シイタケのブログ -23ページ目

自公政権に派遣法改正はできない・労働法違反には厳罰を

 日雇い派遣を原則禁止するなどした労働者派遣法の改正案(政府案)が今国会に提出されたようだ。そもそも派遣労働(登録型派遣)制度そのものに問題点があるにもかかわらず、世の派遣労働者のほんの一部である日雇い派遣のみを、意図的にクローズアップして採り上げ、その部分だけ軽く規制しようというのはまったく卑怯なやり方である。これで国民の目がごまかせると思っているのであろうか。派遣業界、そして派遣社員を安く使っている大企業から多額の献金を受けている自民党政権に、本当の意味での派遣法改正ができるはずもない。

 今回の派遣法改正ではあたかも行政の監督機能を強化するような制度も盛り込まれているが、よくよく読めばほとんど実効性のないものである。それどころか、派遣法の本来の趣旨に基づいてこれまで禁止されていた派遣社員に対する事前面接を解禁するという。派遣労働が問題されている中で、どさくさにまぎれてこのような規制緩和をするとは許しがたい。そしてまたしても自民党と一緒に悪法に手を貸す公明党は地獄に落ちるべし。

 最近の報道によれば、ますます非正規社員が増加しつつあるという。すでに始まりつつある不況が進行するにつれて、企業はそれを口実に正社員の採用を減らし、これからさらに非正規社員は増加するであろう。すでに労働法の規制緩和が進んでいるため、雇用をめぐる企業の違法行為もこれまでより多発するに違いない。

 私が提案したいのは、守られない(=実効性のない)労働法制を作るべきではないということと、労働法制を整備したのであればその実効性を確保するための手段も備えるべきだ、ということである。製造業に対する派遣の解禁などの規制緩和が進められたとはいえ、派遣法の文言を読んでみると、今なお派遣労働に対する制約は何かと整えられている。しかしそれはあくまで「文言上」である。そこには抜け道もあれば、およそ企業が守りそうにもない制度や努力規定が多く含まれている。新たな労働法制を作る場合は、実際その法制が実効性をもちうるのか、企業の本質や実態を踏まえなければならない。形は立派でも守られそうにない法制は、そもそも立派な法制ではないのである。

 そして、労働法制の実効性を確保する手段が重要である。商取引・金融・有価証券法制、消費者保護法制などは、欠点はあるもののそこそこの罰則や行政の監督機能が働いている。それと同様に、労働法制にもより厳しい罰則・行政の介入を盛り込むべきである。経済規制と労働規制は両輪関係にあるべきだ。現在の労働基準監督署の体制では弱すぎる。人員を増やし、各企業にもっと目を光らせるべきだ。法人や経営者に刑罰を課すことはもちろん、労働法違反や悪質行為を行った企業は実名を公開し、営業停止命令もできるようにすべきである。例えば偽装請負をしていたキヤノンなどは高額の罰金を課し、営業停止命令を受けるにふさわしい。高額の罰金は、営業停止中の労働者の賃金補填に回すのがよい。それほどに監督機能を強化しなければ、企業の遵法精神は生まれてこない。厚生労働省は少しでも省庁としての体面を保ちたいためか、「告示」や「ガイドライン」を出すなどして企業(事業所)に法令順守や周知をアピールしているが、そんなものは役に立たない。法制度から改めて、労働法違反には厳罰で臨むべきである。今の自民党政権にはとてもできることではない。なにしろ違法企業の役員を政府の審議会や諮問会議の委員に招いているくらいだからだ。

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麻生政権の経済対策への絶望感

 政府の発表した景気対策が議論を起こしているようだ。同じ衆議院の構成員から4人目の首相、すなわちすっかり民主的基盤を失った内閣の発表した経済対策のメニューを見れば、素人の私でも「ああ、いつもの」と感じる。つまり、ほとんどの政策は「上(大企業)が潤えば下(国民)も潤う(ハズ)」という経済観を基礎にしているものなのである。企業献金に支えられているいつもの自民党らしい政策だ。

 日本はつい少し前まで戦後最長の好景気といわれたが、その「潤い」は結局労働者の大半には回ってこないまま、所得格差は拡大していった。(派遣法の改悪に象徴される)労働市場の規制緩和が進んでしまった以上、もはや大企業が潤っても労働者は恩恵を受けないのだ。恩恵を受けないまま、今まさに不況に突入である。製造業派遣労働者は次々と契約打ち切りになっている模様。中にはトヨタのように、利益を上げながらも生産調整のために派遣社員を首切りしている企業もある。「○○、派遣社員○○人を契約解除」というようなニュースを見るたび、「ここはアメリカか」と思う。そして、クビを切られた派遣社員の今後の暮らしのことを思って悲しい気持ちになる。日本の正社員労働者が「解雇権濫用(禁止)の法理」で守られている間に、いわば油断をしている間に、派遣労働法制という抜け道ができて、結果としては市場原理主義のアメリカと変わらないクビ切り自由の社会になってしまった。麻生内閣の「上が潤えば下も潤う」という経済観では、国民の暮らしは決してよくならない。

 政府の経済対策によれば、4人家族で6万円相当の給付を行い、3年後に消費税を増税して回収するという。回収といっても、例えば3パーセントの消費税増税で年収500万円の世帯は新たに年間15万円の消費税を取られるわけだから、高い利息である。政府はすっかり国民をバカにしており、「とりあえずバラまいておけば票も買えるし、計画性のないやつは費消するだろう」と考えているのであろう。とりわけ公明党を支える創価学会員には政治的素養が少ない者も多いので、このようなバラまきは学会員の票を買収するのに好都合である。

 主要商業マスメディアは今や「将来の消費税増税やむなし」の立場一色である。左翼的といわれる(私はそう思わないが)朝日新聞でさえ「消費税増税を明言することが政治の責任」などという珍説を唱えている。原理原則に戻れば、消費税は全ての物に一律に課す限り、金持ちに優しく、貧乏人に厳しい税制である。金持ちも貧乏人も同じ税額を支払うのだから当然のことである。この原理原則を意識し、マスメディアは「それでもいいのか?」と国民に問うべきだ。せめて食料品は非課税とすべきだろう。消費税増税よりも、大企業と富裕層に甘い法人税率と所得税率を過去の水準にまで引き上げるべきだ(累進性の強化)。親の財産の有無で子の将来が決まるのはけしからんから、相続税も強化すべし。同じく株などの売買などで利益を上げる輩は実体経済の役に立たず、労働者の賃金を下げることにつながるから、証券優遇税制は廃止どころか高率の税を課すべきである。このような制度でも、欲望の渦巻く資本主義社会においては経済は回るものである。もちろん税制上の国際協調も欠かせない。消費税に限って「せめてヨーロッパ並みの税率に…」と主張する者がいる。ならば日本はヨーロッパ並みの福祉国家といえるのか?と私は問いたい。消費税を20パーセントとし、かつ高等教育費を原則無料にするというのであれば筋として許されよう。しかし今の日本政府は「小さな国家」を目指しつつ、貧乏人からも高額の税を取るという矛盾を犯している。所得再配分の機能を失った国家はもはや国家としての意義を失っているといってよい。

 本当に国民の暮らしをよくしようと考えるのであれば、政府は「福祉国家」を宣言すべきである。派遣法制を廃止して直接雇用を義務づけます、妊娠から大学卒業まで子にかかる費用は原則無料とします、高齢者の医療費は無料にします、年金も充実します、公共サービスも増やします、ですから国民の皆さんは安心して将来設計し、子を産み育て、手持ちの財産をご自分の幸せのためにお使いください!と宣言すればよいのである。生活不安の解消なくして、国民の財産は回らない。民主的基盤を失った麻生政権は文字通り国民の期待から遊離したまま、いつまで漂流を続けるのだろうか。

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天皇制と憲法と皇室典範について

 時期外れだが先日憲法について述べたことのついでに、これまた時期外れだが、天皇制についても書いてみたいと思う。天皇の次男一家に男の子が生まれたことから、最近では皇室典範改正に関する議論もめっきり聞かれなくなった。

 日本のみならずアジアに多くの犠牲者をもたらした日中戦争~太平洋戦争について、当時の明治憲法上、最高権力者であった昭和天皇に、戦争責任があると私は考えている。本来ならば敗戦時、責任を負ってしかるべきであったと思う。しかし連合国は、国民が現人神と教えられていた天皇(制)を残すことによって、日本の戦後処理を円滑に進めようとした意図があったという。当時の政策的・戦略的意図は、理解できなくもない。しかし、そのような判断の結果、現憲法に天皇の規定が入っていることには違和感を覚える。基本的人権の尊重、民主主義、平等権をうたっている憲法の中に、国民とは離れた世襲的身分をもつ天皇の規定が入り込んでいるのは、どうもおかしい。異質なものが入り込んでいる。唯一の救いは、その地位が国民の総意に基づく、とされていることだが(つまり民主的位置付けにはなっているのではあるが)、それでもなお、憲法の原則からは浮いている。

 日本国憲法は大きく分けて、「統治」に関する規定と、「人権」に関する規定から成り立っている。これは近代的憲法の基本構造であろう。他方、天皇は憲法4条によれば、「国政に関する権能を有しない」とされている。これは天皇に統治権はないということであり、このような「ない」ことについて、憲法の統治に関わる重要な部分であえて宣言しなくてもよいのではないかと私は思う。憲法中の天皇に関する規定は、他の条文と整合性がとりにくいのである。もちろん戦前戦後で天皇の位置付けが180度変わったため、統治権が「ない」ことまで注意的に憲法に書く必要があったことは認めるが、しかしすでに戦後60年以上たった今は不要であろう。皇室典範はなおさら、憲法の精神に合わない。「天皇は男系の男子が世襲する」など、憲法の男女平等原理に反するし、合理的理由は何もないではないか。違憲の法律は無効である。

 かといって私は、直ちに天皇制を廃止せよ!と訴えたいわけではない。昭和天皇の子や孫に戦争責任はない。それに、天皇制をどうこうすることは現在の喫緊の課題でもなんでもない(皇室に税金を使うのをやめれば少しは福祉に回せるだろうがそれが巨額なわけでもない)。また、天皇の存在を精神的支柱としている国民も多いことだろう(逆にそれが政治利用される危険性があることは過去の歴史から明らかであるが)。天皇の存在を精神的支柱にせざるを得ない人々というのは、個人の確立が未完成なのではないかと私は推測する。天皇とは何の縁もなく利害関係もないのに、天皇の存在を貶められると、まるで自分が馬鹿にされたように感じてしまうタイプの人々である。…しかし、私はそれを非難する資格はない。個人の確立が未完成なのは本人のせいばかりではなく、生育環境にも左右されるし、なにより、それで幸せに人生を過ごしているなら誰もそれを責めることはできないからだ。そもそも私自身、個人が確立していると断言もできない。

 今の天皇は国政の権限を一切持っておらず、儀式的行為をするだけである。天皇の行為によって国民の権利義務が左右されることはない。天皇には民主的基盤がないのであるから、当然のことである。とすれば、天皇の存在は国民にとって「好き」か「嫌い」か「なんでもない」かである。すなわち「好み」の問題なのである。その意味では天皇は、他の宗教主宰者やスポーツ選手や芸能人と同じ存在である。それを憲法原理に詰め込むこと自体、誤っている。そこで、天皇に関する諸々の件は憲法ではなく、法律のみ(皇室典範、宗教法人法、文化財保護法ほか)で定めるのがよいと思う。憲法には、国会の召集など、一見実質的権限があるようにもみえる形式的な天皇の行為が定められているが、これも今や不要ではないか。

 他方、天皇は神道に基づく各儀式の主宰者として中心的役割を担っている。したがって、天皇は、儀式的な国事行為をする必要はなく、伝統的な宗教的行事を行なう存在でよいでのはないだろうか。天皇に敬愛の念を抱いている人々は、このような案は受け入れがたいであろうか。現憲法だと、天皇・皇族は色々な点で基本的人権を制約されているが(選挙権や表現の自由など)、法律で天皇制を定める場合は、そのような制約も外してしまうのがよい。また、天皇・皇族が、その身分から離脱したいと思えばそれも自由とすればよい。皇太子の妻になってはみたものの失望し、離婚したくてもできないというのはあまりにも酷い人権抑圧だ。なお、天皇を法律で定めるといっても、憲法に矛盾する定めは許されない。男子が世襲する規定も削除しなければならない。男子が世襲することは、単なる慣習・伝統レベルで(内輪で)決めればよいだけである。実際、世の中の他の宗教団体も慣習や伝統に従って運営されている事項が多いではないか。

 ただひとつ、考慮しなければならないのは、今の天皇制は税金によって多く支えられていることである。天皇を憲法秩序から解放するとすれば、皇室という一種の宗教団体(神道)に税金を投入することは認められない(憲法89条)。皇室の会計は国家財政からは独立採算とすべきである。独立採算となっても、皇室はその有している財産と知名度を生かして十分存続するであろう。存続が危うくなるのはそれこそ国民の支持を大半失うときだ。

 ついでに天皇制と、子どもの教育上の問題について触れたい。私が問題としているのはテレビ等における皇室タブーである。どんなに悲惨な殺人事件の特集の後でも、皇室のニュースとなると、キャスターは「さて…愛子様が云々」とにっこり微笑む。あの切り替わり方、そしてあのわざとらしい微笑が、私はとても嫌いだ。北朝鮮のテレビ放送でわざとらしく「将軍様が…」とキャスターが微笑んだり抑揚をつけたりしていることがあるが、これと変わらないほどの「わざとらしさ」であると思う。象徴的なのは、「雅子さま」「愛子さま」と「さま」をひらがなでつける点だ。本名と肩書きで呼称すればよいではないか。「雅子さん」は結婚すると突然「雅子さま」。「愛子ちゃん」は新生児でも生まれながらにして「愛子さま」。結婚によって突然エライ人になったり、生まれながらにしてエライ存在があるということをテレビ等のメディアが垂れ流している。このようなテレビを見る子どもたちが疑問を持つこともなく、「人間、生まれながらの身分があって当たり前」と思ってしまうことは恐ろしい。そのような麻痺感覚は、政治利用されたり、また自らが他者を差別していることに鈍感になるだろう。

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