今さらながら秋葉原事件について
今朝テレビを見ていたら櫻井よしこ氏が出演していて、先の秋葉原連続殺傷事件など、最近の若者の暴力行為について、「全ては憲法につながる。憲法を改正して国民の義務規定を拡充して、律する心を育てるべきだ」というような趣旨の発言をしていた。「憲法は権利規定ばかりでけしからん、国民の義務規定ももっと盛り込むべきだ」というお決まりの憲法改正論が、未だに繰り返され、しかもテレビで垂れ流されているという由々しき事態に驚く。今さら繰り返すまでもないが、封建国家時代の「定め」とは異なり、近代国家といわれる国家における憲法というものは、国家を律して国民の権利を守ることが第一の目的であり使命である。国家権力の乱用から国民を守らない憲法はもはや憲法ではない。これは市民革命を経てきた世界の歴史を見れば明らかなことで、共通認識があるはずだ。したがって憲法というものは国家権力側から見れば常に「押し付け」られているものであり、憲法の中に国民の権利がたくさん書かれていて当然なのである。納税、教育、勤労といった義務は、最低限書かれてあればそれでよい。国民の義務規定が少ない憲法はそれで望ましい憲法なのである。義務規定が権利規定ほどに多くなって、国家が国民に多くの義務を課すようになってしまっては、憲法の存在意義はもはやなく、近代国家以前に逆戻りということなのである。このような最低限の認識を踏まえて、櫻井氏は「義務規定を入れろ」と述べているのであろうか。ひょっとすると、彼女は近代国家における憲法の意義からさらに進んで、次なる時代の憲法は義務規定も入れなければならない、という持論なのかもしれない。それはそれで進んだ考え方だといえよう。しかしその前に、権利規定ばかりの今の憲法をもっと現実社会に生かす必要がある。「次の時代」の憲法に進むのはそれからだ(私はそもそも反対だが)。ワーキングプアが多くなって国家が国民の生存権(憲法25条)や個人の尊厳(13条)すら保障しようとしない時代に、義務規定の挿入など無意味どころか害悪だ。
ところで秋葉原事件についてはマスコミでもいろんな人の意見が流されて、格差社会の象徴であるといった意見もあれば、犯人の稚拙さを非難する意見もある。つまり、「社会が悪い」「個人が悪い」「いやどちらも悪い」のいずれかということだろう。これは犯罪や刑罰の意義を考えるときの話と同じであって、どちらかに割り切れるものではないと思う。個人は社会に制約されつつも、自律して生きていく存在である。ただひとついえることは、「派遣労働など雇用不安を生み出した社会が犯罪の引き金になった」という意見に対して、「それは違う、犯罪者個人の忍耐力のなさ、甘えがけしからんのだ」という反論は、問題を何も解決しないということだろう。
派遣労働がはびこって低賃金、雇用不安が広がる中では、犯罪が増えるに決まっている。労働者としての人格を否定されて自暴自棄になる者が出るのは当然だ。「個人が悪い」と主張する者は、人は自分の存在(尊厳)を軽く扱われたときにどれほどの傷を負うのかという認識が欠けている。「昔はみんな貧しかったのに清く正しく生きた」という反論もあろうが、景気と犯罪件数が比例関係にあるのは統計上も明らかであるし、そもそも現代社会は大量消費をあおるきらびやかな広告や装飾があふれており、雇用不安を抱える者の「取り残され感」は昔とは比較にならないといえよう。個人は自律して生きているといっても、それを妨げたり制約したりする社会の要因があまりにも大きければ、もはやそのような中で生まれた人格は自律しているとはいえない。社会の中で規範を学ばなかったことを責めても、その社会(職場)の待遇がひどければ学ぶ余裕もないだろう。家庭の教育が悪いことを責めても、貧しい家庭で両親とも食わせることで精一杯だったという事情があるかもしれない。あるいは学校教育を責めても、先生1人あたりの生徒数が多く先生も負担ばかりが増えて、一人一人の面倒を見てあげられなかったかもしれない。このように個人の人格形成には目に見えない形で様々の社会的背景があるのであり、それを考慮することなしに個人を責めても自己満足に終わるだけなのである。また、個人を責めて済ませることは、背後に隠れている様々な社会問題を隠蔽してしまうことになりかねない。
政策判断の問題として、ひとついえることがある。個人にはいろんなタイプがいて、一見幸福そうな家庭の中で育っていても、様々な情報や帰属社会の中で、想像できないような人格を形成することもありうる。貧しくても素直で明るく朗らかな性格ならそれはそれでよい。しかし人間の中にはキレやすい人、差別意識の強い人、被害妄想を抱える人など、様々なタイプがある。そんな中で今の日本のように格差社会、弱肉強食社会に進んで行けばどうなるか…これまでなんとか抑えていた暴力的な人格が暴発するのは目に見えている。そしてこのような暴発により被害を受けるのは一般市民である。このように、社会政策の意味においても、格差社会の進行は止めなければならないと、私は考える。
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ところで秋葉原事件についてはマスコミでもいろんな人の意見が流されて、格差社会の象徴であるといった意見もあれば、犯人の稚拙さを非難する意見もある。つまり、「社会が悪い」「個人が悪い」「いやどちらも悪い」のいずれかということだろう。これは犯罪や刑罰の意義を考えるときの話と同じであって、どちらかに割り切れるものではないと思う。個人は社会に制約されつつも、自律して生きていく存在である。ただひとついえることは、「派遣労働など雇用不安を生み出した社会が犯罪の引き金になった」という意見に対して、「それは違う、犯罪者個人の忍耐力のなさ、甘えがけしからんのだ」という反論は、問題を何も解決しないということだろう。
派遣労働がはびこって低賃金、雇用不安が広がる中では、犯罪が増えるに決まっている。労働者としての人格を否定されて自暴自棄になる者が出るのは当然だ。「個人が悪い」と主張する者は、人は自分の存在(尊厳)を軽く扱われたときにどれほどの傷を負うのかという認識が欠けている。「昔はみんな貧しかったのに清く正しく生きた」という反論もあろうが、景気と犯罪件数が比例関係にあるのは統計上も明らかであるし、そもそも現代社会は大量消費をあおるきらびやかな広告や装飾があふれており、雇用不安を抱える者の「取り残され感」は昔とは比較にならないといえよう。個人は自律して生きているといっても、それを妨げたり制約したりする社会の要因があまりにも大きければ、もはやそのような中で生まれた人格は自律しているとはいえない。社会の中で規範を学ばなかったことを責めても、その社会(職場)の待遇がひどければ学ぶ余裕もないだろう。家庭の教育が悪いことを責めても、貧しい家庭で両親とも食わせることで精一杯だったという事情があるかもしれない。あるいは学校教育を責めても、先生1人あたりの生徒数が多く先生も負担ばかりが増えて、一人一人の面倒を見てあげられなかったかもしれない。このように個人の人格形成には目に見えない形で様々の社会的背景があるのであり、それを考慮することなしに個人を責めても自己満足に終わるだけなのである。また、個人を責めて済ませることは、背後に隠れている様々な社会問題を隠蔽してしまうことになりかねない。
政策判断の問題として、ひとついえることがある。個人にはいろんなタイプがいて、一見幸福そうな家庭の中で育っていても、様々な情報や帰属社会の中で、想像できないような人格を形成することもありうる。貧しくても素直で明るく朗らかな性格ならそれはそれでよい。しかし人間の中にはキレやすい人、差別意識の強い人、被害妄想を抱える人など、様々なタイプがある。そんな中で今の日本のように格差社会、弱肉強食社会に進んで行けばどうなるか…これまでなんとか抑えていた暴力的な人格が暴発するのは目に見えている。そしてこのような暴発により被害を受けるのは一般市民である。このように、社会政策の意味においても、格差社会の進行は止めなければならないと、私は考える。
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