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ナショナリズムの高揚

ナショナリズムの高揚。
施政者に必要なものの一つですが、
何が国民を高揚させると思いますか……?

その最たるものは“戦争”と“スポーツ”です。

戦争はさておき、その意味でオリンピックは、
ナショナリズムの高揚として最大の祭典と言えます。

オリンピックの記憶をたどると、T生の場合、
最も古く、最も鮮烈なのは東京オリンピックです。
1964年(昭和39年)、小学生でした。
テレビの普及とあいまって、
今でも数々の名勝負の記憶が鮮明に残っています。

東京オリンピックは日本の戦後復興の象徴であり、
高度経済成長のスタートと言ってもいいでしょう。

開催国として金メダル獲得数は16個。
アメリカ、ソ連に次ぐ第3位でした。
総メダル数25個と、一躍飛躍したのです。
まさにナショナリズムは高揚したのでありました。


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(映画『東京オリンピック』市川崑監督、東宝)

中でも大松博文監督率いる女子バレーボールの活躍は、
手に汗を握るものでした。宿敵ソ連との決勝戦で、
2セット連取したものの、3セット目、
マッチポイントを取った場面からソ連の粘りが続き、
6回目にして勝ち取った金メダルでした。

まさに手に汗を握る興奮……!
この時のテレビ視聴率は66.8%を記録、
“東洋の魔女”の活躍に日本中が熱狂したのでした。

東洋の魔女たちには後日談がありました。
彼女たちは婚期を遅らせてオリンピックに臨んでいたのです。
オリンピック後、大松監督は婿探しに奔走。
すべての選手が結婚、幸せな家庭を築いたそうです。

東京オリンピックは戦争に負けた日本が復興を期し、
国際社会に認知されるための一大イベントでした。
それだけにこの話は日本のナショナリズムを高揚させ、
今日まで「美談」として語り継がれてきました。

しかし、ナショナリズムの高揚には光と影があります。

T生は“ちょっとだけ”影の部分に触れたく思っています。
それは東京オリンピック・マラソン銅メダリスト、
円谷幸吉選手の悲劇です。

おそらく60代以上の方ならば「あ~ぁ、あの」と
美しい響きの“遺書”を思い出されることでしょう。

T生はオリンピックのたびにこの遺書を思い出します。
次回、その紹介を……。

「楽しむ」ということ

間もなくロンドン・オリンピックが始まります。

インタビューや壮行会のニュースを見ていると、
ずいぶんと日本人の意識も変わってきたものだなぁ、と…。

国の威信を背負い、悲壮感あふれる言葉は、
ほとんど聞かれなくなりました。
いいことじゃないでしょうか?

試合に勝利し、感極まった選手たちの言葉にも、
心に残るものがいくつもありました。

近いところでは何と言っても水泳・北島康介選手の、
「チョー気持ちいい!」(2004 アテネ)でしょうか。
いいですねぇ、ストレートで……!

人々がよく使うようになった言葉もあります。

「今まで生きてきた中で一番幸せです」
(200m平泳ぎ・岩崎恭子 1992 バルセロナ)
14歳の女の子、このギャップが微笑ましかった!

「初めて自分で自分をほめたいと思います」
(マラソン・有森裕子 1996 アトランタ)
選考会で成績を残せなかったにもかかわらず、
前回の銀メダリストということで出場。
その批判の中で獲得した銅メダルでした。

それぞれ人間ドラマとしてとらえると
とても興味深いものがありますが、
今回のテーマではありません。


ラフィーネさんのブログ-オキザリス

(オキザリス、紫の葉が特徴)

そうした名言集の中にそれほど注目されたわけでは
ありませんが、マラソンの高橋尚子選手の言葉があります。
「とっても楽しい42.195キロでした!」(2000 シドニー)

この「楽しい」という言葉、いいなって思います!

実は子供のころからオリンピックを見るたびに、
アメリカの選手たちに感じていたものだったからです。
スポーツ大国でもあるアメリカはいつもメダルラッシュ。
厳しい練習の成果として手にしたメダルにもかかわらず、
インタビューに悲壮感はなく、その振舞いは楽しげでした。

日本もそんな風潮だといいなと思ったものです。

しかし、この「楽しむ」という言葉、
最近では日本の若者たちもよく使っているようです。

オリンピックに限らず、大舞台を前にして、
よく「楽しんできます」という発言を耳にしませんか?

この「楽しむ」という言葉、T生の感覚では、
20年程前からよく使われるようになったのでは…?

バブル崩壊以降、右肩上がりの高度経済成長が終焉。
苦しいこと、辛いことが増え、
ストレス社会と言われるようになりました。

そんな時の心の持ちようとして「楽しむ」ということが
注目されるようになってきたのではないかと考えています。

「仕事に楽しみを見出す」、「逆境に楽しみを見出す」、
「自分の苦手なもの・嫌なものに楽しみを見出す」。
お説教臭く言われるとかないませんが、
いずれも真理を含んでいるように思われます。

「病気と共に生きる」、この「共生」という考え方にも、
この楽しむという真理が含まれているのではないでしょうか。

その意味で若い世代の人々が「楽しむ」ということを、
ごく普通の感覚として持っているということは、
素晴らしいことだなと思わざるを得ません。


執刀医を選択できるか?

重篤な病気の手術は、患者家族ならば、
誰しも名医に執刀していただきたいものです。

しかし、ツテやコネがあるわけではないからと、
あきらめている人も多いのではないでしょうか。

T生がなぜに名医にこだわるのか、
それは、手痛い経験があったからです。

一番下の子供が慢性中耳炎で鼓膜が破れており、
小さなころから両耳がよく聞こえませんでした。
当然プールなどには入れません。

ある程度大きくならないと手術ができないということで、
近所の耳鼻咽喉科に通院していました。
失礼かもしれませんが、その治療はいまから思うと、
ただ耳から出る膿を掃除しているだけ……?

18歳の時にいい病院だからとTという大病院で手術。
中堅の医師が執刀医でした。

退院の時、外に出た息子が「うるさいなぁ」ともらし、
手術が成功したのだなと感動したものです。
しかし、それは束の間の喜びにしかすぎませんでした。
右耳の鼓膜から滲出性の膿が出るようになったからです。


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(サフィニア)

それからです。私ども夫婦が真剣・必死に
病院と医師を調べるようになったのは……。

家内がK病院のA院長を見つけました。
注目すべきは、神尾記念病院の副院長が
開院した個人病院で、HPに「院長自らが
神尾記念病院で手術をする」と書いてあった点です。

神尾記念病院は耳鼻咽喉科の名院です。
全国から耳鼻咽喉科の難病患者が集まります。
しかし、たくさんの医師がいるわけで、
どなたに手術をしていただけるかわかりません。

その点、A医師は副院長経験者ですから、
同病院でも第一級の手技を持っていたことが分ります。
手術は慢性中耳炎に対する鼓室形成術というものです。

受診してからの経緯は本当に
患者・家族を安心させてくださるものでした。
手術の説明は、心臓病のK医師と同じ、
必要過不足のない簡潔なもので、最後に
「お任せください」と言ってくださいました。

手術後の説明も、その第一声はにっこり笑って、
「うまくいきましたよ」というものでした。
その後、図解をしながら簡潔に手術内容を説明し、
「いい青年ですからね、助けてあげたかった」
と結んでくださいました。

その時、T生はありがたく深々と頭を下げました。
その後も時折、病院に行き診ていただいていますが、
何ら問題なく数年が経過しています。

T大病院の担当医も親切な医師でした。
患者に親身ないいお医者さんだったと思います。
しかし、格の違いは否めません。

手術も失敗したとは言えなかったのでしょう。
難しい手術で完治しないかもしれないと、
術後の説明でも言われていました。

難しい手術であればあるほど、
執刀者によってこれほどの違いがあるのです。

実は、心臓弁膜症のK医師も心臓病の名院、
榊原記念病院の副院長をされていました。
そして、K医師が開院したH病院のHPには、
「K医師自らが手術をします」と書いてあります。

コネなどなくとも名医の執刀を受けることは、
決して不可能ではないのです。