いよいよ2015年も押し迫って参りました。
今朝は冷え込んで、漸く暮れを実感しています。
不定期な更新を読んで頂いている皆様、ありがとうございました。
今年も色々ありましたが、引き続き、宜しくお願いします。

さて・・・

「超訳ニーチェの言葉」という本を読んだことがある。

ニーチェが書いた様々な哲学書の中から
短い言葉を抜き出して並べた本。

言ってしまえば・・・それだけの本である。

だが、驚くほど売れた。

ニーチェ自身が書いた本よりも売れた。

それは・・・

ニーチェを読まない人が
「超訳ニーチェの言葉」を読んだからである。

なにしろ・・・私も読んだのだから(^_^;)・・・


だが・・・

不思議だとは思わないだろうか。

ニーチェを読まない人が、何故この本を読むのか。

「もしドラ」でも、同じ現象は起こっている。

ドラッカーを読まない人が・・・「もしドラ」を買って読んだ。

これは・・・

いったい、どういうことなのだろう・・・

流行っている本だから読んでみた。

そういう人もたくさんいると思う。

だが、その流行は・・・

どういうロジックで生まれたのだろう???

ニーチェやドラッカーを愛読する人ではない人が、
最初に、この本を手にした理由は何か。

それは・・・

やっぱり、知的欲求なのだと思う。

つまり・・・

人は、潜在的に・・・

ニーチェやドラッカーを読みたがっているのだ。

だが・・・読まない。

それは・・・読んでもどうせ解らないと思っているから。

そして実際、
読んでみても解らないと思う。


では・・・

「超訳ニーチェの言葉」は
解りやすいニーチェ本なのだろうか。

半分は、その通りだと思う。

だが、半分は間違っている。

なぜならば、
ニーチェが言っていることは
そもそも、解り難いことだからだ。

答えのないものに、答えを見出そうとする。

その思考のプロセス自体が、哲学である。

だから・・・

「解る」なんていうことはあり得ない。

そもそも・・・

「解らそう」と思って書かれていないのだから。


では「超訳ニーチェ」とは何か。


そして・・・なぜ、こんなにも売れたのか。

それは・・・

ひと言で言うならば、マーケットのニーズに応えた本。

だから、売れたのだと思う。

「ニーチェの思考に触れたい」という欲求ではなく・・・

「ニーチェを読みたい」という欲求。

つまり・・・

「ニーチェを読んだ自分」になりたいのである。


「超訳ニーチェの言葉」を読んだ人を
ニーチェを読んだ人と呼んでいいものかどうか・・・

それは、難しいところだと思う。

だが・・・そんなことは問題ではない。

ニーチェがどんな人か・・・

どういうことを書いたのか・・・

それを全く知らないという状態と、
ニーチェの言葉をいくつか知っている状態。

ニーチェって、
こんなこと言ってたよねと言える状態は全然違う。

ニーチェを深く理解していなくてもいい。

そこまでは求めていない。

ニーチェを知っている。

ニーチェの言葉を知っている。

それが・・・

この本を読む多くの人のゴールなのだと思う。


だが・・・勘違いしてはいけない。

彼らは別に、この本を読むことによって
「俺はニーチェを知っている」と・・・誰かに自慢したいわけではない。

満足させたいのは、自分の中の知的向上心なのだ。

ニーチェと
ちょっと・・・触れ合うことによる満足。

それは・・・

例えて言うなら・・・

カルティエのスカーフを持つことによる、
カルティエとのつながりや・・・

iPhoneを持つことによる、
スティーブ・ジョブズとのつながり・・・に似ていると思う。

それは、もちろん本当のつながりではない。

iPhoneを持ったからといって、ジョブズを理解できるわけではない。

だが、このつながり感は、とても大事だと思う。

「自分はニーチェとちょっと触れ合った」と・・・思える人と
「ニーチェなんて興味ない」と思っている人。

この差は、もの凄く大きい。

自分の中の判断軸、
つまり・・・価値観を育てていくか、いかないか。

音痴でも音楽は聴ける。

不器用でも、ゴッホの絵を見に行くことは出来る。

本物のアートや哲学を完全に理解することは難しいし・・・

そんな必要はないと思う。

大事なのは・・・

ちょっと触れ合うこと。

触れ合うことによって・・・

自分の中の価値観が、ちょっとだけ変化すること。

それこそが、
人生の大きな節目なのだと思う。


今年は暖かいですね・・・今日の夕方から冷え込むようですが。
こんな年は・・・冬型が安定していないので、
冷え込んだ途端に雪なんてありそうで、心配です。

さて・・・

もうかれこれ30年くらい、
人生の半分以上を物流&人材ビジネスに費やしてきた。

労働集約のビジネスにおいて、
活躍する人材の採用は・・・

とても重要なファクターだ。

様々なシチュエーションを省みると・・・

上手くいった事も・・・

上手くいかなかった事も・・・

・・・ある。

結果判明したことは・・・

活躍する人材を見抜くのは、
容易ではないという事実だ。

あたりまえだが・・・(^_^;)・・・

学歴・・・
リーダーシップ・・・
体育会で活躍した実績・・・
根性・・・
コミュニケーション能力・・・
コンピテンシー・・・

その他・・・

様々な角度から活躍しそうな人材を予測してみたが、
結局「これだ!」というものは見つからなかった。

もちろん・・・

これらの項目が
全く仕事と関係ないということではない。

仕事と学問は関係がないと言われるが・・・

やはり、
仕事における頭の良さも、
ある程度学歴に比例すると私は思う。

根性やコミュニケーション能力が
仕事をする時にプラスい働くことも確かだろう。

だが・・・それは絶対ではない。

学歴は高いが、仕事頭が悪い人・・・

スポーツで大活躍したのに、仕事では根性がない人・・・

コミュニケーションは得意だと言いながら、お客さんに嫌われる人。

そういう人は、いくらでもいるからだ。

学問頭と仕事頭には、
共通項もあるが、全く関係ない部分もある。

根性のある人が、
あらゆるプレッシャーに耐えられるわけではない。

世の中には、
数えきれないくらいの仕事があり・・・

その全てにおいて、
能力を発揮する人材などいないのだ。

つまり結局は・・・

仕事との相性・・・
人との相性・・・
会社との相性・・・

などなど・・・によって、
活躍するかどうかは変化する。

最終的には、
働かせてみないと解らないということだ。


・・・とはいうものの、
やはり、人材に優劣があることも確かだと思う。

仕事の種類や環境によって、
順位の入れ替えはあるものの、
最上位と最下位が入れ替わるとは思えない。

一緒に仕事をやってみて・・・

「こいつは出来るな」と感じる人材。

そこには、やはり共通点がある。

私が個人的に
「出来る」と感じるポイントは3つある。

ひとつ目は着眼点。

普通の人が見過ごしてしまうようなことを見逃さず、
普通の人が考えつかないようなことを考えつく資質。

これは、
性格や価値観に由来するので、
鍛えることは難しいと思う。


二つ目は、戦略立案能力。

「風が吹いている」という事実を
「桶屋の儲け」に結びつけることが出来るシミュレーション能力だ。

アイデアは、
そのままでは商品にはならない。

アイデアを商品という形にするには、
プロセスが必要だ。

そのアイデアは、
誰にとっての、
どういう価値に結びつくのか。

どのような商品を作り、
どのような人をターゲットにして、
どのような販売戦略を立てるのか。

このプロセスを、組み立てられる人材。

これは間違いなく「出来る人材」である。

この能力を手に入れるためには
元々の頭の良さや柔軟さに加えて、
訓練が必要である。


三つ目のポイントは行動力。

つまり・・・

仕事をこなす早さである。

「仕事が早い」は「仕事が出来る」とかなり近い。

反対に、
「仕事が遅い」は「出来ない」と言われているに等しい。

スピードこそが、
「仕事ができる」という評価への、一番の近道なのである。


では・・・

この三つの資質のうち、
どれを一番重視すべきだろう。

それは・・・

たぶん仕事によって変わると思う。

アイデアがもっとも必要とされる仕事・・・

戦略立案がもっとも必要とされる仕事・・・

スピードが最も必要とされる仕事・・・

それぞれ、あるように思う。

だが・・・

もしも私が、
それぞれの能力を持った人材の中から
一人だけ選べと言われたら、
戦略立案能力を取るだろう。

アイデアとスピードも重要だが・・・

この二つは、
人材の数によって、
カバーすることが出来るからだ。

しかし・・・

戦略立案だけは、
大勢でやるわけにはいかない。

こればかりは、
一人の脳みその中で組み立てるより他ないのだ。

面白い着眼点を持った人材や・・・

スピード感のある人材も、もちろん魅力的だ。

だが・・・

どの能力が、
最も稀少かと言われたら、
やっぱり・・・戦略立案能力だと思う。

この能力を持った人間を、
組織の中に何人引き込むことが出来るか。

それが・・・

業績を大きく伸ばすための
ボーダーラインだと思う。



昨晩、一の酉を覗いてきました(^^)ww
一年って早いですねえ・・・(^_^;)
この一年、自分は十分に頑張っただろうか???
もうチョイとふんばりましょうかね・・・

さて・・・

人が集まるところには必ずルールがある。

学校、会社、国はもとより、
サークル活動・・・卸売市場・・・

マンションの中に至るまで、ルールは作られている。

人は・・・

ルールが無ければ共同生活をすることができない。

やっていい事と・・・

やってはいけない事・・・

・・・を決めておかないと、収拾がつかなくなるからだ。

ウチの学校ではパーマは禁止・・・

ウチの会社では自動車通勤はOK・・・

ウチのマンションではネコを飼ってはいけません。

何をやってもいいか。

何をやったらいけないか。

その境い目を明確にしたものがルールである。

金魚は飼ってもいいけど、リスは駄目。

なぜか???

正直言って、
そこには誰もが納得できる理由など無い。

こちらのグループでOKだったものが、
あちらのグループでは駄目。

あちらのグループでOKだったものが、
こちらのグループでは駄目。

ルールとは、そういうものなのである。

例えば・・・

法律にしても、国が変わればころっと変わる。

死刑や中絶を合法にしている国もあれば、
違法にしている国もある。

イスラムのルールでは、
金利を取る事は違法行為である。

日本で合法な会社が他の国では違法・・・

他の国で合法な食べ物が日本では違法。

そういう事は、いくらでもある。

つまり・・・

誰がどう見ても完全無欠なルールというものは
この世には存在しないということだ。

では・・・

ルールを作るために、
必要不可欠なものは何だろうか。

知識や常識。

いや違う。

ルール作りに必要なのは、
知識ではなく権力である。

権力の後ろ盾無くして、ルールは成り立たない。

なぜならば、
ルールは違反した時の罰則とセットだからだ。

法律に違反したら警察に捕まり・・・

校則に違反したら退学になる。

社則に違反したらクビになり・・・

仲間のルールに違反したら仲間はずれにされる。

嫌なことではあるが、
ルールには違反したときの罰則が必要である。

それが無ければ、
誰もルールを守らなくなってしまうからだ。

正直に言って・・・

ルールの厳守され度合いは、
良識ではなく罰則の重さによって決まる。

車なら信号を守るのに、
徒歩だったら平気で赤信号を渡るのは、なぜか???

割り込みをするのも、
エレベーターを駆け上がるのも、
罰則が緩いからだ。

人のものを盗まない。

人を傷つけない。

殺さない。

それは、
ルールを破った時の罰則が厳しいからである。

人間は自らの良識ではなく、
罰則の重さによって行動を変えている。

認めたくはないが、
残念ながらそれが事実である。

だからこそ・・・

ルールを破った時に罰則を与える力が
ルールには不可欠なのだ。

軍事力や・・・警察力。

決裁権や・・・人事権。

それなくして、
ルールは守られない。

ルールには、番人が必要なのだ。


それゆえに、
ルールは常に強者が作ることになる。

弱者が作ったルールなど、
強者は守ろうとはしないからだ。

資本家が作ったルールに労働者が従い、
大企業が作ったルールに中小企業が従い、
先進国が作ったルールに発展途上国が従い、
アメリカが作ったルールに日本が従う。

正しいか・・・正しくないか。

正義か・・・悪か。

そんな事は、関係がない。

人間社会には、
ルールが必要であり、
ルールは強者が作るしかないのだ。

それは、
紛れもない現実であり、事実である。

日本がTPPに参加するべきかどうか・・・

オスプレイの配備を認めるかどうか・・・

そのような事は、
日本には決める権限が無いのである。

強者によって作られたルールに、
弱者は従うしかない。

なぜ?酒が良くて、
マリファナはいけないのかと食って掛かっても・・・

意味は無い。

違反すれば、罰を受ける。

ただ、それだけの事だ。

だからこそ・・・

ルールの意図を知る事が、
とても重要なのである。

強者は、
どのような意図を持って・・・

そのルールを作ったのか。

そもそも・・・

ルールを否定するのではなく、
ルールの意図を理解する。

そのためには・・・

常識や良識という先入観を捨てなくてはならない。

そこには、
百人百色のカオスが・・・

間違いなく存在しているはずだから・・・



お盆も過ぎて・・・暦は一足先に秋を知らせてくれますが・・・
暑いですね~(^O^;) さて、

実は私、子供の頃、ずっと浮いておりました。

浮いていると気がついたのは
高校生になってからですが・・・

その前から
浮いていたことは間違いございません。

小学生のときは、
近所の人から「お宅の息子さんはユニークね」と言われていたそうです。

つまり、変わった子ということです。

私は、高校生くらいになるまで、
場の空気というものがまったく解りませんでした。

だから・・・

近所でも、クラスでも、ものの見事に浮いていたと思います。

小学生のとき、私の日課はサッカーでした。

学校が終わると、すぐさまボールを蹴り始めるのです。

毎日毎日・・・シュート板に飽きもせず蹴っていました。

まあ、浦和という地域性もあったかもしれません。

毎日同じ場所で、私は蹴り続けました。

一日も欠かさずに。

おそらく・・・

私の親も、相当変わった人だったのではないでしょうか。

学校でも相当浮いていましたね。

正直言いまして、
私はひとりでもボールを蹴り続けていました。

本を読んでいるか、ボールを蹴っているか・・・

でも、全く違和感はなかったです。

ただ、恐ろしく場の空気が読めない子供だったのです。

中学生になって、
クラスメイトが「お前浮いてるぞ」と言ってくれたおかげで、
私は初めて自分が浮いていることを知りました。

そして、中学生になって初めて音楽に目覚めたのです。

高校生になって、
私はようやく普通の友達が出来るようになりました。

その後も、少しずつリハビリを重ねることによって、
私は社会に馴染んでいったのです。

今では文章を書いたり、
講義などもしたりして、
「みなさんは解っていない」みたいな話をしますが・・・

実のところ、
解っていなかったのは私の方なのです。

私が社会の常識を理解できるようになったのは、
二十歳も過ぎてからなのです。

でもどうなんでしょう・・・

今の私は社会に馴染んでいるのでしょうか?

それともやっぱり浮いているのでしょうか?

よく誤解されるのですが、
実は私は浮くことがすごく嫌なのです。

だから、
パーティーとかは行きたくないです。

だって、
必ず浮いてしまいますからね。

目立たないように、
景色に溶け込むように、
生きていきたい。

それが、
私の根底にある感情です。

でも、どうしても・・・

その色に染まりきれない自分もいます。

どんなに社交的に人と接しようとしても
10分くらいしかもたないのです。

だんだんと・・・

無愛想になり、
無表情になり、
逃げ帰ってしまいます。

社会の中には、
浮いて目立ちたいという人もたくさんいます。

でも、私には、
そんな欲求はまったくありません。

昔も今も、
そしてこれからもずっと。

私は静かに、
美味しいものでも食べながら、
のんびりと生きていきたいのです。

でも・・・きっと無理です。

私は私の中に芽生えた疑問を・・・

放置することが出来ないからです。

それを追求していくことが、
社会で浮くことにつながるとしても・・・

どうしても放っておけない。

常識を疑い・・・

突っつき回し・・・

ひっくり返す。

「これっておかしいんじゃないですか」

・・・と言わずにはいられない。


その人の常識をひっくり返すことに
どれほどの価値があるというのでしょう。

でも、どうしても、言わずにはいられない。

だから・・・

きっとこれからも、私の人生は浮いたまんまです。



梅雨明け10日といいますが・・・暑いですね(^_^;)・・・

いよいよ夏本番ですが、私はすでにサッカー焼けで真っ黒です(^^)ww

さて、そんなこんなで蒼き海について・・・

まだ、
この世に存在していないマーケットを開拓することによって
熾烈な競争から逃れる戦略。

エジソンやスティーブ・ジョブズのように
次々と新しい商品を発明することによって。

それは・・・

もちろん、
立派なブルーオーシャン戦略だと思う。

だが・・・

そんなことが普通の企業、普通の人間に可能だろうか。

彼らは、紛れもなく・・・
自他ともに認める天才であり、
数十年、いや数百年に一度しか現れないような歴史的人物である。

その頭脳、閃き、感性、カリスマ、
そして・・・集金力や運に至るまで、
常人には、
とても真似の出来ない存在と言わざるを得ない。

ブルーオーシャンなどというのは・・・

そのような、
一部の天才にのみ許された戦略であって、
一般の企業や一般の労働者は
これまで同様、
レッドオーシャンでしのぎを削るしかない。

顕在化されたマーケットの中で戦い合って・・・

傷つきながらも勝利をもぎ取るしかないのだ。

そうかたくなに考えてしまう気持ちはよくわかる。

目の前の競合よりも1円でも安く
少しでも、
いい商品をそれ以上の営業力で販売する。

それは、とても固く堅実な戦略だ。

だが・・・

本当にその戦略は、
長続きするのだろうか。

完全に心を閉ざしてしまうその前に、
もう一度、
ブルーオーシャンについて、
考えてみてはどうだろう。


そもそも・・・

ブルーオーシャンとは
革命的な発明のことを指しているのではない。

私は、そう思う。

ブルーオーシャン戦略の最大のポイントは・・・

「戦わないことだ。」

2,500年前に書かれた、
歴史上最も有名な戦術書である『孫子』にも、
戦わずして勝つことの重要性が説かれている。

では・・・

戦わずに勝つには、どうすればいいのか。

いや・・・

そもそも、そんなことは可能なのだろうか。

戦わずに勝つ。

これを、
ビジネスの用語に翻訳するならば・・・

「競争せずに販売する」

・・・あるいは、

「比較されずに買ってもらう」

・・・といったところか。

競争や比較から、
逃れる方法はひとつしかない。

それは・・・

比べようもない、ただ「ひとつ」の存在になることだ。

では・・・

そのために必要なことは何か。

他者が絶対に作れないような
革命的な商材。

それは、
もちろん最強の差別化だと思う。

だが・・・

前述したように、
そのような発明が出来るのは
運と実力を兼ね備えた一部の天才だけだ。

では・・・

他に比較から逃れる方法はあるのだろうか。

私はあると思う。

もっと簡単で・・・

誰にでも出来る身近な方法が。


iPhoneは、
なぜ比較されずに選ばれるのか。

正直言って・・・

iPhone以上の機能を持った商品は、
存在すると思う。

デザインだって、個人の好み次第だろう。

その中で・・・なぜiPhoneだけは特別なのか。

それは・・・

iPhoneが特別な商品なのではなく、
「私の中でiPhoneは特別」なのである。

例えば・・・

子犬の頃から、
ずっと可愛がってきた柴犬。

きっと、
かけがえのない友人なのだと思う。

でも・・・

他の人から見れば、
もっと可愛い、
もっと賢い、
もっとスマートな柴犬など、いくらでもいる。

いや・・・もっと言えば、
柴犬である必要もない。

その柴犬が特別なのは・・・

「私にとって特別な存在」だからである。


商品も・・・

サービスも・・・

お店も同じことではないだろうか。

もしも・・・

ある人にとって、
唯一無二の喫茶店があるとしよう。

そのお店が、
世界で唯一無二である理由は
決してコーヒーの味や店の雰囲気ではない。

そのお店を
唯一無二たらしめているのは・・・

その人の『心』なのだ。

そのお店が
舞台になって繰り広げられた過去のストーリー。

それが、
その人の中で、
そのお店を特別にしているのである。


ブルーオーシャンは・・・

新しい商品や
マーケットを意味しているのではない。

お客さんにとっての『特別な存在』。

それこそが、
ブルーオーシャンなのだ。



梅雨明けはいつ頃でしょうかねえ・・・(^_^;)

秋葉原は、今日も霧雨がかなり降っています(TOT)

さて・・・そんな、どんよりの中、また、うだうだと・・・


私の人生は、
かなりぐちゃぐちゃです。

私は学生の時に、
受験の常識から逃げ出し・・・

大人になってからも、
社会人の常識を拒否し・・・

経営者になってからは
仕事の常識を否定し続けてきました。

社会の常識を疑うこと。

鵜呑みにしないこと。

それは・・・

私が私であるために、
どうしても必要なことでした。

その結果、
私は拠り所を無くしてしまいました。

私は・・・

陸地に住むことができない人間なのです。

その陸地の常識やルールが、必ず面倒になる。

ちょっとした矛盾や妥協を見過ごすことが出来ない。

良く言うならば、自分を欺けない人間。

悪く言うならば、我慢の出来ない人間。

きっと・・・

それが私なのです。


人間というのは・・・

そもそも、
その内側に矛盾を抱えて生きています。

「善と悪」

「勤勉と怠惰」

「怒りと優しさ」

「優越感と劣等感」

「肯定と否定」

矛盾する思考や感情を受け入れ・・・妥協し・・・忘れる。

目の前にあるけれども見えない。

音はするけど聞こえない。

そういう・・・

「無かったことにしよう」

・・・という緩衝剤なしに・・・

人間同士は、
集まることが出来ないのです。

人間は、集まるからこそ、価値があります。

頭脳の集合体こそが、
人間の力の源泉なのです。

でも・・・

完全に思考を一致させることなど出来ません。

だから・・・

妥協することや、
無かったことにすることは、とても重要なのです。

でも・・・

私にはそれができない。

ある意味・・・社会不適合者なのです。


私は、
自分の言行不一致は我慢できます。

心は傷つきますが、
仕方がないと妥協できるのです。

人間だもの。

仕方ないよ・・・と。

でも・・・

私は、
自分の中の思考の不一致は、我慢できない。

この思考と、この思考とは、矛盾する。

そういう時に妥協できない。

自分なりの結論を出さないと、
気が済まないのです。


皆にとっては、どうでもいいこと。

明確にする必要の無いこと。

いや・・・

明確にしては、いけないこと。

そういう物を、
明確にせずにはおけない人間なのです。

だから・・・

集団生活には、向きません。

私がいることによって、和が乱れるし・・・

私の心も乱れて行くのです。


だから・・・

今いる陸地から、
また離れないといけなくなります。

船に乗って陸地から離れ、
海にプカプカと浮かぶのです。

難破船には、ならないように・・・

静かな海を見つけて、そこに碇を下ろす。

どこの陸地にも船を寄せず、
一人で海の真ん中に自分の船の居場所をつくるのです。

でも・・・

もちろん長続きはしません。

寂しくなるし・・・

自信も無くなります。

所詮・・・

自分一人の碇など、
人生をつなぎ止めるほどの重しにはならないのです。

だから・・・

私の人生は、
ぐちゃぐちゃのふわふわです。

矛盾した思考を受け入れる事なしに・・・

常識という名の、
非常識なルールを受け入れる事なしに・・・

人は・・・生きていくことは、できないのです。

でも・・・

今は・・・

もう少し・・・

波間に漂ってみようかなと、思います。

ぐちゃぐちゃのふわふわな船に乗って・・・

目的の無い船旅を続けてみようと。

どこに行き着くのか・・・

どこにも行き着かないのか・・・

それは、
まだわかりませんけど。




秋葉原・・・今日は結構な雨が降っている。

ブログを書くことは仕事だろうか・・・(・_・;)
サボりだろうか・・・^_^;

そんなこんなで、固め打ちです(^_^;)


一生懸命に働くという事の意味は、
全力を尽くすということである。

では・・・

全力を尽くすというのは、どういう状況なのか。

手を抜かないこと。

サボらないこと。

では・・・

手を抜くというのは、どういう状態か。

サボるというのはどうか。


例えば・・・

150キロを超えるストレートを、
投げることの出来るピッチャーが・・・

緩い球を投げるのは手抜きだろうか。

仕事の合間に休憩を取ることは、
サボっていることと同義だろうか。

正直・・・

そこらへんが、
曖昧なまま生きている人は多いと思う。

それは、
学校教育においても家庭においても・・・

その重要なことを
教えられないまま大人になっているからだろう。

先生の授業に集中しないことや・・・

宿題をやらないこと・・・

学問の点数にこだわらないこと・・・

・・・などは

すべて手抜きで、
サボっているという定義に当てはめられる。

だが・・・

果たして、
世の中はそんなに単純なのだろうか。

授業に集中し・・・

宿題を忘れずに提出し・・・

テストで良い点数を取ろうと努力すること。


それが、
優秀な生徒の定義なのだろうか。

一生懸命に努力して70点を取る生徒と・・・

適当に手抜きをしながら100点を取る生徒の評価は・・・

・・・どちらが上なのか。

考えるまでもなく後者だ。

受験の合否は、
努力ではなく結果で評価される。

しかも、たった一回の試験の結果で。



私は努力することや・・・

一生懸命に働くこと・・・が、

無駄なのだと言っているわけではない。

ただ、やみくもに努力したり・・・

盲目的に頑張るのは
非常にもったいないことなのだと言いたい。

手抜きで100点を取るような生徒は
必ずどこかでしっぺ返しを食らう。

一生懸命に努力し続けた人は、きっとどこかで報われる。

それは本当だろうか。

いったい、どのような根拠があって、
そんなことを断言できるのだろうか。

そもそも・・・努力とは何か。

成果を出すために、
何かを鍛錬し続けることだろうか。

では・・・

成果に結びつかなかった鍛錬は、
努力とは言わないのだろうか。

それとも・・・

成果に関係なくとも
何かを鍛錬し続けることが努力なのだろうか。

なぜ、結果が出ないのか・・・

そんなことを考えている暇があったら鍛錬をする。

考えるよりも先に体を動かす。

立ち止まることはサボることだ。

そのように、
インプットされて生きている人が、
なんと多いことだろう。

「努力」や「一生懸命」の定義を考えないまま努力することなど・・・

・・・出来るはずがないと、私は思う。

「あなたのようにはなりたくない」

そう感じている先生の話を聞き続けられることが・・・

一生懸命に学習するということなのだろうか。


創業15年以上も経ち、
最近は土日休ませて貰っている。

少年団のチビ達を指導するのは、仕事より疲れるが・・・(^_^;)

毎日18時には、会社を出て酒を飲む。

でも・・・ぜんぜん構わない。

なぜならば・・・

私は、一生懸命に生きているという自信があるからだ。


私にとって、一生懸命に生きるというのは・・・

「後悔なく生きる」

・・・ということである。


つまり、言い換えれば・・・

「やりたいことはやるし、やりたくないことはやらない」

・・・ということ。


もちろん、その定義は人によって全然違う。


重要なのは・・・


定義があるのか・・・


それとも、
無いまま生きているのかだ。

一生懸命に生きるとはどういうことか。


全ては、その問いから始まる。


私にとって、一生懸命生きるとは●●なこと。

それが定義できたら、全ての基準は明確になる。

では、私は何のために勉強するのか。

何のために働くのか。

何が努力するということで・・・

何がサボるということなのか。


緩い球を投げたっていい。

打たれないようにすることが努力なのだ。

休憩したっていい。

納期までに、
素晴らしい企画を考えつくことが努力なのだ。

正しい結果は、
正しい努力の上にしか舞い降りては来ない。

そして・・・

正しい努力が何なのかは・・・

結局・・・

自分の人生の定義によって、変わってしまうのである。




気がつけば・・・2ヶ月もサボってしまいました^_^;

反省・・・(・_・;) 結構な雨なので、出かけるのが億劫。

なので、久々の更新を(^_^;)

さて・・・


ビジネスの世界は
「好き嫌い<損得」で語られることが多い。

好きなことだけやっていたのでは稼げない。

嫌いなことをやるから高い収入が得られる。

利益に結びつくのであれば、
嫌なことでも我慢しなくてはならない。

人が嫌がることを
率先してやるのがいいビジネスマンである。

・・・というように。

もちろん、
これらが総て間違っているとは思わない。

むしろ、
「そうだよな」と納得してしまう事の方が多い。

だがその反面・・・

「好き嫌い」を無視して、
ビジネス活動が出来ないことも確かだ。

まず・・・

お客さんは、
損得だけで商品を選んでいるわけではない。

パッケージのデザインやコンセプト・・・

あるいは、
担当の営業マンが好きだから買っているのだ

・・・という顧客はたくさんいる。

顧客だけではない。

自社の社員にしたところで
損得だけで仕事をしているわけではない。

その仕事が好き・・・

会社が好き・・・

上司が好き・・・という社員は、
ロイヤリティーも高く、
質の高い仕事をしてくれる。

反対に・・・

嫌いだけど得だからという理由で働く社員は、
ロイヤリティーが低く、
その割にたくさんの報酬を要求してくる。

つまり・・・

ビジネスは「好き嫌い」を
うまく活用した会社が儲かるように出来ているのだ。


「好き嫌い」を制するものがビジネスを制する。

そういっても過言ではない。

・・・にもかかわらず・・・

好き嫌いを軽視する人間が、ビジネスの世界には多い。

そして・・・

そういう人が結構な収入を得ていたり、
高いポジションにいたりするのも事実だ。

もしも・・・

自分の上司がそういう人で・・・

「稼ぎたいのなら私のように割り切れ」と言われたら・・・

「ハイ、ワカリマシタ。」と従うしかないだろう。

だが・・・

その先に、
明るい未来は待っているのだろうか。

嫌なことさえ我慢すれば、
高い収入とポジションが約束されるのだろうか。

いや、残念ながらそうはならないだろう。

時代は変わったのだ。

我慢して、がむしゃらに働くだけで出世する時代は終わった。

今は「好き嫌い」を度外視して、
ビジネスを組み立てることなど出来ない時代だ。

上司が教えてくれないのならば、
自分の頭で考えなくてはならない。

「好き嫌い」をベースにした、
新しいビジネスというものを。


誤解しないでほしいのだが・・・

好き嫌いを制するというのは、
好き勝手に働くということではない。

自分の好き嫌いアンテナを磨き、
顧客の好き嫌いを予測して働くということだ。

人は、どういう時に好きになるのか。

どういう時に嫌いになるのか。

それを、とことん突き詰めるのである。

自分で考えてみれば解ると思うが・・・

好き嫌いというのは、とてつもなく奥が深い。

「好き⇔嫌い」とうように、
二極化して考えがちだが・・・

好きの反対は嫌いとは限らないし・・・

嫌いの反対が好きとも限らない。

人間の感情は、複雑なのだ。

だが・・・

総ての社会現象において・・・

「損得」以上に
「好き嫌い」が影響を与えていること・・・

そして・・・

その影響が、
どんどん拡大し続けていることは確かである。

これだけシビアな経済状況においても、
人はやっぱり損得ではなく、好き嫌いで結婚相手を選ぶ。

生活に必要不可欠なものよりも、好きなものに・・・

より多くのお金と時間をかけたがる。

それが、
この時代に生きる日本人の習性なのだ。

好き嫌いを無視して、
これからの時代を生き抜くことは出来ない。

とても素敵で、
とても厄介な時代が到来したのである。




GW突入・・・(^_^;)
忙しいような・・・暇なような・・・
もどかしい谷間の4/30。

さて・・・中途半端な午後に妄想を・・・

ひとりっきりの会社。

今、一人で活動していたら!?!

これを果たして、
会社と呼べるのかどうかも疑問である。

・・・が、会計上はまぎれもなく株式会社。

だが、その実態は
フリーランスの個人事業主である。

フリーランス。

どこの組織にも属さない存在。

それが、
とても気持ち良さそうな感じがする。

社会に出てから、30年間ほど・・・

ずっと組織に属していたので、その反動かもしれない。

私は縛られるのが、大嫌いなのである。

寂しくないだろうか・・・と考えもするが、
ぜんぜん寂しくないだろう。

顧問をやっている会社もあるし・・・

ひとりでいるのも嫌いではない。

それに、何と言っても・・・

私には、
仕事をサポートしてくれる仲間が大勢いる。

フリーランスになるということは、
組織から離れて、独立することでもあるのだが・・・

だからといって、
ひとりで仕事をするわけではないだろう。

このことを理解せずに組織を離れると
大変な苦労を背負い込むことになってしまう。

そのうえ・・・きっと・・・まったく稼げない。

いや、そこそこは稼げるのだが、
あっという間に頭打ちになるだろう。

組織に所属していようと、
独立してひとりでやっていようと・・・

仕事のやり方は
基本的には同じだと考えた方がいいのだ。

自分が得意なことに、
時間とエネルギーを集中し・・・

得意でないことは人に任せる。

その代わりに、
他人の仕事のサポートもしてあげる。

得意な分野で、
お互いにサポートし合えばいいのである。

だが・・・

往々にして、独立したからには・・・

何から何まで、
自分でやらなくてはならないと
考えてしまいがちだ。

余計なお金は使わずに、
自分に出来ることは自分でやる。

その結果・・・

得意ではない仕事に膨大な時間を取られてしまい、
収入が頭打ちになってしまうのである。

組織の中でも、
「自立する」ことが良いことだとされているが・・・

これも、
ひとりで仕事をするという意味ではない。

人を頼らずに仕事ができるようになるというのは・・・

あくまでも、
自分の得意とする分野においての話だ。

何から何まで自分でやってしまったら
組織に所属している意味がないし・・・

そもそも・・・

組織としてのパフォーマンスが上がらない。

組織というのは、
それぞれの得意をつなぎ合わせることによって、
全体のパフォーマンスを最大化することが目的なのだ。

自立することは大事だが、
孤立してしまってはいけない。

組織のどこ(誰に)どのような得意があるのかを見極め、
それを活用する。

同時に・・・

自分が得意とすることで、積極的に周りをサポートする。

それが、組織での働き方だ。

では・・・独立したらどうなるか。

仲のいい人同士で助け合う。

それも、もちろん大事だが・・・

それだけでは、仕事は成り立たない。

なぜならば・・・

そんなに旨い具合に、
自分の不得意をサポートしてくれる友人など
そろっていないからだ。

それに・・・

知り合いは、
タダみたいな値段で手伝ってくれるかもしれないが・・・

結局は、出来る範囲のサポートしか頼めない。

それでは、不十分なのである。

では、どうしたらいいのか・・・


簡単なことだ。

発注すればいい。

それを得意としている専門の人に、
お金を出して頼むのだ。

お金を使って仕事を任せ・・・

それによって、
手に入れた時間でその倍の収入を稼ぐ。

100万円発注して、200万円稼ぐ。

1,000万円発注して、2,000万円稼ぐ。

発注金額が、
増えれば増えるほど自分の収入も増えるのだが、
発注できる人は少ない。

それは、
リスクであると考えてしまうからだ。

だが・・・

本当のリスクは、発注することではない。

発注しないことの方が、
よほど大きなリスクなのである。



桜も散り、新しい季節を感じる今日此頃です。

社長になって16期目を迎えました。

同じオフィスに出社し・・・

同じ社員と顔を合わせ・・・

同じように朝礼をする。


しかし、そこで話すのは・・・

15年前の私ではない。


聞く側から話す側に変わるというのは・・・

なかなか複雑な気分である。

だが、それにも慣れてきた。


子会社の雇われ社長から、
ファンドから信任を受けての少数株保有の社長、
そして・・・オーナー社長になったことによって、
他にもいろいろと変化したことがある。

何と言っても・・・

「雇われる側」から「雇う側」に変化したのだ。

そういう意味では、
天地が入れ替わったようなものかもしれない。


もちろん会社の事業体が変わった訳ではないし・・・

経営陣も長年私と経営を供にしてきた仲間なので、
まったく知らない会社に再就職したのとは訳が違う。

長い年月の中で、たぶん・・・

少しづつ、独立してきたんだと思う。


形にこだわらず、
今までと同じように経営者視点で行動する。

それは・・・周りが期待していることでもあり、
私自身がやろうとしていたことでもあるのだ。

だが、これが結構難しいらしい。


雇われ社長時代の私には、
到底解らなかったことが、今になって実感できる。

私は、もし自分が社長でなかったとしても同じように考え、
行動するだろうと信じていた。

置かれた立場に関係なく、
自分の頭で考え、自分自信の手で新しい一歩を作り出す。


それは、
自分が雇われ社長だった時に
自分以外の役員や社員に求めていたことでもあるし・・・

私自身「自分ならそうするだろう」という自信を持っていた。

なぜ、みんな自分の意志で行動しないのか。

自分の頭で考え、自分自身で決定しないのか。

やりたいということを
決して頭から否定したりしないので、
どんどん主張し、
どんどん行動してもらいたい。


私だけではなく・・・

世の中の社長は、皆そのように考えていると思う。

だが、実際に雇われ社長でなくなってみて、
その難しさを実感してしまう。

社長とそれ以外の人間とは違う。

いくら同じように考えようと思ってもできない。

残念ながら、それは事実のようだ。


何しろ、
この私自身の変化がそうなのだから、
言い訳のしようがない。


だが、いったい何故なのだろう。

何が変化したというのだろう。


 
私は相手によって態度を変えたり、
立場によって態度を変えたりする人間が一番嫌いだ。

社長だから頑張る、責任を持つ。

社長でないから頑張らない、責任を持たない。

そういう人間が嫌なのだ。


だから・・・

私は、たとえ雇われ社長であっても、
同じように責任感を持ち、
同じように自ら発案して行動するようにしてきた。

実際、この15年間は、そうやって仕事をしてきたと思う。


誰に言われなくても自ら考え・・・

誰に求められなくても、必要だと思うことは実践する。

自分個人の損得に関わらず、
組織にとって必要だと思うことに時間とお金を使ってきた。

それはオーナー社長の今と同じ。


いやそれ以上だろう。


それは・・・

私自身が意識して、
そのように心がけていたからだと思う。


そして・・・

もちろん、これからもずっと、
同じスタンスで仕事に取り組みたい。

そう思う。

それは、
会社のためであると同時に、
私自身のためでもあるのだ。

仕事として、
要望されたことはもちろんやるが、
要望されていないことでも必要だと思うことはやる。

その気持ちに変わりはない。

どうやって、
そんな気持ちの仲間を増やしていくのか・・・

後継者を育てていけばいいのか・・・


どうやら・・・

社長は社長であるというだけの理由で
やる気が湧いてくるようだ。

まるで尽きることない泉のように。


社長のやる気。

それは社長だから持てるもの。

認めたくはないが、事実のようである。




その泉がなくなってしまったら・・・

私は、
別の何かを見つけ出さなくてはならない。