのです。
よほどの聖人を除いて
多くのトップに立つ人間は
自分の身を律して
自己修正ができない。
自分たちにフリな法はつくらない。
結局、自分たちには甘いのです。
この話は
政治の世界も、宗教の世界も同じ。
最初の教義がいかに素晴らしいもの
であっても時が経つとともに
だんだんずれてくる。
では、どうすれば
その愚を避けることができるか?
▶対応例
・任期期間に限度をもうけておく
・定時監視して不穏な動きにはきちんと声をあげる
・既得権益や利権は最初から制限・枠をつける
・トップ権力者は、収入や給料なしで国民投票による成果報酬とする
これくらい斬新なことをやらないと
人間の闇から抜けだして光を見出せない。
違うからこそ輝ける、その存在自体が尊い
若くて体力があるから
できることがある。
一方で、
年を重ねていろんな
知見・経験をもつからこそ
できることもある。
どちらもそれぞれ
尊いのだ。
みんなそれぞれ
持っている武器が異なる。
年齢にあった戦い方
経験に沿う戦い方
自分の強みを活かした戦い方を
すればいいんだ。
選択的受容
全受容すると滅びます
歴史を知っている人なら
分かってくれると思いますが
何でもかんでも
外から来たものを
受け入れるとどうなるか?
乗っ取られるか
事実上滅ぼされます。
何でもかんでも
”全受容”するのは
歴史を知らないか?
人体を知らないか?
何も考えていない〇〇か?
それとも確信犯か?
いずれかです。
例えば、入れる審査が甘いと
悪いモノがたくさん中に流入します。
その結果、
やりたい放題の無法地帯と化します。
税関などはわかりやすいと思いますが
実はこれは人にもあてはまるし
物にもあてはまります。
悪意をもった人が入って来ると
治安は悪化します。
悪い物がたくさん入って来ると
健康、文化、伝統、生活習慣まで
良い物を駆逐して広がっていきます。
滅びていった王朝・国や組織の
根本的原因として
悪いモノを多く取り込みすぎた
ということがあるのです。
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そこで必要となるのが
選択的受容。
受容するモノをちゃんと
鑑識眼で選ぶのです。
選択基準・ルール・必要なら法律等
を設け、きちんと線引きし
それを満たしていないものは
絶対入れないようにする。
もし入ってきたら即刻出す。
これを徹底しないと
内なる秩序を継続的に
守り続けることはできません。
人間の体には
”血液脳関門”があり
これも同じ原理。
その門を通過できるものと
通過できないものを選択しています。
何でもかんでも通過させれば
体の組織は維持できないのです。
我欲に陥っていないか?
僕が尊敬しています
市村正親氏の本の中に
こんな文言がある。
癒し王ふじです。
響く言葉はたくさんあったが
特に次のフレーズは強く印象に残っている。
「役者は、見せたい、笑わせたい、感じさせたいと
常に欲だらけの生きもの。でも欲が多すぎるとダメなんだ。
自分の欲を満たすより、あくまで役を演じてなければいけない」
人間って、誰でも欲があることは認める。
ただし我欲があまりにも前に出すぎると
煩くなる。見る人が見れば一発でバレてしまう。
舞台に限らず、テレビの世界、ブログ、
そしてYouTubeにおいても
ただ目立ちたいとか、ばずりたい、アクセスとりたい、
いいねの数が欲しいという
テクニックを駆使し
”我欲承認の塊”
みたいな人はすぐに見ればわかる。
頑張っていること自体は悪くないのですが
それが我欲である場合、
空回りだしうざくなるので
結局、目的地に正しく進めないと思います。
”天”はちゃんと見ています。
煩わしくない存在感
煩くない存在感こそが本物の証
ではないでしょうか?
参照:小川亜矢子先生の言葉
「そんなに大げさな芝居をしなくても
お客様には想像力があるんだから
それを飛び越える過剰な芝居は
煩く感じるんですよ」

