台風一過・・・暑いですね(^^)v

風があるので、日陰ならなんとか・・・

って感じですが・・・如何お過ごしでしょうか・・・

さて・・・お盆前、賃金決裁も終わり、
ココぞとばかりに更新します。


TPOって、ありますよね。(^^)ww

Time(時間)

Place(場所)

Occasion(場合)


要するに・・・

「時と場所と置かれた状況によって、
 どう対応するのか考えましょうね」ということです。

人に迷惑をかけないように・・・

その場のルールに反しないように・・・

和をもって尊しとするのです。ww

静かなバーでは大声を出さないとか・・・

高級なフランスレストランや
ゴルフ場ではジャケットを羽織るとか・・・

電車の中では、携帯電話に出ないとか。


では反対に・・・

こういうのはどうでしょう。

例えば・・・

仲間同士で
他人の悪口を言って盛り上がっているときに・・・

「私は人の悪口は絶対に言わない」

なんて言って・・・その場をシラケさせてしまう。

あるいは・・・

不良同士で
コンビニの前などでたむろしているときに・・・

「こんなところに座っていたらみんなに迷惑だ」

などと・・・正論をはいて仲間から煙たがられるとか。


こういうのも、TPOに反するというのでしょうか!?!


TPOというのは・・・

常識やマナー、ルールというものとはちょっと違う。

その場にいる人間が作り出している空気・・・

あるいは、
その場の状況が醸し出す雰囲気・・・

そういうものを壊さないようにしようね、という
暗黙の了解みたいなものではないかと思うのです。

だから・・・

マナーに反するTPOみたいなものも
本当は、あるんじゃないでしょうか。

例えば・・・

エスカレーターに乗るときには、左端に立つ。

・・・という暗黙の了解があります。


右側は、
急いでいる人のために空けておかなくてはならない。

でも・・・本当は、
エスカレーターでは歩行は禁止なわけです。

手すりにつかまって、
じっと立っていなくてはならないのです。

だけど・・・都会ではそんなルールよりも、
都会人同士の常識の方が優先されます。

これも、
TPOというものではないでしょうか。


私は・・・

街を歩いていて、
歩く速度にもTPOがあるよな・・・

と、いつも思うのです。

例えば・・・

自分が急いでいるときに、
とろとろと歩く集団なんかが前にいると・・・

とっても、凄く、かなり、イライラします。

反対に・・・

自分が、
ユックリと散歩している時に・・・

それを押しのけるようにして
スゴイ速度で歩いて行く人がいたりすると・・・

そのうえ、通り過ぎるときに・・・

「トロトロ歩いてんじゃねーよ、このタコ!」

・・・みたいな目で見られると・・・

それはそれで、
かなり、凄く、とっても、腹立たしいものです。



要するに・・・


人間は、自分勝手なのです。

自分に余裕のあるときには
ゆっくりと景色などを楽しみながら歩きたい。

自分が急いでいるときには、邪魔されたくない。

でも、本当のことを言うと・・・

歩く速度にも、
その場に求められる、
TPOみたいなものが、あるはずなのです。


自分が、
今いる時間と、場所と、状況を考えて・・・

それに、ふさわしい速度で歩くこと。

これは、とても重要なことではないかと思うのです。


桜が満開に咲く小道や・・・

クリスマスのイルミネーションが包み込む散歩道。


そういうところは、ユックリと歩くものです。

いくら仕事で急いでいるとか・・・

待ち合わせに遅刻しそうだとか・・・

クリスマスには興味がないとか・・・言っても駄目なのです。


その場所には、
その場所に、ふさわしい歩き方というものがある。

だから・・・そのTPOに合わせて、歩かなくてはならない。


反対に・・・

朝の通勤ラッシュの駅中で、
俳句など読んでいたら、どうですか!?!ww

急ぎ足のサラリーマンを尻目に・・・

「急いでも 地球の自転は 超えられない(字余り)」

・・・などと言いながら、
トロトロと歩いていようものなら・・・

それはもう、
突き飛ばされて、踏みつけられても・・・文句は言えません。


歩くスピードには、TPOというものがあるのです。

だから・・・腹を立てる前に・・・

まずは、その場の歩くスピードTPOというものを
考えないといけません。


そして、それは・・・

生きるスピードに関しても、同じだと思うのです。


歩くスピードと・・・

生きるスピード・・・

どちらにもTPOはあります。


置かれた時代と場所、状況によって・・・生きる速度は変わる。


どんなに、焦っていても・・・

どんなに、ユックリしたくても・・・

そのTPOが、求めるスピードから、人間は逃れることができない。


TPOに合わせて歩き・・・

TPOに合わせて生きる。

それが・・・社会で生きるということなのでは・・・ないでしょうか。



自宅から出掛けに、3日連続富士山が見えました。

夏には、とっても珍しいことです。(^^)ww

さて・・・お暑い中、暑苦しいネタで恐縮です。



もしも・・・

地球上にある企業のすべてが黒字になったら、
それは、何を意味するのだろう。

いや・・・そもそも・・・

そんなことは、可能なのだろうか・・・


会計的に考えれば、
売上総利益以下の販管費で経費を押さえれば
企業は黒字になるのであり・・・

理論上は、
すべての企業で黒字を実現することは、
不可能ではない気がする・・・


要するに・・・

稼いだ以上に使わなければいいのだ。



一方・・・

企業同士が
マーケットを奪い合っているという事実から考えれば・・・

すべての企業が
黒字になることは、チョット考えにくい。

マーケットは、
奪い合うものではなく、創造し合うものだという
理想は素晴らしいとは思うのだが・・・

実際には・・・

ほとんどのマーケットにおいて・・・

企業は、その利益を奪い合っている。


すべての企業が、
勝ち組になることなど考えられないのではないか・・・


いや・・・しかし、こうも考えられる。

世界中の企業の決算を合計して、
もしも黒字になるのであれば・・・

それを、
程よく分配すれば、すべての企業が黒字になるはずだ。

可能性としては・・・

限りなく低いものの、
すべての企業が黒字になる確率はゼロではないだろう。


 
同様に・・・

すべての人が貯金を持っていて、
借金が無いという状態も可能ではないだろうか・・・


企業同様、
稼いだ以上に使わなければ貯金は残る。

もちろん・・・

すべての人々に仕事を分配し・・・

すべての人々が稼いだ以上にお金を使わない・・・
というのは、簡単なことではない。

いや、ほとんど不可能だろう。

だが、不可能ではない。

理屈上は、成り立つはずだ。


人類が稼ぎ出したお金の合計・・・

それ以下の金額で、
人類が生活すれば人類は黒字になる。

その黒字を等分に分配すれば・・・

人間は、
みんな無借金の貯金持ちになるはずだ。


もしもそうなったら、世界はどうなるのだろう。


黒字の企業と貯蓄のある人間しか、
世界に存在しなくなったら・・・


人類はHAPPY!になれるのだろうか!?!


ハッピーかどうか、
それは、そうなってみなければ解らないのだが・・・


ひとつ疑問に思うことがある。


それは・・・

そもそも、
人類全体に貯金ができるということについてだ。

例えば・・・

人類のすべてが、
借金を持つということは可能なのか?

前述の理屈から言えば、それは可能なはずだ。

人類全体で稼いだ以上に使い、
出来た借金を等分に分ければいい。

だが・・・疑問が残る。

その借金は、
いったい誰に借りている借金なのだろう???

人間は、
人間以外には借金することが出来ない。

牛や馬にも、犬や猫にも、宇宙人にも、借金することは出来ない。

だから・・・

人類全体に借金があることなど、不可能なのだ。


・・・であるならば・・・


人類のすべてが、
貯金を持つことも不可能ではないのか!?!


 
人は、人からしか借金できない。

だから・・・

借りている人が、いるということは・・・

必ず、貸している人も、いるということになる。


だが、貯金は違う。


貯金は、自分だけで完結する。

自分が、
稼いだ以上に使わなければ、それでいいからだ。

だから・・・

人類全体が借金まみれになることはなくても、
人類全体が貯蓄だらけになることはあり得ると思う。


その場合・・・

その貯蓄は、どんな意味を持つのだろう。

人類全体の、余力ということになるのだろうか。

もしも、そうだとしたら・・・

人類は貯蓄の分だけ、
何もしなくても、食べていけるということになる。

だが・・・

その食料を作り出すのは誰だろう。

それは、
やはり人間でしかないはずだ。

そこに大いなる矛盾がある。


企業の貯蓄と、個人の貯蓄。


種類は違うが、
その意味するところは同じである。

余力だ。

必要以上に稼いだ結果・・・

それから先、働かなくても、
何かを手にすることが出来る権利、とも言い換えられる。

一年間暮らせるお金があれば
一年間働かなくても生きていける権利があるということだ。

では・・・この権利をすべての企業、
すべての人間が手に入れたらどうなるのか?

どうにも、ならないんだろう・・・

なぜならば・・・

その権利を行使する相手がいなくなるからだ。

人類の貯蓄は、
人類に対してしか行使できない権利なのだ。

だから・・・

そうなってしまったら・・・


その権利には、何の意味もなくなってしまう。

つまり・・・

人類全体の貯蓄は、
人類の余力にはならないということだ。

もちろん・・・

食料や衣料、建築物などは、人類全体の財産として残る。

だが、人類全体の金融資産には意味がない。

それは・・・決して使うことの出来ない権利なのだ。

だが、その権利は実在する。

で、あるならば・・・

これを、
人類はどう処理していくのだろう・・・


暑いのに暑苦しい文章で失礼しましたm(__)m





暑いですね・・・(^_^;)

今年はエルニーニョで冷夏になるって・・・

誰かが行っていたような・・・嘘つき(^^)ww

さて・・・

 
なくてもいい仕事となくてはならない仕事。

その境界線を引くことはかなり難しい。

お医者さんや警察官のように、社会に不可欠な仕事もあるし・・・

歌手やスポーツ選手、おいしい料理を作るコックさんみたいに
楽しく生きるためになくてはならない仕事もある。

清掃業者やクリーニング屋さんもなくなったら大変不便だし・・・

ユニクロや吉野家のように生活インフラとして
必要不可欠になっている仕事もある。

では・・・なくてもいい仕事とは何か???


ドロボーや詐欺師のような仕事は、なくなった方がいいだろう。

だが・・・(・_・;)

それは、そもそも仕事と呼べるものなのだろうか!?!


仕事の定義を

「誰かの役に立ってその見返りとして、お金を受け取る行為」

・・・とするならば・・・

なくなってもいい仕事など、世の中にはひとつもないような気もする。


では・・・

やりたい仕事と、やりたくない仕事の境界線は、どうだろう。

これは、人によって違うので・・・

誰から見ても明確な線で区切ることは難しいだろう。

例えば・・・

私は掃除と洗濯が大嫌いだが、料理は好きだ。

反対に・・・

掃除と洗濯が大好きで、料理が嫌いという人だっているだろう。

さらに言えば・・・

私は料理が好きだが、仕事として料理をしたいとは思わない。

(^_^;)・・・ややこしい話なのだ。


では結局・・・

やりたい仕事と、やりたくない仕事・・・

なくてはならない仕事と、なくなってもいい仕事・・・

そこに境界線などないのだろうか・・・(・_・;)


仕事に優劣をつけるという行為は、
人間としての品格を疑われてしまいそうだが・・・

実際問題として、仕事には優劣がある。

バッシングを受けそうな発言だけれども、それが事実なのだ。

仕事には値段がついている。

どの仕事を選ぶかによって、収入が大きく変わるのはそのためだ。

すべての仕事が、
なくてはならない崇高なものであったとしても・・・

そこに優劣をつけて、
値段を決めるという行為を私たちはしているのだ。


 
もしも・・・

世の中の仕事が、
きれいに四分割されていたとしよう・・・

1.なくてはならない+やりたい仕事

2.なくてはならない+やりたくない仕事

3.なくてもいい+やりたい仕事

4.なくてもいい+やりたくない仕事

どれでも選べるとしたら・・・

当然のことながら、1が一番人気だろう。

二番目は3で、三番目が2、最も人気がないのは4である。

しかしながら・・・

4のような仕事は果たして存在するのだろうか???

必要ない上に、誰もやりたがらない仕事。

そんなものは、存在し得ないような気がする。

3の仕事は、儲からないかもしれないが・・・

自分がやりたいのなら、それでいいような気がする。

問題なのは2の・・・

なくてはならないけれど、誰もやりたがらない仕事だ。

この仕事を、誰かがやらなくてはならない。

そして・・・

実際に、そういう仕事をしている人たちは、たくさんいる。

問題なのは・・・

この人たちの仕事の値段が、決して高くないことなのだ。


例えば、ドライバー。

例えば、ファストフード店員。

例えば・・・・・・


例えば、ビル清掃。

もちろん、この仕事を喜んでやっている人もいるだろう。

だが・・・一般的には、決して人気のある仕事とはいえない。

社員さんが出社するよりも、ずっと早く会社に行き、
自分が汚したわけでもないのに掃除をする。

肉体的にも、精神的にも大変な仕事だ。

・・・にもかかわらず給料は高くない。

私は決して清掃という仕事を軽んじているのではない。

その反対だ。

なぜ?こういう仕事の報酬が低く設定されているのか・・・

それが、不思議でしょうがないのである。


「それが市場経済というものだ」

・・・と言われればもちろんその通り。

他の人間で代わりがきく仕事の報酬は・・・

競争の原理によって下がり続けるのだ。

だが・・・

それも、ずっとは続かないような気がする。

やりたくない仕事をやる人の数が、どんどん減っていくと思うからだ。

その結果・・・

やりたくないけど、なくてはならない仕事の値段が高騰する。


社長よりも、掃除のおばさんの方が高給取りになる時代。

そんな素敵な時代が、早くやってこないものだろうか。

(^^)ww


2014ワールドカップは、ドイツがアルゼンチンを延長戦の末に1-0で破り、
1990年以来となる4度目の優勝で幕を閉じた。

サッカーは監督のスポーツだ。

試合が始まった後は、3人の選手交代しか出来ないが・・・

2010年の南アフリカW杯終了後、原博実技術委員長を中心に監督人事が行われ、
選ばれたのがザッケローニだった。

イタリアの名門クラブを渡り歩き、数々の実績を残し、初めてのナショナルチームとして選んだのが、日本代表。

親日家であり、選手たちにも愛された監督だった。が・・・

なぜ?ザッケローニは国内で退任会見を行わなかったのか・・・

グループリーグ第3戦のコロンビア戦に敗れたのが、日本時間の6月25日のこと。

この結果、日本はブラジルでのW杯を3戦で終えることとなり、
ベースキャンプ地となったイトゥで最後の会見が開かれたのが翌26日のこと。

うまくいかなかったからこそ、本人の言葉でいくつかの原因を話して欲しかった・・・

そうでないと・・・

「惨敗したからさっさとリセットさせようという意図が協会にはあったのではないか」と勘ぐりたくもなる。

サッカー協会は国内のサッカーファミリーから、毎年年貢のように登録料等、少なくないお金を集めている。

それが、オシム事件のように、良くない事には蓋をするようなやり方は如何なものだろうか・・・

ザッケローニ監督はそれまでの掟破り・鶴の一声でない、技術委員会主導の始まりであっただけに残念だ。




2006年の絶望感・・・

2010年の現実を見つめた結果に対しての閉塞感・・・

2014年は、オシムが言った「日本サッカーの日本化」。

そして・・・「自分たちが主導権を握るサッカー」を具現化することだった。

日本人選手が持つ特性(規律、協調性、スピード、テクニック、アジリティーなど)を

前面に押し出したサッカーを・・・「自分たちのサッカー」を具現化し、結果を残すことだった。

就任初戦でアルゼンチンに勝ち、予選も順調に勝ち点を伸ばす。

その中で、必要なチャレンジが不足したのだろうか・・・なぜ、そこまで特定のメンバー固定にこだわるのか。 

「日本のサッカーで世界と互角以上に戦える」ようになりたかった日本は、何か大事なものが不足していた。 
 
それは、南米選手権への不参加だったかもしれない・・・

予選終盤のもたつきによるテスト不足だったかもしれない・・・
 
結果として今大会の敗因は・・・

・特定選手への依存

・選手のテスト不足

・ゲームプランのシュミレーション不足

上記3点に概ね集約されると思っている。


したがって、・・・

・特定の選手に依存しないチーム作り→コンディションや状況をしっかり検討して、むやみに欧州組を招集しない。

・選手層の厚みを増やす→調子のいいものは即時試す。

・相手や状況に応じた戦術的なオプションを増やす。

そうすれば・・・

「日本が“自分たちのサッカー”で世界と互角以上に戦える」ことに近づけるだろう。


私は2014年の敗因をポジティブにとらえている。

それは、2006年の喪失感や絶望とは違い、優勝への長い道のりの一場面だと思うからだ。

今回は残念だったが、
私の生きているうちに優勝をと夢見ている・・・(^^)ww





日本代表が
W杯グループリーグ敗退の現実を突きつけられてから・・・

・・・24時間以上が経った。

グループリーグ突破をかけて戦った日本代表は
序盤から必死にゴールを狙う試合展開をしたものの、
1-4の惨敗に終わってしまい、グループ最下位でブラジルW杯が終了してしまった。

やり切った・・・!?!

そうとはいえない3戦。

しかしながら、
ドイツの時ほどの喪失感は無い。

最後の1戦に関しては、
出し切った結果の惨敗となってしまった感があるが、
W杯3戦を通してやり切った大会ではなかった。


日本代表の敗退は、なぜ起きたのか!?!


初戦・・・そして、ギリシャ戦の日本代表の戦い方と、
最後のコロンビア戦の戦いは明らかに違うものだった。

最後の最後になって日本代表は方向転換し、
勝つためのサッカーを展開した。

コートジボワール戦、そしてギリシャ戦では
日本のサッカーをして勝つことを掲げた結果、
ポゼッションをした上で組織的に崩すサッカーを基本線に戦った。

自分たちのサッカーをすれば勝つことができる。

そう・・・ザッケローニ監督は言ってきたが、
それがまったく世界に通用しない形となってしまったのがこの2戦だった。

ギリシャ戦に関しては、相手が一人退場し、
少ない状況ながら、相手は少ないからこそ引いたサッカーを展開。

引いた相手にどう戦うかというオプションを使うことができず、
苦し紛れに出たパワープレーや、
岡崎の1トップという迷走を生んでしまった。

コロンビア戦は、
序盤から早いプレスを展開し、高い位置で奪おうという意図が見えた。

どんな得点でも良いから得点がほしい。

そういうサッカーだった。

それを初戦からしていたら…???

そう考えてしまう人も少なくないだろう。

W杯に日本のサッカーをしにいったのか・・・

それとも・・・

W杯で勝つために行ったのか・・・

その違いは大きい。


自分たちのサッカーをすることで、必ず世界と戦える。

そう信じてきたその自信。

しかし・・・

現実は、そうではなかった。

ただ、それだけだ。

内田の言葉にもあったように、
世界は遠くはなかったものの、世界はまだまだ広かったのだ。


ザッケローニ監督は選んだ23名の選手たちに、
絶対の自信があるといった。

自分たちのサッカーを
最大限表現できる選手を23名選考したと言ったが・・・

果たしてそうだったのだろうか・・・

毎大会23名全員が出られるわけではないが・・・

今大会は
今までで最大の6名の選手が使われなかった。

まずサイドバックは、
内田・長友以外の選手が交代でも起用されることはなく、
酒井高徳、酒井宏樹、そして伊野波雅彦と
ディフェンダーを3名も、まったく起用しなかった。

怪我を考えての選考ならば、
左右ができて経験のある駒野、
または左右できる酒井高徳一人でも良かったのではないかという
疑問を抱いてしまうほどサイドバック要員を使うことはなかった。

そして・・・

勝つためのひとつの手段として、
速さや高さを求めるような選手を全く選考しなかったのも、
自分たちのサッカーを表現できれば勝てるという慢心からだったと、
この結果では言わざるを得ない。

ここで高さがある選手が・・・

ここで速さでかき回す選手が・・・

そう思わせてしまうような試合をしてしまった。


ここは絶対に勝たなくてはいけないという場面で、
そういったカードが切れないこと、
チームを変える起爆剤を4年間で育てることができなかったことも
敗因のひとつかもしれない。


固定の選手たちを信用し、使い続けた。

その結果・・・

他の選手たちを信じることができずに、
ペースを乱されるのが怖くてカードを切ることができなかったり、
スタメン起用をすることができなかったのではないだろうか・・・

本当に23名の選手たちの選考で、
こういう場面で使おうというビジョンがあったのか・・・

と思わせるような選手の残し方、そして起用方法だったと感じる。



日本のサッカーをする・・・

この言葉は・・・

監督からも・・・

選手たちからも・・・

何度も出ていた言葉ではあるが、
日本のサッカーというのは・・・

そもそも、
どんなサッカーなのか今一度考えたい。

この「日本のサッカー」が指すものは・・・

たった4年で創られたものに過ぎない。


その4年で創られたサッカーを全うすることで
世界のどの相手にも勝てるというのは
間違いだったという結果になってしまった。

自分たちのサッカーを、相手がどこでも曲げずに全うする。

それは
「スタイルを持つ強者のサッカー」だ。

例えば・・・

ブラジルのサッカーやスペインのサッカー、
イタリアのサッカー、ドイツのサッカーなど・・・

それらの国さえもボーダーレス化しつつあると思うが・・・


誰が監督をしても、
その国のサッカーは確立されているものがある。

しかし・・・

日本のサッカーは
ザッケローニ監督のサッカーを4年間行ってきただけであり、
本当の「日本のサッカー」はまだ確立されていない。

アジアでの日本サッカーの立ち位置は、
現在不動というところまでレベルが上がり、
アジアで勝つことは絶対というノルマのようなものとなっている。

そこでは・・・

自分たちのサッカーとして、王者のサッカーが通用するかもしれない。

しかし・・・

世界と戦う上で・・・

自分たちのサッカーを
長い歴史の中で確立してきた各国のサッカーにぶつけるには、
まだ「初心(うぶ)」すぎたのではないだろうか。

自分たちの物差しを・・・

世界の物差しの隣に置いてみたら・・・小さかった。

とてつもなく、小さかった。


W杯前に、それを痛感することができていれば・・・


それはまた、違った結果となっていたのかもしれない。


様々な痕跡から・・・

日本代表における
日本サッカー協会の考え方に一番疑問を感じる。

日本代表はサッカー協会において、
そして日本のサッカービジネスにおいて最高峰であり、
ビジネス的要素が高いのはある程度仕方ないかもしれない。

しかし・・・

いつでも国内で勝てるような相手ばかりと親善試合を行っても
それは強化になっているのだろうか。

代表は招集できる期間も限られており、
現在、日本代表の選手たちの多くが
欧州でプレーしているだけに難しい部分はあるものの、
欧州で短期間のキャンプをした上で世界の強豪と強化試合を行うことが必要だ。

いつでも国内で、
世界ランクがあきらかに下位の国とばかり戦っていたり、
主力を欠いた強国もどき・・・や、
時差ボケ・観光モードの国とのテストマッチでは世界の戦いだけでなく・・・

遠征としての代表チームのあり方や・・・

時差、気候など、すべての面において慣れることは難しい。

ビジネスをすることも大切だが、
日本は強化をしなくても良いほど強くなったわけではない。

日本代表は
まだまだ世界と戦うには足りない部分があるとわかった今・・・

世界の強豪たちと少しでも多く戦い、
世界を肌で感じることが必要なのではないだろうか。


日本が過去に出たW杯の中で、
一番悪い印象として残っているのがドイツ大会だ。

ドイツ大会では、
選手たちの向く方向が違っていたこともあり、
結果として惨敗。

グループリーグ敗退、
そして、チームは空中分解してしまった。

今回は、そのドイツ大会に似た印象を持っている人が多い。

当時を知る選手、
そして関係者たちからは
ドイツ大会のときの状況に良く似ていると話している。

ドイツ大会で起こったことは
二度と繰り返してはいけないと教訓になったはずだ。

しかし・・・

日本サッカー協会は、それを引き起こしてしまった。

感じられたスタメン組や海外組の選手たちのモチベーションと
使われなかった選手たちベンチにいる選手たちのモチベーション。

そのバランスを取る役割の人物がいたのだろうか。

選手たちがどうというわけではなく、
監督の起用方法から、
そういった温度差が出てしまった原因があるのかもしれない。

すべてを出し尽くして負けたのであれば、
悔しくても、
自分たちは足りなかったと受け入れることができるかもしれない。

しかし・・・

初戦、そしてギリシャ戦と勝つための方法の最善を取るよりも
自分たちのサッカーをすることに重点を置き、
プランを一本としたことが最大の残念な部分だったのではないだろうか。

今回の日本代表は、
今までで最強のチームだと言われてきた。

しかし、それは違った。

それが突き付けられた6月25日。

日本のサッカーは、これから、どのように歩むのか・・・

ただし・・・

結果がすべてといわれるが、
W杯は、そこまで歩んだ4年間の歩みの全てが財産だ。

それらが、すべて否定となるのではなく、
敗戦も含めて無理矢理にでも、次につなげなくてはならない。


やったことが通用しなかった。


これが、厳しいながらも結果として残った。

だからこそ・・・これからの日本代表がどう歩むのか!?!

このメンバーで、
このチームで戦うW杯は終わってしまった。

しかし・・・

日本代表は、
これからも選手を変えながら4年間そして8年間、
12年間・・・と戦っていく。

だからこそ・・・

「日本のサッカー」の確立をするために、
サッカー協会が強化の部分でどのような動きを見せるのか。

注目したい。


厳しい現実を受け入れるのにも時間がかかるが、
それもひとつの成長の時間になると信じて。

とは言いつつも・・・

ドイツ大会ほどの喪失感・失望感は無い。

それは・・・

選手たちの「熱」を感じられたから・・・

対戦チームに抗い、
自分たちのサッカーをだそうと感じられたから・・・

ただ、「それ」に勝ちきれなかっただけだから・・・

今の高校生、中学生、小学生のためにも・・・

この経験をしっかりと糧にしたい。


 
失望感の大きいドローだった・・・

ドイツ2006の時とも少し違う・・・


敵陣に人数はそろっていても、足は止まったまま・・・

3人目の動きどころか、パスを引き出す受け手の動きすら少なかった・・・

フィジカルのコンディションにも問題があったのではないか?

そう思わざるを得ないほど、個々の動きは重かった。

パス交換の呼吸も合わず、命綱のコンビネーションも最後まで空回り。

それならば・・・

ドリブルを仕掛ける手もあったはずだが、
大久保以外に独力突破を試みる勇者も見当たらなかった・・・

終盤、吉田麻也を前線に上げるパワープレーや
3枚目のカードを使わない交代策にどんな論拠があるのだろう・・・

次々と浮かび上がる疑問符が消えない。

追い詰められた者同士の戦いとは、こういうものか。

敗北を恐れ、互いに腰の引けた戦いに終始した感が強い。

確かに、日本は狙いどおりに球を支配することができた。

ポゼッションの率は実に68%だ。

ギリシャが退場者を出したことで、ボールの支配力に拍車がかかった。

しかし・・・それだけだ。

守備ブロックの外側で、用心深くつなぐばかり。

肝心のゴール前に球が入らず、枠内シュートはわずか11本に終わった。

ギリシャは8人が後退して守りに回っている。

最前線に残るのは1人だけ・・・

この状況においてもなお、日本は最終ラインに人がだぶついていた。

 
DFを1人ベンチに下げ、攻撃のカードを切る手立てはなかったか・・・

ボランチの1枚が積極的にエリア内へ侵入していく選択肢はなかったか・・・

せっかくの数的優位を生かせないままだった。orz。


監督にも・・・

選手たちにも・・・

リスクを冒す勇気が足りなかった・・・(・_・;)


ギリシャのプレスが甘く、中盤で楽につなげる展開だったからこそ、
余計に悔いが残るはずだ!!

 
それにしても、日本の動きがあそこまで鈍いのは、なぜなのか???

リスクを恐れるメンタルの問題だけではあるまい。

日本が10人のギリシャから奪えたのは、勝ち点1だけ・・・

1次リーグ突破の可能性が残っているというよりも、
その可能性を広げるチャンスを逃したと言った方が正解だろう。

現地で応援したサポーターはもちろん、
出社や登校前にテレビで声援を送った多くの日本人も、
悔しい思いで1日を過ごしたはずだ。

 
前半は、両チームとも勝利を目指した激しい戦いだった。

初戦に敗れている日本とギリシャだから、
1次リーグ突破には勝ち点3が欲しい・・・

しかし・・・

同38分にギリシャのMFカツラニス主将が退場。

これで、試合の流れは変わった。
 
10人になった直後こそ攻めに出てきたギリシャも、
後半に入ると明らかな引き分け狙い。

全員が自陣に引いて、ゴール前にブロックを作った。

日本は勝つことを放棄したギリシャから、
ゴールを奪うだけだった。

・・・筈だ!!!

しかし、守備には定評のあるギリシャの目的が明確になり・・・ブロックを創られる。

堅固な守備ブロックをこじ開けるのは、簡単ではない。

日本は後半から遠藤を投入し、
さらにベンチスタートだった香川も送り出した。

それでもシュートはブロックされ、クロスは次々とはね返された。

最大のチャンスは後半23分、
香川から右サイドのDF裏に飛び出した内田にパスが通る。

ダイレクトで折り返したボールにフリーで走り込んだ大久保が左足を合わせたが、
大きくゴール左に・・・

日本中がため息に包まれた瞬間だったろう。

結局、その後もギリシャの堅守を破れずに試合は終わった。

 
勝ち点3が必要なギリシャが積極的に前に出てくれば、
岡崎や大久保でDFの裏を突くのは決して難しくないと思っていた。

ところが・・・

10人になった相手が勝利を放棄した時点で、日本の勝ち目は薄くなった。

数的優位は、試合展開の優位につながらなかった。

 
もっとも・・・

10人の相手に勝てなかったのは事実。

相手は1人少ないのだから、勝つための手があったのではと思う。

途中で切った遠藤と香川の2枚のカードは機能していた。

なぜ、3枚目のカードを切らなかったのか・・・

「やりきった」感がなかったのは、そのためかもしれない。

 
ザッケローニ監督は試合後の会見で「青山起用は考えた」と話していた。

1本のパスで相手DFのスキを突ける青山は、
堅固なギリシャの壁を破るのに有効だったのではないか・・・

交代選手が活躍する大会だけに、交代枠を使い切らない采配は残念だった・・・

 
この日、コロンビアがコートジボワールに勝ち、
勝ち点6で1次リーグ突破を決めた。

日本は25日に、そのコロンビアと対戦する。

勝って勝ち点を4にすれば、
同時刻に行われるコートジボワール VS ギリシャの結果次第で1次突破の可能性はある。

 
日本が突破する可能性を整理しよう。 

日本がコロンビアに勝つことを前提に・・・

(1)コートジボワール勝利(2)引き分け(3)ギリシャ勝利、とする。

(1)は勝ち点を6にしたコートジボワールとコロンビアが進出(日本は敗退)。

(2)はコートジボワールと勝ち点4で並ぶ。
   日本が1点差勝利なら得失点差も0で並ぶが、
2点差以上の勝利なら日本が上回って1次突破。

(3)はギリシャと勝ち点4で並ぶが、
   現時点で得失点差マイナス1の日本が同マイナス3のギリシャを上回って
   決勝トーナメントに進める可能性が高い、となる。


 
最終戦、他力になるのは間違いないが、それでも全力で勝ってほしい。

1勝もできないのと・・・

最後に勝つのでは・・・

4年後に向けて、日本のサッカーにとって大きく違う。

日本らしいサッカーを最後に見せてくれれば・・・

この失望感も少しはおさまると思う・・・多分(^_^;)





前半16分、
本田の先制点を喜ぶとともに頭の片隅に嫌な予感が走った。

やや劣勢のゲーム展開の中、唐突な先制点。

ここから主導権を握れるか・・・

結果は・・・押しつぶされるような展開からの連続失点。

・・・逆転負け。

試合を見た限り、敗戦の要因は3つ・・・

・前半、ボールを奪われすぎて体力を消耗しすぎたこと

・前線で機能しない大迫、なかなか調子が上がらない香川にこだわりすぎたこと

・逆転するための戦術的なアプローチにブレがあったこと


監督も、選手も総じて・・・
試合を振り返って「日本のサッカーができなかった」と話した。

この日の日本代表は、
昨年11月の欧州遠征やW杯前の準備試合の日本代表とは違った。

「日本らしいサッカーって何?」。

選手が連動し、素早いパスをつなぐ攻撃的スタイル。

カギを握るのは選手間の距離だ。

前線からDFラインまでをコンパクトに保ち、狭い範囲で多くの選手がプレーする。

足もとの技術が高く、敏捷性もある日本人に合ったスタイル。

それが、この4年間で磨いてきた「日本のサッカー」だ。

個よりも組織で戦う日本にとって、
最も重要なのは選手たちが意識を共有すること。

11人が同じ考え、
同じ思いでプレーすることが日本スタイルのベースだ。

選手の意志統一のために、
ザッケローニ監督は「攻撃サッカー」を掲げた。

全員が「攻める」という意識を強く持つことで、
DFラインは高く保たれ、選手間の距離も短くできる。

ここ数試合、選手たちの意志は統一されていた。

きっかけは「先制点を奪われる」ことだったようにも思う。

リードされれば、攻めるしかなくなる。

攻撃的なスタイルは保たれる。

しかし、リードした場合は状況が変わる。

「攻める」のか「守る」のか・・・

選手たちの気持ちにズレが生じれば、
日本スタイルの攻撃サッカーはできなくなる。

後半、日本は「間延び」していた。

前線とDFラインが遠くなり、選手間の距離も広がった。

パスが通らなくなり、カットされて相手に攻められる。

これでは連動もできないし、組織の力は半減する。

選手の疲労もあっただろうし、足が止まったのも確か。

ただ、その根底に選手たちの意識のギャップがあったのかもしれないと思う。

大事な1次リーグ初戦で1-0のリード。

「守りきろう」という意識が芽生えるのも不思議ではない。

途中出場したドログバの脅威に、どうしてもDF陣は引き気味になる。

前線の選手は「守ってないで追加点を奪おう」と積極姿勢を崩さない。

強烈なカリスマで選手の意志を1つにできる選手がいればいいが、
本田がいくら「攻めよう」と鼓舞しても、後ろは「そうは言っても…」となる。

これでは、
日本スタイルの攻撃サッカーはできない。

「先制点が日本のサッカーを封印した」は言い過ぎかもしれないが、
日本のスタイルでもある「攻撃サッカー」が貫けなかったのは事実。

コートジボワールに反撃されても、なお攻めの姿勢を貫き、
DFラインを高くして選手間の距離を詰める勇気が必要だった。

まだ1試合が終わっただけ。

残り2試合に連勝すれば、1次リーグ突破の可能性は十分にある。

もう勝たなければいけない。

勝つしかない。

1次リーグ3試合を1つの試合だと思えば、
まだ30分経過時点でリードを許しただけ。

次からは、逆転勝ちを狙ってチームが1つになり、
日本らしい攻撃サッカーをやってくれるに違いない。

2006年のようなガッカリは御免だ!



人間の脳みそは
20~30%しか使われていないという話だが、
本当のところはどうなのだろう。

実は・・・100%使われているという説もあるが・・・

詳しいことは、まだ解明されていないようだ。

すべての脳細胞が、何らかの役割を担っている。

そういう意味で
100%使われているというのは納得できるのだが・・・

余力を残していないという意味において
100%使われているとは思えない。

これは脳だけでなく、肉体でも同じだ。

人間はいざという時には、
アドレナリンが放出されて「火事場の馬鹿力」を発揮するといわれてる。

つまり・・・

普段は100%の力が出ないように
制御されているのだろう・・・

「余力」がまったくない100%の状態というものは
非常時にのみ発動されるもので、
人間の意思ではどうしようもない領域なのだと思う。

きっと・・・

100%では肉体も精神も、もたないのだ。

それは、
仕事のパフォーマンスや時間の配分においても同じだと思う。


イチロー選手は野球がうまくなるために、
すべてのものを犠牲にしているというようにも見える。

食事や睡眠、遊ぶ時間でさえも、
野球中心に組み立てられているように見える。

そこまで徹底しなくては、
あれだけのパフォーマンスを維持し続けることはできないだろう。

だが・・・

そうだからといって
1%も無駄な時間がないのかと言えば・・・

そんなことは、あり得ないとも思う。

あのイチロー選手にしたところで・・・

野球には全く関係のない時間、
あるいは、
野球にとってマイナスの時間がゼロだとは思えない。

普通の人間に比べて、
ものすごく少ないことは確かだろうが・・・

それでも、無駄な時間は必ず存在する。

それは、イチローも人間であるからだ。

たまに・・・

「俺は24時間仕事のことを考えている」という社長や・・・笑

「一分一秒たりとも無駄にはしない」というビジネスマンがいる。


まあ・・・

そのくらい一生懸命に仕事のことだけを考えている
という比喩としてはいい。

だが、現実的には不可能だ。

人間は・・・

その持てる時間を100%の集中力で使い続けたり、
能力の100%を発揮し続けたりすることはできない。

ものすごく主観的な意見を言わせてもらうなら・・・

それこそ
20~30%も発揮できないまま終わっていくのだと思う。

あのイチロー選手ですら、50%発揮できているかどうか・・・

それが、現実だと思う。


つまり・・・

私が言いたいのは、こういうことなのだ。

人間は恐ろしいほどの「潜在能力」を秘めている。

使えていない時間や、能力の方が遥かに多いのだ。

それを使いこなすには・・・

どうしたらいいのだろう。

今まで以上の努力か・・・

あるいは、
神のごときストイックな自制心が必要なのか・・・

いや、違うだろう。

結局人間はどんなに頑張ってみても
20~30%の能力しか使えないのだ。

そのことにおいては
イチロー選手がすでに証明してくれている。

あれ以上のストイックな生き方は、
普通の人間にはできない。

それでもやっと50%なのだ(まあ、私の主観であるが)。

大事なのは・・・

30%のパフォーマンスを
50%にすることではない。

どの、30%を使うのかということなのだ・・・


今現在、
ものすごく頑張っている・・・

あるいは、
もうこれ以上頑張れないという人でも・・・

その能力の70%は起動していない。

と、するならば・・・

もしかしたら、
その起動していないものの中に、
人生を変えてしまうような才能が眠っているかもしれないのだ。

私たちにとって、最大の金の鉱脈。

それは
自分自身の潜在能力なのかもしれない。

いままで全く知らなかったことや・・・

興味の無かったこと・・・

やったことがないこと・・・

そういうところに、鉱脈は眠っているような気がする。

私も51歳にして、
掘ったことの無いところを掘り返してみようかと思っている。

さて、何が出てくるのやら。 (^^)ww



人間同士は
言葉によってコミュニケーションする。

もちろん、
身振り手振りのようなボディーランゲージもあり、
そちらの方がより重要だという人もいる。

だが基本的には、言葉だ。

外国に行くときに
その国の言葉を学ぶことはあっても、
ボディーランゲージを学ぼうという人はいないだろう。

そういう学校があっても面白いとは思うのだが・・・

・・・それこそ漫才だ。

やはり
ボディーランゲージだけでコミュニケーションすることは
現実的ではない。

それは
言葉を補うためのサポートツールであると捉えるべきだ。

他にも文字、手話など、いろいろな伝達手段があるが、
そのベースになっているのはやはり言葉である。

まず、言葉ありき。

言葉が生まれたことが、
人間を他の動物たちと異ならしめたのだと思う。

言葉は動物たちにはできない
細かいコミュニケーションを可能にした。

そして・・・

その代償として、
コミュニケーションの限界を作った。

人と人とは
100%分かり合うことができないのだ。

言葉という壁がある限り。

コミュニケーションには
二つの方向性があると思う。

ひとつ目は、
伝達する情報の量だ。

「こんにちは」

「さようなら」という程度の会話ならば
ボディーランゲージでも十分なのだが・・・

料理のレシピや機械の取り扱い説明を
ボディーランゲージだけで伝えるのは不可能だ。

より細かい情報を正確に伝えようとすると、
その情報量は膨大なものになる。


膨大な情報を簡潔に伝えるために、
言葉は不可欠なのである。


人間同士のコミュニケーション、
特に同じ言語を使う人間同士のコミュニケーションにおいては、
細かいことがより正確に伝わる。

言葉を有しない動物には、とてもこんな芸当はできないだろう。

一方で・・・

コミュニケーションのもうひとつの方向、
伝える情報の正しさというものにおいてはどうだろう。

正確に伝えることと、
正しく伝えることは、まったく違う。

「好きだ」といえば「好きだ」という、言葉の意味は正確に伝わる。

だが・・・

それによって「好きだ」という感情が伝わるとは限らない。

そもそも・・・

「好きだ」と言いながらも、
大して好きではない場合もあるし・・・

「嫌い」と言いながら、
本当は大好きという場合だってある。

言葉は、
ある一定の情報を正しく伝える代わりに、
言葉で表現できないモノのコミュニケーションを阻害する。

「ワン」とか「ニャー」という
言葉とは言えない会話のほうが、
情報は少ないながらも
伝えたいことがより正しく伝わっているのではないか。


「伝えたいこと」をいったん「言葉」に翻訳し、
その「言葉」を受け取った側が翻訳し直して
「伝えたいであろうこと」を受け止める。

このコミュニケーションには問題がある。

「言葉」によって表現できることには限界があるし、
言葉を使うスキルによって誤解も生まれる。

「言葉」そのものが伝わらない原因を生んでいるのだ。

そこで考え出したのが・・・

言葉を超える装置である。

頭で考えていること、伝えたいことが、
100%正確に相手の頭の中で再現される装置。

それがあれば誤解が生まれることもないし、
伝えたいことが伝わらないというジレンマからも開放される。

言葉では伝えられない感情や、
その感情を抱くことになった背景など、
時間をかけないと分かり合えなかった事柄も一瞬で共有できる。

この装置ができてしまえば外国語を勉強する必要もなくなるし、
誤解が原因の喧嘩や争いごとも減るだろう。

言語や文化を超えた新しい人間関係が
生み出されていくことにもなる。

考えてみれば・・・

恋愛も、ビジネスも、政治も、経済も・・・

全ては
人間同士のコミュニケーションで成り立っているのだ。

言葉を超えるコミュニケーションが発明されたら、
世界は劇的に変わると思うのだが・・・

あるいはそれは、
世界を破滅に導く第一歩になるかもしれない。

伝わらないことによって、
人は関係を保っているとも言えるのだから・・・


また随分とサボってしまいました。

反省・・・m(_ _)m

お陰様でプラウドは無事に14期を締めくくりまして・・・
15期に突入致しました。

思えば、30代後半だった私も50代です。

まったく、光陰矢の如し・・・とはよく言ったもんです。

さて・・・

私も若い頃は、
「生きる意味」とか・・・
「自分らしさ」ばかり考えている人を、
ちょっとバカにしていましたね。

暇な人というよりは・・・

弱い人なのだと決めつけていました。

「俺はそんなには弱くない」

「何があっても傷つかない」

「挫けない」

「自分の力で立っていられる」

そう、信じていました。

しかしですね、
まあ、生きていると色々あるわけで・・・

会社が潰れそうになったり・・・

借金で首が回らなくなったり・・・

毎日人に頭を下げて回ったり・・・

社員がいっぱい辞めていったり・・・

本当に実際・・・色々あったわけです。

特に離婚と社員の離職は、結構、傷つきましたね。

やっぱり人間を一番傷つけるのは・・・

出来事ではなくて、人間そのものです。


中でも・・・

一番人を傷つけるのは、自分自身なのです。

自分で自分を傷つけるようになったら・・・

これはもう耐えることができません。

私はキツかった時期・・・

ただただ、「生きる」こと。

これだけを肝に銘じて生きていました。

それで・・・生きる意味についてなんですけど、
やっぱり考えるようになるわけです。

俺は、いったい何のために生きているのだろうかと。

その疑問は、
どんどん大きくなっていきます。

そして、
人間は何のために生きているのか?という
根源的な疑問にぶち当たるわけです。

環境が大事だなんて言うけれど、
環境を破壊しているのは人間ではないか。

鯨とかイルカとか
自分たちが好きな動物だけ守ろうとする。

その一方で・・・牛や豚を食うためだけに飼育する。

可愛がっているペットを去勢したり、捨てたりもする。

ベジタリアンにしても
生命を食べているのは変わらないわけで、
動物は駄目で植物ならいいという境目も曖昧。

しかし・・・

そんなことを言っていたら生きていけない。

オゾン層が危ないなどと、
心配しているけれども、
太陽が燃え尽きることは心配しなくて良いのか。

あと40億年したら、
太陽は確実になくなっているのだ。

そうなったら地球も終わりなのだ。

じゃあ、何のために生きているのだ。

・・・などという、
たわいもない、役にも立たない妄想を、
するようになるのです。

まあ、ひと言で言えば歳ですね。

歳を取ったのです。

かれこれ十年くらいは考えていましたね。

生きることの意味について。

で・・・結論はこうです。

「生きることに意味など無い。」

それを言っちゃあおしまいだよと、
言われそうですけど・・・

もうちょっと丁寧に言うと、こういうことです。

生きることに意味など無い。

生きることに意味を持たせるのが人生なのだ。

それができるのは自分だけだ。

・・・ということです。


ありのままの自分とか・・・
本当の自分を探すことが大事なのではなく・・・

受け入れることが
大事なのではないでしょうか。

本当の自分なんて、
今ここにいる自分以外にはないのですから。

人間の人生なんて、あっという間です。

大したことなんてできません。

お金持ちになるとか、
大統領になって国を動かすとか、
人を感動させる歌を作るとか、
私たちが凄いと感じていることも、
他の動物からすれば・・・

「何やってるんだか・・」って感じですよ。きっと・・・

結局・・・

私たちは
人間に認められるために生きているのです。

特に、自分に近い人間に。

特に自分自身に。

だからまず・・・

自分のことを
好きになることが大事ですよね。

それから・・・

家族だとか、友だちだとか、同僚だとか、
身近な人をできるだけ好きになって・・・

その人たちに
「あなたがいないと駄目だよ」とか・・・

「あなたがいてくれて嬉しいよ」とか・・・言われて・・・

そして
「ああ俺ってなかなか素敵な人間かも・・・」なんて、
感じることができたら・・・

それが、最高の人生なのだと思います。

でも、その一方で・・・

私は、無駄な抵抗を続けようとも思っています。

「俺は他の人間とは違う。俺だけは違う。断じて違う。」

という無駄な抵抗です。

本当は、みんな大して違わない。

そんなことは、
解っているのですけれどもね・・・


でも・・・それじゃあ人生つまらないじゃないですか・・・(^^)

だから、抵抗してやるのです。

人間の運命に、逆らってやるのです。

神様にだって、逆らってやるのです。