MaryXmas (^^♪ 穏やかなクリスマスイブですねえ・・・
2014年も残り1週間・・・良い事も、よくない事も・・・整理整頓して
2015年が素敵な一年になりますように・・・(^^)ww

さて・・・


「出世のために働いている人間」と聞いて
 あなたならどんな人間を思い浮かべるだろう。

自己中心で・・・脇目も振らず、猛然と働く人間・・・

上司におべんちゃらばかり言っている人間・・・

同僚を蹴落とすために、いやらしい罠を仕掛ける人間・・・

そういう、
ネガティブなイメージが思い浮かばないだろうか・・・

だが・・・

それは・・・

きっと・・・(^_^;)

テレビドラマの影響だと思う。

なぜならば・・・

そのような、
人間は現実社会では出世しないからである。


私は普通の会社員経験がないので
出世とは、無関係に見えるかもしれない。

だが、こう見えても・・・(^_^;)

自身の出世には頓着ないが・・・

出世に関しては、ずいぶんと考えてきた。

ひとつには、
いろんな人に「どうすれば出世できるか?」と聞かれてきたから。

そして、もうひとつは
私自身が出世のメカニズムに興味があるからである。

いったい、
どういう人が・・・どういう仕組みで・・・出世していくのか?

もしも・・・

自分ならば、
どうやって出世の戦略を立てるのか。

そういうことをずっと考えてきた。

その結果・・・気がついたことがある。

それは・・・

出世する人は・・・

出世するべくして・・・出世しているということだ。


彼らは、
ただ猛然と働いてきた結果、出世したわけではない。

もちろん・・・

上司におべんちゃらを使って、出世したのでもない。

彼らに共通しているのは・・・明確な出世ビジョンだ。

それなくして、
組織の長に上り詰めることは出来ない。


私が言っている出世とは・・・

係長や課長になることではない。

もっと上。

取締役や、社長になることである。

いったい、どうすれば・・・

組織のトップにまで、上り詰めることが出来るのか。


まず言えることは・・・

トップになるような人は、
トップになると、自分で決めているということである。

プロ野球選手を目指していない人が、
気がついたら、
プロ野球選手になっていたということがないように・・・

トップを目指していない人が
トップになることは絶対にあり得ない。

そして・・・

本気でトップを目指すならば、
考えなくてはならないことがある。

それは・・・

どうやったらトップになれるのかという戦略と・・・

自分がトップに立ったら、
何をするのかというビジョンである。

もちろん・・・

今現在、任されている仕事において、
成果を出すことは当然である。

だが・・・

それだけを積み重ねていっても、
トップになることは出来ない。

1 仕事で実績をあげる。

2 トップになった時のビジョンを考える。

3 トップになるための戦略を練る。

本気でトップを目指すのなら、
この順番しかないと思う。


仕事で実績をあげるのは当然として、
なぜ2番目にビジョンが必要なのか。

それは・・・

ビジョンもなくトップをめざす人間には
誰もついてこないからである。

当たり前の話だが・・・

「私はトップになりたい」というだけの人は、
 絶対にトップにはなれない。

「私はこの会社をこのようにしたい」

その、
ビジョンが魅力的だから、トップとして選ばれるのである。

では・・・

ビジョンが魅力的であれば、
それだけで、
トップにまで上り詰めることが出来るだろうか。

おそらく無理だろう。

なぜならば、
会社は組織で動いているからだ。

いくら魅力的なビジョンであっても・・・

上司をすっ飛ばして、
トップになることはできない。

だから・・・

トップになるためには、
ビジョンを語ると同時に・・・

自分がトップになるための、
仕組みを作らなくてはならない。

その仕組みとは・・・

自分のビジョンに共感してくれる上司と部下を
出世させることである。

自分ではなく、
自分の上司と自分の部下を出世させる。

なぜならば・・・

それが、
自分自身の出世にとって、
一番の近道だからである。

どうやったら、この上司が出世するのか。

それを徹底的に考えて実行する。

そんな部下を、
出世した上司は放っておかない。

必ず、
自分の近くにおいておくために出世させる。

部下の出世も同じである。

たくさんの部下を出世させる上司は、必ず出世する。

それが、
会社が求めている理想の上司だからである。

出世の極意とは、
自分以外の人間を出世させること。

一見矛盾するようだが、
これこそが真理なのだと私は思うのだ。


寒いですねえ・・・(^_^;)

5人家族で、とりあえず正常なのは私だけ・・・

腸炎&インフルエンザ&風邪&腸炎病み上がりで食欲なし男君

まだまだ、この冬どうなることやら・・・

さて・・・

昔、先輩経営者に教えてもらったことで
今でもよく憶えていることがある。

それは・・・

作業に失敗したお客さんから、
もう一度チャンスを貰う方法。

上司は、私にこう言った。

方法は、たったひとつしかない。

それは・・・

失敗した原因を明確にして、対策を提案することだと。


当たり前の話なのだが、
当時の私はすっかり感心してしまった。

何故ならば・・・

それが
とても論理的な話だったからである。

失礼な話だが、
私は当時の上司を
気合いと根性だけの人だと思っていた。

だから・・・

失敗したお客さんから仕事を貰うためには

「一目散に駆けつけて謝る。」

・・・くらいのことを言うのかと思っていたのだ。

本当に失礼な話である。

だがそのおかげで・・・

私は、この助言をずっと大切にすることが出来た。

根性上司が教えてくれた
たったひとつの論理的な方法だったからである。


・・・以来、私はどんな時にも
失敗の原因を分析するようになった。

そして、
そのほとんどたったひとつの努力によって
ずいぶん仕事ができるようになったと思う。


仕事ができる人と
仕事ができない人の違いは・・・

つまるところ・・・一つしかない。

それは・・・

同じ失敗を繰り返すかどうかだ。

結果が出ない時には、
必ずプロセスに問題がある。

だから・・・

そのプロセスを組み直さない限り、
失敗は永遠に続くことになる。

反対に・・・

プロセスさえ組み替えれば結果はついてくる。

だが、実際にそれをやる人は
ものすごく少ない。

いったい何故だろう???


人は、なぜ同じ失敗を繰り返すのか。

私は、その理由は3つある思う。


まず一つ目の理由は・・・

本人が失敗していると思っていないこと。
自分は一生懸命やったけれども
結果が出なかった。

それは運に恵まれなかったから。

商品に力がなかったから。

会社の知名度が低かったから。

そんな風に考えてしまう人は
プロセスを振り返らない。

一生懸命に働く人ほど、
こういう傾向に陥りやすい。

これ以上、
どうやって頑張れというのか。

そう考えてしまうのだろう。

もちろん、
頑張っていないわけではない。

ただ・・・頑張り方を間違えているだけだ。


二つ目の理由は・・・

プロセスを振り返るスキルがないこと。

自分は何をやってきて、
何をやってこなかったのか。

振り返りとは、
スケジュールを振り返ることではない。

スケジュールに秘められた意味を読み解くことだ。

なぜ?自分はこのスケジュールで行動したのか。

その意味が分からないと
プロセスを組み替えることが出来ない。


そして、三つ目の理由。

それは、
実際に失敗していないからである。


失敗していないのなら
変える必要がないではないか。

そう思われるかもしれない。

だが、残念ながら
社会はそんなに単純には出来ていない。

現実の社会は・・・

仕事が出来る人と出来ない人に
二極化されてるわけではないのだ。

現実の社会には・・・

まったく仕事ができない人などいない。

同様に・・・

完璧に仕事ができる人もいない。

そこにあるのは・・・

出来るレベルの違いだけだ。

だから、仕事ができる人の上には
もっと仕事ができる人がいる。

もっと仕事ができる人の上には
もっともっと仕事ができる人がいる。

仕事ができることに上限はないのだ。

つまり・・・

私がいうところの
失敗していない人というのは・・・

そこそこ仕事ができる人ということ。

そこそこ出来るので、プロセスを変える必要がない。

そう考えているから
それ以上仕事が出来るようにはならないのだ。

失敗を認めることは難しい。

だが・・・成功を捨てることは、もっと難しい。


人は、失敗ではなく・・・

成功の体験によって、
未来を束縛されているのである。


立冬・・・チョット肌寒くてイイですねえ(^^)ww

暑すぎるのも・・・

寒すぎるのも・・・嫌いなので(^_^;)

快晴FINE(^^)wwの今日は・・・

面倒くさいについて。


面倒くさいというのは・・・

一般的には・・・褒め言葉ではない。

その意味するところは・・・

「余計な手間」ではないだろうか。

前フリがやたらと長いとか・・・

決まったことを
いちいち蒸し返すとか・・・

あるいは、
デートの度に愚痴を聞かなくてはならないとか・・・(^_^;)

基本的には・・・

面倒な人間よりは
面倒でない人間のほうが好かれるのだと思う。

「面倒くさい奴」という言い方は・・・

「あまり関わりたくないやつ」と同義である事が多い。

では、
人間みな面倒くさくない方がいいのかというと、
ことはそんなに単純ではない。

なぜならば・・・

「余計な手間」が、
もたらす効用は結構大きいからである。

例えば・・・

料理も飾り包丁という「ひと手間」によって
各段に味や見た目が良くなるしわけだし・・・

彼女へのプレゼントにしても、
手書きのメモを付けるという・・・

「ちょっとしたひと手間」で、
格段に輝いた物になったりもする。

もちろん・・・

これらは料理をする側、
プレゼントをする側が、
感じる面倒くささなので・・・

受け取る方は、一向に面倒ではない。

だが・・・

提供する側が請け負う、
その面倒くささが
相手の満足度アップに貢献していることは確かである。

面倒くさい人間・・・

面倒くさい手順・・・

面倒くさい出来事・・・

そういうものが、
実はいい仕事や
まともな人間関係には
不可欠だったりするのだ。


採用の世界では、よくこんな事が言われる。

それは・・・

「仕事ができる人間は、総じて面倒くさい人間だ」

・・・ということ。

手間がかからない人間の方が、
ずっと仕事ができて、
重宝されそうなイメージではあるが・・・

実際には、
そうでもないところが
現実社会の面白いところである。

仕事の場面で面倒くさい人間には、
ひとつの共通項がある。

それは・・・

納得しなければ、動かないということである。


何か指示を出すたびに・・・

「納得できません」と言ってくる人間。

これは上司にとっては、面倒くさい事この上ない。

「またか。いいから黙って言われた通りにやれ」

・・・とついつい言いたくなる。

だが・・・ここで腹を立ててはならない。

「あなたの指示は納得がいきません」

・・・と言われた場合。

上司は、まず本当に自分の指示が間違っている
という可能性を考えなくてはならない。

「効果を考えたら、こういう方法の方がいいのではないですか?」

そんな指摘をしてくれる部下は、貴重な人材だ。

では・・・部下の論理が間違っている場合はどうか。

これもまたチャンスである。

「君の論理はここが間違っているよ。
 これこれこういう理由だから僕はこのような指示を出したんだ」

・・・と教えてあげれば、相手はそのロジックを学習する。

何の疑問も抱かずに、
ただ言われた通りの作業をする人間よりは
ずっと見込みがあるというものだ。

もちろん、中には・・・
ただただ面倒くさいだけの人間もいる。

その見極めこそが上司の力量というものだ。


必要な面倒くささと、必要のない面倒くささ。

その境い目は、いったいどこにあるのだろう?

会うたびに「私のこと好き?」
・・・と聞いてくる彼女は面倒くさい。(^_^;)

だが、その反面・・・可愛くもある。

可愛く感じるか・・・
それとも、面倒に感じるか・・・

そこが運命の分かれ道なのだ。

仕事の上でも同じ。

面倒な部下が、
可能性を秘めた部下であることは確かだが、
だからといって、
毎回「納得できません」と言ってくる部下は
まず出世できないだろう。

それは・・・上司の器の問題ではなく、
匙加減の問題なのだ。

ものすごく仕事でイライラしている時に・・・

「ねえねえ私のこと好きなの?」

・・・としつこく聞かれたら、さすがに腹が立つ。

男の面倒くささも・・・
女の子の面倒くささも・・・

部下の面倒くささも・・・
上司の面倒くささも・・・

それがプラスに働くかどうかは・・・さじ加減次第なのである。


どこまでが可愛くて・・・

どこからが面倒くさいのか・・・

モテる女の子は、
きっとそれを熟知しているのだと思う。

それは、恐るべきコミュニケーション能力だ。


ここのところ、チョット腰が痛い。

運動不足!?! 

はたまた、Footballのやり過ぎか・・・

さて・・・

ビートたけしは才人だ!

そして・・・

ビートたけしは、
芸人であると同時に経営者なのだな、
と感心してしまった。

それは・・・

あるテレビ番組で、
こんなことを言っていたからだ。

「人は縛りがあるから頑張れる」

私もその通りだと思う。

ただ頑張れ!と言われても・・・

人はどう頑張っていいのかが解らない。

ルールを決める事によって、
ルールに従って頑張る人が現れ・・・

そして、
同時にルールを破るために頑張る人が誕生するのだ。

私が感心したのは、
その後にビートたけしが言ったことばだ。

「芸術家も、企業家も、
 ルールに立ち向かってルールを破るのが仕事。
 でも・・・違うところがある。
 企業家は自分はルールを破っても、
 社員にはルールを守らせないといけないということ。」

なるほど・・・と唸ってしまった。

正直・・・ビートたけしの言葉に、
これほど感心したのは初めてである。

それは、たぶん・・・

彼が、
普段は経営者としての顔を
見せないようにしているからだと思う。

でも・・・ついつい出てしまったのだろう。

彼の本音とも言える苦悩が。

あれほど
自由奔放にしている人でも、
周りの人間には、
きちんとルールを守らせている。

いや、守らせなくてはならないのだ。

そうでないと、組織運営は成り立たない。

そのことを、
きっとどこかで痛感したのだろうと思う。


私は、
昔から何かに縛られる事が大嫌いだ。

決められたルールに従って、
決められたやり方で努力をする。

それが、
嫌で、嫌で、しょうがないから
務める先々で裁量権を欲し・・・

そして、
自ら会社を立ち上げたのである。

もちろん・・・

社長になったからといって、
自由になれるわけではない。

社長である事による自由と、
社長であるが故の不自由とを比べると・・・

圧倒的に、不自由の方が多いと思う。

だが・・・その不自由は、
自分で選択した不自由だ。

誰かに、
決められた不自由ではない。

自ら選んだ自由と、
自ら選んだ不自由。

それを、
何よりも大切にしているという点において・・・

創業社長と芸術家は、
かなり近い精神構造なのだと思う。

ルールは自分で決め、
自分の意志において守る。

そして・・・

時には、
自分で決めたルールを
自分自身で破ってしまう。

それが、
どんなに不便で、不自由だったとしても・・・

それこそが、
自分の存在価値なのだと信じているからだ。

私もそうだった。

ただひとつ・・・

私自身、経営者には向かないと、
今でも痛切に感じていること・・・

それは・・・

自分以外の人間をも、
枠にはめるのが嫌いな事である。

私は、
自分がやりたくないと思うことを
他人にやらせる事ができない。

「自分はルールを破るけれども、社員はルールを守れ。
 私は社長であるけれども、諸君は社長ではなく社員なのだ」

その一言が言えなかった。

そして・・・今も・・・

きっと、言えないだろう。


自分が守る必要のないルールでも、
社員には、守らせなくてはならない。

それは・・・

人として、
どうなのかという問題ではなく・・・

社長として、
果たさなくてはならない責務なのだと思う。

そもそも・・・

経営者と社員とは、
最初から異なるルールで動いている。

そんなことは・・・解っていた。

解っていたのだけれども、できなかった。

「なぜ社長だけが特別なのですか?」

・・・と社員から聞かれた事は一度もない。

ただ・・・自分自身が、
その問いに対する答えを持っていなかっただけだ。

経営者と、
社員とに分かれるのではなく、
みんなで経営する会社。

ルールは、
自分たちで決めて、自分たちで守る。

それで成り立つ会社が、
理想なのだと確信していた。

だがそれは・・・

社会にとっての理想でも、
社員にとっての理想でもなく・・・

ただ、私にとっての理想でしかなかった。

企業家は、
理想と現実の、
両方を持ち合わせていなくてはならない。

私の経営者人生は、
それを確信するに十分な長さだろう。

自分は・・・

やはり社長には向いていないのだと思う。

誰にも縛られたくないし、
誰も縛りたくない。

それは・・・

芸術家には許されても、
社長には許されない・・・わがままなのである。

さて・・・

理想と現実と・・・

そして、残り15年ほどを
新たな継続性を・・・

見出そうとしている、今日此頃なのである。



BIGな台風が二連発・・・(・_・;)

皆さん、おかわりありませんか・・・

被害に遭われた方・・・謹んでお見舞い申し上げます。

さて・・・

人は経験することによって、
出来ることが増えていく。

一人で買い物に行けるようになったり・・・

電車に乗れるようになったり。

あるいは・・・

料理や後片付け、
洗濯物なんかも出来るようになる。

経験することによって、
出来なかったことが出来ることへと変わり・・・

その・・・積み重ねによって、
一人前の人間に育っていくのだ。

だが、その反面・・・

人は経験することによって・・・

出来ないことも増えていく。

例えば・・・

恥ずかしい経験をすることによって、
人前で大きな声が出せなくなったり・・・

木から落ちて怖い思いをすることによって・・・

高いところに登れなくなったりもする。

そう考えると・・・

経験というのは、
出来ないものが出来るようになるために
必要なプロセスであると同時に・・・

出来たことが、
出来なくなるきっかけを作り出している要因だとも言える。

・・・(・_・;)

人は経験することによって出来るようになり・・・

経験することによって出来なくなるのだ。

考えてみれば・・・当たり前のことなのだが・・・

この当たり前のことを理解していないがために、人間は・・・

本来持っている能力の
何十分の一しか発揮できずに終わってしまうのだ。


痛い思いをすることによって・・・

次から危険なことをしなくなる。

これは、
一般的に学習と呼ばれている。

脳が学習することによって、
似たような危険を回避するようになるのだ。

熱い鍋に触らなくなったり、
蜂を素手で捕まえなくなったりするのである。

もちろん・・・

この脳みそによる学習は
生きていく上で必要不可欠なものである。

何回も、何回も、同じ過ちを繰り返していたら・・・

命がいくつあっても足りないし・・・

成人する頃には、
全身傷だらけになってしまうだろう。

だから・・・

この仕組みは、
生きていくために必要なものなのだ。

必要ではある。

だが、それに盲目的に従ってはならない。

人は、知らず知らずのうちに・・・

自らの脳みそによって、
間違ったジャッジを下されているのだ・・・
ということを知るべきだ。

脳学者によると、
脳みそは楽をするように出来ているという。

同じことを何回も考えなくてもいいように・・・

「これは前に考えたことだから答えは同じ」

・・・というジャッジを下してしまうのだ。

だから・・・

怖そうな顔の人を見ると危険を感じるのである。

(^^)ww

もちろん・・・

顔が恐いからといって、
いきなり人を殴ってくるわけではない。

だが・・・

過去に経験した怖い出来事によって、
その善良かもしれない怖い顔のおじさんは
危険人物の烙印を押されてしまうのである。

(^_^;)


私は潜在的な脳みそのジャッジを
すべてにおいて否定しているわけではない。

怖い顔のオヤジには、
近づかないほうが無難だとも思う。

だが・・・

私たちは、
その脳みそのジャッジによって、
かなりの束縛を受けているのだ・・・
ということを自覚しなくてはならない。

それは・・・

自分自身の限りない可能性を・・・

狭めている最大の敵でもあるのだ。

似たような経験に関して、
脳みそはいちいち考えなくなる。

ということは・・・

私たちは、
生きていろんな経験をしていく中で・・・

知らず知らずのうちに、
本当は正しくないかもしれない判断基準を
脳みその中に作り上げているのだ。

本当のことを言うと・・・

過去の経験と、
これから未来に起こることには・・・

関連性など、ほとんどない。

過去に失敗したから・・・

また失敗するとは限らない。

過去に上手くいったから・・・

今度も上手くいくとは限らない。

だが・・・

私たちは、
その当たり前の事実を
脳みそによってかき消されている。

やっても意味がない・・・

やるだけ無駄・・・

どうせ上手くいかない。

・・・そういうジャッッジを
自分の意志で下していると勘違いしている。

本当は・・・

経験という自らの記憶に
束縛されてしまっているだけなのだ。

まだ、何も経験していなかった頃の自分。

その時に持っていた可能性。

本当は・・・

今でも、
同じだけの可能性をみんな持っているのだ。

ただ・・・

「そんなところに可能性はない」

・・・という脳からのメッセージに・・・

私たちは、
すぐに従ってしまうのである。



台風一過・・・(^^♪

今日は午前荒天・・・
午後は夏の日差し・・・

最近の天候は
振幅が大きくなっているような気がします。

常に構えていないといけませんね(^_^;)

さて・・・


人は生きていくために働いている。

生きていくためには、
食べなくてはならないし・・・

着るものや、
住むところも、
手に入れなくてはならない。

だから・・・働くのだ。

働かなくてはならないのだ。

そう信じている人は、おそらく全人類の90%・・・

いや、99%以上はいるだろう。

もちろん・・・

生きていくためだけに、
働いているのではない。

人の役に立つことや・・・

やりがいのある仕事をすることは・・・

自分自身にとっての喜びでもあるからだ。

だが・・・「何のために働くのだ?」

「働かねばならないのだ?」

と・・・いうことを考えるとき、
その第一の理由が「生きていくため」であることに、
異を唱える人はほとんどいないだろう。

それは・・・

最早、
考えるまでもない事実であり・・・

常識とすら呼べない・・・暗黙の了解である。

だが・・・もしも・・・

その前提が、
間違っているとしたらどうだろう。

人は生きていくために、働いているのではないとしたら。

それでも、あなたは・・・

今までと同じように・・・

電車に揺られながら・・・

通勤を続けていくことが出来るだろうか。


もしも・・・

人が、
生きていくために、
働いているのだとしたら・・・

人類の目的は、
とてもシンプルなものになる。

食料を手に入れ・・・

衣服を手に入れ・・・

住むところを手に入れ・・・

その他、
必要なものをどんどん手に入れていく。

おそらく・・・

最初に人間が群れを作った目的は
生きていくためであったに違いない。

みんなで協力し合って、
大きな獲物を捕まえたり・・・

畑を耕したり・・・家を建てたりする。

危険な猛獣にも、
集団でなら対抗できるし・・・

役割分担することよって、
飛躍的に効率を上げることもできただろう。

その当時は、
生きていくことが大変なことであったに違いない。

だから・・・

みんなが生き残っていくために、
群れに属する一人一人は、
一生懸命に働いてきたのである。

では、今の人類も・・・

その延長線上で、
生きていくために働いているのだろうか。

社会全体の食料を増やし・・・

着るものを増やし・・・

安全な生活を確保するために。

そのために私たちは・・・

日々満員電車に揺られながら通勤しているのだろうか???


最早、人類の持つ生産力は・・・

「人が生きていくために」

と・・・いうラインを遥かに超えているのだと思う。


世界中の人々が、
食べていけるだけの食料も・・・

衣料も・・・

その他、
必要な生活物資も・・・

私たちは、既に手に入れている。


ただ、それらがすべての人々の手に、
行き渡っていないだけだ。

生きていくことが、
目的であるとしたら・・・

なぜ?このような事態になってしまったのだろう。


自分だけが、
豊かであればいいという・・・

一部の傲慢な独裁者のせいなのだろうか。

では・・・世界が善人で満たされたら・・・

私たちは、
もう生きていくために働かなくてもいいのだろうか。


もっと次元の違う、
やりがいや生き甲斐のためだけに、
働ける日はくるのだろうか。


企業と企業の競争を見ていると、
不思議に思うことがある。

それは・・・

一体、何のために・・・誰のために・・・

競争しているのだろうか、ということだ。


企業同士が、
しのぎを削り・・・いい商品を作って・・・

安い価格でマーケットに提供していく。


それはまさに・・・

人類全体を
豊かにするための方法論のようにも見える。

だが・・・果たして、そうだろうか・・・


コストを抑え・・・

無駄をなくし・・・

少しでも良い商品を・・・

少しでも安い価格で・・・提供する。

無駄をなくして、
効率化を図るのであれば・・・

確かに、
人類の豊かさに繋がるだろう。

だが、企業の競争は、これでは終わらない。


これ以上は、
コストを下げられないというところまで来ると・・・

今度は、自分たちの利益を削りだす。

そのために、
人件費を削り・・・非正規雇用を増やす。

生産性を高めるためではなく・・・競争するために、競争し続けるのだ。

私達は、いったい何と戦っているのだろう・・・


競争し続けた結果、
誰もが利益を出せない状態。

それが、
私達の目指す姿なのか・・・

そのために、
毎日あくせくと働いているのだろうか。



人は・・・最早・・・生きていくために働いているのではないと思う。

人は・・・競争するために、働いているのだ。

その競争の先に・・・

何があるのか?ということなど・・・考えもしないで。



暑さ寒さも彼岸まで・・・(^^♪
今年は早々に過ごし易くて助かります。

とは言え、集中豪雨や地震などなど・・・
安閑としていられないなあと感じる今日此頃です。

さてさて・・・

この世の中にある貯金の合計と借金の合計と、
いったいどちらが多いのだろう。

私の懐収支は真っ赤ですが・・・(・_・;)

世の皆様の懐を
予想させて頂くならば・・・

おそらく・・・

貯金は借金の10倍・・・

いや・・・100倍くらいはあるのではないかと思う。

なぜか!!

その話をする前に・・・

まずもって貯金とは何なのか・・・

借金とは何なのか・・・

そのことについて、考えてみたい。

貯金は、どうやったら生まれるか。

貯金の公式はこうだ。

稼いだお金-使ったお金=貯金。

もちろん!

稼いだ金よりも、
使ってしまったら貯金は残らない。

稼いだけれども、
使わなかったお金、それが貯金である。

では、貯金とは何か。

それは・・・

働かなくても、生活できる権利である。

食事を食べたり、
服を買ったり、旅行に行ったり。

働かざる者、
食うべからずという諺があるが・・・

働かなくても、
食べられる権利が貯金だと言ってもいい。

それは・・・

自分が必要とする以上に働いた、
御褒美みたいなものだ。

一日300グラムの米があれば生きていけるのに、
頑張って600グラムの米を作った。

だから、
一日働かなくても食べていけるのである。

反対に・・・

借金というのは、
必要な分のお金を稼げなかった、
あるいは、
稼いだ以上に使ってしまった結果生まれるものだろう。

借金というのは・・・言い換えれば、
何も見返りを受け取らずに働かなくてはならない、
義務のようなものだ。

300グラム必要なのに、
200グラムしか作れなかった。

だから・・・100グラム分は、
いつか無給で働かなくてはならないのである。

では・・・当初の話に戻ろう。

貯金の総額と借金の総額と、どちらが多いのか???

正確な数値を調べることは出来ないし・・・

調べたところで・・・

その数字が、
本当なのかどうかも分からないので、
ここは論理的に考えてみたいと思う。

私が
貯金の方が多いと考える理由・・・それはこうだ。

まず・・・

借金というものには、必ず相手がいる。

無人島で、借金をすることは出来ない。

300グラムなければ生きていけないから、
誰かに100グラム借りる。

これを借金というのである。

つまり・・・

この世の中に、
借金を作り出すためには・・・

それと同じだけの貸金が必要になる。

借金の方が多いということは・・・

貸した人がいないのに、
借金があるということになり、
矛盾してしまう。

一方・・・

貯金はどうかというと、
これは自分一人でも出来る。

貯金をするのに、相手は必要ないので・・・

無人島でも、貯金をすることは出来る。

今日、
必要な以上に米を作っておけば、
明日は働かなくてもいいからだ。

だから・・・

世界中の人間が、
一人残らず借金を抱えることは出来ないが・・・

一人残らず貯金を蓄えることは出来る。

全員が、
働いた以上に使わなければ、
それでいいのだから
論理的には可能である。

ところで・・・

貯金というのは、
実際には米で蓄えられてはいない。

お金で蓄えられている。

今日、
必要なお金よりも、1,000円分、余分に働けば・・・

1,000円の貯金が残る。

それは・・・

1,000円分、
誰かに働かせることが出来る権利なのだ。

1,000円払って、
食事を作ってもらったり・・・

肩をもんでもらったり・・・

掃除をしてもらったり・・・

要するに・・・他人を働かせる権利である。

お金持ちが、
働かなくても生きていけるのは・・・

それだけの権利を持っているからだ。

借金がある人は、
どんなに嫌でも働かざるを得ない。(^_^;)

借金の分だけ、
誰かのために働かなくてはならない義務を背負っているからだ。


ここで問題にぶちあたる。


世の中の貯金が、
借金よりも多いとしたら・・・

その権利は、
果たして行使出来るのだろうか。

全員が、貯金を持っている。

全員が、
他人を働かせる権利を持っている。

だが・・・

働かなくてはならない義務を背負った人間がいない。

若しくは・・・その数が圧倒的に足りない。

この世の中の貯金の90%ぐらいは、
本当は使えない貯金なのではないだろうか・・・

恐ろしいことだが・・・

私達は、
行使できない権利を得るために・・・

毎日、こつこつと働いているのかもしれない。

積み立てた年金が、消えてなくなるように・・・

私たちの貯金も、
消えてなくなる日が来るかもしれない・・・



蒸し暑いですね・・・
こんな日は、何故か昔の記憶を刺激します。(^_^;)

さて・・・

SONYは・・・トランジスタラジオ
→トリニトロンTV→ウォークマンという順番で、
新製品を世に送り出した。

任天堂はゲームボーイ→ファミコン→DS→Wii。

アップルはパソコン→iPod→iPhone→iPad。

発明は、
なぜ?このような順番でなされたのだろう・・・


すべての発明は、
技術の上に成り立っている。

そういう意味では・・・

まず技術が確立され、その技術によって、
新しい製品が、
世に送り出されるということになる。

つまり・・・

技術革新の順番が
発明品の順番を決定づけている!?!ということだ。

では・・・技術は、
どういう順番で確立されていくのだろうか・・・

簡単な技術→難しい技術という順番だろうか。

例えば・・・

新薬の発明を考えてみる。

新薬は、
発明しやすいものから
作られているのだろうか。

いや違う。

薬は・・・
必要とされるものから順に作られているはずだ。

たくさんの人間が、必要としている薬。

必要としている人間の数が、
多ければ多いほど、
莫大な収益をもたらす。

それが・・・製薬ビジネスなのだ。

だから当然・・・

発明される薬の順番には、経営の意図が絡んでくる。

たまたま・・・

新しい技術が確立され、
その技術によって新しい製品が作られる。

もちろん、
そういう例がないわけではないだろう。

だが・・・

ほとんどの技術は、偶然ではなく・・・

人間の意思によって生み出されたはずだ。

こういうことがしたい、このようになりたい。

まず初めに意思があり、
その意思が技術へと繋がっていく。


技術革新や新商品の開発。

その裏には、
強烈な人間の意思がある。

もしもそうだとしたら・・・

人類の発明には、
何らかの順番があるはずだ。

大いなる意思に基づいた順番が・・・


では・・・その大いなる意思とは何なのか。

私たちは、
何を求めて次々と技術を生み出し続けるのだろう。

私の仮説は・・・

人間は、つながりを求めている。

その理由は、解らない。

寂しいからかもしれないし・・・

便利だからかもしれない・・・

人は、会話によってつながり・・・

電話によって繋がり・・・

公共の電波によって繋がり・・・

今や、
インターネットによって繋がっている。


つながりは・・・

どんどん強くなり、早くなり、大きくなる。


その・・・目指すところは何なのだろうか・・・


それは・・・

きっと、
究極のコミュニケーションではないだろうか。

100%のコミュニケーション。

誤解も・・・

曲解も・・・

難解もない・・・

伝えたいことが100%伝わる世界。

人類は・・・

そこを目指して、
発明を続けているように私には見える。


人間は言葉を生み出した。

その発明によって、
犬や猫では伝えることが出来ない、
複雑な情報を伝えられるようになった。

車の組み立て方とか・・・

社会のルールとか・・・

携帯電話の使い方とか・・・

「ワン」とか「にゃん」とかで、伝えることはできない。


だが・・・人間にはそれが出来る。

我々は、
言葉や、文字や、映像を駆使して・・・

驚くほど、
膨大な情報を共有することが出来る。

だが・・・それと引き換えに・・・

ものすごく重要なものを、
失ったのではないかとも思う。

それは・・・コミュニケーションの質だ。

動物たちは、
複雑なコミュニケーションの手段を持たない。

だから・・・

伝えられる情報も限られている。

その代わりに・・・

コミュニケーション障害を起こすことがない。

誤解されたり・・・

曲解されたり・・・

先入観をもたれたり・・・することがなく、
100%の意思疎通ができている。


人は、言葉を生み出した。

それによって・・・伝わらなくなった。

複雑なことを伝えるために・・・

言語はどんどん複雑化し・・・

地域ごとの言葉・・・

業界ごとの言葉・・・

立場ごとの言葉・・・

その他・・・etc

たくさんの言葉を生み出した。

そして・・・

言葉には壁がある。

その壁によって・・・

私たちは・・・100%のコミュニケーションを阻害されているのだ。


人と人が、究極的に繋がり合うこと。

人類は、
そこを目ざして技術革新を
繰り返しているのではないだろうか!?!

もしもいつの日か・・・

人間同士のコミュニケーションが、
100%になったとしたら・・・

そのとき人類は・・・

かつてない平和を、
手に入れることができるのだろうか・・・

それとも・・・



努力は報われない。

そんな身も蓋もないことを言ったことがある。

私はそもそも、
努力というものが子供の頃から大嫌いだった。

いや・・・

正確には
努力が嫌いだったのではなく・・・

努力と定義されているものが、
嫌いだったのだ。

年表を覚えたり・・・

数式を早く解いたりして・・・

テストの点を
100に近づけること。

そういうことを・・・学校では努力と言う。

今から考えても、息が詰まりそうだ。


自分が好きな努力であれば、
私だってよろこんでやったと思う。

例えば・・・

クワガタムシを観察したり・・・

山に行って土器や化石を採集したり・・・

サッカーしたり・・・

面白い物語を読んだり・・・

そういうことならば、
何時間でも出来たと思う。

だが・・・残念ながら、
そういうことを学校では、努力とは言わない。

決められた努力をすること。

それが努力なのだ。


人に何かを一方的に決められることが嫌だった私は、
結果的に・・・
学校での努力(と言われているもの)を全然やらなかった。

だが・・・

それが原因で「努力は報われない」などと・・・

ひねくれて言っているわけではない。

私だって、努力そのものが嫌いな訳ではないのだ。

ただ残念なことに・・・

世の中には、
報われない努力が多すぎる。

それが事実だ。

その原因が、
どこにあるのかを考えてみたい。


私は・・・性格がひねくれていたので、
他人に押し付けられる努力が大嫌いだった。

だから・・・

常に、
自己流の努力というものを考えていた。

例えば・・・

歴史の年代暗記が嫌いだったので、
年表マシンというものをつくることにした。
箱の中に年表が収まっていて、
くるくるとそれをまわしながら歴史を覚えるのである。

私はこの道具をつくるために6ヶ月を費やし、
結果的にひとつの年号も覚えることが出来なかった。

あるいはゴルフをやり出したときにも、
決められたメニューをこなすことが嫌で
自己流の練習ばかりをやっていた。

結果的に・・・

全くゴルフがうまくならなかったことは言うまでもない。

私のような人間を、
要領の悪い馬鹿な人間というのだ。

ある、京大出身の友人に聞いたことがある。

彼は中学のときに、
先生からこう言われたそうだ。

「もしもいい大学に行きたいのなら、
 何のために勉強するのか
 ということは受験が終わるまで一切考えるな」と。

その教えを守って、
彼は見事に京大に合格したわけだ。

余計なことを考えずに、
言われたことに全力を尽くす。

そんな盲目的な努力のおかげで、
成功した人はたくさんいる。

だが一方で、努力が報われずに
悶々とした人生を過ごしている人もいる。

こういう努力をするべきだ。

そんな風に、
盲目的に信じられている努力は、たくさんある。

いい成績を取ること。

一流の学校に入ること。

有名企業に就職すること。

資格をたくさん取ること。

英語が話せること。

・・・他にもたくさんある。

もちろん私も、
これらがすべて無駄な努力だとは思わない。

だが・・・その中には
残念ながら無駄に終わってしまう努力もたくさんある。

その最大の原因は、
努力をするための目的設定ではないだろうか。

何のためにその努力をするのか。

それを考えずに
いきなり努力してしまう人が多すぎる。

「何のために勉強するのか」

を考えていたらいい学校には入れない。

そんなことを考えている暇があったら
目の前の努力に全力を尽くすべきだ。

この理屈は、受験においては正しいと思う。

ゴールがひとつだからだ。

だが・・・社会では事情が異なる。


努力することが
目的になってしまった結果・・・

俺はこんなに努力しているのに・・・

私はこんなにも一生懸命働いているのに・・・報われない。

というような結果に行き着いてしまう。

社会では、
盲目的に頑張ってはならない。

私は、そう結論づけている。


なぜならば・・・

社会が自分に求めているゴールと・・・

自分自身が求めているゴールとは別物だからだ。


一生懸命働いて・・・
たくさんの利益をもたらし・・・
少ない給料で文句も言わず働いてくれる社員。

あるいは・・・

たくさんの税金を納めながらも・・・
国には一切の見返りを求めない国民。

そういうものを、社会は求めているのだ。

社会の求めに応じて、
生きていきたいのならば ・・・

社会の求める努力をすればいい。


だが・・・

自分のために生きていきたいと思うなら・・・

何が・・・
自分のための努力なのか・・・
ということを・・・

努力を始める前に、考えなくてはならない。




秋ですかねえ・・・ですね(^^)ww

まだ少し残暑は残るんでしょうが、秋の気配がそこかしこに・・・

肴が旨い(^^)ww  もちろん・・・日本酒も(^^)Good!

さて・・・

今から2400年も前に・・・

アリストテレスは・・・

「人間は社会的動物である」と看破しました。

例えば・・・

物心つく前から、
無人島に放り出されて一人で育った人間は、
人間と言えるのだろうか・・・

我々と同じ種類の
生き物であるという意味では、
間違いなく人間でしょう。

ですが・・・

明らかに
我々とは違う存在、
違う生き物になっているだろうと思われます。

人間というのは、
人間社会の中で育ち、
その中で役割を与えられ、
社会と関わりつづけることによって、
存在しているのだから・・・


社会とは・・・


家庭であり、
学校であり、
友人であり、
会社であり、
国家であり、
関わる人間すべてである。

よって・・・

人間は、
人間と関わることによって「人間」になる。

一人では
「人間」には、成れない。

したがって・・・

人間は、社会的動物なのだ。


社会という組織を作り上げることによって・・・

人間は
地球上の生物の頂点に立つことができた。


どんなに力が強くても、
一人では野生の動物には勝てない。

どんなに頭が良くても、
一人でロケットは飛ばせない。

どんなに手先が起用でも、
一人で車を組み立てることはできない。

人間は・・・

社会を創り・・・

役割を分担し・・・

得意な能力を
最大限発揮し合うことによって・・・

恐るべき力を手に入れたのだ。


社会から孤立してしまった人間など・・・

ただの弱っちい、
ひねくれた生き物に過ぎない(^_^;)


迷子の人間は、あっという間に・・・

他の生き物の餌食になってしまうことだろう。


それゆえに・・・

人間は
社会から孤立することを恐れる。
社会で認められることを求める。


アルプスの少女ハイジに出てくるおじいさん「オンジ」は・・・

山でずっと一人暮らしをする変わり者だ。

だが・・・そのオンジでさえも、
ペーターや村人がいなければ、
生きていくことが出来ない。

それが
人間という生き物なのだ。

だから・・・

我々は・・・

物心ついたときから・・・

人の評価を気にして生きている。

親の評価・・・

友達の評価・・・

先生の評価・・・

同僚の評価・・・

上司の評価・・・

近所の人たちの評価・・・


そういうものを意識せずには、
いられない。

それは・・・

我々人間が、
力と引き換えに背負わされた宿命なのだ。

John Lennonが一人称の歌に託したように・・・

私自身、この宿命が
鬱陶しくて仕方がないと感じることがある。

いや・・・物心ついた頃から、
ずっと、そう思って生きてきたんだと思う。

学校など、行かなくてもいい。

友達も、1人いればいい。

仕事では、誰にも面倒なことを言われず、嫌いなことは一切しない。

知らない人には挨拶せず、愛想笑いもしない。

好きなときに寝て、
好きなときに起きて、
読みたいだけマンガを読み、
見たいだけテレビを見る。

食べたいものを、
食べたいときに、
食べたいだけ食べ・・・

寂しいときには・・・

彼女と会い、
寂しくないときには一人でいたい。

だが・・・そんなことは、もちろん許されない。

我々は、社会的動物なのだ。


学校には
行かなくてはならないし・・・

友達には
さらなる友達がいる。


知らない人には挨拶し・・・

楽しくもないのに笑い・・・

気に入らないことも我慢し・・・

嫌いな食べ物でも、
もったいないから残さずに食べ・・・

会いたいときでも、
相手が急がしければ我慢し・・・

一人でいたくても、
相手が望めば会って楽しく話をする。

それが・・・

人と関わって生きていくということなのだ。


社会は、
その効率を最大化するために、
ルールによって動かされている。

それは・・・

法律であったり・・・

校則や社則であったり・・・

友達同士や夫婦間の決めごとだったりもする。

そのルールを無視すると・・・

その社会から、
はじき出されてしまう決まりなのだ。


友達とのルールを破ったら、友達の輪から追放される。

夫婦の約束を破ったら、家庭から追い出される。

社則を破ったらクビになり・・・

法律を破ったら牢屋に放り込まれる。


それが社会のルール。


社会を
成り立たせるためのルールなのだ。

では・・・そのルールとは、
どこにあるのか?

六法全書の中か。

あるいは・・・

生徒手帳や社則が書かれた冊子の中か。

いや、違う。

ルールは
人間の頭の中にあるのだ。

人間の脳みそ。

その中の記憶。

それこそがルールなのだ。


もしも・・・あるとき・・・


人間の記憶が
ひとつ残らず消去されたら、
どうなるだろう。


能力は、そのままだが、
記憶だけが一切ない状態。

そうなったら、
昨日までのしがらみはゼロになる。

恨みも・・・

愛情も・・・

友情も・・・

貯金も、借金も、犯罪も・・・

すべては・・・無くなってしまう。


六法全書に書かれていることは、
古い予言書の意味しか持たず・・・

誰が、
どの家に住んでいて・・・

どの人と、
どういう関わりを持っているかも解らない。

つまり・・・社会とは、人間の記憶なのだ。


人間は、記憶的動物である。

記憶によって成り立ち・・・

記憶によって役割を与えられ・・・

記憶によって喜び、苦しめられる。

そのすべては・・・

現在生きている人間の
脳みその中にだけ、存在している。


すべての人間が記憶をなくすとき・・・

人間社会は消滅するのである。