天皇制と憲法と皇室典範について
時期外れだが先日憲法について述べたことのついでに、これまた時期外れだが、天皇制についても書いてみたいと思う。天皇の次男一家に男の子が生まれたことから、最近では皇室典範改正に関する議論もめっきり聞かれなくなった。
日本のみならずアジアに多くの犠牲者をもたらした日中戦争~太平洋戦争について、当時の明治憲法上、最高権力者であった昭和天皇に、戦争責任があると私は考えている。本来ならば敗戦時、責任を負ってしかるべきであったと思う。しかし連合国は、国民が現人神と教えられていた天皇(制)を残すことによって、日本の戦後処理を円滑に進めようとした意図があったという。当時の政策的・戦略的意図は、理解できなくもない。しかし、そのような判断の結果、現憲法に天皇の規定が入っていることには違和感を覚える。基本的人権の尊重、民主主義、平等権をうたっている憲法の中に、国民とは離れた世襲的身分をもつ天皇の規定が入り込んでいるのは、どうもおかしい。異質なものが入り込んでいる。唯一の救いは、その地位が国民の総意に基づく、とされていることだが(つまり民主的位置付けにはなっているのではあるが)、それでもなお、憲法の原則からは浮いている。
日本国憲法は大きく分けて、「統治」に関する規定と、「人権」に関する規定から成り立っている。これは近代的憲法の基本構造であろう。他方、天皇は憲法4条によれば、「国政に関する権能を有しない」とされている。これは天皇に統治権はないということであり、このような「ない」ことについて、憲法の統治に関わる重要な部分であえて宣言しなくてもよいのではないかと私は思う。憲法中の天皇に関する規定は、他の条文と整合性がとりにくいのである。もちろん戦前戦後で天皇の位置付けが180度変わったため、統治権が「ない」ことまで注意的に憲法に書く必要があったことは認めるが、しかしすでに戦後60年以上たった今は不要であろう。皇室典範はなおさら、憲法の精神に合わない。「天皇は男系の男子が世襲する」など、憲法の男女平等原理に反するし、合理的理由は何もないではないか。違憲の法律は無効である。
かといって私は、直ちに天皇制を廃止せよ!と訴えたいわけではない。昭和天皇の子や孫に戦争責任はない。それに、天皇制をどうこうすることは現在の喫緊の課題でもなんでもない(皇室に税金を使うのをやめれば少しは福祉に回せるだろうがそれが巨額なわけでもない)。また、天皇の存在を精神的支柱としている国民も多いことだろう(逆にそれが政治利用される危険性があることは過去の歴史から明らかであるが)。天皇の存在を精神的支柱にせざるを得ない人々というのは、個人の確立が未完成なのではないかと私は推測する。天皇とは何の縁もなく利害関係もないのに、天皇の存在を貶められると、まるで自分が馬鹿にされたように感じてしまうタイプの人々である。…しかし、私はそれを非難する資格はない。個人の確立が未完成なのは本人のせいばかりではなく、生育環境にも左右されるし、なにより、それで幸せに人生を過ごしているなら誰もそれを責めることはできないからだ。そもそも私自身、個人が確立していると断言もできない。
今の天皇は国政の権限を一切持っておらず、儀式的行為をするだけである。天皇の行為によって国民の権利義務が左右されることはない。天皇には民主的基盤がないのであるから、当然のことである。とすれば、天皇の存在は国民にとって「好き」か「嫌い」か「なんでもない」かである。すなわち「好み」の問題なのである。その意味では天皇は、他の宗教主宰者やスポーツ選手や芸能人と同じ存在である。それを憲法原理に詰め込むこと自体、誤っている。そこで、天皇に関する諸々の件は憲法ではなく、法律のみ(皇室典範、宗教法人法、文化財保護法ほか)で定めるのがよいと思う。憲法には、国会の召集など、一見実質的権限があるようにもみえる形式的な天皇の行為が定められているが、これも今や不要ではないか。
他方、天皇は神道に基づく各儀式の主宰者として中心的役割を担っている。したがって、天皇は、儀式的な国事行為をする必要はなく、伝統的な宗教的行事を行なう存在でよいでのはないだろうか。天皇に敬愛の念を抱いている人々は、このような案は受け入れがたいであろうか。現憲法だと、天皇・皇族は色々な点で基本的人権を制約されているが(選挙権や表現の自由など)、法律で天皇制を定める場合は、そのような制約も外してしまうのがよい。また、天皇・皇族が、その身分から離脱したいと思えばそれも自由とすればよい。皇太子の妻になってはみたものの失望し、離婚したくてもできないというのはあまりにも酷い人権抑圧だ。なお、天皇を法律で定めるといっても、憲法に矛盾する定めは許されない。男子が世襲する規定も削除しなければならない。男子が世襲することは、単なる慣習・伝統レベルで(内輪で)決めればよいだけである。実際、世の中の他の宗教団体も慣習や伝統に従って運営されている事項が多いではないか。
ただひとつ、考慮しなければならないのは、今の天皇制は税金によって多く支えられていることである。天皇を憲法秩序から解放するとすれば、皇室という一種の宗教団体(神道)に税金を投入することは認められない(憲法89条)。皇室の会計は国家財政からは独立採算とすべきである。独立採算となっても、皇室はその有している財産と知名度を生かして十分存続するであろう。存続が危うくなるのはそれこそ国民の支持を大半失うときだ。
ついでに天皇制と、子どもの教育上の問題について触れたい。私が問題としているのはテレビ等における皇室タブーである。どんなに悲惨な殺人事件の特集の後でも、皇室のニュースとなると、キャスターは「さて…愛子様が云々」とにっこり微笑む。あの切り替わり方、そしてあのわざとらしい微笑が、私はとても嫌いだ。北朝鮮のテレビ放送でわざとらしく「将軍様が…」とキャスターが微笑んだり抑揚をつけたりしていることがあるが、これと変わらないほどの「わざとらしさ」であると思う。象徴的なのは、「雅子さま」「愛子さま」と「さま」をひらがなでつける点だ。本名と肩書きで呼称すればよいではないか。「雅子さん」は結婚すると突然「雅子さま」。「愛子ちゃん」は新生児でも生まれながらにして「愛子さま」。結婚によって突然エライ人になったり、生まれながらにしてエライ存在があるということをテレビ等のメディアが垂れ流している。このようなテレビを見る子どもたちが疑問を持つこともなく、「人間、生まれながらの身分があって当たり前」と思ってしまうことは恐ろしい。そのような麻痺感覚は、政治利用されたり、また自らが他者を差別していることに鈍感になるだろう。
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日本のみならずアジアに多くの犠牲者をもたらした日中戦争~太平洋戦争について、当時の明治憲法上、最高権力者であった昭和天皇に、戦争責任があると私は考えている。本来ならば敗戦時、責任を負ってしかるべきであったと思う。しかし連合国は、国民が現人神と教えられていた天皇(制)を残すことによって、日本の戦後処理を円滑に進めようとした意図があったという。当時の政策的・戦略的意図は、理解できなくもない。しかし、そのような判断の結果、現憲法に天皇の規定が入っていることには違和感を覚える。基本的人権の尊重、民主主義、平等権をうたっている憲法の中に、国民とは離れた世襲的身分をもつ天皇の規定が入り込んでいるのは、どうもおかしい。異質なものが入り込んでいる。唯一の救いは、その地位が国民の総意に基づく、とされていることだが(つまり民主的位置付けにはなっているのではあるが)、それでもなお、憲法の原則からは浮いている。
日本国憲法は大きく分けて、「統治」に関する規定と、「人権」に関する規定から成り立っている。これは近代的憲法の基本構造であろう。他方、天皇は憲法4条によれば、「国政に関する権能を有しない」とされている。これは天皇に統治権はないということであり、このような「ない」ことについて、憲法の統治に関わる重要な部分であえて宣言しなくてもよいのではないかと私は思う。憲法中の天皇に関する規定は、他の条文と整合性がとりにくいのである。もちろん戦前戦後で天皇の位置付けが180度変わったため、統治権が「ない」ことまで注意的に憲法に書く必要があったことは認めるが、しかしすでに戦後60年以上たった今は不要であろう。皇室典範はなおさら、憲法の精神に合わない。「天皇は男系の男子が世襲する」など、憲法の男女平等原理に反するし、合理的理由は何もないではないか。違憲の法律は無効である。
かといって私は、直ちに天皇制を廃止せよ!と訴えたいわけではない。昭和天皇の子や孫に戦争責任はない。それに、天皇制をどうこうすることは現在の喫緊の課題でもなんでもない(皇室に税金を使うのをやめれば少しは福祉に回せるだろうがそれが巨額なわけでもない)。また、天皇の存在を精神的支柱としている国民も多いことだろう(逆にそれが政治利用される危険性があることは過去の歴史から明らかであるが)。天皇の存在を精神的支柱にせざるを得ない人々というのは、個人の確立が未完成なのではないかと私は推測する。天皇とは何の縁もなく利害関係もないのに、天皇の存在を貶められると、まるで自分が馬鹿にされたように感じてしまうタイプの人々である。…しかし、私はそれを非難する資格はない。個人の確立が未完成なのは本人のせいばかりではなく、生育環境にも左右されるし、なにより、それで幸せに人生を過ごしているなら誰もそれを責めることはできないからだ。そもそも私自身、個人が確立していると断言もできない。
今の天皇は国政の権限を一切持っておらず、儀式的行為をするだけである。天皇の行為によって国民の権利義務が左右されることはない。天皇には民主的基盤がないのであるから、当然のことである。とすれば、天皇の存在は国民にとって「好き」か「嫌い」か「なんでもない」かである。すなわち「好み」の問題なのである。その意味では天皇は、他の宗教主宰者やスポーツ選手や芸能人と同じ存在である。それを憲法原理に詰め込むこと自体、誤っている。そこで、天皇に関する諸々の件は憲法ではなく、法律のみ(皇室典範、宗教法人法、文化財保護法ほか)で定めるのがよいと思う。憲法には、国会の召集など、一見実質的権限があるようにもみえる形式的な天皇の行為が定められているが、これも今や不要ではないか。
他方、天皇は神道に基づく各儀式の主宰者として中心的役割を担っている。したがって、天皇は、儀式的な国事行為をする必要はなく、伝統的な宗教的行事を行なう存在でよいでのはないだろうか。天皇に敬愛の念を抱いている人々は、このような案は受け入れがたいであろうか。現憲法だと、天皇・皇族は色々な点で基本的人権を制約されているが(選挙権や表現の自由など)、法律で天皇制を定める場合は、そのような制約も外してしまうのがよい。また、天皇・皇族が、その身分から離脱したいと思えばそれも自由とすればよい。皇太子の妻になってはみたものの失望し、離婚したくてもできないというのはあまりにも酷い人権抑圧だ。なお、天皇を法律で定めるといっても、憲法に矛盾する定めは許されない。男子が世襲する規定も削除しなければならない。男子が世襲することは、単なる慣習・伝統レベルで(内輪で)決めればよいだけである。実際、世の中の他の宗教団体も慣習や伝統に従って運営されている事項が多いではないか。
ただひとつ、考慮しなければならないのは、今の天皇制は税金によって多く支えられていることである。天皇を憲法秩序から解放するとすれば、皇室という一種の宗教団体(神道)に税金を投入することは認められない(憲法89条)。皇室の会計は国家財政からは独立採算とすべきである。独立採算となっても、皇室はその有している財産と知名度を生かして十分存続するであろう。存続が危うくなるのはそれこそ国民の支持を大半失うときだ。
ついでに天皇制と、子どもの教育上の問題について触れたい。私が問題としているのはテレビ等における皇室タブーである。どんなに悲惨な殺人事件の特集の後でも、皇室のニュースとなると、キャスターは「さて…愛子様が云々」とにっこり微笑む。あの切り替わり方、そしてあのわざとらしい微笑が、私はとても嫌いだ。北朝鮮のテレビ放送でわざとらしく「将軍様が…」とキャスターが微笑んだり抑揚をつけたりしていることがあるが、これと変わらないほどの「わざとらしさ」であると思う。象徴的なのは、「雅子さま」「愛子さま」と「さま」をひらがなでつける点だ。本名と肩書きで呼称すればよいではないか。「雅子さん」は結婚すると突然「雅子さま」。「愛子ちゃん」は新生児でも生まれながらにして「愛子さま」。結婚によって突然エライ人になったり、生まれながらにしてエライ存在があるということをテレビ等のメディアが垂れ流している。このようなテレビを見る子どもたちが疑問を持つこともなく、「人間、生まれながらの身分があって当たり前」と思ってしまうことは恐ろしい。そのような麻痺感覚は、政治利用されたり、また自らが他者を差別していることに鈍感になるだろう。
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