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不登校・引きこもり②

息子の不登校、親にとっては悩ましい話です。

しかし、子供はもっと苦しいのかもしれません。
怠けているわけではなく疎外感を味わっているので、
怒るわけにはいきません。

出席しないでいると今度はだんだん
同級生から色眼鏡で見られるようになります。
そうなるとさらに学校へは行きたくないとなります。

「そんなに今の学校が嫌なら環境を変えてみませんか?
全日制は無理ですが、定時制への転校は可能ですよ」

状況が改善されないのを見て取った担任から
こういうアドバイスを受けました。
定時制教師を経験、色々な生徒を見てこられたのでしょう。
柔軟な発想で奔走してくださいました。

おかげで定時制高校への転校が可能となりました。
転校後、真面目に学校へ行っていたとは言えませんが、
不登校ということはなくなりました。
しかし定時制もそれほど面白くなかったのでしょう。

同級生は仕事をしている年上が多く、
仲の良い友人はなかなかできませんでした。
それで、もっぱら地元の友人たちと遊んでいました。
そんな生活を4年間も送りたくなかったようです。

定時制3年時に中退、残りの単位を大学検定試験で取得、
面接試験を受けて大学生となりました。

「すげぇ~な、現役入学と一緒じゃないか。
○○ちゃん、チョー裏ワザだな……!」
大学受験で浪人する地元の友人も多い中、
仲の良い友人たちからこう言われていたようです。

真面目な大学生活を送っているとは言えませんが、
今やすっかり普通の大学生になりました。
アルバイトで自分の小遣いを稼いでいますし、
どこにでもいそうなゲーム好きの男の子と言えます。

留年しながらも卒業はするつもりのようです。
「大学を中退したら学歴は中卒になってしまうからなぁ」
こう言いながら授業に出かける姿を見て、
家内と顔を見合わせほっとする今日この頃です。


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(さるすべりの木が満開でした)

このさして面白くもない息子のことを書いたのは、
何か役に立つことがあるかもしれないと思ったからです。

1.本人を責めたり怒ったりしない。
2.普通に会話をし、話を聞くようにする。
3.家は居心地の悪いものであってはならない。
4.親はどんな状況でも子供の味方である。
5.結果を求めて焦らない。じっくり時間をかける。

まあ、こう偉そうに書いていますが、
どれほどのことができたかT生にはわかりません。

二番目の娘さんが引きこもりだというZさんの
悩みを聞きながら、わが事を顧みていたのでした。
中国人スタッフZさんは女手一つで子育てをしてきました。

「親子3人生活するために働かなければなりませんでした。
今でもそうですが、毎日子供たちの食事を作るだけで
精一杯です。なかなかそれ以上の余裕はありませんよね」

そんな中で子供の心が何かしらの傷を負う……。
すぐに気付いて対処すればよかったと思っても、
せんなく、親としては切ないことでしかありません。
しかも、上の高校生の娘さんは外向的なんだそうです。

「何でも自分で決めます。高校も自分で決め、
将来何をしたいかも自分の中であるようです。
妹とは真逆のような感じです」

ほんとに同じ家庭で育った兄弟・姉妹でも違いますよね!

中国では不登校・引きこもりがあるのか聞いてみました。
「私がいた20年前はまだ貧しかったから、
そんな状況は起こりえませんでした。
子供たちは、朝、家を追い出されてしまいますから。
日本のような豊かな国の問題でしょうね」

そうですよね。でも、現実として不登校・ひきこもり
といった問題はあるわけで、対応せざるを得ません。

Zさんも機会を見ては娘さんを外に誘っているそうです。
我が家の場合もそうでしたが、決してあきらめず、
時間をかけて模索してください。
必ずどこかで転機は来るはずです。

子育ての悩み①

大津市で自殺した中学生の問題が、
連日マスコミをにぎわしています。

これらの記事を読んでいると、
子どもの教育はつくづく難しいものだなと……。

そんなことを思っていましたら、中国人スタッフの
Zさんから思いがけない話を伺いました。

二番目の娘さんが引きこもりになって数年になるというのです。

Zさんは上海の医科大学を卒業、研究員をした後に来日、
日本国籍も取得して20年近くなると言います。
日本で同胞と結婚、今は高校生・中学生と
二人の子供を女手一つで育てています。

思わずT生は身を乗り出して話を聞き始めました。
なぜなら我が家も不登校で悩んだ時期があったからです。


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(アメリカ芙蓉、直径20数cm、写真では
分りませんが、あまりのでかさに驚きです!)

子供というのはちょっとした環境の違いで、
同じ兄弟でも全く違った生き方をするものです。

二男は小さなころから両耳が中耳炎で、
あまり耳が聞こえませんでした。
学校には中耳炎であることを説明し、
プールは見学、一番前の席に座っていました。

中学に入り、バスケット部に入部、
悪ふざけする悪童どもとつるんでいたようです。
よく言うツッパリでも不良でもありません。
だから“悪童”というのですが……。

担任は生真面目な女性の先生でした。
悪ふざけする悪童どもは先生の目の敵にされたようです。
中学でそりの合わない先生と当ると結構不幸です。
最初の2年間、その先生が担任となるからです。

わが子も悪いところがあったのでしょうが、
耳が悪かったために誤解もあったはずです。
でも、何かというと悪いほうへとられたのでした。

自分は悪くないのに悪いと決めつけられ、
子供はすっかり教師不信に陥ってしまいました。
悪循環です!

もっとも、その先生はほかの親と軋轢があったようで、
2年間で他校に移動、今度はクラブの教師が担任になり、
3年生の時はようやく問題がなくなりました。

しかし、2年生の時にその女性教師から、
通信簿で「1」をつけられたことがありました。
中学生の子供に「1」を付けるなどどうかと思いましたが、
先生と争うことをはばかりそのままにしました。

これが高校受験の時にとんでもないことになります。
耳が悪いだけに成績がよいわけではありません。
推薦で私立に入れてしまおうと考えました。
しかし「1」があると推薦入学ができないのです。

幸い公立高校に入ることができ事なきを得ました。
しかし、今度は見知らぬ顔ばかりです。
ここでも中耳炎は子供に影を落とします。

自分で言う冗談が理解されなかったり、
相手の言うことがよく聞き取れなかったり、
正直、このケースも誤解だとは思うのですが、
子供は学校が楽しくなくなったようです。

ある時、担任から電話がかかってきました。
だんだん学校に来なくなり、
ほとんど出席しなくなったというのです。

本人は毎日弁当を持って家を出ていましたから、
親にしてみれば青天の霹靂……!

聞いてみると、学校へ行くのが嫌なので、
本屋で漫画を立ち読みしていたり、
公園で時間をつぶしたりしていたようです。

そんな生活を1か月以上送っていたのでした。

親に心配をかけないように家だけは出る……。
T生は当時、リストラされたサラリーマンが、
日がな一日公園でたむろ姿と重なって、
切なくなってしまいました。

とりあえず、行きたくないのなら家にいればいいと、
遊びに行きたければ出かければいいということにし、
担任の先生と善後策を相談することにしました。
(つづく)




忘れてはならない円谷幸吉選手の悲劇

オリンピックの年を迎えるたびに
T生はふと脳裏に一つの記憶が蘇ります。

東京オリンピック(1964)・マラソン銅メダリスト、
円谷幸吉(つぶらや こうきち)選手のことです。

銅メダルを獲得したことで一躍円谷選手はヒーローになり、
次期メキシコ・オリンピック(1968)に向けて、
金メダルへの期待が高まりました。

しかし、この時から円谷選手の歯車は狂いだします。
メキシコ大会開催の年、年が明けたばかりの1月9日、
自衛隊体育学校宿舎の自室にて自殺……。

下記はその時に書かれた遺書の全文です。
名文です! 悲しく心にしみます!

********************
父上様母上様
三日とろろ美味しうございました。
干し柿 もちも美味しうございました。
敏雄兄姉上様 おすし美味しうございました。
勝美兄姉上様 ブドウ酒 リンゴ美味しうございました。
巌兄姉上様 しそめし 南ばんづけ美味しうございました。
喜久造兄姉上様
ブドウ液 養命酒美味しうございました。
又いつも洗濯ありがとうございました。
幸造兄姉上様
往復車に便乗さして戴き有難とうございました。
モンゴいか美味しうございました。
正男兄姉上様
お気を煩わして大変申し訳ありませんでした。
幸雄君、秀雄君、幹雄君、敏子ちゃん、ひで子ちゃん、
良介君、敬久君、みよ子ちゃん、ゆき江ちゃん、
光江ちゃん、彰君、芳幸君、恵子ちゃん、
幸栄君、裕ちゃん、キーちゃん、正嗣君、
立派な人になってください。
父上様母上様 
幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません。
何卒 お許し下さい。
気が休まる事なく御苦労、御心配をお掛け致し申し訳ありません。
幸吉は父母上様の側で暮しとうございました。
(原文ママ、改行T生)
********************

「○○様 ……美味しうございました」
という美しい韻律が、切々と迫ってきます。

「幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」
「幸吉は父母上様の側で暮しとうございました」
最後に書かれた心の奥底の言葉、清冽な魂の発露、
何度目を通しても涙を禁じることができません。

自ら次回は金メダルをと努力をした果ての結果でした。
なぜ歯車が狂っていったのかはここでは書きません。
興味のある方は円谷選手について書かれた本がありますし、
ネットで「円谷幸吉」と検索すれば、
簡単に知ることができます。

そこには東京大会8位、メキシコ大会銀メダルという
君原健二選手のマラソン人生と比較することもでき、
人間ドラマとしても興味深いものがあります。

大きく言えば円谷選手は「国家の威信」、あるいは
「ナショナリズムの高揚」の犠牲になったと言えます。

実は、2回続けてオリンピックに触れたのは、
このことを知っていただきたかったからなのです。

オリンピックによってナショナリズムが高揚する
ことは、今も昔も変わりがありません。
しかし、それは個人の犠牲を極度に強いるもの
であってはならないと考えるからです。

その点、今日では人々の意識が変わってきました。
前々回「『楽しむ』ということ」で紹介しましたように、
選手たちの意識もまた変わってきました。

選手自身が大舞台で“楽しみ”、その結果、
“人々に勇気を与える”という考え方は、
本当にいいことだな、としみじみ思うのです。
日本の社会も成熟してきたのでしょうね。

今日であれば円谷選手は自殺を選択しなかったでしょう。
その意味で円谷選手の悲劇は忘れてはならないのです。

そんな思いをちょっとばかり心の片隅に置いて、
ロンドンオリンピックを楽しみたいと考えたのでした。



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