月ヶ瀬橋クロニクル【1】(奈良市月ヶ瀬嵩~月ヶ瀬長引) | 穴と橋とあれやらこれやら

穴と橋とあれやらこれやら

初めまして。ヤフーブログ出身、隧道や橋といった土木構造物などを訪ねた記録を、時系列無視で記事にしています。古い情報にご注意を。その他、雑多なネタを展開中。

2014年10月11日、奈良県北東部徘徊。この日のネタで記事にしているのは、せきれい橋旧廃道下津橋、(今は亡き)五月橋向山橋

今宵ご紹介するのは、下津橋から37分後に訪ねた橋…から~の展開について。大した話ではないけど、お付き合いのほど。

 

 

 

まずはこれ。

目的の橋のたもとに。道の両側にいろんなものがあった目が泳いだ。現在地コチラ

 

 

 

 

 

特にこの左側、

情報多すぎ(笑)。

 

ざっと見ただけで、十以上もの看板や石碑がある。白看もあったが、この頃はまださほど興味がなかったのでスルーしちゃってた。

 

 

 

 

 

そんな中で目を引いたのが、

「月瀬橋」と刻まれた石。形状から考えても、旧橋の親柱に違いない。

 

 

 

 

 

そして、道路右側には

古めかしく格式高い(笑)、「月ヶ瀬橋」の案内板が。

 

わたくし的に興味深いことが書いてあったので、内容を書き出してみよう

「 月ヶ瀬橋

 

名勝月ヶ瀬梅渓に来遊した幾多の文人墨客中 天保年間に訪れた斉藤拙堂と共に頼山陽があるが、彼の有名詩の一節に

両山相蹙一渓明 路断遊人呼渡行

とあり当時はこの五月川を渡るには「竹陰の渡」があってその渡舟が唯一の交通機関であった

時代が写り明治二十年県道奈良‐津線の開通と共に初めて木橋が架設され画期的な交通の発展を迎え 観梅客は年と共に増加し 大正十一年三月 名称月瀬梅林として国の文化財指定を受けるに至り爾来村民挙げてその保存育成に努めてきた

その後昭和六年に鉄筋コンクリートに架設され 五月川の清流に調和した勇姿は人々に愛着の情をもたれていたが 高山ダム建設に伴い湖底に没するところとなり 水資源開発公団によって昭和四十三年三月 現在の月ヶ瀬橋の架設竣工をみたものである

 

巾員六米 

延長一六七米 

施工業者 横河橋梁KK 春田工業KK

 

昭和四十四年三月

財団法人月ヶ瀬梅渓保勝会」

 

 

…という内容で、そのそばには

「五月川」と刻まれた親柱。

 

 

 

 

 

看板に書かれていたのは、まさに月ヶ瀬橋のクロニクル(年代記)であり、

現橋は三代目ということになる。

 

大正11年という極めて早い時期、これは我が国最初期の名勝指定なのだとか。現在も月ヶ瀬梅林は有名な観梅スポットであり、シーズンには多くの人が訪れ、この橋を渡る。この写真でいえば、対岸の右手のほうになる。

 

 

 

 

 

 

ちなみに五月川とは名張川の奈良県内での別称であり、ここから5kmほど上流に架かる五月橋(冒頭リンク参照)の名はそこから来ている。

 

しかしながら、

現橋親柱では「名張川」。統一感がないな…。

 

 

 

 

 

で、車で対岸へ。

この時には、それ以上の展開は考えていなかったのだが。

 

 

 

 

 

対岸から正対。

写真を撮ってるこの左手には「梅の資料館」なる施設がある。

 

 

 

 

 

左の親柱にはお誕生日。

「昭和42年12月竣工」。看板での記述よりも四ヶ月ほど早いが、あちらは道路として開通した時期なんだろうと想像。

 

 

 

 

 

右の親柱。

「つきがせばし」。

 

 

 

 

 

なんとかサイド気味アングルで一枚。

三径間の中央スパンがランガー。まあこれ自体はありふれた橋に過ぎない。

 

 

 

 

 

…が、わたくし気づいてしまった。

ははーん?

 

 

 

 

【2】に続く。