セーフティネットの一人歩き | シイタケのブログ

セーフティネットの一人歩き

 急速に景気が冷え込み、とりわけ製造業・輸出産業は打撃を受けており、シンクタンクなども今後国内だけで何十万人もの失業者が出るだろうと予測している。そしてここのところとくによく見聞きするようになったのが、「セーフティネット」という言葉である。直訳すれば「安全網」であり、いろいろな意味に使われているようだが、一般的には、いわゆる「普通の人々の生活」から不運にも落ちこぼれてしまった人を救済する社会の諸制度、を意味するのであろう。代表的なものは生活保護制度であり、失業手当や労災給付、あるいは低所得者に対する各種公課の減免制度なども含まれるであろう。これまで生活保護や最低賃金など国民の命に関わる給付を引き下げようと画策・実現してきた現与党(自民・公明)の政治家でさえも、最近では「セーフティネットが大事」と唱えるようになっており、政治への怒り度数が高まってきた国民の目をそらして、来たる衆議院選挙を乗り切ろうとする魂胆が見え見えである。「ワーク・ライフ・バランス」という語もそうだが、国民にじわじわ浸透してきた言葉を、それまで関心さえもたなかった政治家がハヤリ物のように取り上げた時点で、その語は一気に陳腐化してしまう。

 もちろんセーフティネットの諸制度は重要である。憲法が国民に保障する生存権を具体化した制度であるから、それは常に国民の役に立つ制度でなければならず、また使いやすい制度でなければならないことは当然である。すなわち、実際の「生活の保護」に足りる給付額でなければならず、また保護資格があるのに窓口で門前払いされたりしないことが重要である(現状はいずれにも問題がある)。生活保護というと不正受給者が取りざたされる。もちろん不正受給は防がなければならないが、生活保護受給者全体の数、あるいは本来生活保護を受けるに値する人々の数に比べれば微々たるものであるから、生活保護受給者全体を悪く評価するのは誤っている。また、「生活保護受給者=怠惰」というイメージも払拭すべきである。何しろ憲法で保障しているのであるから、堂々と使うべき制度なのである。日雇い労働や、雇用保険に加入させない悪質業者が多いため、失業しても失業手当が出ず、職を失えば一気に生活に困窮する労働者も多いという。彼らは違法金融業者から金を借りたりしないで、あるいは窃盗などの罪を犯す前に、直ちに生活保護受給申請に赴けばよい(すでにそのようなサポートをする取り組みもみられる)。堂々と生活保護を受け、生活保護受給者が急増し、国家財政すら圧迫するようになって、社会問題化するほうがむしろ健全なのである。そうなれば、まだ余力があるにもかかわらず安易に労働者を解雇する企業が浮き彫りになり、あるいは本来税金をしっかり徴収すべき対象は誰かということが明らかになってくるであろう。

 しかしあくまで「セーフティネット」は安全のための救済、つまり生活上最低限のものでしかない。私はこの「セーフティネット」という語の一人歩きが、「セーフティネットさえ張っておけば政府の役割は完了」という方向に向かうのを心配している。セーフティネットは最低限の文化的生活を保障するかしないかのものでしかないため、それだけでは受給者は貧困状態から抜け出しにくく、また受給者である親から子へ貧困の連鎖(再生産)が生じる可能性が高いのである。政府の役割はセーフティネットの充実だけではダメなのだ。つまり「救貧政策より防貧政策を」ということだが、私はそれよりもっと、国家は、国民全体の生活レベルの平準化を目指すべきだと考える。所得再分配(所得格差縮小)を最大限推し進めるべきだと言い換えてもよい。格差の小さい社会は、国民全てが国家や社会から平等に人間らしく尊重されるということであるから、日本国憲法も、そのような社会を目標としているといえるだろう。

 また、国民の生活レベルの平準化は、憲法の要請する各種の福祉政策を実施する場合にも必要である。例えば政府または自治体が、ある資格を満たした国民に一律に定額(児童手当等)を支給するというような場合、所得格差が小さい社会であれば定額支給の家計補助の度合いと効果もほぼ一律になる。今話題のくだらない定額給付金も、国民の所得レベルが平準化されている社会であれば、税金の払い戻しとして一定の意義はあるのであるが、所得格差が著しい社会であるため国民の反発を買うのである。ならばそのような支給も高所得者には少なく、低所得者には多く累進的にすればよいではないか、という指摘もあろう。しかし児童手当などの各手当は一定の目的をもって支給されるものであるため、その支給に格差をつけるのは本来の趣旨に反する。また、公的施設の利用料(公立学校の授業料等も含む)などを設定する場合も、国民の所得レベルが同じであれば、その負担感も同様となって不公平がない。このように、あらゆる福祉政策は、国民の生活レベルが平準化されている社会と最も適合するのである。

 以上のことは、言い換えれば「機会の平等より結果の平等を目指せ」と提唱していることにもなろう。よく「機会の平等さえあればよい」といわれるのを聞くが、これは福祉国家の理念と相容れない。機会の平等を真に確保するためには、結果の平等がなければならない。貧困家庭に生まれた子どもは、高等教育を受ける機会も奪われてしまうからである。あるいは低所得者は、技能を身に付けるための時間も経済的余裕もないからである。

 「みんな同じ所得になるのなら国民が向上心や競争心を失う」という見方もあるかもしれない。もちろん私は万単位まで所得を同じにせよと主張しているのではない。当面資本主義社会を前提とする以上、所得の格差は生じて当然である。私は、年収数千万円の高所得者から時給700円の低所得者まで格差が大きすぎることを問題視しているのである。累進性を強化するほか、不動産や有価証券売買による(不労)所得にはがっちり課税すべきである。私は「実力主義社会なんだから所得格差があって当然」という人の顔をまじまじと見つめて問いたい。「あなたは自分だけの『実力』で最低賃金労働者の10倍働いているつもりなのですか?」と。しょせん人一人は人一人であり、労働力には限度がある。いくら能力差があろうとも、他の人の10倍以上の所得を得る正当性はないはずだ。また、人は他の人の労働によっても支えられているということを忘れてはなるまい。

 このように、国民生活レベル全体の向上と平準化という政治使命を捨てて「セーフティネット」という言葉を発している政治家が私は大嫌いであり、次の選挙でぜひ落選してほしいと願っている。そのような政治家が「セーフティネット」という言葉(「ワークライフバランス」も含む)を発しているせいで、私はこれらの言葉さえインチキ臭くて嫌いになりそうだ。

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