改正国籍法について
今回の国籍法改正は、昨年6月の最高裁による国籍法違憲判決に伴い、最高裁の判断を尊重し、違憲部分を削除するというものであった。
最高裁は、1 日本人父と外国人母の子が出生前に認知されていれば子は日本国籍を取得し、2 あるいは出生後に父母が結婚して認知されれば日本国籍を取得するのに、3 出生後に結婚せず認知だけなされた場合に子が日本国籍を取得できないのは、「法の下の平等」に反する、という判断だったようだ。たしかに、両親が結婚するかしないかで子の国籍が左右されるのは、子にとってあまりにも酷なので(子は親を選べないので)、この最高裁の判断は正しいと私は思う。そして最高裁判所が違憲判決を出した以上、国会がそれに対応して法改正をするのも、当然のことであろう。
国籍法改正反対派は、偽装認知が横行する危険性を主張していたが、最高裁はこの点についても言及している。すなわち、平等権を制約する法律が許されるのは、平等権を制約する「目的」に非常にもっともな「合理性」があるときだけであるが、(認知だけでなく)両親の結婚を要件としたからといって、偽装認知(偽装国籍取得)が防止できるかといえばそうではない、つまり平等権を制約する合理性がない、というのが最高裁の判断であった。たしかに、偽装による国籍取得は、改正前の国籍法下でも偽装結婚等の手段によって可能であり、偽装国籍取得防止のために婚姻要件を課す必然性はない。むしろ婚姻要件を課すことで、本当に日本人父から生まれたにもかかわらず日本国籍を取得できないという不利益(人権侵害)を重視すべきである。
また、改正前の国籍法下でも、帰化手続をとれば日本国籍を取得できるではないか、という改正反対派からの意見もあったが、最高裁はこの点についても、帰化は法務大臣の裁量によって決められるので、「代替制度」にはならないと述べているようである。
なお、最高裁判決については数名の裁判官の反対意見も付されており、これは国籍法改正反対派の意見とも重なるが、それは、裁判所(最高裁)が国籍法違憲判決によって日本国籍取得の効果まで認めてしまうことはおかしい、というものであった。すなわち、日本国籍を認めることは、司法による立法行為に等しいというのである。このように、法解釈としては、国籍法は違憲ではないとし、あるいはたとえ違憲であったとしても日本国籍までは認められない、と結論する余地もないではない。しかし私はやはり、最高裁判所の多数意見に賛同したい。現在の国籍法3条1項は「父母の婚姻及びその認知により嫡出子たる身分を取得した子で二十歳未満のもの(中略)は、法務大臣に届け出ることによつて、日本の国籍を取得することができる。」となっており、最高裁は「父母の婚姻」という要件だけを違憲とした。とすると自動的に、認知の要件だけで日本国籍取得が可能、ということになるのではないだろうか。もちろん、最高裁がさらに踏み込んで、「認知の真正の証明のために科学的証明を要する」と断ずればそれは立法や行政に対する越権行為となろう。しかし今回の最高裁判決は、決して三権分立を侵しているわけではなく、憲法上の違憲立法審査権を機能させたに過ぎないと思う。
今回の国籍法改正反対運動では、国籍法改正の過程・経緯に問題がある、という意見も多く出された。この種の意見は2種類に分けることができる。
ひとつは、「マスコミが今回の国籍法改正を意図的に隠している」というものである。その深層心理には、「中国や朝鮮と闇のつながりのあるスポンサーやマスコミ幹部の圧力が働いているに違いない」という勘繰りがあるかのようだ。しかし、それは心配しすぎというものである。私はこのように「中国や朝鮮とつながりのある売国奴日本人によって日本の政治がいつも操られている」とする言説を「被害妄想に基づく陰謀論の一種」とみている。なぜなら、そのような陰謀を図る実質的利益も証拠もないからである。今回の国籍法改正反対者の中には、このような陰謀論者が多いようだ。それに、法律が可決成立するまでマスコミが大きく採り上げないのは、よくあることである。この点については私も不満に思っている。本当は法案準備段階で国民の議論を盛り上げるべく、重要な法案についてはマスコミは事前に採り上げるべきなのだが、なかなかそうしない。象徴的なのは障害者自立支援法で、審議当時はほとんど採り上げなかったにもかかわらず、施行段階になって「こんなかわいそうな障害者がいる!」と採り上げるようになったのである。しかしいったん法律が通って施行されれば、それを元に戻すのは容易ではない。このように、マスコミと政治報道の問題点は多々あるとしても、マスコミがこの国籍法に限って情報操作をしているなどということはありえない。
もうひとつは、国会審議があまりにも拙速だ、という批判である。法務大臣から民主党議員まで、国籍法改正反対の意見を意図的に無視して、強行的に可決成立までゴリ押しした、という印象を一部の人々に与えたようである。もちろん他の法律でも、成立までの過程に問題があることはよくある(とりわけ最近の(民意を反映していない)衆議院再可決は問題が多すぎる)。しかし国籍法に限っていうと、それほどの問題はないと私は思う。なぜなら、これは最高裁判所の違憲判決を受けての法改正だからである。最高裁判所が違憲判決を出すことはなかなかなく、いわゆる「法令違憲判決」は戦後も数えるほどしかない。それほどまでに法令違憲判決は十分吟味された重いものだというわけで、国会も戦後からこれまで、法令違憲判決が出れば、ほぼ直ちに、違憲とされた法律の改正を行っているのである。したがって今回の国籍法改正も、違憲判決を受けて法務省が前例どおり粛々と改正案を作成し、与野党議員も(一部反対はあっても)粛々と審議を進め、民主党議員も、この法律については最高裁判決を受けた意見の対立のない重要法案だからというわけで、政争の具とはせず、粛々と審議に参加しているのだと思われる。とりわけこの法律の成立過程が通常の国会のルールに反しているというわけではない。政治家や省庁への抗議ファクス・メール・電話等が軽視されるのは一般的によくないことだが、今回の場合は、一部の人々の組織的な、あるいは同一人物の複数回にわたる抗議行動、と受け止められているのではないだろうか(マスコミもその認識らしい)。なお、インターネット上では、法務委員会で丸山和也議員が発言しようとしたところ、速記も録音も止
められたことから、反対意見の封殺だとの批判がなされているようだが、その議事進行の適否がどうであれ、丸山議員は参議院の本会議ではこの国籍法改正案に賛成している。したがって、当の法務委員会で丸山議員がとりわけ重要な反対意見を述べたとも思われない。
以上のように、私は国籍法改正の過程・経緯に問題があるともみていない。
国籍法改正法が成立した後、改正反対派は、法改正に伴って改正される国籍法施行規則に注目したようである。というのも、施行規則で「認知」の真正を証明するための要件を厳しくすれば、偽装認知(偽装国籍取得)が防げると考えたからである。ところが改正反対派にとっては拍子抜けなことに、施行規則を定めるに当たっての法務省によるパブリックコメント(意見公募)手続はなされなかった。法改正から施行までの期間が短く、またパブコメ手続をするほど重要な改正とも判断しなかったためであろう(行政手続法においてもパブコメ手続不要の場合が定められており、今回はそれに該当する)。あるいは法務省内部では、パブコメ手続などをすれば手紙やファクスやメールで混乱して収拾がつかなくなるので、それを避けたかったのかもしれない。いずれにせよ、国籍法施行規則は、とりわけ厳格な認知の真正証明を求めるものではなかった。証明の程度をあまりにも厳しくすれば法改正の趣旨が無になるので、当然といえば当然であろう。国籍取得に関する実務がどのようなっているのか私は知らないが、法務省としては、日本人父の認知の真正は、窓口の適正な対応(審査・調査)で担保できると考えているのであろう。また、それは行政の任務でもある。
国籍法改正反対派は、DNA鑑定の証明書を必要書類にすべきだと訴えていた。しかし施行規則ではもちろん、そのような要件は課されなかった。私もそれでよいと考えている。なぜなら、DNA情報は究極の個人情報であり、そのような情報の提供を求めるのは個人の尊厳に反するし、また、認知はするもののDNA情報の提供までは拒否する父も多いだろうと思うからである。
そもそも、行政と住民の間に「不信」がまず存在し、何事をするについても厳格な証明を要するという社会は不健全だと思う。日本人の血統があることを証明するためにDNA鑑定を要求するのであれば、かつても日本国籍が認められていた「日本人父+外国人母」の結婚後に生まれた子についても(本当にその日本人の子なのかどうか)DNA鑑定を要求することになるし(国籍法改正反対を叫んでいる人はどうして今までこのことを問題にしなかったのだろうか)、ひいては日本全部の出生届にDNA鑑定を要求することになる。なぜなら、出生届ですら偽造は可能だし、誰も「自分は日本人である」ことについて科学的に証明することは容易ではないからである(疑い出したらきりがない)。したがって、認知の真正の証明をどれほど厳格にするかどうかは、行政と住民との信頼関係の度合いと、厳格にすることによって得られる利益+損なわれる人権を考慮した上で決められることになる。私はこの点、中国人と朝鮮人が偽装国籍を取得して大勢日本に移住しつつある!というような具体的事実が生じていない限り、DNA鑑定などは不要だと思っている。そしてもしDNA鑑定を要求するとしても、その結果を100パーセント認知の真正の根拠にすることには反対である。DNA鑑定が100パーセント正確だとは限らないからである。
このように、私は今回の国籍法改正に賛成だが、賛成派の意見も反対派の意見も、それぞれの形式的論理で筋を通そうとすれば通る性質のものである。したがって国籍法改正の是非は、究極的には、人間の感情(価値判断)に委ねられると思う。私は単純に、「親を選べない子が、親の結婚の有無という、子にはいかんともしがたい事実によって日本国籍を得られないのはかわいそうだ」と思う。最高裁判決の多数意見、そして国籍法改正に賛成した国会議員の判断は、このような素朴な感情に基づいているのではないだろうか。そしてこれは単純ではあるがとても大切なことである。
私はそもそも、今回の国籍法改正についてネット上で議論が盛り上がったという事象に注目している。国籍法改正反対派の理屈は形式的には筋の通るものではあるが、その根っこにあるのは「中国人・朝鮮人嫌い」という差別主義・排他的思考であるように思う。一部の人々は、外国人犯罪が年々増加し、治安が悪くなっていると誤認している(実際はここ数年は低下傾向である)。また、今後外国人労働者が正面から流入してきて、日本人の雇用が奪われるという警戒感も高まっている。このような状況が、国籍法改正反対運動の背後にあるように思われるのである。治安悪化は誤認であるし、外国人労働者を受け入れるかどうかは、政策の問題である(私は、経団連が意図している外国人労働者受け入れには、賃金ダンピングを引き起こすという理由で反対である)。このように、事の本質は違うところにあるにもかかわらず、国籍法改正についてのみ採り上げて騒ぎ立てるのは、悲しい筋違いと言わざるをえない。
それに、「日本から中国人・朝鮮人を排除したい」という思惑があるのであれば、国籍法以外にももっと着目しなければならないところがあるはずである。「右翼」の人々が嫌悪する中国人や朝鮮人がより日本に関与する可能性が高い法改正が続いているのに、どうしてこれまで騒ぎ立ててこなかったのか不思議である。例えば、ここ数年の商法改正により企業の再編統合がかなり自由になり、外国資本がさらに日本に流入する可能性がぐっと高まっている。もちろん当面は、欧米の資本流入が念頭に置かれているのであろうが、今後アジアの経済成長が高まれば、中国資本が日本を席巻する可能性も高い。また、以前は外国人(外国法人)が日本政治に影響力を及ぼさないよう、政治資金規正法によって、外資企業からの政治献金が禁止されていたが、財界と自民党の思惑の一致で政治資金規正法が改正され、外資が過半数を超える企業でも政治献金可能になった。これも当面はキヤノンやソニーの政治献金が念頭にあるのであろうが、将来的には日本に進出した中国企業でも政治献金によって日本政治に影響を与えることは可能であり、どうして「右翼」の人々が猛反対しなかったのか、不思議に思うのである(なお、後者については右翼的志向の人々の間で、若干の議論の盛り上がりはあったようであるが、今回の国籍法
改正議論ほどではなかった。私もこの政治資金規正法改正には反対である)。このように、今回の国籍法改正反対派は、本来騒ぐべきところで騒いでおらず、単にブームに乗じているだけのように思われるのである。マスコミであまり報道されていない事実をネットで発見して、嬉々としているだけではないのか?
今回の国籍法違憲判決は、嫡出子と非嫡出子の差別を問題にしたものであるとみることもできる。改正前の国籍法では、婚姻によって子が嫡出子となれば日本国籍取得、非嫡出子状態であれば日本国籍取得不可だったからである。そうすると、現行民法で定められている嫡出子と非嫡出子の相続分の違いも不合理な差別として問題になってくるのではなかろうか。最高裁は現在のところ、この相続分の違いは合憲としているが、国籍法違憲判決の論拠を民法の相続分規定に当てはめると、相続分の違いは不合理な差別で違憲、という結論になるように思われる。
今回の国籍法反対派は、法律にも施行規則にも裏切られたということで、現在では法改正(規則改正)の請願を行うという形で運動を広げようとしているようである。そこまで頑張るのであればたいしたものだが、ついでに前述の政治資金規正法改正の反対運動も起こしてほしいところである。
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資本主義の終焉?
アメリカに端を発する金融危機(といわれるもの)が世界に広がり、一気に物が売れなくなり、失業者が続出して、資本主義がとうとう終焉を迎えるのではないかという感覚を覚えることもある。これは単なる資本主義特有の好況不況の波ではなく、資本主義自体の歴史的な行き詰まり現象なのではないかと…。
これは他愛もない個人的体験だが、私が資本主義経済について疑問をもったのは、小学生のとき社会科の資料集で、せっかく実ったキャベツをトラクターで踏み潰している写真を見たときであった。その写真の解説には、「豊作すぎて値が付かないので潰している」というような解説が付されていたと思う。正確にいえば「資本主義」について疑問をもったのではなく、ただなんとなく「世の中の経済の回り方」について疑問をもったのだろうと思う。世界には飢えている人もいるのに、世の中には貧乏で食糧を買えない人もいるのに、どうしてせっかく実ったキャベツを潰さなくてはならないのか?と納得ならない気持ちであった。それをきっかけに、私は資本主義や市場経済を疑い、やがて社会主義や共産主義の思想に興味をもつようになった。「生産手段の社会化」という言葉が魅力的に思えた。
もちろん今でも、日本共産党の「自由と民主主義の宣言」に書かれてあるような社会主義・共産主義社会の姿は魅力的である。資本主義にはいつか限界が来るであろう。数百年後、資本主義を乗り越えたすばらしい(とされる)世界で、人々は「かつて資本主義という弱肉強食の野蛮な社会があった」と語ることになるのであろう。それはまるで、現代の人々がかつての封建主義社会を語るときのように。
しかし私は、今、この現実社会で日本の社会主義国化や共産主義国化を語るのは無意味だと思っている。現実離れした夢想を語っても誰も賛同しない。あるべき社会を語るときは、せいぜい自分の生きている間プラス子や孫が暮らす時代のことを念頭に置くのが誠実というものであろう。もちろん、資本主義を絶対のものと思い込んでは
視野が狭すぎる。社会主義や共産主義の思想は、資本主義を客観的にみることができる点で重要である。ただ、現実的に当面は、資本主義経済が続くものと思われ、それは人々も合意していることであろうから、そうならば資本主義の構造の中でよりよい暮らしを目指そう(やりくりしていこう)というのが私の考えである(日本共産党もさしあたり、「ルールある資本主義を」といっている)。私がブログのサブタイトルに「日本を社会民主主義国家に!福祉国家に!」と掲げているのもそのためである。
そもそも現代において、古典的な資本主義社会など存在しない。同様に、古典的な社会主義社会も存在しない。いずれも互いの制度の利点を取り入れているのであり、その意味では資本主義と社会主義の区別はあいまいで、連続性がある。二者択一というものではなく、どのあたりに重点を置くかという民意の問題である。日本国憲法も財産権や自由権の規定と同時に、生存権や社会権の規定を置いており、資本主義と社会主義(共産主義)のグレーゾーンを許容していると理解できる。したがって、まず民意をできるだけ正確に政治に反映させることが重要である。この観点から、私はこれまでも企業献金について、少数者がその財力で多数者の民意をゆがめることになるため、強く反対している。政治的表現の自由を制限する法律や政策も認められない。つまり民主的プロセスをゆがめるものはことごとく徹底して排除しなければならないと思っている。そうして初めて、より正確な民意が政治に反映され、ルールある資本主義が実現し、社会主義的施策をどの程度取り入れるべきかが定まるのであろうと思う。
資本主義社会における金の流れについて、人間の力ではどうにも制御できない、魔物のように語る人がいる。しかし本当はそうではない。正確な民意によって資本主義をコントロールし、たとえ不況期が訪れてもそれほど痛手を負わない工夫ができるのである。
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財界に支えられている自民党の言い分
同様に、最低賃金について議論になるときに与党議員が言うことは、「賃金を上げれば中小零細企業が苦しくなる」である。中小零細企業に貸し渋りをする銀行、下請けいじめをする大企業を野放しにしながら、その言い分が通るのか。中小零細企業の人件費が増えれば発注企業の部品調達のコストが上がるから、与党議員はその発注(元請)企業の代弁者となっているだけではないのか。
さらに、株式等の配当・譲渡所得に対する税率が議論になるときに与党議員が言うことは、「投資が減少すれば企業活力が低下する」である。そもそも利益に課税するのであるから直接的にはその理屈は通らないし、また譲渡益のような不労所得よりサラリーマンの所得税のほうが高いということでは、国民の勤労に対するモラルも低下するであろう。それに、上場しなくても優秀な企業は存在するのである。
もうひとつ付け加えると、派遣法制が議論になるときに与党議員が言うことは、「派遣を規制すれば派遣社員を選んでいる本人が困る」である。派遣社員の多くは自ら好き好んで身分の不安定な派遣社員を選んだわけではないし、派遣法制がなかったころは直接雇用が原則で世の中は動いていたのである。労働者にとって中間搾取は何の利点もない。
このように財界に支えられている自民党議員の発言は財界の代弁であるから、長期的にみて国民全体の利益になることはほとんどない。ただ、自民党議員の発言の中には、経済的見地から合理性のある理屈もないわけではない。企業活動を一時的にでも活性化すれば、国民生活にとってよいこともあるからである。
しかし! 一見合理的にみえる自民党議員の発言(理屈)の中に、まったく欠けているものがある。それは憲法、とりわけ25条の生存権(社会権)の視点である。ワーキングプアがいる、明日食うに困っている高齢者がいる、失業者がいる、教育費も出せない母子家庭がある。つまり「そこに困っている人がいる」のである。そのような状況を解消するために「企業の社会的負担を増やせ」「最低賃金を上げろ」「高所得者の課税を強化せよ」「派遣を規制せよ」と主張しているのに、上に書いたような理屈で与党政治家が反論するのはまったくナンセンスである。とりわけ最低賃金に関してはそのことが強く当てはまる。最低賃金で生活できない人がいるのだ。人並みに働いて人並みの生活ができない社会はおかしい。25条の生存権確保のために最低賃金を上げろという要求に、「中小零細企業が苦しむ」という反論は成り立たない。最低賃金を上げつつ、中小零細企業の支援は別方策で行うのが本筋である。
このように、国民生活の向上を訴える声に対する、与党政治家の「小理屈」的反論(弁解・言い訳)に惑わされてはいけない。国民の生存権を保障しない政治はもはや「政治」とはいえない。たとえある主張に経済的合理性があるようにみえても、それが憲法25条に反するのであればその主張の立つ瀬はないのだ。
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