2017年6月17日、福岡出張中の唯一の休日だったこの日、「電車と徒歩で行ける」をテーマにいくつかの物件を探索した。記事にしているのは寶萬宮参拝隧道とそれに続く虹のトンネル、幻の清水谷隧道を探して。今宵ご紹介するのはそれらよりも先だった太宰府移動前に訪ねた物件。
その物件に向かう道。
この写真だけで嗅覚の鋭い方は嗅ぎつけるかもしれないが、実はこの道、かつての鉄道線路敷き、つまりは廃線跡である。
上の写真から数百m進んだところで、
右へと降りる側道が現われるのでそちらへ。ちなみに右側に並走する(いや、こっちが並走してるよな、どう見ても)高規格な道路は鳥栖筑紫野道路(福岡県道17号)である。
上から見ただけではまったくそれと知れないが、側道を降りて見れば…
ヨッシャー。キマシタね~。
これがターゲットである、
旧九州鉄道城山(きやま)三連橋梁。
場所はコチラ。ちなみにJR天拝山駅から歩いてきた。
周辺になんらか案内看板的なものが設置されているかと思ったが、何もなかった。けっこうな有名物件なのに。
以下、筑紫野市のHPより転載させていただく。
九州で最初に鉄道営業を始めた九州鉄道株式会社の最初の着工区間(博多-久留米間)に建設された九州で最も古い時期の鉄道橋梁です。
煉瓦造3連アーチ橋で、延長24.5メートル、幅4.7メートル、中央部のアーチ下に久良々川が流れ、両脇のアーチ下は道路となっています。イギリス積み(層ごとに煉瓦の小口面と長手面とが交互に見える積み方)で装飾はなく、橋脚部の基礎まで煉瓦でできています。また、川の上流側は、水圧をやわらげるために丸みがつけられています。
明治22(1889)年12月11日、博多-千歳川仮停車場(筑後川北岸。現.鳥栖市)間で九州初の鉄道路線が開通しました。九州鉄道がドイツ人技師へルマン・ルムシュッテルを技術顧問として招聘して敷設したもので、この橋梁もそのときに建設されました。
大正9(1920)年、二日市-原田間を複線化するにあたり、近くの仮塚(かんづか)越えと呼ばれる急勾配を避けるように新線(東側にある現在の路線)が敷設され、この区間は廃線となりました。それに伴い、この橋梁も鉄道橋梁としての役目を終えました。現在は市道の橋梁として使われています。
平成9(1997)年、「国土の歴史的景観に寄与している」として、国の登録有形文化財になりました。
つうわけで、これは現・鹿児島本線となっている新線建設に伴って廃止された、九州最初の鉄道の廃線跡なのだった。末尾に書かれているように国登録有形文化財であり、土木学会選近代土木遺産Bランク物件である。
この解説によれば、奇しくも今年でちょうど廃線後100年(!)ということになるが、
今もこうして市道の橋として現役で使われているのだった。
ちなみに拙ブログ慣習として、鉄道由来の隧道や橋梁であっても道路転用されている場合は道路モノとしてカテゴライズしているので、本記事も「道路橋」と分類しておく。
過去記事でも何度か書いてる気がするが、
煉瓦製マルチアーチのこの部分、大好物なんよね~。
それにしてもこの三連橋梁、
アーチ部分はもちろん、
アーチカルバート内の側壁部分や基壇部分を含めて、
切石なども一切使わない、純度ひゃくパー完全総煉瓦製!
先ほど紹介した解説文にも総煉瓦と書かれているが、それはこの記事を書くにあたって初めて見たもの。まあ現場でこれに気づくことは容易なことだった。
いや、いいですな~。
最初に見たように、橋梁の西側は鳥栖筑紫野道路。その下なので、独特な写真になった。日陰なのに微妙に明るい感じの。
水切りだって、
もちろん総煉瓦。ちょっと損傷してるけど、ここも好きなんだな~。
それ以外は、どこを見ても
ほぼほぼ綻びが見られないとか、ホント凄いな。当時の職人さんたちが素晴らしい仕事をしたってことですな。
引きで一枚。
まあここまで引くと、上の道路が明らかに邪魔なんだが(笑)。仕方ないわな。
堪能した。
スマホの地図で周辺を見て、西鉄の桜台駅へ向かうことに。そっから太宰府天満宮まで西鉄で移動だ。
去り際に振り返って一枚。
100年前とそんなに大きくは変わってなさそうな景。蒸気機関車に牽かれた列車がゴトゴトとゆくさまが容易に想像できる、そんな感じだ。
絵心もないくせに、腰をおろしてスケッチでもしたくなるような、実に絵になる橋…いや橋梁だった。
以上。