シイタケのブログ -28ページ目

「右翼」について考える

 今年の夏も閣僚の靖国神社参拝をめぐって「右翼」と呼ばれる人々が街角でもインターネットでも目立っているようなので、「右翼」について考えてみたいと思う。右翼とは、右翼の定義は…どこかに正式なものがあるのかもしれないが、日本において右翼とは、軍国主義思想に近く(先の侵略戦争を肯定)、反共産主義であり、民族主義でとりわけ中国人や朝鮮人を蔑視し、天皇を頂点としたタテ社会の秩序を重んじる、そういう思想の持ち主のことをいうのであろうか。私はそもそも「右翼」「左翼」というレッテル貼りは好まない。現にある様々な社会問題は、個々の論点でどのように判断するかということが大事であり、右翼だからこう、左翼だからこう、と二者択一的には解決しないと思っているからである。しかし今回はあえて「右翼」と呼ばせてもらう。「右翼」と呼ばれる人の考え方にはある程度共通するものがあり、それを一括りにして語ることもできよう。

 インターネットが普及していなかったころは、「右翼」に接する機会はそう多くなかった。政治家や政治評論家の中に右翼的な人物がいて、テレビなどで発言していたり、街角で街宣車を見たり、あるいは参議院の全国区(比例区)で極右の泡沫政党を見かけるぐらいであった。しかしインターネットが普及して少し様相が変わった。プライベートのサイトやブログ、2ちゃんねるを少し見ただけでも、「右翼」的な主張をしている者が多い。ネット社会ではおそらく左翼的言説より右翼的言説のほうが多数派であろう。私はこれまで受けてきた教育や見聞きしてきたことから、先の日中戦争あたりから太平洋戦争までの日本の軍国主義的政策は、完全に誤りだったというのが大多数の日本人の意見だと思っていた。ところがネット上の右翼(以下ネット右翼と呼ぶ)の軍国主義正当化を目の当たりにして衝撃を受けた。そして日本人の行く末に危機感を覚えた。子どもでも簡単にアクセスできるインターネットの影響力は大きいからである。

 従来型の「右翼」の正体が、実は暴力団の一部であったり、民族的マイノリティであったりすることはよく指摘されていることである。しかしこのような「ネット以外」の右翼は、おそらくこれからもマイノリティであり、社会にそれほど大きな影響を与えないだろうと思う。問題はインターネットの普及によって顕在化した右翼的志向の一定の集団である。実は彼らもまた組織的に、ネット上に右翼的言説を広げているだけかもしれない。国民の中の実数は少ないとしても、組織的行動によって多数派に見せかけているだけかもしれない。そうであることを望んではいるが、しかしあまりにもネット上に右翼的言説が蔓延しているとなると、これから日本の政治や社会について考え始めようとする若い世代にとって有害であろう。

 右翼の定義を先に述べたように考えるならば、右翼的思想は決して人類に幸福をもたらさない。右翼が正当化しようとする戦前の日本の軍国主義が、結果として日本・アジアで1000万人を超える死者を出したことから、誤っていたことは明白だ。いかに大東亜共栄圏という新秩序の思想が見かけ上「美しい」ものであったとしても、それで大量殺戮を正当化することは絶対にできない。現代においても、右翼はより軍備増強を求めているが(核兵器保有も訴えるが)、軍備拡大競争が国民を危険にさらし、財政を圧迫して国民を苦しめることは目に見えている。また、右翼は反社会主義・反共産主義であるが、資本主義の矛盾を指摘し、生産物(富)を平等に分配しようという思想を否定することは、弱肉強食、貧富の差の激しい格差社会を肯定することになる。さらに中国人や朝鮮人を蔑視することは、そもそも人はみな尊厳をもっているという考えに反することになるし、蔑視する本人が、他民族から蔑視されてもやむを得ないということにつながる。そして民族的排他主義は、紛争の要因となってこれまた犠牲者をもたらすことになる。

 というわけで右翼的言説はほぼ全て、「人の命を大事にするか」「人の幸福を大事にするか」という視点から見て、誤っている。ただ、かといって私はいわゆる「極左」の思想も支持しない。彼らもまた右翼と同様、特定の価値観に基づいた秩序を重んじ、異論を許さない(=表現の自由を認めない)からである。これまた政治に対する民主的コントロールが及ばず暴走の危険性があり、「人の命」を軽んずることにつながるであろう。

 戦前の日本を見ても明らかだが、右翼的思考の政策への反映が、特定の集団や人物の利権の拡大につながることはよくあることである。過去において日本の朝鮮・中国侵略は財閥に大きな利益をもたらしたし、国内でも企業が朝鮮人らを強制労働させることで利益を上げた。したがって、右翼的思想は個人の思想としてもつなら他人に害を与えないが、特定の集団や人物の利権のために「利用」される恐れがあることも指摘しておきたい。

 ネット上の右翼的言説が仮に組織的な運動によるところが大きいとしても、それまで特に政治的思想のなかった者が、マスコミやネットに触れていくうちに、右翼的思考に傾いて行くことがあることも事実であろう。ではどうして、右翼的思考は特定の人々の心をとらえる(=魅力的に映る)のであろうか。これまで私は色々考えてみたが、なかなか答えが出ない。すでにそのようなことについて触れた書物もあるかもしれないが、不勉強で私は出会ったことがない。「ネット右翼」の正体について「劣等感をもった引きこもり」とする意見もあるが、蔑視的表現をしてもこれまた右翼と同じ土俵であろう。私なりの現在の考えを述べてみたいと思う。

 結論から言えば、「自分自身の利益と、その属する集団の利益の区別(違い)をはっきり意識しない(できない)人が、右翼的思考に陥る」のではないだろうか(…蔑視的表現はしないつもりだがこれもまた蔑視的であろうか?)。例えば、中国の政治家が日本の政策を非難したとすると、非難されたのは日本の政策であるのに、日本に属する自分自身が非難されたように誤解してしまうのが右翼的性質である。あるいは北朝鮮政府幹部が外国人を拉致したり核兵器開発をしていることを見聞きして、北朝鮮の庶民は何らそれらに関わっていないのに、北朝鮮国民全員を「悪者」と決め付けてしまう。しかし本当は、個人の利害と、その帰属する集団の利害は一致しないということを認識する必要がある。そうでないと、集団の利益によって個人の利益を得ようとする人々に「利用」されてしまう恐れがある。または罪のない人に犠牲を強いることになってしまう。

 スポーツの世界で、今まさに北京オリンピックが開かれているが、競泳の北島選手と何ら個人的つながりはなく、彼が金メダルを取ったからといって自分の名誉にも何にもならなくても、帰属する国家が同じ日本だから(あるいは同じ地域の出身だから)という理由で応援するのは差し支えない。個人の趣味の範囲内である。しかし政治は趣味やスポーツとは異なる。民主主義国家である以上、自分の安易な投票行動が自分以外の日本人、あるいは他国の人の生命財産に危害を与える可能性があることを意識すべきだ。繰り返すが、集団の利益と個人の利益は異なる。日本国が軍事力を強めて強い国家になったからといって、個人も強くなってその生命財産が守られるわけではない。同じく企業が収益を上げたからといって、労働者個人の生活が直接よくなるわけではない(その証拠に戦後最長の好景気だったにもかかわらず、労働者が恩恵を受けることのないまま景気は悪化局面に入ったではないか!)。アメリカのイラク戦争が誤っているからといって、アメリカ国民に敵意を持つのは筋違い。中国が軍事的脅威だからといって、中国国民が日本国民の脅威というわけではない…というように、個人とその帰属集団の違いを明確に意識しなければ、あらゆる問題の本質を見誤って結局「個人」に不幸をもたらすことになってしまう。右翼的思考は、集団の利益と個人の利益の認識が未分化であることの産物といってよいだろう。

 集団の一部の人々は、集団が利益を上げることによって本人の利益も上げられるから、集団の利益と個人の利益の違いが分からず盲目的に集団の利益のために頑張ってくれる人を歓迎するし、そのように教育しようとする。戦前の軍国主義教育がよい例だろう。したがって、国家や企業で利権を持つ人々が右翼的言説を支持するのは当然であるが、そうでない一般の人々が右翼的性質を持つのは、かえって自分の首を絞めることになり、不利益である。「ネット右翼」の多くは通常の労働者であろう。スポーツを見るのと同様に、日本の政治家が他国(とくに中国や朝鮮)に挑戦的発言をするのを見てスカッと爽快に感じるかもしれないが、それが原因で将来的に生じる軍事的・経済的摩擦によって実害を被るのは、当の政治家ではなく日本の庶民であることを意識すべきだ。

 右翼的言説で経済的に得をする人々は別として、一般庶民の右翼的思考の持ち主は、純粋な人々が多い(その純真さが人を傷つけるのだが)。マスコミのイラク脅威論・北朝鮮脅威論の垂れ流しを見て純粋にイラクワルモノ、北朝鮮ワルモノ、と信じていることが多い。国家としての政治は悪くてもその国民に罪はないのに、全体を悪ととらえるのはまさに子ども時代のウルトラマンやアンパンマンの世界である。他方でその純粋さから、外国人には冷たくとも自分の身の回りにいる人には優しいのも右翼の特徴のように思う。したがって右翼的性質をもつ人が実際に中国人や朝鮮人と接すると、「悪い人じゃなかった」とそれまでの差別観をコロッと変えてしまうことがあるのも事実である。まだ若い「ネット右翼」がいたとすれば、「自分の考えが結局自分や身近な人を悲しませることにならないか」よく考えてほしいと思う。

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NHKに対する政治介入

 終戦63年目の夏だ。民放ではもはや終戦の日だからとって特別番組を組むことも少なくなったが、NHKでは先の大戦に関連した特別番組をしばらく前から放映している。とりわけ印象深いのは、レイテ沖海戦やインパール作戦、沖縄戦など、多数の犠牲者を出した戦闘の生き残り兵士の証言を集めた番組だ。これは非常に生々しい。すでに証言者も80代であり、今を逃せば証言を得る機会も失われるだろう。また、生存者もいわば人生の仕上げ段階に差しかかり、これまで心にしまいこんで口にしなかった悲惨な過去を語る余裕も生まれているのではないか。その意味では、戦闘体験の証言を集めるのは、今が唯一のチャンスといってよいだろう。このような番組の企画はすばらしいと思う。そしてこのような悲惨な体験は、決して過去のものではなく、現にイラクなどの紛争地域で今も同じ体験をしている人々がいるということを忘れてはならないと思う。この証言番組は、あえて先の戦争に対する「評価」にかかわる部分を表に出さない。証言者も大半は事実を述べているだけである。そこに真実味があり、日本軍の戦争指揮がいかに無茶だったかがよく分かるのだが、番組を見る人によってはその点が理解できないのではないか、少々気になるところではある。

 つまらないテレビ番組が多い中で、NHKの特集「ワーキング・プア」のように、NHKの特集番組はそこそこ見応えのあるものが多いと思う。企業などのCM料ではなく、視聴者の受信料で運営しているのだから、国民の立場から真実を報道する姿勢があって当然だ。また、重要な表現の自由の担い手であり、国民の知る権利に応える責務があることはいうまでもない。国会の委員会などで自民党の議員から番組内容について干渉されても(自民党議員は労働者や戦争を扱った番組が嫌いらしい)、決して屈服せずにいてもらいたい。竹中平蔵氏ら市場原理主義者はNHKも民営化したいらしいが、市場原理に飲み込まれ大企業に操られる巨大メディアがどれほど国民に不利益をもたらすか、イラク戦争に突き進んだアメリカをみれば明らかである。とはいえ、NHKが今の政治体制と完全に独立して経営されているかといえば決してそうではない。常に国民の監視が必要だと思う。

 ところで今年の6月にNHKに関する最高裁判決があった。従軍慰安婦を採り上げたNHKの番組につき、取材に協力した女性団体が「期待していた番組と違う」として損害賠償を求めた事件である。これについては安倍晋三議員ら自民党幹部が、放送前にNHKに圧力をかけたといわれている。最高裁はこのような政治家の干渉行為には触れることなく、「取材される側が番組に対して抱いた期待は、原則として法的保護に値しない」として訴えを退けた。最高裁はやはり「政治行為」に触れることは嫌いなようだ。そもそも安倍氏ら国会議員という特権を持った人物(=国家権力)が、NHKに対して圧力をかけたこと自体が大問題である。この点で国家権力による表現の自由の侵害であり、NHKや取材された女性団体はその侵害行為を訴えることができよう。しかしそれができないのは、NHKにとっては政策的判断があったのと、女性団体にとってはやはり立証が難しかったのであろう。一部ではこの最高裁判決に対し、「最高裁は表現の自由を守らない」と強く非難があるようである。しかし私は、安倍氏らの行為を非難するのは当然としても、最高裁の論理については「なるほどそうか」と思う。取材する側、つまりNHKにも番組編成権があるのであり、これはこれで表現の自由のひとつである。今回は当事者が従軍慰安婦問題を扱う女性団体であったが、例えば取材を受けた側が暴力団や右翼団体、あるいは特定の政治団体や闇稼業の人物だったらどうか。取材をするほうは取材を受けてもらうためにさまざまなアプローチをするであろうし、かといって絶対に取材をされる側の意向に沿った番組にしなければならないというのは、あまりにも番組編成権を損ねることになろう。もし反社会的な団体がNHKを訴えたとして、裁判所がNHKに損害賠償を命じたら、それはそれでNHKの表現の自由を縛ることになる。このように考えると、今回最高裁の出した取材する側・される側の関係のルールは、それほど変ではないと思うのである。

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消費者庁創設

 太田誠一農相の「消費者がやかましい」発言が非難を浴びている。福田新内閣はこのような閣僚や自民党幹部の「発言」によって短命に終わるか、次の衆議院選挙で大敗するかもしれない。私が「失言」ではなく「発言」と書いたのは、これまでの自民党幹部のさまざまな「失言」といわれるものは、まさにその発言者の本音なのであって、失言=ついうっかり発言ではないからである。ホンネなのだから、どんどん発言してもらいたいと思う。それを有権者がみて、「次の選挙ではこの人に入れよう/入れないことにしよう」と判断すればよい。それが本当の民主主義であって、抽象的な美辞麗句ばかりの政治家は民主主義にとって不健全である。要するに太田誠一大臣は、消費者とそれを代弁するマスコミが食品の安全などに関して最近騒ぎすぎであり、ウザイと思っているのである。それを正直に口にした太田大臣は偉い。あとは国民が、このような者を今後も国民を代表する議員として選ぶかどうかの問題である。たしかに私自身、最近のマスコミの傾向はよろしくないと思っている。赤福餅事件がその代表だが、特定の中小零細企業を名指しで集中的に攻撃し、ときには倒産に追い込む。もちろん悪質企業は糾弾されてしかるべきだが、小悪ばかり追及して大悪を見逃している感がある。いや、わざと見逃している。モチの消費期限を少々改ざんするより、キヤノンにみられるような偽装請負や、派遣業界の専ら派遣、商社のODA汚職のほうがよほど社会的に罪悪であり、国民に不利益を与えている。にもかかわらずこれら大悪を犯している大企業のほうが糾弾されないのは、マスコミのスポンサーでもあるからだ。中小零細企業はマスコミと利害関係が少ないため、たたかれやすい。

 ところで消費者庁設置は福田内閣の唯一の看板事業のようだが、まさに看板だけであり、新たな省庁を創設して、所管の法令を移すだけで終わるだろう。キャリア官僚の新たなイスも作れるし、大臣のイスもひとつ増えるし、どさくさにまぎれて公益法人もいくつか作って天下り先を確保するかもしれない。与党議員と官僚に得はあっても国民に得はない。どうしてこのような見方をするかというと、与党自民党自身が企業献金を受けて活動している政党であり、大企業の利益は代弁しても、そもそも国民の利益は代弁しない性質を持っているからである。その証拠に、政府は、消費者相談や商品テストを行なっている「国民生活センター」について、事業を大幅に縮小する計画を立てているのだ。看板は大きく、中身は小さく、だ。

 輸入品を含むあらゆる商品が氾濫し、新手の商法も生み出され、流通も高度化する中、契約関係の中の消費者は情報も少なく、ますます弱い立場におかれていく。雇用関係における労働者と同様に、消費者の立場も政府が責任を持って引き上げなければならないと思う。企業献金が支える今の政権にそれは難しいだろう。

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