シイタケのブログ -21ページ目

セーフティネットの一人歩き

 急速に景気が冷え込み、とりわけ製造業・輸出産業は打撃を受けており、シンクタンクなども今後国内だけで何十万人もの失業者が出るだろうと予測している。そしてここのところとくによく見聞きするようになったのが、「セーフティネット」という言葉である。直訳すれば「安全網」であり、いろいろな意味に使われているようだが、一般的には、いわゆる「普通の人々の生活」から不運にも落ちこぼれてしまった人を救済する社会の諸制度、を意味するのであろう。代表的なものは生活保護制度であり、失業手当や労災給付、あるいは低所得者に対する各種公課の減免制度なども含まれるであろう。これまで生活保護や最低賃金など国民の命に関わる給付を引き下げようと画策・実現してきた現与党(自民・公明)の政治家でさえも、最近では「セーフティネットが大事」と唱えるようになっており、政治への怒り度数が高まってきた国民の目をそらして、来たる衆議院選挙を乗り切ろうとする魂胆が見え見えである。「ワーク・ライフ・バランス」という語もそうだが、国民にじわじわ浸透してきた言葉を、それまで関心さえもたなかった政治家がハヤリ物のように取り上げた時点で、その語は一気に陳腐化してしまう。

 もちろんセーフティネットの諸制度は重要である。憲法が国民に保障する生存権を具体化した制度であるから、それは常に国民の役に立つ制度でなければならず、また使いやすい制度でなければならないことは当然である。すなわち、実際の「生活の保護」に足りる給付額でなければならず、また保護資格があるのに窓口で門前払いされたりしないことが重要である(現状はいずれにも問題がある)。生活保護というと不正受給者が取りざたされる。もちろん不正受給は防がなければならないが、生活保護受給者全体の数、あるいは本来生活保護を受けるに値する人々の数に比べれば微々たるものであるから、生活保護受給者全体を悪く評価するのは誤っている。また、「生活保護受給者=怠惰」というイメージも払拭すべきである。何しろ憲法で保障しているのであるから、堂々と使うべき制度なのである。日雇い労働や、雇用保険に加入させない悪質業者が多いため、失業しても失業手当が出ず、職を失えば一気に生活に困窮する労働者も多いという。彼らは違法金融業者から金を借りたりしないで、あるいは窃盗などの罪を犯す前に、直ちに生活保護受給申請に赴けばよい(すでにそのようなサポートをする取り組みもみられる)。堂々と生活保護を受け、生活保護受給者が急増し、国家財政すら圧迫するようになって、社会問題化するほうがむしろ健全なのである。そうなれば、まだ余力があるにもかかわらず安易に労働者を解雇する企業が浮き彫りになり、あるいは本来税金をしっかり徴収すべき対象は誰かということが明らかになってくるであろう。

 しかしあくまで「セーフティネット」は安全のための救済、つまり生活上最低限のものでしかない。私はこの「セーフティネット」という語の一人歩きが、「セーフティネットさえ張っておけば政府の役割は完了」という方向に向かうのを心配している。セーフティネットは最低限の文化的生活を保障するかしないかのものでしかないため、それだけでは受給者は貧困状態から抜け出しにくく、また受給者である親から子へ貧困の連鎖(再生産)が生じる可能性が高いのである。政府の役割はセーフティネットの充実だけではダメなのだ。つまり「救貧政策より防貧政策を」ということだが、私はそれよりもっと、国家は、国民全体の生活レベルの平準化を目指すべきだと考える。所得再分配(所得格差縮小)を最大限推し進めるべきだと言い換えてもよい。格差の小さい社会は、国民全てが国家や社会から平等に人間らしく尊重されるということであるから、日本国憲法も、そのような社会を目標としているといえるだろう。

 また、国民の生活レベルの平準化は、憲法の要請する各種の福祉政策を実施する場合にも必要である。例えば政府または自治体が、ある資格を満たした国民に一律に定額(児童手当等)を支給するというような場合、所得格差が小さい社会であれば定額支給の家計補助の度合いと効果もほぼ一律になる。今話題のくだらない定額給付金も、国民の所得レベルが平準化されている社会であれば、税金の払い戻しとして一定の意義はあるのであるが、所得格差が著しい社会であるため国民の反発を買うのである。ならばそのような支給も高所得者には少なく、低所得者には多く累進的にすればよいではないか、という指摘もあろう。しかし児童手当などの各手当は一定の目的をもって支給されるものであるため、その支給に格差をつけるのは本来の趣旨に反する。また、公的施設の利用料(公立学校の授業料等も含む)などを設定する場合も、国民の所得レベルが同じであれば、その負担感も同様となって不公平がない。このように、あらゆる福祉政策は、国民の生活レベルが平準化されている社会と最も適合するのである。

 以上のことは、言い換えれば「機会の平等より結果の平等を目指せ」と提唱していることにもなろう。よく「機会の平等さえあればよい」といわれるのを聞くが、これは福祉国家の理念と相容れない。機会の平等を真に確保するためには、結果の平等がなければならない。貧困家庭に生まれた子どもは、高等教育を受ける機会も奪われてしまうからである。あるいは低所得者は、技能を身に付けるための時間も経済的余裕もないからである。

 「みんな同じ所得になるのなら国民が向上心や競争心を失う」という見方もあるかもしれない。もちろん私は万単位まで所得を同じにせよと主張しているのではない。当面資本主義社会を前提とする以上、所得の格差は生じて当然である。私は、年収数千万円の高所得者から時給700円の低所得者まで格差が大きすぎることを問題視しているのである。累進性を強化するほか、不動産や有価証券売買による(不労)所得にはがっちり課税すべきである。私は「実力主義社会なんだから所得格差があって当然」という人の顔をまじまじと見つめて問いたい。「あなたは自分だけの『実力』で最低賃金労働者の10倍働いているつもりなのですか?」と。しょせん人一人は人一人であり、労働力には限度がある。いくら能力差があろうとも、他の人の10倍以上の所得を得る正当性はないはずだ。また、人は他の人の労働によっても支えられているということを忘れてはなるまい。

 このように、国民生活レベル全体の向上と平準化という政治使命を捨てて「セーフティネット」という言葉を発している政治家が私は大嫌いであり、次の選挙でぜひ落選してほしいと願っている。そのような政治家が「セーフティネット」という言葉(「ワークライフバランス」も含む)を発しているせいで、私はこれらの言葉さえインチキ臭くて嫌いになりそうだ。

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地デジチューナーバラマキの愚

 報道されてしばらく経つが、自民党と公明党は、地上デジタル放送への完全移行に向け、生活保護世帯等に対し地デジチューナーを無償配布する方針を固めたという。そのための費用は数百億円に達するという。しかもこれは試算であるため、実際の費用はさらに膨れあがる可能性は高い。……愚策の一言に尽きる。

 まず、アナログ放送を中止しなければ、税金を使ったこれだけの費用は生じないのであるから、総務省が指揮をとってアナログ放送中止を延期すべきである。デジタル放送とアナログ放送の双方を続けることのコストがかさむのかもしれないが、それはデジタル放送を推進してきた放送業者の自己責任の問題である。とりわけ不況期に突入している中、地デジ対応テレビへの買い替えも鈍っているであろうから、このままアナログ放送を終了するというのはあまりにも視聴者サービスに欠ける。

 放送電波に関しては国家の責任と民間企業の責任を分けて考えなければならないが、まず国家(行政)は国民の「表現の自由」「知る権利」を妨げてはならないから(憲法21条)、そして他方で国民に最低限度の文化的生活を確保する義務を負うから(憲法25条)、国民に広く行き渡っているアナログ放送を中止すべきではないと思う。次に放送業者は、国民の意思形成に強い影響力をもつテレビ放送の免許という特権を与えられている立場を自覚して、国民がテレビ放送を視聴する機会を一方的に奪ったり、新たな出費を強いるべきではない。これは放送法(1条各号)の理念にも沿う。

 それに、そもそも最近はテレビ離れが進んでいると聞く。低予算の低俗・貧弱なテレビ放送を一方的に見せられるより、インターネットで自分のほしい情報に個人的にアクセスするほうが娯楽度が高いと感じる人も多くなっているのである。また、いくらデジタルテレビ放送が「双方向」といっても、インターネットの双方向性にはとてもかなうものではない。デジタル放送の高画質・高音質は魅力的だが、近いうちにインターネットもそれに追いつくであろう(あるいはそれほど完璧な高画質・高音質は一般人は求めていないというのもまた事実である)。デジタル放送への移行によって関係業界が潤うというストーリーは幻となりつつある。アナログ放送の廃止によってテレビ離れはいっそう拡大し、テレビは売れない、放送業者の広告料収入も減るという惨憺たる状況になる恐れもあるのである。

 しかし、以上のことはすでに色々な人々から指摘されていることであって、私がわざわざあらためて指摘するほどのことでもない。私が批判したいのは、たかがテレビ視聴ごときに何百億円も費やすその無神経さである。その金があれば他の福祉施策に回せといいたいだけではない。生活保護世帯のような困窮世帯でも、テレビさえ見せておけば政治に文句はいうまいと踏んでいるようなところが許しがたいのである。

 デジタル放送のように、本来、科学技術が進歩して国民生活が豊かになることは好ましいことである。しかし、その豊かさは国民全体が享受できて初めて、健全でかつ経済効果があるのであって、一部の人々を置いてけぼりにすべきではない。国土交通省が進めているITS(高度道路交通システム)なども同じである。少なくとも国家が関わって(推進して)いるプロジェクトである以上、憲法の精神からも、一定程度の人々(経済弱者)が取り残されることを前提とする施策は行うべきではない。デジタル放送対応テレビを買えない人も、安全性の高い自動車に買い替えられない人々も多数いるのである。生活保護基準切り下げや労働法制規制緩和など、一方で貧富の差を強める施策をし、他方で国民全体を巻き込む施策をとるのは誤っている。この点からも私は、新しい社会基盤整備など、国民生活を豊かに便利にするためには、まず国民の生活レベルがそこそこ平等であることが大前提だと思うのである。そのような社会であれば、地デジチューナーをばらまくというような愚策も不要である。

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公務員バッシングと「小さな政府」

 キャリア官僚が早期退職後に企業や関連法人に再就職し、さらに他の企業や法人に再々就職して不当な退職金を得るという「渡り」行為が批判されている。そもそも「天下り」や「渡り」も、官民の癒着をもたらし、あるいは政府の補助金(税金)の無駄遣いになるという点できわめて悪しき慣行である。天下り規制を趣旨とする国家公務員法改正はすでに行われているが、実態は改められない恐れが高く、より実効的な法改正と監視の仕組みが望ましい。天下りを規制しにくい理由として、憲法上の「職業選択の自由」が言いわけとされる場合があるが、上記の弊害を防止するための必要不可欠な権利制限として、合憲性が認められるべきである。

 ただ、私が気になるのは、公務員さえ叩いておけばそれで満足、という風潮が世の中に広がっているように思われることである。公務員は暇で、民間よりも給料をもらいすぎている、公務員さえ減らせば税金の無駄遣いもなくなる、という一方的な思い込みが広がっているかのようである。私はこの点について異議を述べたい。

 まず(職種や自治体によってばらつきがあるのは当然だが)、公務員一般の給料は、民間企業に比べてとりわけ高いわけでもない。とくにキャリア以外の国家公務員、あるいは財政難の自治体の地方公務員の給料などは、決して楽な暮らしができるほどの額ではない。そしてそのわりには暇ではなく、恒常的に残業の多い部署もある(しかも残業代の上限が設定されているところも多い)。公務員みんなが楽をしていると思うのは大きな間違いである。公務員の仕事に無駄があると主張するのならば、まずその公務員を使う立場にある国会議員や地方議会議員の中で無能な者を落選させるべきである。

 次に、公務員は憲法にも書いてあるとおり、国民全体のための奉仕者であるから、公務員が減れば行政サービスが疎かになり、結局不利益を被るのは国民だということである。今でさえ公共サービスは次々と民間企業に委託されているし(それがかえって高コストをもたらす場合もある)、公務員の中でも非正規の者(任期付職員・非常勤・アルバイトなど)が増えつつある。もちろん公務員の無駄な仕事、予算確保を目的とする「仕事のための仕事」はなくしていかなければならないが、大きくみれば公務員削減は国民にとって利益にならないということを強調したい。教育や福祉の場で、身分の安定した質の高い職員をそろえておくことはとても重要である。特に今の自民党+公明党政権においては、公務員の削減というと真っ先に国民にとって必要不可欠なセクションを無にしてしまおうとするので要注意である。

 さらに、公務員削減は公共サービスの削減につながるから、それはいわゆる「小さな政府」を志向するものであるが、これは決して一般の国民の利益にならない。よく「小さな政府か」「大きな政府か」という選択肢がマスコミや自民党系政治家から示されることがある。「小さな政府」は規制が弱く公共サービスが少ない代わりに税金が安い、「大きな政府」は規制が強く公共サービスが大きい代わりに税金が高いのですが、どっちがいいですか、というものである。一般庶民はこの選択肢を示されて、迷っている場合ではない。間違いなく「大きな政府」のほうが一般庶民にとって幸せなのである。大きな政府は利益・所得のあるところからより多くの税金をとることになるから、必然的に国家の所得再分配機能が強くなる。他方で福祉や教育にかかる費用は一人当たりそれほど違いはないから、一般庶民、とりわけ貧しい人々にとって、大きな政府はどうみてもお得なのである。もっと分かりやすくいうと、一般庶民は「小さな政府」で税金が安くなったと喜んでも、子に教育を受けさせるにあたって、あるいは病気になって入院するにあたって、あるいは収入のない老後生活を送るにあたって、結局自己負担を強いられることになるのである。トータルでいうと小さな政府のほうが損なのである。したがって、収入に応じて相応の税金を取られる「大きな政府」が一般庶民の理想形である。未だに上記のような「大きな政府か」「小さな政府か」という選択肢を見聞きするが、日本は現在、国際比較からみても十分小さな政府である。大きな政府への転換を目指すべきである(麻生総理のいう「中負担中福祉」は話にならない)。もっとも、大きな政府は多額の税金を扱うので利権や癒着が生じがちである。それは私がこれまでも述べてきた真っ当な民主的プロセスによって、排除しなければならない。

 なお、ここ一連の(最近では渡辺喜美議員が演出している)公務員叩きという事象について、私は、政治家が国民の不満の目を公務員にそらす非常に姑息なやり方だとみている。政治家は個人個人で国民に選挙という洗礼を受けなければならないが、「コームイン」というと国民にとっては抽象的存在であるため、責任転嫁しやすいのである。公務員をコントロールする責任は国民から選ばれた国会議員・地方議会議員にある。政治家は公務員悪人説を盛り上げる前に、キャリア官僚に都合よく操られないようお勉強すべきである。

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