憲法改正について
安倍元首相が政権を放棄してから、憲法改正論議はめっきり見聞きする機会が減った。国民投票法も無理やり作ってあんなに盛り上がっていたのに? 憲法改正がなくても国民生活がそこそこ「普通に」回っていることから考えて、憲法改正などまったく喫緊の課題でもなんでもないということが明らかになったともいえる。しかし今でも憲法改正を政治的使命とする自民党が政権を握っている以上、常に注視しなければならない課題であることはたしかである。改憲派の主張にそうやすやすと乗せられてはいけない。改めて憲法改正について考えてみることにする。
世論調査では改憲賛成派もそれなりの割合を占めているようだが、世論調査に答えた人は、はたして日本国憲法を真面目に読んだことがあるのだろうか? おそらくきちんと読んだことがない人が多いのではなかろうか。とりあえず、今の憲法をよく読み、どこをどう直したいのか、自分の意見を持つべきだと思う。直したいところが見つかって初めて「改憲賛成」となるのである。第一、「憲法改正に賛成ですか」という世論調査の抽象的な質問がよくない。また、仮に将来、憲法改正の国民投票を行なう際は、投票の際の判断材料として、現憲法のパンフを国民一人一人に配布すべきだと思う。国会では一般に法改正を行なうとき、国会議員に法案と新旧条文の対照表などを配るのであるから、それと同様に、投票権を持つ国民にちゃんとした資料を手渡すべきであろう。
今の憲法はアメリカに押し付けられたものだからダメだ、という意見がある。改憲派の政治家の常套文句であるが、これは2つの意味で間違っている。まず、「押し付けられた」と思っているのは政府(国家権力側)のほうであり、国民にとっては、決して押し付けではないということである。国民の人権を侵害しないよう、国民側が国家権力に対し、憲法を「押し付ける」のは、近代国家として当然のことであり、むしろ憲法は国家権力にとって「押し付け」であるのが健全な姿なのである。また、今の憲法は明治憲法とは正反対で、1基本的人権の尊重、2国民主権、3戦争放棄を宣言した画期的なものであり、現憲法制定時、国民はこの憲法を歓迎して受け入れた。また、その後も国民は人権意識の向上や平和主義の浸透とともに現憲法を承認してきたのである。この2つの意味で、「押し付け憲法」論の主張は誤っている。
今の憲法は権利ばかり掲げてあって義務規定が少ないから改正すべきだ、という意見もある。これまた常套文句であるが、これも2つの意味で間違っている。まず、先に述べたように、近代憲法は政府(国家権力)の権限の濫用から国民を守るためにあるのであって、まず権利規定が中心に掲げられるのが大原則だということである(人身の自由、表現の自由等)。この大原則は国家と国民の関係がある以上、今も今後も変わらず重要である。決して「権利の裏返し」に義務が必要なのではない。権利規定が圧倒的に多くて当然なのである。また、義務規定を入れたいと言うが、そもそもその前提として、今憲法に掲げてある権利規定の理念が、十分国民に行き渡り、実現されているのか非常に疑問である。現憲法には幸福追求権や生存権(社会権)規定があるが、現状は人権侵害も依然少なくなく、過労死も自殺もいじめもあり、生活保護水準以下の賃金で働く者も増えている。こんな事態を放置しながら、一方で「権利の裏返しに義務規定を入れよう」などと言う資格があるのか。義務規定を入れたいと言う者ほど、人権意識が希薄なのではないか。どうしても義務規定を増やしたいなら、まず人権規定の徹底から始めるべきだ。
改憲派の中には、本当は戦争放棄を掲げる9条を改めたいのに、目くらましとして、「環境権」「プライバシー権」等(いわゆる「新しい人権」)を憲法に入れようと主張する者がいる。「環境」「プライバシー」というと聞こえがいいので、これらの規定を盛り込んで、ついでにこっそり本命の9条を変えてしまおうという意図なのであろう。しかしこの主張もまた、間違っている。今の憲法だと、これらの「新しい人権」は保障されないのだろうか? そんなことはない。これらの人権は憲法13条の「幸福追求権」のひとつとして認められるのである(そのほか色々な「新しい人権」は25条や21条から導かれることもある)。このようなことはどんな憲法の教科書にも書いてある。国民はこれまで裁判等を通じ、環境権やプライバシー権等を、13条等を根拠にして政府に主張してきた。しかし行政府や立法府はそれらの権利をなかなか認めようとせず、法律に明文化することも嫌がってきたのである。そんな彼らが急に憲法に「新しい人権」を盛り込みたいと言い出すなど、荒唐無稽である。環境やプライバシーを本気で大事にしたいなら、立法や行政裁量で可能なのである。「新しい人権」を憲法に盛り込む必要はない。改憲賛成派のこのような欺瞞に乗せられてはならない、と思う。
改憲賛成派の中には、9条は改正しなくとも、首相公選制や裁判官の国民審査、参議院のあり方等について、「改憲の必要がある」と、いわば「知ったかぶり」をする者がいる。このような議論をすることは大事だとは思うが、とりあえず今は、先にも述べたように憲法の理念をひとまず徹底することが先決であって、このような改正議論はもっと後でもよいと思う。今は9条を改正して平和主義と戦争放棄の大転換を図ろうとする動きに注意しなければならず、9条のほかに「改正すべきところがある」という「改憲の機運」は9条改正の機運にもつながり、有害無益だと私は考える。
改憲したいと主張する人、とくに改憲派政治家の大半は、9条(戦争放棄)を改正したいと思っている。その目的は、アメリカの要求に応じ、現憲法の戦争放棄規定を緩和して、アメリカと一緒に軍事行動できるようにしたい、ということであろう。そのような目的がどんな惨事をもたらすか、今の泥沼化したイラクを見れば明らかである。小型核兵器使用もテロも可能な現代、軍事力のみによって平和が保てると考えるのは大間違いである。現代、軍事力の行使で平和になった例があるだろうか? 強い軍事力を持つ国家ほど、テロや戦争の犠牲者は少ないだろうか? 現実はむしろ、その逆である。軍事力は究極的には国民の命も財産も危険にさらすだけだ。日本は非軍事的な方法を含めて日本国土の防衛に専念すべきであって、決して武器を持って海外へ出てはならないと私は考える。陳腐化した言い回しかもしれないが、「9条を誇りとすべき」である。9条の理念を世界に広めることが、日本の果たすべき役割だと考える。アメリカと一緒に行動して世界の人々の恨みを買いたくないし、何より、自分の命も惜しいし、家族の命を失いたくない。アメリカは軍需産業が盛んで政治にも食い込んでいるので、あちこちで戦争を仕掛けるが、おそらくその財源に限りがあるので日本に軍事協力を求めるのであろう。日本はそのようなアメリカの圧力に対抗しなければならない。
そもそも、9条を改正して軍事力優先の考えを強めるとどうなるか。アメリカの実態を見れば明らかだが、日本はますます軍需産業を重視するようになるだろう。日本の企業が、その高い技術を軍事に転用して利益を上げたいという思惑があることについても注視しなければならない。また、そのような企業の政治献金を受けた政治家が政権を握っているということも注視しなければならない。軍事産業が盛んになるとどうなるか? それ(軍備)を消費しなければ産業として回らなくなる。経済が軍需に支えられるサイクルになり、軍備を消費しなければ倒産や失業という産業構造になるのである。そうなると日本が海外で武力を用いることが多くなり、あるいは武器を輸出して他国同士を戦わせることになるであろう。そんな危険で悪循環な軍事国家になってしまうことを、私はとても恐れている。
麻生首相は「集団的自衛権」を容認したい考えの人物である。これは具体的には、アメリカの自衛権行使に日本も参加できるかどうか、という話であり、これはとんでもない危険性をはらんでいる。戦争というものはたいてい、「自衛」を名目に行なわれる。どう見ても日本の侵略戦争であった先の戦争についても、当時日本は「国家の生命線」という口実を使っていたのである。アメリカという国は「自衛」と称して他国に攻め込むことも、また相手が武力行使に出ていないのに、「自衛」のために先制攻撃もしてしまう国である。このような名ばかりのアメリカの「自衛」に日本も随行しなければならないとなれば、日本の将来は悲惨である。
というようなわけで、思うところをとりとめなく書き連ねたが、日本国民全員が「憲法改正バンザイ」の声に踊らされて誤った選択をしないよう、私は切に祈るばかりである。とりあえず、憲法を読んでみるべし。思わぬ発見と感動があることだろう。
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世論調査では改憲賛成派もそれなりの割合を占めているようだが、世論調査に答えた人は、はたして日本国憲法を真面目に読んだことがあるのだろうか? おそらくきちんと読んだことがない人が多いのではなかろうか。とりあえず、今の憲法をよく読み、どこをどう直したいのか、自分の意見を持つべきだと思う。直したいところが見つかって初めて「改憲賛成」となるのである。第一、「憲法改正に賛成ですか」という世論調査の抽象的な質問がよくない。また、仮に将来、憲法改正の国民投票を行なう際は、投票の際の判断材料として、現憲法のパンフを国民一人一人に配布すべきだと思う。国会では一般に法改正を行なうとき、国会議員に法案と新旧条文の対照表などを配るのであるから、それと同様に、投票権を持つ国民にちゃんとした資料を手渡すべきであろう。
今の憲法はアメリカに押し付けられたものだからダメだ、という意見がある。改憲派の政治家の常套文句であるが、これは2つの意味で間違っている。まず、「押し付けられた」と思っているのは政府(国家権力側)のほうであり、国民にとっては、決して押し付けではないということである。国民の人権を侵害しないよう、国民側が国家権力に対し、憲法を「押し付ける」のは、近代国家として当然のことであり、むしろ憲法は国家権力にとって「押し付け」であるのが健全な姿なのである。また、今の憲法は明治憲法とは正反対で、1基本的人権の尊重、2国民主権、3戦争放棄を宣言した画期的なものであり、現憲法制定時、国民はこの憲法を歓迎して受け入れた。また、その後も国民は人権意識の向上や平和主義の浸透とともに現憲法を承認してきたのである。この2つの意味で、「押し付け憲法」論の主張は誤っている。
今の憲法は権利ばかり掲げてあって義務規定が少ないから改正すべきだ、という意見もある。これまた常套文句であるが、これも2つの意味で間違っている。まず、先に述べたように、近代憲法は政府(国家権力)の権限の濫用から国民を守るためにあるのであって、まず権利規定が中心に掲げられるのが大原則だということである(人身の自由、表現の自由等)。この大原則は国家と国民の関係がある以上、今も今後も変わらず重要である。決して「権利の裏返し」に義務が必要なのではない。権利規定が圧倒的に多くて当然なのである。また、義務規定を入れたいと言うが、そもそもその前提として、今憲法に掲げてある権利規定の理念が、十分国民に行き渡り、実現されているのか非常に疑問である。現憲法には幸福追求権や生存権(社会権)規定があるが、現状は人権侵害も依然少なくなく、過労死も自殺もいじめもあり、生活保護水準以下の賃金で働く者も増えている。こんな事態を放置しながら、一方で「権利の裏返しに義務規定を入れよう」などと言う資格があるのか。義務規定を入れたいと言う者ほど、人権意識が希薄なのではないか。どうしても義務規定を増やしたいなら、まず人権規定の徹底から始めるべきだ。
改憲派の中には、本当は戦争放棄を掲げる9条を改めたいのに、目くらましとして、「環境権」「プライバシー権」等(いわゆる「新しい人権」)を憲法に入れようと主張する者がいる。「環境」「プライバシー」というと聞こえがいいので、これらの規定を盛り込んで、ついでにこっそり本命の9条を変えてしまおうという意図なのであろう。しかしこの主張もまた、間違っている。今の憲法だと、これらの「新しい人権」は保障されないのだろうか? そんなことはない。これらの人権は憲法13条の「幸福追求権」のひとつとして認められるのである(そのほか色々な「新しい人権」は25条や21条から導かれることもある)。このようなことはどんな憲法の教科書にも書いてある。国民はこれまで裁判等を通じ、環境権やプライバシー権等を、13条等を根拠にして政府に主張してきた。しかし行政府や立法府はそれらの権利をなかなか認めようとせず、法律に明文化することも嫌がってきたのである。そんな彼らが急に憲法に「新しい人権」を盛り込みたいと言い出すなど、荒唐無稽である。環境やプライバシーを本気で大事にしたいなら、立法や行政裁量で可能なのである。「新しい人権」を憲法に盛り込む必要はない。改憲賛成派のこのような欺瞞に乗せられてはならない、と思う。
改憲賛成派の中には、9条は改正しなくとも、首相公選制や裁判官の国民審査、参議院のあり方等について、「改憲の必要がある」と、いわば「知ったかぶり」をする者がいる。このような議論をすることは大事だとは思うが、とりあえず今は、先にも述べたように憲法の理念をひとまず徹底することが先決であって、このような改正議論はもっと後でもよいと思う。今は9条を改正して平和主義と戦争放棄の大転換を図ろうとする動きに注意しなければならず、9条のほかに「改正すべきところがある」という「改憲の機運」は9条改正の機運にもつながり、有害無益だと私は考える。
改憲したいと主張する人、とくに改憲派政治家の大半は、9条(戦争放棄)を改正したいと思っている。その目的は、アメリカの要求に応じ、現憲法の戦争放棄規定を緩和して、アメリカと一緒に軍事行動できるようにしたい、ということであろう。そのような目的がどんな惨事をもたらすか、今の泥沼化したイラクを見れば明らかである。小型核兵器使用もテロも可能な現代、軍事力のみによって平和が保てると考えるのは大間違いである。現代、軍事力の行使で平和になった例があるだろうか? 強い軍事力を持つ国家ほど、テロや戦争の犠牲者は少ないだろうか? 現実はむしろ、その逆である。軍事力は究極的には国民の命も財産も危険にさらすだけだ。日本は非軍事的な方法を含めて日本国土の防衛に専念すべきであって、決して武器を持って海外へ出てはならないと私は考える。陳腐化した言い回しかもしれないが、「9条を誇りとすべき」である。9条の理念を世界に広めることが、日本の果たすべき役割だと考える。アメリカと一緒に行動して世界の人々の恨みを買いたくないし、何より、自分の命も惜しいし、家族の命を失いたくない。アメリカは軍需産業が盛んで政治にも食い込んでいるので、あちこちで戦争を仕掛けるが、おそらくその財源に限りがあるので日本に軍事協力を求めるのであろう。日本はそのようなアメリカの圧力に対抗しなければならない。
そもそも、9条を改正して軍事力優先の考えを強めるとどうなるか。アメリカの実態を見れば明らかだが、日本はますます軍需産業を重視するようになるだろう。日本の企業が、その高い技術を軍事に転用して利益を上げたいという思惑があることについても注視しなければならない。また、そのような企業の政治献金を受けた政治家が政権を握っているということも注視しなければならない。軍事産業が盛んになるとどうなるか? それ(軍備)を消費しなければ産業として回らなくなる。経済が軍需に支えられるサイクルになり、軍備を消費しなければ倒産や失業という産業構造になるのである。そうなると日本が海外で武力を用いることが多くなり、あるいは武器を輸出して他国同士を戦わせることになるであろう。そんな危険で悪循環な軍事国家になってしまうことを、私はとても恐れている。
麻生首相は「集団的自衛権」を容認したい考えの人物である。これは具体的には、アメリカの自衛権行使に日本も参加できるかどうか、という話であり、これはとんでもない危険性をはらんでいる。戦争というものはたいてい、「自衛」を名目に行なわれる。どう見ても日本の侵略戦争であった先の戦争についても、当時日本は「国家の生命線」という口実を使っていたのである。アメリカという国は「自衛」と称して他国に攻め込むことも、また相手が武力行使に出ていないのに、「自衛」のために先制攻撃もしてしまう国である。このような名ばかりのアメリカの「自衛」に日本も随行しなければならないとなれば、日本の将来は悲惨である。
というようなわけで、思うところをとりとめなく書き連ねたが、日本国民全員が「憲法改正バンザイ」の声に踊らされて誤った選択をしないよう、私は切に祈るばかりである。とりあえず、憲法を読んでみるべし。思わぬ発見と感動があることだろう。
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「拉致問題」の不快さ
麻生首相が、北朝鮮による拉致事件の被害者家族と面会したという。そして被害者家族に早期解決を強調したという。私はこれまでの「拉致事件」の一連の経緯を見聞きしながら、その報道の意図どおり被害者家族に全面的に同情できないでいる。何か不快なものを感じている。その不快がどこからもたらされるのかについて、あらためて考えてみたいと思う。
まず、北朝鮮政府が公式に認めて謝罪していることからも、北朝鮮工作員による日本人拉致があったことは事実であろう。北朝鮮政府の説明によれば「特殊機関の一部が妄動主義、英雄主義に走って拉致を行った」という。もちろんこの見解の全てを信用するわけではないが、情報統制された閉鎖的組織の中で、派閥争いや出世競争が起きるのはありがちなことである。例えば日本の公安警察のように、存在意義が薄れつつある国家機関が、その存在を誇示するために行動することは世の常であり、北朝鮮においてもそのようなことが起きたのではないかと推測する。つまり敵対国日本の事情を知るため、あるいは日本にスパイを送るため、一部の北朝鮮の機関が日本人を拉致することを「手柄」としたと考えられる。当時はその拉致行為が北朝鮮政府内で正当化されていたのであろう。しかし今や金正日氏が拉致事件を謝罪している以上、拉致行為は北朝鮮政府の汚点である。日本の官僚組織も北朝鮮の官僚組織も、その性質は同じだと想像してみればよい。拉致行為に関わった当時の北朝鮮工作員は、その「汚点」の責任を負わされたくないために、あらゆる手段で証拠を隠滅したのだろうと思う。北朝鮮政府は、未だ事情が明らかでない拉致被害者について、情報を持っているのに隠しているのではなく(もちろん隠していることもあるだろうが)、むしろ調査しようにもできない状況にあるのではないかと思う。見方を変えれば、それだけ北朝鮮政府の統率力が弱まっているということでもある(もともと国家体制自体が一枚岩でなかったとも言える)。しかし、どのような事情であれ、北朝鮮の国家機関が拉致行為を行ったことは明白なのであり、この国家犯罪について、最高責任者の金正日氏は責任を負っていることには間違いがない。北朝鮮政府と日本政府が連携した上で(互いの警察組織の連携でもよい)、拉致行為に関わった機関や人物の捜査が進められないものであろうか。そのためにも、未だに日本のアジア侵略を正当化しようとして中国や朝鮮国民に刺激を与えるような政治家は、対北朝鮮交渉から排除しなければならないだろう。
次に、日本政府(とりわけ自民党)は明らかに拉致問題を食い物にしている。国民生活を犠牲する数々の政策により支持率が低下してきたときは、拉致問題を取り上げてあたかも進展があったかのように見せかけたり、北朝鮮バッシングをするなどして、国民の目を外国に向けさせるという繰り返しである。国民の不満を外国に向けさせるのは政治の常套手段である。したがって自民党幹部は、拉致問題が円満に解決しては困るのである。なるべく引き延ばし、支持率アップ=選挙用の切り札としてとっておきたいのが本音だろう。また、北朝鮮脅威キャンペーンは、北朝鮮の脅威から自国を守るという口実ができるがゆえに、日米の軍需産業にとってもまことに都合がよい。
そもそも拉致問題は20年ほど前から共産党などが国会で取り上げていたにもかかわらず、歴代の政権が正面から取り組んでこなかったのである。おそらく当時は、外交上の問題や利権の問題から、拉致問題を大きくできなかったのであろう。政府が第一に守るべき国民の生命の問題にもかかわらず、放置され続けてきたのだ。冷戦が終わり、日米の軍需産業維持のためにどこかに仮想敵国を作らなければならない段になって、「テロ支援国家」のひとつとして北朝鮮を取り上げ、北朝鮮脅威キャンペーンを張っているに過ぎない。朝鮮戦争において、北朝鮮の敵国であったアメリカと軍事同盟を結んでいる日本は、北朝鮮にとって敵国(アメリカの不沈空母)であり、今なお敵視されるのは当然である。北朝鮮が仮に日本の軍事的脅威であるとすれば、それは日本の対米従属という政治姿勢が要因であり、また昔も今も脅威なのであり、それはここ数年で急激にその度合いが増したというわけではない。単に日本政府の都合で脅威を煽っているだけの話である。拉致問題を定期的に取り上げればそれだけ国民に「北朝鮮脅威(北朝鮮憎し)」イメージを植え付けることができ、日本政府にとっては好都合である。このように拉致問題は日米政府の都合のよいように食い物にされ、すんなり解決されては困るのであるから、拉致被害者家族がいくら現在の日米政府を頼りにしても無駄である。拉致被害者家族がアメリカ大統領や日本の首相に解決を懇願している様子を見ていると、気の毒を通り越して滑稽さを感じてしまう。拉致被害者本人はもちろん、被害者家族も、日米政府の外交戦略に翻弄されている。そもそも、交通事故死者数が年間1万人弱、生活保護受給世帯が百万を超え、年間自殺者が3万人超という悲惨な日本において、拉致被害者十数人のために日本の首相が被害者家族と面談し、担当大臣まで立てるということ自体、政治的思惑だらけの不自然なことと理解すべきである。
これまで述べたことと重複するが、拉致被害者及び拉致被害者家族の言動自体についても、私は歯がゆさを感じている。拉致被害者は北朝鮮でどのような立場におかれ、どのような生活をし、どのような活動をしてきたのか? 一時帰国のつもりで来日したところ、日本にとどまり続けることになったことについての背景と本心は? 他の拉致被害者の動静について知っていることは? なぜ被害者本人は拉致事件の詳細について口を開かないのか? 拉致被害者からのダイレクトな声が国民に伝えられることはほとんどなく、謎が多い。北朝鮮から口封じがあることは当然だろうが、日本政府も彼ら拉致被害者及びその家族に対して、自由な言動を慎むよう、相当の圧力をかけているものと思われる。また、拉致議連(北朝鮮に拉致された日本人を早期に救出するために行動する議員連盟)はその性格上やむを得ないとしても、家族会(北朝鮮による拉致被害者家族連絡会)の構成員までもが、「北朝鮮に圧力を」「北朝鮮に経済制裁を」と政治的発言をしていることについては首をかしげざるを得ない。もちろん拉致被害者家族が、拉致問題を食い物にする政治家や団体の影響を受けて、そのような発言をするようになってしまった事情は分かる。しかし経済制裁をして本当に窮乏するのは何の罪もない北朝鮮国民であり、北朝鮮政府幹部は日本の挑発(敵対)行為としか受け止めないであろう。何百万の北朝鮮国民を犠牲にしたところで、拉致被害者は帰ってこない。
いわゆる拉致問題についてはあまりにも情報が少なく、憶測で述べることが多くなってしまうが、拉致被害者家族はもう日米政府を当てにしないほうがよい。当てにすればするだけ国策に利用される。本当に被害者を取り戻したいなら、拉致被害者家族は、日本や中国の非政府組織ルートを使うなど、国家に頼らない自前の捜索をすべきである。ここから先は私の妄想になるが、もし私が拉致被害者の親であれば、ここまで拉致問題を放置してきた日本政府にとっくにキレている。中国や北朝鮮に乗り込み、協力者に大金をかけてでも個人的捜索をするであろう。少なくとも現時点において日本の街頭で署名を集めたり、ビラを配ったり、いない子の誕生日を祝うようなことはないだろう。もう残されている時間は少ないのだ。今の日本で苦しいのは拉致被害者家族だけではない。いくら一般市民の同情を求めても、その効果には限度がある。
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まず、北朝鮮政府が公式に認めて謝罪していることからも、北朝鮮工作員による日本人拉致があったことは事実であろう。北朝鮮政府の説明によれば「特殊機関の一部が妄動主義、英雄主義に走って拉致を行った」という。もちろんこの見解の全てを信用するわけではないが、情報統制された閉鎖的組織の中で、派閥争いや出世競争が起きるのはありがちなことである。例えば日本の公安警察のように、存在意義が薄れつつある国家機関が、その存在を誇示するために行動することは世の常であり、北朝鮮においてもそのようなことが起きたのではないかと推測する。つまり敵対国日本の事情を知るため、あるいは日本にスパイを送るため、一部の北朝鮮の機関が日本人を拉致することを「手柄」としたと考えられる。当時はその拉致行為が北朝鮮政府内で正当化されていたのであろう。しかし今や金正日氏が拉致事件を謝罪している以上、拉致行為は北朝鮮政府の汚点である。日本の官僚組織も北朝鮮の官僚組織も、その性質は同じだと想像してみればよい。拉致行為に関わった当時の北朝鮮工作員は、その「汚点」の責任を負わされたくないために、あらゆる手段で証拠を隠滅したのだろうと思う。北朝鮮政府は、未だ事情が明らかでない拉致被害者について、情報を持っているのに隠しているのではなく(もちろん隠していることもあるだろうが)、むしろ調査しようにもできない状況にあるのではないかと思う。見方を変えれば、それだけ北朝鮮政府の統率力が弱まっているということでもある(もともと国家体制自体が一枚岩でなかったとも言える)。しかし、どのような事情であれ、北朝鮮の国家機関が拉致行為を行ったことは明白なのであり、この国家犯罪について、最高責任者の金正日氏は責任を負っていることには間違いがない。北朝鮮政府と日本政府が連携した上で(互いの警察組織の連携でもよい)、拉致行為に関わった機関や人物の捜査が進められないものであろうか。そのためにも、未だに日本のアジア侵略を正当化しようとして中国や朝鮮国民に刺激を与えるような政治家は、対北朝鮮交渉から排除しなければならないだろう。
次に、日本政府(とりわけ自民党)は明らかに拉致問題を食い物にしている。国民生活を犠牲する数々の政策により支持率が低下してきたときは、拉致問題を取り上げてあたかも進展があったかのように見せかけたり、北朝鮮バッシングをするなどして、国民の目を外国に向けさせるという繰り返しである。国民の不満を外国に向けさせるのは政治の常套手段である。したがって自民党幹部は、拉致問題が円満に解決しては困るのである。なるべく引き延ばし、支持率アップ=選挙用の切り札としてとっておきたいのが本音だろう。また、北朝鮮脅威キャンペーンは、北朝鮮の脅威から自国を守るという口実ができるがゆえに、日米の軍需産業にとってもまことに都合がよい。
そもそも拉致問題は20年ほど前から共産党などが国会で取り上げていたにもかかわらず、歴代の政権が正面から取り組んでこなかったのである。おそらく当時は、外交上の問題や利権の問題から、拉致問題を大きくできなかったのであろう。政府が第一に守るべき国民の生命の問題にもかかわらず、放置され続けてきたのだ。冷戦が終わり、日米の軍需産業維持のためにどこかに仮想敵国を作らなければならない段になって、「テロ支援国家」のひとつとして北朝鮮を取り上げ、北朝鮮脅威キャンペーンを張っているに過ぎない。朝鮮戦争において、北朝鮮の敵国であったアメリカと軍事同盟を結んでいる日本は、北朝鮮にとって敵国(アメリカの不沈空母)であり、今なお敵視されるのは当然である。北朝鮮が仮に日本の軍事的脅威であるとすれば、それは日本の対米従属という政治姿勢が要因であり、また昔も今も脅威なのであり、それはここ数年で急激にその度合いが増したというわけではない。単に日本政府の都合で脅威を煽っているだけの話である。拉致問題を定期的に取り上げればそれだけ国民に「北朝鮮脅威(北朝鮮憎し)」イメージを植え付けることができ、日本政府にとっては好都合である。このように拉致問題は日米政府の都合のよいように食い物にされ、すんなり解決されては困るのであるから、拉致被害者家族がいくら現在の日米政府を頼りにしても無駄である。拉致被害者家族がアメリカ大統領や日本の首相に解決を懇願している様子を見ていると、気の毒を通り越して滑稽さを感じてしまう。拉致被害者本人はもちろん、被害者家族も、日米政府の外交戦略に翻弄されている。そもそも、交通事故死者数が年間1万人弱、生活保護受給世帯が百万を超え、年間自殺者が3万人超という悲惨な日本において、拉致被害者十数人のために日本の首相が被害者家族と面談し、担当大臣まで立てるということ自体、政治的思惑だらけの不自然なことと理解すべきである。
これまで述べたことと重複するが、拉致被害者及び拉致被害者家族の言動自体についても、私は歯がゆさを感じている。拉致被害者は北朝鮮でどのような立場におかれ、どのような生活をし、どのような活動をしてきたのか? 一時帰国のつもりで来日したところ、日本にとどまり続けることになったことについての背景と本心は? 他の拉致被害者の動静について知っていることは? なぜ被害者本人は拉致事件の詳細について口を開かないのか? 拉致被害者からのダイレクトな声が国民に伝えられることはほとんどなく、謎が多い。北朝鮮から口封じがあることは当然だろうが、日本政府も彼ら拉致被害者及びその家族に対して、自由な言動を慎むよう、相当の圧力をかけているものと思われる。また、拉致議連(北朝鮮に拉致された日本人を早期に救出するために行動する議員連盟)はその性格上やむを得ないとしても、家族会(北朝鮮による拉致被害者家族連絡会)の構成員までもが、「北朝鮮に圧力を」「北朝鮮に経済制裁を」と政治的発言をしていることについては首をかしげざるを得ない。もちろん拉致被害者家族が、拉致問題を食い物にする政治家や団体の影響を受けて、そのような発言をするようになってしまった事情は分かる。しかし経済制裁をして本当に窮乏するのは何の罪もない北朝鮮国民であり、北朝鮮政府幹部は日本の挑発(敵対)行為としか受け止めないであろう。何百万の北朝鮮国民を犠牲にしたところで、拉致被害者は帰ってこない。
いわゆる拉致問題についてはあまりにも情報が少なく、憶測で述べることが多くなってしまうが、拉致被害者家族はもう日米政府を当てにしないほうがよい。当てにすればするだけ国策に利用される。本当に被害者を取り戻したいなら、拉致被害者家族は、日本や中国の非政府組織ルートを使うなど、国家に頼らない自前の捜索をすべきである。ここから先は私の妄想になるが、もし私が拉致被害者の親であれば、ここまで拉致問題を放置してきた日本政府にとっくにキレている。中国や北朝鮮に乗り込み、協力者に大金をかけてでも個人的捜索をするであろう。少なくとも現時点において日本の街頭で署名を集めたり、ビラを配ったり、いない子の誕生日を祝うようなことはないだろう。もう残されている時間は少ないのだ。今の日本で苦しいのは拉致被害者家族だけではない。いくら一般市民の同情を求めても、その効果には限度がある。
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中山成彬氏の暴言と右翼的主張の行き着く先
もはや数日前のことになるが、中山成彬議員が国土交通相を辞任した。「日本人は単一民族」「成田闘争はごね得」「日教組は日本の教育のがん」などといった一連の暴言の責任を取るということだが、暴言とはいえ同氏の信条を率直に語ったものであり、今後もそのような信条で議員活動を続けていくのであろう。首相も大臣もころころ変わる昨今である。あまりにもその「職責」が軽く見られているようだ。「都合が悪くなればやめればOK」という風潮は、子どもの教育上もまことによろしくない。行政府のリーダーがこのような「お飾り」では、行政府はますますキャリア官僚の都合のよいように操られることであろう。首相や大臣の職を自ら辞するときは、その職責を全うしなかった責任を取って議員の職も辞するという慣行にすべきである。「首相・大臣投げ出し族」は、来る衆議院選挙で再び国会議員として選ばれるのであろうか。もしそのようなことにでもなれば、議員本人の厚顔ぶりにもあきれるが、彼らに投票する有権者の見識も問われるところだ。
中山氏の発言は、いわゆる「右翼」が発しているメッセージと同レベルである。中山氏は文部科学相時代を含め、これまでも教育に関しては強く発言し続けており、「教育に競争原理を」「教育基本法の改正を」「教育勅語(精神)の復活を」などといった、新自由主義とナショナリズムが結び付いた典型的言説を弄している。とりわけ日教組が嫌いらしく、おそらく文部科学大臣時代に日教組から相当叩かれたのであろう。中山氏の言葉からは、単なる日教組批判以上の、個人的感情が垣間見える。彼によればいわゆる「自虐史観」、そしてそれを子どもに教える日教組がけしからんという。「わが祖国日本」を批判する人々が許せないらしい。私はかつて「右翼的人格」について、「自分の利害と、その所属する団体の利害の違いが明確に区別できない人」というようなことを書いたが、まさに中山氏もこれに当てはまる。日本の政府を批判することと、日本国民個人を批判することはまったく次元が異なるのに、その意識が未分化なのである(日本政府批判が自分個人への批判に聞こえるということ)。東京大学法学部卒、大蔵省出身という「エリート」がこのような幼稚な人格とは情けない。報道によれば、中山氏は似非宗教団体や談合企業など反社会的集団から政治献金を受けていたらしい。「ダーティーな人間ほど他人に規範を押し付ける」のは汚れた右翼的人格の特徴である。中山氏はダーティ右翼の王道を行っている。
マスコミは中山氏の一連の発言について、「失言」「問題発言」と報じるだけで、その中身の当否についてはほとんど触れることがない。報道する側にとっては当然のことだから触れないのかもしれないが、あまり政治に興味がない人々に対して、それではサービスが悪すぎる。
彼の過去の発言も含めてみてみると、まず「教育に競争原理を」というのは、教育のあり方からみて根本的に誤っている。子ども個人がライバルと競争するのは結構なことである。しかしここでいう競争原理とは、学校間や教師間のことを指す。とりわけ学校間を競争させることは学校に格差を生じさせ、劣位に立たされた学校は崩壊し、子どもの教育を受ける権利を損なうことになる。憲法は、能力に応じて均等に教育を受けられることを保障している。これは憲法の背後に、教育の機会均等を保障してこそ、国民全体の底力となり、社会の発展をもたらすという理念があるものと私は考える。競争原理は教育現場になじまないのだ。
「教育基本法の改正を」という中山氏の主張は、すでに安倍首相のときに実現してしまった。いわゆる「愛国心」を入れるかどうかが大いに議論になった。結局「愛国心」という露骨な言葉は入らなかったものの、「我が国と郷土を愛する云々」という言葉は取り入れられた。言うまでもないが愛国心は法律で定めて強制するものではない。政府が本当に国民の暮らしを守ってこそ、自然に愛国心は醸成されるものである。一見不思議なのは、経団連などの財界も「愛国心」を盛り込む教育基本法の改正に熱心だったことである。ここに、新自由主義とナショナリズムの結びつきがある。ナショナリズムによって政府批判能力のなくなった画一的人材は、安い労働力として財界が欲しているものだからである。
中山氏は、戦後放棄された「教育勅語」も好きなようだ。憲法の原理である「民主主義」「平和主義」と相容れない「教育勅語」に価値を見出す中山氏の執念には恐れ入る。現憲法下において、「国民は天皇を奉って個人の権利よりも国家のために尽くしなさい」と宣言する教育勅語には、何の存在意義もないと断言しておこう。
そして今や中山氏のライフワークとも言うべき日教組批判について。世の中には「ニッキョーソって何?」という人々も多いであろう。日教組は正式名「日本教職員組合」であり、教員の労働組合の連合体である。中山氏の日教組批判は究極的には労働組合批判であり、「日教組をぶっ壊す」と発言したということは、「労働組合をぶっ壊す」と発言したことと同じである。労働組合活動は憲法で当然保障されているから、中山氏は憲法尊重擁護義務(憲法99条)に反した発言をしているということになる。これは許しがたい暴言である。労働組合をぶっ壊すのであれば、その前に憲法改正を提案すべきである。「労働者の団結権をなくそう」と。そんな提言が支持されるだろうか?
中山氏の嫌いな「自虐史観」についても触れておこう。中山氏がかつての日本のアジア侵略政策に対する批判を「自虐」ととらえることに、右翼的人格がよく現れている。日本政府批判は決して、日本国民「自ら」を「虐げて」いるわけではないのである。多大な犠牲者を出した日本のアジア侵略政策が誤っていたことを学び、将来同じ過ちを繰り返さないよう誓うことはきわめて重要である。過去から学ぶことが将来の日本国民のためになるのである。また、一部には「日本は中国人や朝鮮人に(過去の侵略のことを)謝りすぎ、もうペコペコ謝らなくてよい」という意見が聞かれる。これはあまりにも驕った態度である。日本のアジア侵略による犠牲者とその家族が生存している限り、日本政府は彼らに公式に謝罪し続けなければならないと思う。謝罪に「もう十分」ということはない。犠牲者とその家族の心に少しでも届くのであれば、謝罪を続けるべきである。これは今の日本国民に対して謝罪行為を押し付けるものではない。日本政府の謝罪によって自分個人も謝罪を強要されているような錯覚を起こすならば、それこそ右翼的人格である。中山氏のように「自虐史観」が嫌いな連中のことを、私は「無反省史観」と呼ぶ。過去の歴史から将来の指針を見出せない空しい史観である。
先に述べたように中山氏の発言は「右翼」と同レベルなので、中山氏の発言を批判することは右翼的言説を批判することになる。結局、「右翼的言説の行き着く先は何なのか」ということだ。右翼的言説は最終的に、他国を刺激して日本国民を軍事的脅威にさらし、教育を崩壊させ、民主主義や労働権を否定することにつながる。「行き着く先」を考えていない気分屋的「右翼」もいることであろう。「右翼」が一見美しい「秩序」の構築を掲げているように見えて、行き着く先には何も希望がない。右翼的言説は個人を幸福にもしないし、社会発展につながることもないのである。
以上のように中山氏とその関連する右翼的言説を批判してきたが、ほんの少しだけ中山氏に同情する点を書いておこう。私は個人的に、もともと労働組合の連合体である日教組が、自らの労働環境に関わりのない政治的活動に深く関わるのは問題だと思っている。そのような政治活動は、むしろ組合員の団結を阻害し、労働組合自体を弱体化させることにつながるであろう。このことは他業種の労働組合やその連合体にも当てはまると思う。
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中山氏の発言は、いわゆる「右翼」が発しているメッセージと同レベルである。中山氏は文部科学相時代を含め、これまでも教育に関しては強く発言し続けており、「教育に競争原理を」「教育基本法の改正を」「教育勅語(精神)の復活を」などといった、新自由主義とナショナリズムが結び付いた典型的言説を弄している。とりわけ日教組が嫌いらしく、おそらく文部科学大臣時代に日教組から相当叩かれたのであろう。中山氏の言葉からは、単なる日教組批判以上の、個人的感情が垣間見える。彼によればいわゆる「自虐史観」、そしてそれを子どもに教える日教組がけしからんという。「わが祖国日本」を批判する人々が許せないらしい。私はかつて「右翼的人格」について、「自分の利害と、その所属する団体の利害の違いが明確に区別できない人」というようなことを書いたが、まさに中山氏もこれに当てはまる。日本の政府を批判することと、日本国民個人を批判することはまったく次元が異なるのに、その意識が未分化なのである(日本政府批判が自分個人への批判に聞こえるということ)。東京大学法学部卒、大蔵省出身という「エリート」がこのような幼稚な人格とは情けない。報道によれば、中山氏は似非宗教団体や談合企業など反社会的集団から政治献金を受けていたらしい。「ダーティーな人間ほど他人に規範を押し付ける」のは汚れた右翼的人格の特徴である。中山氏はダーティ右翼の王道を行っている。
マスコミは中山氏の一連の発言について、「失言」「問題発言」と報じるだけで、その中身の当否についてはほとんど触れることがない。報道する側にとっては当然のことだから触れないのかもしれないが、あまり政治に興味がない人々に対して、それではサービスが悪すぎる。
彼の過去の発言も含めてみてみると、まず「教育に競争原理を」というのは、教育のあり方からみて根本的に誤っている。子ども個人がライバルと競争するのは結構なことである。しかしここでいう競争原理とは、学校間や教師間のことを指す。とりわけ学校間を競争させることは学校に格差を生じさせ、劣位に立たされた学校は崩壊し、子どもの教育を受ける権利を損なうことになる。憲法は、能力に応じて均等に教育を受けられることを保障している。これは憲法の背後に、教育の機会均等を保障してこそ、国民全体の底力となり、社会の発展をもたらすという理念があるものと私は考える。競争原理は教育現場になじまないのだ。
「教育基本法の改正を」という中山氏の主張は、すでに安倍首相のときに実現してしまった。いわゆる「愛国心」を入れるかどうかが大いに議論になった。結局「愛国心」という露骨な言葉は入らなかったものの、「我が国と郷土を愛する云々」という言葉は取り入れられた。言うまでもないが愛国心は法律で定めて強制するものではない。政府が本当に国民の暮らしを守ってこそ、自然に愛国心は醸成されるものである。一見不思議なのは、経団連などの財界も「愛国心」を盛り込む教育基本法の改正に熱心だったことである。ここに、新自由主義とナショナリズムの結びつきがある。ナショナリズムによって政府批判能力のなくなった画一的人材は、安い労働力として財界が欲しているものだからである。
中山氏は、戦後放棄された「教育勅語」も好きなようだ。憲法の原理である「民主主義」「平和主義」と相容れない「教育勅語」に価値を見出す中山氏の執念には恐れ入る。現憲法下において、「国民は天皇を奉って個人の権利よりも国家のために尽くしなさい」と宣言する教育勅語には、何の存在意義もないと断言しておこう。
そして今や中山氏のライフワークとも言うべき日教組批判について。世の中には「ニッキョーソって何?」という人々も多いであろう。日教組は正式名「日本教職員組合」であり、教員の労働組合の連合体である。中山氏の日教組批判は究極的には労働組合批判であり、「日教組をぶっ壊す」と発言したということは、「労働組合をぶっ壊す」と発言したことと同じである。労働組合活動は憲法で当然保障されているから、中山氏は憲法尊重擁護義務(憲法99条)に反した発言をしているということになる。これは許しがたい暴言である。労働組合をぶっ壊すのであれば、その前に憲法改正を提案すべきである。「労働者の団結権をなくそう」と。そんな提言が支持されるだろうか?
中山氏の嫌いな「自虐史観」についても触れておこう。中山氏がかつての日本のアジア侵略政策に対する批判を「自虐」ととらえることに、右翼的人格がよく現れている。日本政府批判は決して、日本国民「自ら」を「虐げて」いるわけではないのである。多大な犠牲者を出した日本のアジア侵略政策が誤っていたことを学び、将来同じ過ちを繰り返さないよう誓うことはきわめて重要である。過去から学ぶことが将来の日本国民のためになるのである。また、一部には「日本は中国人や朝鮮人に(過去の侵略のことを)謝りすぎ、もうペコペコ謝らなくてよい」という意見が聞かれる。これはあまりにも驕った態度である。日本のアジア侵略による犠牲者とその家族が生存している限り、日本政府は彼らに公式に謝罪し続けなければならないと思う。謝罪に「もう十分」ということはない。犠牲者とその家族の心に少しでも届くのであれば、謝罪を続けるべきである。これは今の日本国民に対して謝罪行為を押し付けるものではない。日本政府の謝罪によって自分個人も謝罪を強要されているような錯覚を起こすならば、それこそ右翼的人格である。中山氏のように「自虐史観」が嫌いな連中のことを、私は「無反省史観」と呼ぶ。過去の歴史から将来の指針を見出せない空しい史観である。
先に述べたように中山氏の発言は「右翼」と同レベルなので、中山氏の発言を批判することは右翼的言説を批判することになる。結局、「右翼的言説の行き着く先は何なのか」ということだ。右翼的言説は最終的に、他国を刺激して日本国民を軍事的脅威にさらし、教育を崩壊させ、民主主義や労働権を否定することにつながる。「行き着く先」を考えていない気分屋的「右翼」もいることであろう。「右翼」が一見美しい「秩序」の構築を掲げているように見えて、行き着く先には何も希望がない。右翼的言説は個人を幸福にもしないし、社会発展につながることもないのである。
以上のように中山氏とその関連する右翼的言説を批判してきたが、ほんの少しだけ中山氏に同情する点を書いておこう。私は個人的に、もともと労働組合の連合体である日教組が、自らの労働環境に関わりのない政治的活動に深く関わるのは問題だと思っている。そのような政治活動は、むしろ組合員の団結を阻害し、労働組合自体を弱体化させることにつながるであろう。このことは他業種の労働組合やその連合体にも当てはまると思う。
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