シイタケのブログ -20ページ目

領土という問題

 ロシアのプーチン首相が来日して、麻生首相と会談し、そこでいわゆる北方領土問題について踏み込んで話し合われたという。私は領土問題についても素人であり、詳しくない。太平洋戦争前までは日魯通好条約、樺太・千島交換条約によって、今言われている北方領土(千島列島)はすべて日本領土であったという。そして戦後、サンフランシスコ平和条約では日本は明文で千島列島を放棄しており、あたかも現在、領有権はないようだが、これは終戦間際にスターリン率いるソ連がカイロ宣言(連合国による領土不拡大原則)を破って強行的に盛り込んだもので、なおかつソ連は当時の冷戦状況下、サンフランシスコ平和条約に署名していないこともあり、ここに北方領土問題の原因があるようだ。つまり、日本に領有権があるという主張をするなら、サンフランシスコ平和条約前の平和裏に結ばれた条約が有効であり、サンフランシスコ平和条約の千島放棄条項は無効だといえばよく、他方、ロシアに領有権があるという主張をするなら、サンフランシスコ平和条約によって日本は千島列島の領有権を放棄しているといえばよい。

 私の見るところによれば、いずれの主張にせよ、何らかの条約を根拠として持ち出そうとすれば持ち出すことができるのであり、結局過去の条約は決め手にならないということであろう。19世紀の日魯通好条約、樺太・千島交換条約にしても、当時の国際状況を考えれば、本当に平和裏に結ばれたのかどうか怪しいところだ。「もともと日本人が住んでいたのだ」と主張してみても、そもそもその日本人は原住民を追い出して移住してきたのではないかと反論されれば再反論できず、これも決め手にならない。領土問題はナショナリズムを刺激するから、互いの国の、国家と国民を峻別して考えることのできない右翼的思考の人々は、互いに「わが国に領有権がある」として譲らない。

 今回プーチン首相が来日して北方領土問題解決をちらつかせたのは、これを解決して(しようと見せて)日本の右翼的感情をなだめ、引換えに日本の産業技術を取り込んで経済力を強化したいという思惑があるからのようである。日本の財界も短期的には利益になる話なのでこれを歓迎し、当然財界の支える自民党の麻生首相もこの話に前向きというわけである。つまり、北方領土の領有権それ自体が問題なのではなく、互いの国の経済にとって有利な交渉を、北方領土問題を材料にして進めているという構図のようだ。麻生首相もプーチン首相も、自分の利益になるのであれば、北方領土がいずれの国のものになろうが興味はないのであろう。右翼的思考の人々は、千島全島が日本の領土だと強調する日本共産党を支持すべきであり、経済的利益と引換えに領土をもてあそんでいる麻生首相を非難しなければならぬ。いったいどちらが「愛国者」なのか?

 北方領土の領有そのものが、日本とロシアの国民の生活にどのように影響するのか、私は知らないのでなんとも言えない。北方領土自体に鉱山資源が眠っているのかも知らないし、近海に水産資源が豊富なのかどうかも知らないし、北方領土自体の経済力がどの程度なのかも知らない。これらのことがあまり表に出ないということは、いずれの利益も期待薄であり、むしろ北方領土を抱えることで国家財政的にはマイナスということなのではないだろうか。

 以上の次第で私は、北方領土がいずれの国の領有かは主張しない。今なお多数の主権国家で構成される世界において「領土」は重要な問題であるが、領土を巡って戦争にまで至る現実的可能性が極めて小さい二国間においては、私は、どちらの言い分にも理がある(ない)領土問題は、半永久的に「棚上げ」「凍結」しておいて差し支えないと思う。これは北方領土に限らず、問題になっているすべての領土においてそう考える。これを不満とする国民感情をコントロールするのは、それぞれの政府の役割である。そもそもそのような国民感情は、彼らの実際の生活利益に関係のない「心情」に過ぎないのだから、とるに足らぬ、なだめやすい(教育しやすい)ものである。そして当該領土の権利関係は共有とする。民法上の共有関係と同様である。新しい領土のあり方として受け入れられないであろうか。夢想的過ぎるだろうか。そのようにしても問題解決しないというとき、重要なのは当該地域に現に暮らしている人々の意思であろう。

 北方領土問題をいうとき、現地住民の人の声が出てこないのはなぜだろうか。もちろん、敗戦後、現地に住んでいた日本人が追い出されたという事情はあるだろう。しかしもはや現実の状態として、今そこに住んでいる人々の意思は重要である。日本の領有を望むのか、ロシアの領有を望むのか、あるいは第三の「棚上げ」状態を望むのか。どの領土になるかによって最も影響を受けるのは現地住民なのであるから、住民の意思を尊重すべきだと思う。日本は北方領土に住む人々の暮らしを幸せにできる自信と実力があるだろうか。ぜひそうありたいものだが。住民の暮らしを顧慮せずに北方領土が国家間の取引材料にされるのは反対である。

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保育園の民営化

 大不況の到来により、家計を支えるために母親が働きに出なければならなくなっているが、子を保育園(保育所)に預けようとしても預かってくれるところがなく、待機児童が増加しているのだという。新聞によれば、麻生首相はつい先日までこのことの認識がなく、「少子化なのになんで?」と相変わらずの不勉強ぶりを露呈していたくらいであるから、現政権には当面、待機児童対策は望めないであろう。福祉政策は貧困化する一方である。

 小泉政権時代の財政政策により、保育所の運営費を一般財源化したため、折からの財政難に苦しむ自治体は保育所予算を切り下げている。否、財政難に苦しんでいない自治体でも他に無駄遣いが必要なため、保育所予算をカットしているのである。自治体の首長や地方議員も、自分の懐に関係なく、かつ文句も言ってこないところへの予算配分には興味がないのであろう。

 保育所への予算カットと同時に進められているのが、保育所の民営化である。ここにも「民営化すれば何でもうまくいく」という妄信が現れている。民営化の口実としては、人件費の削減、効率化によるコストの削減がいわれているようだが、まず保育所の運営に人件費がかかるのは当然のことである。公立保育所はベテラン保母(保育士)が多いため、人件費がかかるのだというが、他の公務員も民間企業も年齢と経験に応じた賃金体系をとっているところが大半であり、ベテラン保育士にふさわしい賃金を支払うのは当然ではないのか。そもそも、保育士に高い給料は必要ないという考え方そのものが、育児に無関心で「育児は女の仕事」と決め付けているオヤジの発想である(一度1歳児5人ほどを一日中預かってみればその苦労がわかるであろう)。民営化された多くの保育所では、保育士が一斉に若い人に替わるのだという。なおかつ彼らの身分は非正規・低賃金だという(現状でも非正規職員が増えているが)。子を預ける親としては、ベテラン保育士がそろっているところに預けたいであろう。ベテラン保育士がその経験を若手の保育士に伝授していくようなしくみが必要であるし、また保育の責任・理念をしっかりもった保育士を育成するには、賃金・身分が安定していることが重要である。そして、民営化により効率化が図られるというが、何をもって効率化されたというのであろうか。給食材料を国産野菜から農薬浸しの中国産冷凍野菜に切り替えて「効率化した」というのであろうか。金をかけなければその分だけ質が落ちるのは容易に予想がつく。

 保育所が民営化されれば、経営主体は社会福祉法人や企業または個人事業主となる。そこで何が起こるかといえば、収支の安定や利益を目指す経営主体の力がぐっと増し、保育士や調理士の立場がずっと弱くなるということである。例えば「園児の安全のためには○○が必要です」と現場の保育士・調理士が訴えても、「金のかかることはまかりならん!」という力関係になる。それどころか、身分の安定しない保育士・調理士は解雇を恐れて保育運営・方針に関する発言もしなくなるであろう。かくして本当に責任感のある保育士や調理師は良心の痛みに耐えられず、職場を離れていく。

 また、保育所を民営化するといっても当然のことながら、完全に親の保育料で経営するわけではなく、自治体などからの補助金が出るのだが、民営化されるとその使途が不明になることも問題である。経営者の方針によっては、保育にかかる実費を不正にカットし、利潤を出そうとする恐れも十分ある。これを自治体が監視するしくみを作るといっても、虚偽申告や報告を見抜くのは実質的に不可能であろう。また、最近話題となった認証保育所「ハッピースマイル」の倒産の例をみてもわかるように、経営難になり倒産・撤退した後の保育所運営は誰がどのように責任をもつというのであろうか。民営化は一見低コストのようにみえて、実は補助金のバラマキ、補助金の持ち逃げというリスクもはらんでいるのである。

 さらに心配しすぎるとすれば、例えば保育所で園児に事故が起こったときに、自治体や国が賠償責任を負わなくなるのも民営化の問題点であろう。自治体や国が責任主体であれば国家賠償を請求し、確定すれば確実に賠償が得られるのに対し、民営化後の事業主に対して賠償責任を追及しても、はたして現実に賠償が得られるであろうか。高額の賠償のために保育所の経営が危機となって他の園児にしわ寄せが来るとすれば本末転倒の事態である。

 民営化とともに進行しつつあるのが、公立保育所の「直接契約方式」である。現在のように入園希望の児童を自治体が一括して取りまとめ、各公立保育所に適正配置するのではなく、児童の父母と各保育所に直接、保育契約させるというのである。待機児童の解消につながるというが、予算が増えない以上解消につながらないのは当然であり、厚生労働省にとっては予算の少ない中で「仕事のための仕事」をひねり出しているに過ぎない。そして保育市場を狙う企業にとっては、保育所民間開放への地ならしとなるものである。もちろん保育事業を目指す企業は、高い保育料を支払えない父母は相手にしない。福祉事業の民営化は貧富の差が激しい格差社会を前提としなければ成り立たないのである。裕福な家庭は子を民営保育所に預け、父母共働きでますます豊かになり、貧困家庭は子を抱えた母がパートにも出られずますます貧困化するという構図ができあがる。また、直接契約方式は、各保育所による契約園児の不当な選別をもたらしたり、父母と保育所の不当な密約(どうしても保育所に預けたい親が基準以上の保育料を園長に支払うなど)を生む温床ともなろう。

 児童福祉法はその2条で「国及び地方公共団体は、児童の保護者とともに、児童を心身ともに健やかに育成する責任を負う」と定め、24条で「市町村は……保護者から申込みがあつたときは、それらの児童を保育所において保育しなければならない」と定める。保育園の民営化(そして直接契約方式)はこの児童福祉法の理念に反する行為であり、福祉行政の放棄である。いわば児童福祉法の定めに対する脱法行為であり、民営化や直接契約方式を進めるのであれば、まずこの児童福祉法の理念を放棄すべく、法改正に訴えて国民の判断を仰がなければならないはずである。もちろん、このような福祉行政の放棄を国民が許すはずはない。

 保育政策の充実は、子の成長につながる将来への投資のひとつである。また母親の社会進出を容易にすることにより、家計を豊かにし、ひいては国全体の生産力も向上する。母親が収入を得ることによって税収も上がる。保育行政に予算を使うことは決して無駄ではないのである。

 保育所の民営化を含め、前述のとおり今でも民営化がすべて正しいと妄信している人々が多いということに驚きあきれる。もちろん公務員が「仕事のための仕事」で手を広げすぎている部分は民営化しても差し支えないであろうが、単独で利潤が得られない事業は民営化すべきではない。そのために政府や自治体があり、国民や住民は選挙を通じて、その運営を政府や自治体に委ねているのである。よく政府や自治体の行為を指して「民間だったら○○」などというワンフレーズをよく耳にする。「民間だったら許されない」など。当たり前である。利潤を得られないからこそ政府や自治体が責任をもつべき事柄があるのである。いわば、公務員(特別公務員を含む)は民間企業の精神をもってはならないのである。さらにいえば、民間企業イコール効率的ではない。無駄遣いをし、無駄な投資をし、短期的利益のために長い目で見れば損をしている企業はそこらじゅうにある。さしあたり、来るべき衆議院選挙では、民営化万歳を叫ぶ「民営化バカ」議員と、福祉市場を狙う企業から献金を受けている議員を落選させなければならないだろう。

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国会議員削減と歳費削減について

 自民党と公明党が「国会改革」と称して、国会議員定数の削減や、歳費の削減などの検討を進めているという。国民に社会保障の削減や増税を押し付ける代わりに、「国会のわれわれも身を切って苦労しているんですから」とパフォーマンスを披露して、国民の怒りをかわそうという卑劣な手口である。困ったことにマスコミも根拠のない「国会議員全て悪し」「公務員全て悪し」というあおりを繰り返しているので、国民の多くもそれに乗せられて、「国会議員が減って給料も削れば税金の無駄遣いが減る」として、今回の「国会改革」を支持しているようである。

 しかし、国会議員の数はこれ以上減らしてはならない。今でも少ないくらいなのに、これ以上に減らせば国会の機能は低下し、結局政治は民主的基盤のないキャリア官僚にいっそう支配されるようになるであろう。…「今でも少ない」と書いたのは正確には誤りかもしれない。真面目な国会議員が集結していれば現状の員数でも十分かもしれない。しかし悲しいことに現実的には今以上の定数がなければ、真面目な国会議員も集まらないということである。

 これはよく知られていることだが、国会では年間、百数十本の法律が成立する。そしてそのうちの大半が内閣提出法案、すなわち各省庁のキャリア官僚が作成した法案である。つまり国会議員自身が提出する法案は少ない。現代国家は良かれ悪しかれ、非常に多くの複雑な法令によって規整されており、また現代社会では目まぐるしいスピードで様々な事象が起きるため、適確な法律による対処が不可欠である。専門的・技術的な事柄に関する法案作成は、やはり今後もキャリア官僚に委ねざるを得ないであろうが、国会議員はそれらを国民の視点から精査しなければならないのである。現状では全ての法案を精査できているとはいい難い。先般問題になった国家公務員改革法に関する政令(「渡り」OKの政令)が良い例であろう。法律の縛りがあいまいであるため(つまり法律に抜け穴があるため)国会議決を要しない政令が官僚のフリーハンドになってしまったということであり、これも国会議員の法案の精査がなかったことが原因である(自民党と公明党はこの件に関してはあえてスルーした可能性もあるが)。このように今以上に国会議員数を減らせば、法案を精査して審議するという国会の機能が損なわれる恐れがあるのである。

 また、日本の人口からみても、国会議員の数はこれ以上減らしてはならない。国際的にみて、日本における国会議員1人当たりの国民人口は、先進諸国の中でも最下位のグループに属する。アメリカ合衆国は日本より少ないが、アメリカにおいては州議会の権限が強いことも考慮しなければならないため、単純に比較できない。それに国会議員1人あたりの国民人口が少ないということは、多様な民意も反映されないということである。現状でも死票が多く問題のある小選挙区制中心の選挙制度で定数削減をすれば、国会の中で個性を発揮している共産党や社民党は議席を失い、必然的にマスメディアの中でも発言力を失ってしまう可能性がある。少なくとも国民から数百万票を得ている政党を国会から締め出すことは民主主義の見地から大問題である。例えば今問題になっている製造業への派遣について、自民党も民主党も再び禁止すべしと明言していない一方、共産党と社民党は禁止を主張している(社民党議員の中には過去に派遣規制緩和に賛成した者もいるので今さらの感はあるが)。このように少数政党を締め出してしまうと、一定規模の国民の声が国会に反映されなくなってしまう危険性があるのである。

 次に、歳費の削減についても私は反対である。歳費は国会議員が生活し、政治活動を行い、必要な調査をするための糧である。日本国憲法にも、49条に歳費受領権が明記されている。この規定の現代的意味は、国会の多数派が恣意的に少数派の歳費削減を目論むことを防止することのほか、どんなに貧しい国民でも国会議員になれる可能性が開かれているということであろう。つまり、資産家(実業家)でなくても、あるいは利益団体(経済団体や企業)のバックアップを受けていなくても、国会議員となって国民の代弁者になることができるということである。歳費受領権を保障しなければ、歳費がなくても政治活動ができる資産家や雇われ議員が跋扈する国会となって、国民の利益を損なうのである。この歳費受領権の意義を忘れて軽々しく歳費削減を論じるべきではない。真面目に政治活動や調査活動をしている議員は今の歳費でも足りないくらいであろう。これは健全な民主主義のための必要不可欠なコストであり、これを取り崩せば民主主義の根幹に関わるのである。歳費削減は、いかにも資産家や多額の企業献金を受けている議員が多い自民党らしい提案である。つまり彼らは歳費が削減されても何の痛みもないのである。

 歳費を削って税金節約というのであれば、真っ先に政党交付金(政党助成金)を廃止すべきである。これはまったく憲法上の根拠も道理もない制度であり、支持しない政党に税金から何百億も支払われるという不合理な制度である。

 以上のように、国会議員削減と歳費削減の訴えは与党政治家の都合のよいキャンペーン活動にほかならず、民主主義の破壊につながりかねないので注意して見守る必要があろう。

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