9月2日(水)

 

毎朝、ウォーキングをしていると、季節のちょっとした変化や

けっして毎日毎日同じではない自分の体調に敏感になってきたように思います。

 

昨日の朝は、ずいぶん涼しくなってきたように感じました。

湿度もそんなに高くないさわやかな印象でした。

秋が近くなったように感じて、歩きやすいと思ったのですが、

台風が近づいているせいかもしれません。

夕方は、ゲリラ豪雨。三時間ほど続きました。

雷も鳴っていて、ちょっとこわいと思いました。

 

今朝は、湿度が高くて汗がだらだら。

歩いていても、疲れ気味で少し早めに切り上げました。

昼過ぎから、ひどい雨でした。

 

 

最近お気に入りの散歩コースです。

緑道に距離の目盛りが付いていて、何メートル歩いたかがわかるようになっています。

 

 

 

 

 

 

 

8月27日(木)

 

プチ旅行 二日目。

午前中は石山寺、午後からは鬼室神社に連れて行っていただきました。

 

 

京阪電車の石山寺で下車。

 

すぐそばを瀬田川が流れています。

 

 

瀬田川は琵琶湖から流れ出る唯一の河川です。

宇治川、淀川と名前を変えて、大阪湾に流れ込みます。

 

 

参道を歩いて、東大門へ。

 

 

寺名の由来となっている硅灰岩。天然記念物だそうです。

 

 

階段を上がったところが、本堂です。

 

 

石山寺は、紫式部がここに参篭して源氏物語を執筆した寺としても有名です。

石山寺のホームページによれば、琵琶湖の湖面に映える十五夜の月を眺めて

須磨の地に流される光源氏の着想を得たそうです。

 

10代から40代のころまで、わたしはこの物語が大好きで、

いろいろな作家の翻訳を夢中で読みました。

(原文では読んだことないです)

光源氏という主人公そのものには魅力を感じませんが、

彼というフィルターを通して描かれる女性たちの苦悩や悲しみ、または喜び

といった心理描写の凄さには感動を覚えます。

日ごろ宮中の奥深くにいて、自由に動き回ることも多くの人と交流することも

できなかったはずなのに、この人間観察の鋭さ、奥深さは何だろうと思います。

 

 

多宝塔。国宝です。

多宝塔って、なんだろうと思ってました。

調べると平面が方形の初層、平面が円形の上層を重ね、四角錐の屋根を有する

二層塔婆のことなんだそうです。

なるほど……

その通りの形をしています。

 

 

お昼は、駅にもどる途中の「すみ蔵」さんでお蕎麦をいただきました。

 

 

店内のインテリアもちょっと民芸風ですてき。

感染対策もばっちりで、清潔感のあるいいお店でした。

もちろん、お蕎麦もおいしかったです。

同行の若いおふたりにとっては、量が少なかったみたいです。

 

昼からは、鬼室神社へ行きました。

JR近江八幡駅からバスに乗ります。

一時間弱、幅野町という停留所で降りると、地元のお知り合いの方が

車で迎えに来てくださっていました。

 

 

 

大津に都があったころ、百済からの渡来人で役人であった

鬼室集斯の名前が刻まれた墓碑が見つかったことから

この社名がつけられました。

 

この後、野田道遺跡と石塔寺にも車で連れて行ってくださり、

帰りは、近江八幡駅まで送ってくださいました。

とてもではないですが、車がなければ行けませんでした。

ありがとうございました。ほんとうに感謝です。

 

 

 

野田道遺跡からは、オンドルの遺構が見つかっています。

今は、畑になっていますが、もともとは

圃場整備の発掘で見つかったそうです。

 

 

石塔寺(いしどうじ)。

なが~い階段を昇りきったところに、この塔があります。

しんどかったです。途中息切れして何度か止まってしまった。

 

実は、このお寺に着いたのが、閉門になる5時の5分前でした。

階段下には、すでに鎖がかけられ、お寺の方はだいぶ渋ってられたのですが、

お知り合いの方が頼んでくださって入れてもらいました。

 

昨日も今日も収穫の多いプチ旅行でした。

 

夜は京都泊。

京都駅近くの「倉蔵」で、一杯。

ここもお魚のおいしいいいお店でした。

予約はなかなか取りにくいそうですが、機会があったら、オットットさんとも

来てみたいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

8月26日(水)

 

コロナのせいで、なかなか遠出はできません。

その代わり近隣への小旅行をするようになりました。

今まで気づきませんでしたが、近くにも見どころはいっぱいありますね。

自分の足元を見直すいい機会になっているかと思います。

 

今回は、比叡山延暦寺へ行きました。

健脚のおふたりとご一緒です。

自粛が始まった3月末ぐらいから、なるべく歩くようにしたり

きくち体操をしたりして運動不足にならないよう

自分なりにがんばっているつもりでしたが、

おふたりに着いて行くのはたいへんでした。

「もっと、ちゃんと運動しないと」って、言われちゃいました。トホホ。

運動してないわけやないんやけどね……

 

 

出町柳から叡山電鉄で八瀬比叡山口まで。

ケーブル、ロープウェイと乗り継いで、比叡山頂まで行きました。

 

 

 

バスには乗せてもらえず、舗装路から山道へ入りました。

大比叡。ここがほんとうのてっぺんだそうです。

 

 

延暦寺へ行く途中、智證證大師円珍の廟に寄りました。

円珍は、延暦寺第5世の座主です。

 

少し山道を歩いて、延暦寺東塔地区まで下りました。

 

上の写真は、法華総持院東塔です。

下は、阿弥陀堂です。

 

 

休憩所でお昼をいただいた後、前唐院へ行きました。

 

 

前唐院は、第3世座主であった円仁が住まいにしていたところです。

円仁も円珍も唐に渡っていますが、円仁のほうが先に唐に行っているので、

その住まいを前唐院、円珍はその後に行っているので、

その住まいを後唐院と呼んでいるそうです。

 

この後、西塔地区に向かいました。

橋を渡ったところに、山王院があります。

 

 

ここが、円珍が住まいにしていたところです。

山王院、別名を後唐院といいます。

 

更に進んで行くと、浄土院に着きます。

ここは、延暦寺の開祖最澄の廟です。

 

 

 

更に西塔地区を歩いて行くと、

にない堂、釈迦堂に着きました。

 

 

にない堂の左の建物は、法華堂です。

写真には写っていませんが、右には常行堂という建物があり、

そのふたつの建物を渡り廊下がつないでいます。

廊下がまるで、にない棒のような役目を果たしているようなので、

にない堂と呼ばれているようです。

 

 

上の写真は、釈迦堂です。

 

ここから、東塔地区にもどりました。

最後の訪問場所は、円仁の御廟です。

 

 

急な坂道をずんずん下って行った先に、御廟はありました。

帰りは、この坂を上がって帰るんだと思うと、それも憂鬱でしたが、

坂自体を下りるのも一苦労でした。膝に堪えました。

同行者は、ここを走って下りてました。考えられません。

 

やっとたどり着きました。

慈覚大師円仁の御廟です。

 

 

 

数年前、別の友人とこの墓を探して来たことがあるのですが、

バスの時間が気になって(というか、あの坂を時間内に登る自信が無くて)

途中であきらめました。

そういう意味では、念願の御廟なんです。

来てみれば、もうちょっとのところだったのですがね。

惜しかったです。

 

 

帰りは、ケーブルで坂本まで下りました。

 

 

一泊目は、大津駅前のホテルに泊まりました。

 

 

近いということもあり、比叡山には子どものころから何度か来たことがあるのですが、

そのたびに根本中堂だけ見て、見学終了のような気分になっていました。

今回は、丁寧に見学することができました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

8月24日(月)

 

朝のウォーキング。今日で、18日目。

三日坊主にならずに何とか続いています。

おかげで、少しハイになってきました。

さぼると、何となく気持ち悪いんじゃないかと思います。

 

5時半前後に家を出て、帰宅は7時ごろ。

そう、毎日一時間半程度は歩いています。

10000歩は、越えますね。

以前は毎日、10000歩けと言われていましたが、ほんとは7000歩から8000歩ぐらいが

身体にはいいらしいです。10000歩はやりすぎ。

ふだん運動しなかった人が急に頑張りすぎると却って身体を傷めることがあるのだとか。

でも、何だかやめられない。

10000歩未満だと、負けた気分になってしまいます。

 

 

昨日と一昨日のゲリラ豪雨のせいか、暑さはほんの少しましだった気がします。

勿論、まだまだまだまだ暑いですよ。

 

 

でも、どことなく秋の気配がしだしました。

どこに気配を感じるんでしょう。そう、蝉の声かもしれません。

そうかもしれませんが、わたしは、光に秋の気配を感じます。

オレンジ色の光。

 

 

 

 

 

 

8月14日(金)

 

柏原市にある高井田山古墳に行きました。

JR大和路線「高井田」駅から、歩いてすぐ5分くらいのところにあります。

 

 

 

周りは住宅地のはずなのですが、この古墳の一角だけ妙に静かな雰囲気。

おまけに猛暑のせいで、わたし以外他に人が見えません。

 

 

こんなお墓やあんなお墓(横穴墓)がたくさんあって、調査されているだけでも、

162基あるそうです。

お墓、苦手なんです。

後から写真で振り返ってみると、あんまり不気味さが伝わってこないと思いますが、

ちょっと、背中がぞわっとしました。

ひとりで来るんじゃなかったとちょっと後悔。

 

 

それでも、がんばって、何とか歴史資料館に到着。

 

 

高井田山古墳は、この高井田横穴公園の一番高いところにあります。

5世紀後半の築造だと考えられています。

公園にある他の横穴墓は、6世紀半ばから7世紀初めの約50年の間に

作られたもので、高井田山古墳とは時代が少しずれています。

 

上の写真は、東棺から出土した火熨斗です。

この火熨斗や下の写真にあるガラス玉のネックレスは朝鮮半島から

伝わったものだとされています。

 

 

資料館を出て、高井田山古墳をめざします。

 

 

玄室側から見たところです。こちら側が北。

羨道は玄室から見て左側に寄っています。

棺は二基あります。

玄室入口には、須恵器が置かれていました。

この当時、日本には土器や須恵器を墓に副葬する習慣がなく、

このこともこの古墳が朝鮮半島の影響を色濃く受けている証です。

 

 

上の写真は、羨道側から見たところです。

西棺のそばには冑が置かれていました。

東棺の頭部近くからは、火熨斗や鏡が出土しています。

 

副葬品から見て、このおふたりは男女だったのでしょうね。

おそらくは、夫婦。

このように夫婦を合葬するのは、中国や朝鮮半島の習慣であって、

日本にはないものだそうです。

 

とにかく、暑い日でした。

こんな暑い日に外に出るのもと少しためらいましたが、

思い切って来てよかったです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

8月12日(水)

 

朝に散歩をしています。

まだ、6日目ですが……。

 

体重はちっとも変化しないですが、今度こそ少しでも継続するように頑張りたいです。

体にとって、良い事には違いないですものね。

歩かないと、何だかやりのこしたことがあるようで気持ち悪く思ってしまう。

早くその域に達したいです。

今はまだ、歩かない日があっても、大して気持ち悪くはない気がします。

超初心者です。

 

 

朝の空。今日は少し雲が多め。

でも、昼になると、良く晴れて今日も暑い一日でした。

 

 

オシロイバナ。

幼いころ、よく見かけたなつかしい花です。

オシロイバナは、夕方4時ごろに開花して翌日の午前中にはしおれてしまうそうです。

知りませんでした。

 

 

むくげ。文化財調査事務所の入り口そばに咲いていました。

 

 

 

8月4日(火)

 

おそい梅雨がやっと明けたと思うと、今度は猛暑がおそってきました。

とにかく、暑いです。

うかつに外に出ると危険なぐらい。

しかも、ただ暑いだけで、夏がやってきたあ!

というあのきらきらした輝きというかエネルギーが感じられません。

やはり、コロナ禍のせいですね。

毎日新規感染者の数におびえながら、うつうつとした日々を過ごしています。

 

そんな中、今日は久しぶりに外に出ました。

近つ飛鳥博物館で開かれている「堂山一号墳」 の夏季企画展の見学です。

考古学サークルの講師を務めてくださっているF先生のお誘いでした。

チケットまで用意してくださって、ありがたかったです。

 

 

わたしは今回の展示によって、初めて「堂山古墳」の名まえを知りました。

堂山1号墳は、大東市にある5世紀前葉に築造された円墳だそうです。。

ということは、応神陵に比定されている誉田御廟山古墳と同時期の築造。

堂山一号墳の被葬者は、当時この地域に根を張ったヤマト王権に

仕える武人だったのでしょうか。

 

今日は、堂山古墳の企画展だったのですが、

個人的には常設展示にある「船王後の墓誌」(複製)に関心を持ちました。

 

 

この墓誌は江戸時代に出土したと伝えられ、正確な出土地はわかりません。

墓誌には松岳山に埋葬されたとあって、それが、柏原市の松岳山古墳

に比定されたこともあったようですが、どうも時代が違っているようです。

 

船氏は渡来系氏族で、氏族名から推し測っても河川を利用した流通

に関わっていた人たちのようです。

地図を調べてみると、以前から行きたいと思っていた高井田山古墳と

松岳山古墳とは間に大和川をはさんで、近いようです。

王後とは関係ないかもしれませんが、

これは、きっと、何かある!近々行ってみようと思います。

 

 

コートのボタンぐらいの大きさの鏡。

これをよく鏡だと見抜きましたね。

 

我が家と博物館は距離的にはさほど遠くないのですが、

電車だと回って行かなくてはなりません。

今日は、幸い往復とも送って下さる方がいて助かりました。

非情感謝!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

4月17日(金)

 

コロナのおかげで、4月に入ってからはほとんど家にいます。

会う人と言えば、同居人のオットットさんぐらい。

ゴミ出しなどでご近所さんにお会いしても、ごあいさつ程度です。

お互いなるべく話さないように気を使ってしまいます。

数日に一度ぐらいの頻度で買い物に行きますが、それも人とはなるべく距離を置くようにしています。

 

人恋しいですね。

人と会って、冗談を言い合って笑ったり思いっきりおしゃべりがしたいです。

 

せめて、予定のなくなったこの膨大な時間を使って本を読もうと思っています。

それも、この際ですから、電車の中や隙間時間などでは読めないがっつりした本を。

 

 

というわけで、ただ今、『三国志』第六冊蜀書に挑戦中です。

この『三国志』は全部で八巻あるのですが、とりあえずは昨年末に第六冊だけが出版されました。

あとは、一年に一冊の割合で出版する予定だと書かれていました。

構成は、原文、訓読、補注、現代語訳となっています。

なるべく原文から読むつもりで、訓読や現代語訳とにらめっこ、漢字字典を引きながら

読み進めています。

人名や地名もいっぱい出てくるし、しかも見慣れない漢字がうようよ。

10日かかって、やっと、80頁ほど。全部で635頁もあるので、読了する頃にはコロナもきっと収束していますよね。

否、終息していてほしいです。

 

コロナのおかげと言っては、語弊がありますが、

こんなまとまった時間でもなければ、この本も忙しさにまぎれてきっと積ん読の中の一冊になっていたに違いありません。

自分の本棚を見わたしてみると読まずにほってある本が山ほどあります。

今まで自分の趣味は読書だと思っていましたが、実は積ん読だったのだと今になって気が付きました。

 

 

それから、こんな本も。

この1月から3月にかけて、朝日カルチャーで森安孝夫さんの講座を受けたのをきっかけに

中央ユーラシアの歴史も面白いと思うようになりました。

この期間に精力的に読書に励みたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

梅 3月8日(金)

 

あっという間に、三月です。

今月は東京の娘のところに何回か行く予定があり、月末には止めの韓国旅行があります。

(あっ、旅行と言ってはいけないんだった。一応、勉強しに行くことになっているので、踏査と言わなくちゃいけないんですって)

「ああ忙しい。忙しい」と言いながら、あちらこちらに不義理をしつつばたばたと過ぎていく一ヶ月が予想できます。

でも、とにかく、過ぎてから「あっ!」と言わないよう、地に足をつけて一歩一歩少しでも有意義な時間を過ごしていきたいと思います。

 

3月4日から7日まで、東京でした。娘が仕事に行くので、孫守りをしていました。

お姫たんは、来月が一歳のお誕生日。

気のせいか、「ばば」とわたしのことを呼んでくれているようにも思えて、にこにこ笑顔を向けられると、

ばあば馬鹿丸出しで、「かっわいい~」を連発してしまいます。

 

5日は、ママもお仕事がなかったので、孫守りから解放。

上野の国立科学博物館へ行きました。

 

 

「砂丘に眠る弥生人」と題して、先月訪れた土井ケ浜の展示がされていました。

 

 

 

土井ケ浜遺跡からは、腕にいくつもの貝輪をつけた人骨が見つかっています。

原料は何の貝なのか、さまざまな種類の貝を使って実験がおこなわれたそうです。

その結果、ゴホウラだということがわかりました。

わたしは、貝輪を見た瞬間にゴホウラだとわかったのかなと何となく思っていました。

しかし、そのことを裏付けるためには、地道な研究が積み重ねられているのですね。

 

科学博物館のあとは、お隣の東博に行きました。

やっぱり、これを見たくなります。

 

 

新沢千塚126号墳出土の副葬品です。

 

この日は、ぽかぽか陽気。春らしい一日でした。

セーターなんか着ていると、暑いくらいでした。

みかん 2月23日(土)

 

北九州から帰ってきて、その足で、京都に行きました。

京都に残る東アジア交流関連遺跡 と標題に書きましたが、

主なキーワードは、円仁と秦氏です。

 

まず、京都市考古資料館に行きました。

 

 

写真は、樫原廃寺(かたぎはらはいじ)から出土した瓦です。

 

その後は、石座神社(いわくらじんじゃ)、赤山禅院に行きました。

 

 

石座神社は、本殿がふたつにわかれていて、計12神が祀られています。

そのうち、新羅明神・松尾明神・賀茂明神・稲荷明神などが、渡来系の人々や秦氏とつながりがあります。

 

円仁は、唐留学時、一時期、山東半島にある赤山法華院に滞在したことがあります。

赤山明神はこの赤山法華院に祀られていた神で、円仁が帰国の途中暴風雨に見舞われた際、

船首にあらわれ暴風雨をおさめたという説話が残っています。

京都の赤山禅院は、その円仁の遺命によって、天台座主安慧(あんね)が建立しました。

 

その後は、さらに北へ。

比叡山延暦寺に行きました。

 

 

みかん 2月24日(日)

 

京都2日目は、強行軍でした。

 

 

まず、鴻臚館跡へ。

鴻臚館は、平安時代、海外からきた人たちを泊める施設でした。

この時代、(公的に)海外から来る人というのは、ほぼ渤海人でした。

鴻臚館は、朱雀大路をはさんで東西にありました。

因みに、京都のシンボル的なお寺である東寺も朱雀大路をはさんで対称的な位置に西寺がありました。

 

 

樫原廃寺跡です。

瓦積み基壇や、八角の塔があったことが確認されています。

八角塔は、高句麗に起源があります。

 

 

高野新笠の御陵に行きました。

ここにたどり着くまでには、ちょっとした山道。

ちょっとした山道ですが、わたしには、結構こたえました。

 

高野新笠は、光仁天皇夫人、桓武天皇の生母です。

新笠は、百済系渡来人の娘です。

桓武は、自らの中に流れる渡来系の血を意識したのか、

桓武朝には、高麗福信や坂上田村麻呂などの渡来系の人々を重用したそうです。

 

 

松尾大社は、秦氏の神社であり、今も多くの氏子を抱える大きな神社です。

造酒の神さまでもあるそうです。

 

 

蛇塚です。住宅地の中にある前方後円墳。

ふだんは鍵がかかっていて入れませんが、事前に連絡しておくと、

この古墳のお向かいのおうちの方が鍵を持ってらっしゃって開けてくださいます。

何だか、町内で守っているお墓という感じでした。

 

 

秦氏の氏寺である広隆寺。

このお寺には、かの有名な半跏思惟像があります。

たまに、無性にお会いしたくなるそんな仏さまですよね。

 

 

蚕の社。

秦氏は、機織り技術や養蚕とも関わりがあります。

この神社には、ユニークな三柱鳥居があります。

 

 

最後に大覚寺古墳群や、天塚古墳を見て回りました。

上の写真大沢の池の隣には、観光地で有名な大覚寺がありますが、

今回の旅では、そういうメジャーなところは、あまり行きませんでした。