中山成彬氏の暴言と右翼的主張の行き着く先
もはや数日前のことになるが、中山成彬議員が国土交通相を辞任した。「日本人は単一民族」「成田闘争はごね得」「日教組は日本の教育のがん」などといった一連の暴言の責任を取るということだが、暴言とはいえ同氏の信条を率直に語ったものであり、今後もそのような信条で議員活動を続けていくのであろう。首相も大臣もころころ変わる昨今である。あまりにもその「職責」が軽く見られているようだ。「都合が悪くなればやめればOK」という風潮は、子どもの教育上もまことによろしくない。行政府のリーダーがこのような「お飾り」では、行政府はますますキャリア官僚の都合のよいように操られることであろう。首相や大臣の職を自ら辞するときは、その職責を全うしなかった責任を取って議員の職も辞するという慣行にすべきである。「首相・大臣投げ出し族」は、来る衆議院選挙で再び国会議員として選ばれるのであろうか。もしそのようなことにでもなれば、議員本人の厚顔ぶりにもあきれるが、彼らに投票する有権者の見識も問われるところだ。
中山氏の発言は、いわゆる「右翼」が発しているメッセージと同レベルである。中山氏は文部科学相時代を含め、これまでも教育に関しては強く発言し続けており、「教育に競争原理を」「教育基本法の改正を」「教育勅語(精神)の復活を」などといった、新自由主義とナショナリズムが結び付いた典型的言説を弄している。とりわけ日教組が嫌いらしく、おそらく文部科学大臣時代に日教組から相当叩かれたのであろう。中山氏の言葉からは、単なる日教組批判以上の、個人的感情が垣間見える。彼によればいわゆる「自虐史観」、そしてそれを子どもに教える日教組がけしからんという。「わが祖国日本」を批判する人々が許せないらしい。私はかつて「右翼的人格」について、「自分の利害と、その所属する団体の利害の違いが明確に区別できない人」というようなことを書いたが、まさに中山氏もこれに当てはまる。日本の政府を批判することと、日本国民個人を批判することはまったく次元が異なるのに、その意識が未分化なのである(日本政府批判が自分個人への批判に聞こえるということ)。東京大学法学部卒、大蔵省出身という「エリート」がこのような幼稚な人格とは情けない。報道によれば、中山氏は似非宗教団体や談合企業など反社会的集団から政治献金を受けていたらしい。「ダーティーな人間ほど他人に規範を押し付ける」のは汚れた右翼的人格の特徴である。中山氏はダーティ右翼の王道を行っている。
マスコミは中山氏の一連の発言について、「失言」「問題発言」と報じるだけで、その中身の当否についてはほとんど触れることがない。報道する側にとっては当然のことだから触れないのかもしれないが、あまり政治に興味がない人々に対して、それではサービスが悪すぎる。
彼の過去の発言も含めてみてみると、まず「教育に競争原理を」というのは、教育のあり方からみて根本的に誤っている。子ども個人がライバルと競争するのは結構なことである。しかしここでいう競争原理とは、学校間や教師間のことを指す。とりわけ学校間を競争させることは学校に格差を生じさせ、劣位に立たされた学校は崩壊し、子どもの教育を受ける権利を損なうことになる。憲法は、能力に応じて均等に教育を受けられることを保障している。これは憲法の背後に、教育の機会均等を保障してこそ、国民全体の底力となり、社会の発展をもたらすという理念があるものと私は考える。競争原理は教育現場になじまないのだ。
「教育基本法の改正を」という中山氏の主張は、すでに安倍首相のときに実現してしまった。いわゆる「愛国心」を入れるかどうかが大いに議論になった。結局「愛国心」という露骨な言葉は入らなかったものの、「我が国と郷土を愛する云々」という言葉は取り入れられた。言うまでもないが愛国心は法律で定めて強制するものではない。政府が本当に国民の暮らしを守ってこそ、自然に愛国心は醸成されるものである。一見不思議なのは、経団連などの財界も「愛国心」を盛り込む教育基本法の改正に熱心だったことである。ここに、新自由主義とナショナリズムの結びつきがある。ナショナリズムによって政府批判能力のなくなった画一的人材は、安い労働力として財界が欲しているものだからである。
中山氏は、戦後放棄された「教育勅語」も好きなようだ。憲法の原理である「民主主義」「平和主義」と相容れない「教育勅語」に価値を見出す中山氏の執念には恐れ入る。現憲法下において、「国民は天皇を奉って個人の権利よりも国家のために尽くしなさい」と宣言する教育勅語には、何の存在意義もないと断言しておこう。
そして今や中山氏のライフワークとも言うべき日教組批判について。世の中には「ニッキョーソって何?」という人々も多いであろう。日教組は正式名「日本教職員組合」であり、教員の労働組合の連合体である。中山氏の日教組批判は究極的には労働組合批判であり、「日教組をぶっ壊す」と発言したということは、「労働組合をぶっ壊す」と発言したことと同じである。労働組合活動は憲法で当然保障されているから、中山氏は憲法尊重擁護義務(憲法99条)に反した発言をしているということになる。これは許しがたい暴言である。労働組合をぶっ壊すのであれば、その前に憲法改正を提案すべきである。「労働者の団結権をなくそう」と。そんな提言が支持されるだろうか?
中山氏の嫌いな「自虐史観」についても触れておこう。中山氏がかつての日本のアジア侵略政策に対する批判を「自虐」ととらえることに、右翼的人格がよく現れている。日本政府批判は決して、日本国民「自ら」を「虐げて」いるわけではないのである。多大な犠牲者を出した日本のアジア侵略政策が誤っていたことを学び、将来同じ過ちを繰り返さないよう誓うことはきわめて重要である。過去から学ぶことが将来の日本国民のためになるのである。また、一部には「日本は中国人や朝鮮人に(過去の侵略のことを)謝りすぎ、もうペコペコ謝らなくてよい」という意見が聞かれる。これはあまりにも驕った態度である。日本のアジア侵略による犠牲者とその家族が生存している限り、日本政府は彼らに公式に謝罪し続けなければならないと思う。謝罪に「もう十分」ということはない。犠牲者とその家族の心に少しでも届くのであれば、謝罪を続けるべきである。これは今の日本国民に対して謝罪行為を押し付けるものではない。日本政府の謝罪によって自分個人も謝罪を強要されているような錯覚を起こすならば、それこそ右翼的人格である。中山氏のように「自虐史観」が嫌いな連中のことを、私は「無反省史観」と呼ぶ。過去の歴史から将来の指針を見出せない空しい史観である。
先に述べたように中山氏の発言は「右翼」と同レベルなので、中山氏の発言を批判することは右翼的言説を批判することになる。結局、「右翼的言説の行き着く先は何なのか」ということだ。右翼的言説は最終的に、他国を刺激して日本国民を軍事的脅威にさらし、教育を崩壊させ、民主主義や労働権を否定することにつながる。「行き着く先」を考えていない気分屋的「右翼」もいることであろう。「右翼」が一見美しい「秩序」の構築を掲げているように見えて、行き着く先には何も希望がない。右翼的言説は個人を幸福にもしないし、社会発展につながることもないのである。
以上のように中山氏とその関連する右翼的言説を批判してきたが、ほんの少しだけ中山氏に同情する点を書いておこう。私は個人的に、もともと労働組合の連合体である日教組が、自らの労働環境に関わりのない政治的活動に深く関わるのは問題だと思っている。そのような政治活動は、むしろ組合員の団結を阻害し、労働組合自体を弱体化させることにつながるであろう。このことは他業種の労働組合やその連合体にも当てはまると思う。
本記事に興味をもって下さった方に、クリック1回お願いします(ブログ人気投票)

中山氏の発言は、いわゆる「右翼」が発しているメッセージと同レベルである。中山氏は文部科学相時代を含め、これまでも教育に関しては強く発言し続けており、「教育に競争原理を」「教育基本法の改正を」「教育勅語(精神)の復活を」などといった、新自由主義とナショナリズムが結び付いた典型的言説を弄している。とりわけ日教組が嫌いらしく、おそらく文部科学大臣時代に日教組から相当叩かれたのであろう。中山氏の言葉からは、単なる日教組批判以上の、個人的感情が垣間見える。彼によればいわゆる「自虐史観」、そしてそれを子どもに教える日教組がけしからんという。「わが祖国日本」を批判する人々が許せないらしい。私はかつて「右翼的人格」について、「自分の利害と、その所属する団体の利害の違いが明確に区別できない人」というようなことを書いたが、まさに中山氏もこれに当てはまる。日本の政府を批判することと、日本国民個人を批判することはまったく次元が異なるのに、その意識が未分化なのである(日本政府批判が自分個人への批判に聞こえるということ)。東京大学法学部卒、大蔵省出身という「エリート」がこのような幼稚な人格とは情けない。報道によれば、中山氏は似非宗教団体や談合企業など反社会的集団から政治献金を受けていたらしい。「ダーティーな人間ほど他人に規範を押し付ける」のは汚れた右翼的人格の特徴である。中山氏はダーティ右翼の王道を行っている。
マスコミは中山氏の一連の発言について、「失言」「問題発言」と報じるだけで、その中身の当否についてはほとんど触れることがない。報道する側にとっては当然のことだから触れないのかもしれないが、あまり政治に興味がない人々に対して、それではサービスが悪すぎる。
彼の過去の発言も含めてみてみると、まず「教育に競争原理を」というのは、教育のあり方からみて根本的に誤っている。子ども個人がライバルと競争するのは結構なことである。しかしここでいう競争原理とは、学校間や教師間のことを指す。とりわけ学校間を競争させることは学校に格差を生じさせ、劣位に立たされた学校は崩壊し、子どもの教育を受ける権利を損なうことになる。憲法は、能力に応じて均等に教育を受けられることを保障している。これは憲法の背後に、教育の機会均等を保障してこそ、国民全体の底力となり、社会の発展をもたらすという理念があるものと私は考える。競争原理は教育現場になじまないのだ。
「教育基本法の改正を」という中山氏の主張は、すでに安倍首相のときに実現してしまった。いわゆる「愛国心」を入れるかどうかが大いに議論になった。結局「愛国心」という露骨な言葉は入らなかったものの、「我が国と郷土を愛する云々」という言葉は取り入れられた。言うまでもないが愛国心は法律で定めて強制するものではない。政府が本当に国民の暮らしを守ってこそ、自然に愛国心は醸成されるものである。一見不思議なのは、経団連などの財界も「愛国心」を盛り込む教育基本法の改正に熱心だったことである。ここに、新自由主義とナショナリズムの結びつきがある。ナショナリズムによって政府批判能力のなくなった画一的人材は、安い労働力として財界が欲しているものだからである。
中山氏は、戦後放棄された「教育勅語」も好きなようだ。憲法の原理である「民主主義」「平和主義」と相容れない「教育勅語」に価値を見出す中山氏の執念には恐れ入る。現憲法下において、「国民は天皇を奉って個人の権利よりも国家のために尽くしなさい」と宣言する教育勅語には、何の存在意義もないと断言しておこう。
そして今や中山氏のライフワークとも言うべき日教組批判について。世の中には「ニッキョーソって何?」という人々も多いであろう。日教組は正式名「日本教職員組合」であり、教員の労働組合の連合体である。中山氏の日教組批判は究極的には労働組合批判であり、「日教組をぶっ壊す」と発言したということは、「労働組合をぶっ壊す」と発言したことと同じである。労働組合活動は憲法で当然保障されているから、中山氏は憲法尊重擁護義務(憲法99条)に反した発言をしているということになる。これは許しがたい暴言である。労働組合をぶっ壊すのであれば、その前に憲法改正を提案すべきである。「労働者の団結権をなくそう」と。そんな提言が支持されるだろうか?
中山氏の嫌いな「自虐史観」についても触れておこう。中山氏がかつての日本のアジア侵略政策に対する批判を「自虐」ととらえることに、右翼的人格がよく現れている。日本政府批判は決して、日本国民「自ら」を「虐げて」いるわけではないのである。多大な犠牲者を出した日本のアジア侵略政策が誤っていたことを学び、将来同じ過ちを繰り返さないよう誓うことはきわめて重要である。過去から学ぶことが将来の日本国民のためになるのである。また、一部には「日本は中国人や朝鮮人に(過去の侵略のことを)謝りすぎ、もうペコペコ謝らなくてよい」という意見が聞かれる。これはあまりにも驕った態度である。日本のアジア侵略による犠牲者とその家族が生存している限り、日本政府は彼らに公式に謝罪し続けなければならないと思う。謝罪に「もう十分」ということはない。犠牲者とその家族の心に少しでも届くのであれば、謝罪を続けるべきである。これは今の日本国民に対して謝罪行為を押し付けるものではない。日本政府の謝罪によって自分個人も謝罪を強要されているような錯覚を起こすならば、それこそ右翼的人格である。中山氏のように「自虐史観」が嫌いな連中のことを、私は「無反省史観」と呼ぶ。過去の歴史から将来の指針を見出せない空しい史観である。
先に述べたように中山氏の発言は「右翼」と同レベルなので、中山氏の発言を批判することは右翼的言説を批判することになる。結局、「右翼的言説の行き着く先は何なのか」ということだ。右翼的言説は最終的に、他国を刺激して日本国民を軍事的脅威にさらし、教育を崩壊させ、民主主義や労働権を否定することにつながる。「行き着く先」を考えていない気分屋的「右翼」もいることであろう。「右翼」が一見美しい「秩序」の構築を掲げているように見えて、行き着く先には何も希望がない。右翼的言説は個人を幸福にもしないし、社会発展につながることもないのである。
以上のように中山氏とその関連する右翼的言説を批判してきたが、ほんの少しだけ中山氏に同情する点を書いておこう。私は個人的に、もともと労働組合の連合体である日教組が、自らの労働環境に関わりのない政治的活動に深く関わるのは問題だと思っている。そのような政治活動は、むしろ組合員の団結を阻害し、労働組合自体を弱体化させることにつながるであろう。このことは他業種の労働組合やその連合体にも当てはまると思う。
本記事に興味をもって下さった方に、クリック1回お願いします(ブログ人気投票)