シイタケのブログ -29ページ目

待機児童問題…少子化なのに保育所に入れない!

 待機児童、つまり、保育園(保育所)に入りたくても入れない子どもの問題がいつまでも解消されない。子を預けて働きに出たいのに働けない親がたくさんいるということだ。働きに出たい、というよりも、むしろ働きに出なければ生きていけない、家計が苦しい、というのが実情であろう。典型的には、子を保育園に預けられず家で面倒を見なければならないのは、母親のほうである。男女共同参画社会やら、少子化対策(子育て支援)やら、政府や自治体はスローガンは掲げているものの、実際の政策となるとまことに乏しい。子の数は確実に減っているのに、どうしていまだに保育園が狭き門になっているのか。夫の給与は上がらない、妻は家計を助けるために働きに出ようとしても、それがかなわないのである。かくして2人目の子をもつ気はなくなり、ますます少子化となり、女性の社会的地位も低いままとなり、そんな女性を見た若い世代はますます子を生む気がなくなり、負の連鎖になる。福祉行政の貧困を感じる。

 子育て支援のために、国や自治体は家庭に何らかの給付を与えている。児童手当の類である。年収制限はあるものの、平均的な家庭には支給されるであろう。それは月額1万数千円程度である。…しかし、はたしてこのような「バラマキ」が、子育て支援に成果を上げているかといえばはっきり言って疑問である。この類の手当は年収制限があるといっても、相当程度高い収入があっても支給される。そうなってくると、月額1万数千円というのは家計にとってみればたいした額ではない。それよりむしろ、保育所をきちんと整備してくれたほうがよほど収入安定につながるのである。このような保育行政の貧困の原因は、まずは国が地方に対する保育施設等向けの補助金を打ち切ったことが大きいであろう。また、国会議員・地方議員の保守系の大半が「夫は仕事、妻は家庭」といった化石のような思考をもっていることが挙げられよう。彼らは夫(男親)の収入だけでも十分生活に余裕がある家庭に育ってきたのであろう…。このような行政と税金の流れからは、とても保育所の充実は望めない。国民・住民が選挙した結果がこれだから無情だ。

 保育園の問題は、単に施設があるか否かの問題だけではない。お金がなければ施設も老朽化して危険になる。耐震対策はどのようになっているのだろうか。また、認可無認可を問わず、保母さんの待遇は非常に悪いと聞く。とても一人暮らしできる年収ではないと聞く。そして非常勤や派遣社員が多く、継続して働く保母さんは少ないという。保母さんの生活の保障なくして、子どもの安全な保育の質が保たれるのであろうか? 都内でも保育園は民営化されつつある。「何でも民営化すればそれで問題が解決する」といまだに妄信している都議会議員と都職員を糾弾したい。東京都では認可保育園(公立)と無認可の間の中間的な存在として「認証保育所(認証保育園)」がある。これは行政から補助金を受けつつも、企業や個人が独立採算で保育園の経営を行なっているものである。保育行政の貧困のためにこのような制度をひねり出したようだが、認証保育所は質の高いものから低いものまでさまざまであり、一応の基準を設けている行政側も、実態が把握できていないようである。都議会の共産党議員が追及していたが、ある認証保育所では100円ショップの食器のため熱湯消毒もできず、食材も中国産の冷凍食品、おやつはタマゴボーロ数粒、など、聞いていて涙の出るような運営をしていた(追及された保育所は認証取消しとなった。当然だ!)。園庭がなくつまらないとか、保母さんの意欲がなく遊んでもらえないとかの問題どころではない。成長に必要な栄養さえ採算のために削っていたというのであるから非常に悪質だ。認証保育所経営者の中には、補助金が出ることを目当てにして「儲け」を目的に参入しているものも少なくないという。福祉事業をビジネスととらえること自体が誤りである。儲かる儲からないの問題ではなく国民の生活権の問題だからこそもともと行政が主体になっているのであるし、今後もそうあるべきだ。福祉を忘れた行政府はもはや正当性のない強権集団でしかない。また、認証保育所や無認可保育所は保育料がとても高いのも問題である。独立採算なので、公立のように親の収入に応じて保育料が変わることもない。平均すると0~1歳児で月額5万円から7万円が相場であろう。これほど高いと、もし母親が子を預けて時給パートに出たとして、フル出勤しても給料の半分かそれ以上を保育料に取られてしまうことになる。こんなバカげた話があるだろうか。

 このような現状を考えれば考えるほど、税金が本当に必要な人のところに回っていない、ということをつくづく感じる。

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東京五輪は必要か

 北京オリンピック開催中につき、関連して東京オリンピック招致活動について触れてみたいと思う。といっても私の意見はシンプルで、東京でオリンピックを開催する必要はない、というものだ。すでに都内のあちこちには東京五輪招致活動中のノボリが立てられている。経済成長著しい国でオリンピックを開催するなら、それはそれで意味があろう。それを機に社会資本の整備が進んだり、テレビなど購買意欲が高まったり、世界の注目が集まって経済効果も見込めるからである。その国の情報が世界に伝わることによって、政治体制自体もよい方向へ変容する可能性もある。しかしながら、現在のようにオリンピックが一大商業イベントと化している以上、日本で開催する意義は非常に小さい。むしろ財政が厳しい中、オリンピックにかけるお金は無駄である。新たな競技場も新たな交通施設も、もはや必要ない。試算によれば、もし東京でオリンピックを開催する場合、数百億円の公金が支出されるという。というかむしろすでに準備として支出されつつある。公共事業予算が削られて経営が厳しくなっている土建業界にとって、オリンピックに関わる公共工事はおいしい話であろう。しかし今の日本で、オリンピックに使う数百億円があったら他にお金を回してほしい事柄が山ほどある。とりわけ、東京五輪の開催に関しては東京都も独自に財政負担が予定されているが、今の東京の財政のあり方はひどい。病院を民営化し、保育園を民営化するなど、福祉予算を削る一方で、新銀行東京に数百億円追加出資するなど都民無視である。これら悪都政の責任は全て石原都知事とそれを支える都議会議員にある。石原都知事の言動から判断すると、オリンピック招致は彼にとってまさに「国威発揚」である。その根っこは「北京以上にドーンと大きなことをやってみせたい」という無邪気な願望である。このような不純な動機は、世界の平和と個人の尊重を志向する「オリンピック憲章」にまったくそぐわない。都民は都知事の道楽に付き合う余裕はないのである。また、土建業界とつながった都議会議員も東京五輪招致を進めているであろう。東京五輪開催に関しては、彼らのような「オリンピックでおいしい思いをする人」を監視する必要があると思う。一部には「東京でオリンピック見物がしたい」というわがままな市民もいるかもしれないが、大画面テレビで我慢してほしい。我慢できなければ直接開催国に行ってきなさいと申し上げたい。

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今さらながら秋葉原事件について

 今朝テレビを見ていたら櫻井よしこ氏が出演していて、先の秋葉原連続殺傷事件など、最近の若者の暴力行為について、「全ては憲法につながる。憲法を改正して国民の義務規定を拡充して、律する心を育てるべきだ」というような趣旨の発言をしていた。「憲法は権利規定ばかりでけしからん、国民の義務規定ももっと盛り込むべきだ」というお決まりの憲法改正論が、未だに繰り返され、しかもテレビで垂れ流されているという由々しき事態に驚く。今さら繰り返すまでもないが、封建国家時代の「定め」とは異なり、近代国家といわれる国家における憲法というものは、国家を律して国民の権利を守ることが第一の目的であり使命である。国家権力の乱用から国民を守らない憲法はもはや憲法ではない。これは市民革命を経てきた世界の歴史を見れば明らかなことで、共通認識があるはずだ。したがって憲法というものは国家権力側から見れば常に「押し付け」られているものであり、憲法の中に国民の権利がたくさん書かれていて当然なのである。納税、教育、勤労といった義務は、最低限書かれてあればそれでよい。国民の義務規定が少ない憲法はそれで望ましい憲法なのである。義務規定が権利規定ほどに多くなって、国家が国民に多くの義務を課すようになってしまっては、憲法の存在意義はもはやなく、近代国家以前に逆戻りということなのである。このような最低限の認識を踏まえて、櫻井氏は「義務規定を入れろ」と述べているのであろうか。ひょっとすると、彼女は近代国家における憲法の意義からさらに進んで、次なる時代の憲法は義務規定も入れなければならない、という持論なのかもしれない。それはそれで進んだ考え方だといえよう。しかしその前に、権利規定ばかりの今の憲法をもっと現実社会に生かす必要がある。「次の時代」の憲法に進むのはそれからだ(私はそもそも反対だが)。ワーキングプアが多くなって国家が国民の生存権(憲法25条)や個人の尊厳(13条)すら保障しようとしない時代に、義務規定の挿入など無意味どころか害悪だ。

 ところで秋葉原事件についてはマスコミでもいろんな人の意見が流されて、格差社会の象徴であるといった意見もあれば、犯人の稚拙さを非難する意見もある。つまり、「社会が悪い」「個人が悪い」「いやどちらも悪い」のいずれかということだろう。これは犯罪や刑罰の意義を考えるときの話と同じであって、どちらかに割り切れるものではないと思う。個人は社会に制約されつつも、自律して生きていく存在である。ただひとついえることは、「派遣労働など雇用不安を生み出した社会が犯罪の引き金になった」という意見に対して、「それは違う、犯罪者個人の忍耐力のなさ、甘えがけしからんのだ」という反論は、問題を何も解決しないということだろう。

 派遣労働がはびこって低賃金、雇用不安が広がる中では、犯罪が増えるに決まっている。労働者としての人格を否定されて自暴自棄になる者が出るのは当然だ。「個人が悪い」と主張する者は、人は自分の存在(尊厳)を軽く扱われたときにどれほどの傷を負うのかという認識が欠けている。「昔はみんな貧しかったのに清く正しく生きた」という反論もあろうが、景気と犯罪件数が比例関係にあるのは統計上も明らかであるし、そもそも現代社会は大量消費をあおるきらびやかな広告や装飾があふれており、雇用不安を抱える者の「取り残され感」は昔とは比較にならないといえよう。個人は自律して生きているといっても、それを妨げたり制約したりする社会の要因があまりにも大きければ、もはやそのような中で生まれた人格は自律しているとはいえない。社会の中で規範を学ばなかったことを責めても、その社会(職場)の待遇がひどければ学ぶ余裕もないだろう。家庭の教育が悪いことを責めても、貧しい家庭で両親とも食わせることで精一杯だったという事情があるかもしれない。あるいは学校教育を責めても、先生1人あたりの生徒数が多く先生も負担ばかりが増えて、一人一人の面倒を見てあげられなかったかもしれない。このように個人の人格形成には目に見えない形で様々の社会的背景があるのであり、それを考慮することなしに個人を責めても自己満足に終わるだけなのである。また、個人を責めて済ませることは、背後に隠れている様々な社会問題を隠蔽してしまうことになりかねない。

 政策判断の問題として、ひとついえることがある。個人にはいろんなタイプがいて、一見幸福そうな家庭の中で育っていても、様々な情報や帰属社会の中で、想像できないような人格を形成することもありうる。貧しくても素直で明るく朗らかな性格ならそれはそれでよい。しかし人間の中にはキレやすい人、差別意識の強い人、被害妄想を抱える人など、様々なタイプがある。そんな中で今の日本のように格差社会、弱肉強食社会に進んで行けばどうなるか…これまでなんとか抑えていた暴力的な人格が暴発するのは目に見えている。そしてこのような暴発により被害を受けるのは一般市民である。このように、社会政策の意味においても、格差社会の進行は止めなければならないと、私は考える。

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