台風一過・・・(^^♪

今日は午前荒天・・・
午後は夏の日差し・・・

最近の天候は
振幅が大きくなっているような気がします。

常に構えていないといけませんね(^_^;)

さて・・・


人は生きていくために働いている。

生きていくためには、
食べなくてはならないし・・・

着るものや、
住むところも、
手に入れなくてはならない。

だから・・・働くのだ。

働かなくてはならないのだ。

そう信じている人は、おそらく全人類の90%・・・

いや、99%以上はいるだろう。

もちろん・・・

生きていくためだけに、
働いているのではない。

人の役に立つことや・・・

やりがいのある仕事をすることは・・・

自分自身にとっての喜びでもあるからだ。

だが・・・「何のために働くのだ?」

「働かねばならないのだ?」

と・・・いうことを考えるとき、
その第一の理由が「生きていくため」であることに、
異を唱える人はほとんどいないだろう。

それは・・・

最早、
考えるまでもない事実であり・・・

常識とすら呼べない・・・暗黙の了解である。

だが・・・もしも・・・

その前提が、
間違っているとしたらどうだろう。

人は生きていくために、働いているのではないとしたら。

それでも、あなたは・・・

今までと同じように・・・

電車に揺られながら・・・

通勤を続けていくことが出来るだろうか。


もしも・・・

人が、
生きていくために、
働いているのだとしたら・・・

人類の目的は、
とてもシンプルなものになる。

食料を手に入れ・・・

衣服を手に入れ・・・

住むところを手に入れ・・・

その他、
必要なものをどんどん手に入れていく。

おそらく・・・

最初に人間が群れを作った目的は
生きていくためであったに違いない。

みんなで協力し合って、
大きな獲物を捕まえたり・・・

畑を耕したり・・・家を建てたりする。

危険な猛獣にも、
集団でなら対抗できるし・・・

役割分担することよって、
飛躍的に効率を上げることもできただろう。

その当時は、
生きていくことが大変なことであったに違いない。

だから・・・

みんなが生き残っていくために、
群れに属する一人一人は、
一生懸命に働いてきたのである。

では、今の人類も・・・

その延長線上で、
生きていくために働いているのだろうか。

社会全体の食料を増やし・・・

着るものを増やし・・・

安全な生活を確保するために。

そのために私たちは・・・

日々満員電車に揺られながら通勤しているのだろうか???


最早、人類の持つ生産力は・・・

「人が生きていくために」

と・・・いうラインを遥かに超えているのだと思う。


世界中の人々が、
食べていけるだけの食料も・・・

衣料も・・・

その他、
必要な生活物資も・・・

私たちは、既に手に入れている。


ただ、それらがすべての人々の手に、
行き渡っていないだけだ。

生きていくことが、
目的であるとしたら・・・

なぜ?このような事態になってしまったのだろう。


自分だけが、
豊かであればいいという・・・

一部の傲慢な独裁者のせいなのだろうか。

では・・・世界が善人で満たされたら・・・

私たちは、
もう生きていくために働かなくてもいいのだろうか。


もっと次元の違う、
やりがいや生き甲斐のためだけに、
働ける日はくるのだろうか。


企業と企業の競争を見ていると、
不思議に思うことがある。

それは・・・

一体、何のために・・・誰のために・・・

競争しているのだろうか、ということだ。


企業同士が、
しのぎを削り・・・いい商品を作って・・・

安い価格でマーケットに提供していく。


それはまさに・・・

人類全体を
豊かにするための方法論のようにも見える。

だが・・・果たして、そうだろうか・・・


コストを抑え・・・

無駄をなくし・・・

少しでも良い商品を・・・

少しでも安い価格で・・・提供する。

無駄をなくして、
効率化を図るのであれば・・・

確かに、
人類の豊かさに繋がるだろう。

だが、企業の競争は、これでは終わらない。


これ以上は、
コストを下げられないというところまで来ると・・・

今度は、自分たちの利益を削りだす。

そのために、
人件費を削り・・・非正規雇用を増やす。

生産性を高めるためではなく・・・競争するために、競争し続けるのだ。

私達は、いったい何と戦っているのだろう・・・


競争し続けた結果、
誰もが利益を出せない状態。

それが、
私達の目指す姿なのか・・・

そのために、
毎日あくせくと働いているのだろうか。



人は・・・最早・・・生きていくために働いているのではないと思う。

人は・・・競争するために、働いているのだ。

その競争の先に・・・

何があるのか?ということなど・・・考えもしないで。



暑さ寒さも彼岸まで・・・(^^♪
今年は早々に過ごし易くて助かります。

とは言え、集中豪雨や地震などなど・・・
安閑としていられないなあと感じる今日此頃です。

さてさて・・・

この世の中にある貯金の合計と借金の合計と、
いったいどちらが多いのだろう。

私の懐収支は真っ赤ですが・・・(・_・;)

世の皆様の懐を
予想させて頂くならば・・・

おそらく・・・

貯金は借金の10倍・・・

いや・・・100倍くらいはあるのではないかと思う。

なぜか!!

その話をする前に・・・

まずもって貯金とは何なのか・・・

借金とは何なのか・・・

そのことについて、考えてみたい。

貯金は、どうやったら生まれるか。

貯金の公式はこうだ。

稼いだお金-使ったお金=貯金。

もちろん!

稼いだ金よりも、
使ってしまったら貯金は残らない。

稼いだけれども、
使わなかったお金、それが貯金である。

では、貯金とは何か。

それは・・・

働かなくても、生活できる権利である。

食事を食べたり、
服を買ったり、旅行に行ったり。

働かざる者、
食うべからずという諺があるが・・・

働かなくても、
食べられる権利が貯金だと言ってもいい。

それは・・・

自分が必要とする以上に働いた、
御褒美みたいなものだ。

一日300グラムの米があれば生きていけるのに、
頑張って600グラムの米を作った。

だから、
一日働かなくても食べていけるのである。

反対に・・・

借金というのは、
必要な分のお金を稼げなかった、
あるいは、
稼いだ以上に使ってしまった結果生まれるものだろう。

借金というのは・・・言い換えれば、
何も見返りを受け取らずに働かなくてはならない、
義務のようなものだ。

300グラム必要なのに、
200グラムしか作れなかった。

だから・・・100グラム分は、
いつか無給で働かなくてはならないのである。

では・・・当初の話に戻ろう。

貯金の総額と借金の総額と、どちらが多いのか???

正確な数値を調べることは出来ないし・・・

調べたところで・・・

その数字が、
本当なのかどうかも分からないので、
ここは論理的に考えてみたいと思う。

私が
貯金の方が多いと考える理由・・・それはこうだ。

まず・・・

借金というものには、必ず相手がいる。

無人島で、借金をすることは出来ない。

300グラムなければ生きていけないから、
誰かに100グラム借りる。

これを借金というのである。

つまり・・・

この世の中に、
借金を作り出すためには・・・

それと同じだけの貸金が必要になる。

借金の方が多いということは・・・

貸した人がいないのに、
借金があるということになり、
矛盾してしまう。

一方・・・

貯金はどうかというと、
これは自分一人でも出来る。

貯金をするのに、相手は必要ないので・・・

無人島でも、貯金をすることは出来る。

今日、
必要な以上に米を作っておけば、
明日は働かなくてもいいからだ。

だから・・・

世界中の人間が、
一人残らず借金を抱えることは出来ないが・・・

一人残らず貯金を蓄えることは出来る。

全員が、
働いた以上に使わなければ、
それでいいのだから
論理的には可能である。

ところで・・・

貯金というのは、
実際には米で蓄えられてはいない。

お金で蓄えられている。

今日、
必要なお金よりも、1,000円分、余分に働けば・・・

1,000円の貯金が残る。

それは・・・

1,000円分、
誰かに働かせることが出来る権利なのだ。

1,000円払って、
食事を作ってもらったり・・・

肩をもんでもらったり・・・

掃除をしてもらったり・・・

要するに・・・他人を働かせる権利である。

お金持ちが、
働かなくても生きていけるのは・・・

それだけの権利を持っているからだ。

借金がある人は、
どんなに嫌でも働かざるを得ない。(^_^;)

借金の分だけ、
誰かのために働かなくてはならない義務を背負っているからだ。


ここで問題にぶちあたる。


世の中の貯金が、
借金よりも多いとしたら・・・

その権利は、
果たして行使出来るのだろうか。

全員が、貯金を持っている。

全員が、
他人を働かせる権利を持っている。

だが・・・

働かなくてはならない義務を背負った人間がいない。

若しくは・・・その数が圧倒的に足りない。

この世の中の貯金の90%ぐらいは、
本当は使えない貯金なのではないだろうか・・・

恐ろしいことだが・・・

私達は、
行使できない権利を得るために・・・

毎日、こつこつと働いているのかもしれない。

積み立てた年金が、消えてなくなるように・・・

私たちの貯金も、
消えてなくなる日が来るかもしれない・・・



蒸し暑いですね・・・
こんな日は、何故か昔の記憶を刺激します。(^_^;)

さて・・・

SONYは・・・トランジスタラジオ
→トリニトロンTV→ウォークマンという順番で、
新製品を世に送り出した。

任天堂はゲームボーイ→ファミコン→DS→Wii。

アップルはパソコン→iPod→iPhone→iPad。

発明は、
なぜ?このような順番でなされたのだろう・・・


すべての発明は、
技術の上に成り立っている。

そういう意味では・・・

まず技術が確立され、その技術によって、
新しい製品が、
世に送り出されるということになる。

つまり・・・

技術革新の順番が
発明品の順番を決定づけている!?!ということだ。

では・・・技術は、
どういう順番で確立されていくのだろうか・・・

簡単な技術→難しい技術という順番だろうか。

例えば・・・

新薬の発明を考えてみる。

新薬は、
発明しやすいものから
作られているのだろうか。

いや違う。

薬は・・・
必要とされるものから順に作られているはずだ。

たくさんの人間が、必要としている薬。

必要としている人間の数が、
多ければ多いほど、
莫大な収益をもたらす。

それが・・・製薬ビジネスなのだ。

だから当然・・・

発明される薬の順番には、経営の意図が絡んでくる。

たまたま・・・

新しい技術が確立され、
その技術によって新しい製品が作られる。

もちろん、
そういう例がないわけではないだろう。

だが・・・

ほとんどの技術は、偶然ではなく・・・

人間の意思によって生み出されたはずだ。

こういうことがしたい、このようになりたい。

まず初めに意思があり、
その意思が技術へと繋がっていく。


技術革新や新商品の開発。

その裏には、
強烈な人間の意思がある。

もしもそうだとしたら・・・

人類の発明には、
何らかの順番があるはずだ。

大いなる意思に基づいた順番が・・・


では・・・その大いなる意思とは何なのか。

私たちは、
何を求めて次々と技術を生み出し続けるのだろう。

私の仮説は・・・

人間は、つながりを求めている。

その理由は、解らない。

寂しいからかもしれないし・・・

便利だからかもしれない・・・

人は、会話によってつながり・・・

電話によって繋がり・・・

公共の電波によって繋がり・・・

今や、
インターネットによって繋がっている。


つながりは・・・

どんどん強くなり、早くなり、大きくなる。


その・・・目指すところは何なのだろうか・・・


それは・・・

きっと、
究極のコミュニケーションではないだろうか。

100%のコミュニケーション。

誤解も・・・

曲解も・・・

難解もない・・・

伝えたいことが100%伝わる世界。

人類は・・・

そこを目指して、
発明を続けているように私には見える。


人間は言葉を生み出した。

その発明によって、
犬や猫では伝えることが出来ない、
複雑な情報を伝えられるようになった。

車の組み立て方とか・・・

社会のルールとか・・・

携帯電話の使い方とか・・・

「ワン」とか「にゃん」とかで、伝えることはできない。


だが・・・人間にはそれが出来る。

我々は、
言葉や、文字や、映像を駆使して・・・

驚くほど、
膨大な情報を共有することが出来る。

だが・・・それと引き換えに・・・

ものすごく重要なものを、
失ったのではないかとも思う。

それは・・・コミュニケーションの質だ。

動物たちは、
複雑なコミュニケーションの手段を持たない。

だから・・・

伝えられる情報も限られている。

その代わりに・・・

コミュニケーション障害を起こすことがない。

誤解されたり・・・

曲解されたり・・・

先入観をもたれたり・・・することがなく、
100%の意思疎通ができている。


人は、言葉を生み出した。

それによって・・・伝わらなくなった。

複雑なことを伝えるために・・・

言語はどんどん複雑化し・・・

地域ごとの言葉・・・

業界ごとの言葉・・・

立場ごとの言葉・・・

その他・・・etc

たくさんの言葉を生み出した。

そして・・・

言葉には壁がある。

その壁によって・・・

私たちは・・・100%のコミュニケーションを阻害されているのだ。


人と人が、究極的に繋がり合うこと。

人類は、
そこを目ざして技術革新を
繰り返しているのではないだろうか!?!

もしもいつの日か・・・

人間同士のコミュニケーションが、
100%になったとしたら・・・

そのとき人類は・・・

かつてない平和を、
手に入れることができるのだろうか・・・

それとも・・・



努力は報われない。

そんな身も蓋もないことを言ったことがある。

私はそもそも、
努力というものが子供の頃から大嫌いだった。

いや・・・

正確には
努力が嫌いだったのではなく・・・

努力と定義されているものが、
嫌いだったのだ。

年表を覚えたり・・・

数式を早く解いたりして・・・

テストの点を
100に近づけること。

そういうことを・・・学校では努力と言う。

今から考えても、息が詰まりそうだ。


自分が好きな努力であれば、
私だってよろこんでやったと思う。

例えば・・・

クワガタムシを観察したり・・・

山に行って土器や化石を採集したり・・・

サッカーしたり・・・

面白い物語を読んだり・・・

そういうことならば、
何時間でも出来たと思う。

だが・・・残念ながら、
そういうことを学校では、努力とは言わない。

決められた努力をすること。

それが努力なのだ。


人に何かを一方的に決められることが嫌だった私は、
結果的に・・・
学校での努力(と言われているもの)を全然やらなかった。

だが・・・

それが原因で「努力は報われない」などと・・・

ひねくれて言っているわけではない。

私だって、努力そのものが嫌いな訳ではないのだ。

ただ残念なことに・・・

世の中には、
報われない努力が多すぎる。

それが事実だ。

その原因が、
どこにあるのかを考えてみたい。


私は・・・性格がひねくれていたので、
他人に押し付けられる努力が大嫌いだった。

だから・・・

常に、
自己流の努力というものを考えていた。

例えば・・・

歴史の年代暗記が嫌いだったので、
年表マシンというものをつくることにした。
箱の中に年表が収まっていて、
くるくるとそれをまわしながら歴史を覚えるのである。

私はこの道具をつくるために6ヶ月を費やし、
結果的にひとつの年号も覚えることが出来なかった。

あるいはゴルフをやり出したときにも、
決められたメニューをこなすことが嫌で
自己流の練習ばかりをやっていた。

結果的に・・・

全くゴルフがうまくならなかったことは言うまでもない。

私のような人間を、
要領の悪い馬鹿な人間というのだ。

ある、京大出身の友人に聞いたことがある。

彼は中学のときに、
先生からこう言われたそうだ。

「もしもいい大学に行きたいのなら、
 何のために勉強するのか
 ということは受験が終わるまで一切考えるな」と。

その教えを守って、
彼は見事に京大に合格したわけだ。

余計なことを考えずに、
言われたことに全力を尽くす。

そんな盲目的な努力のおかげで、
成功した人はたくさんいる。

だが一方で、努力が報われずに
悶々とした人生を過ごしている人もいる。

こういう努力をするべきだ。

そんな風に、
盲目的に信じられている努力は、たくさんある。

いい成績を取ること。

一流の学校に入ること。

有名企業に就職すること。

資格をたくさん取ること。

英語が話せること。

・・・他にもたくさんある。

もちろん私も、
これらがすべて無駄な努力だとは思わない。

だが・・・その中には
残念ながら無駄に終わってしまう努力もたくさんある。

その最大の原因は、
努力をするための目的設定ではないだろうか。

何のためにその努力をするのか。

それを考えずに
いきなり努力してしまう人が多すぎる。

「何のために勉強するのか」

を考えていたらいい学校には入れない。

そんなことを考えている暇があったら
目の前の努力に全力を尽くすべきだ。

この理屈は、受験においては正しいと思う。

ゴールがひとつだからだ。

だが・・・社会では事情が異なる。


努力することが
目的になってしまった結果・・・

俺はこんなに努力しているのに・・・

私はこんなにも一生懸命働いているのに・・・報われない。

というような結果に行き着いてしまう。

社会では、
盲目的に頑張ってはならない。

私は、そう結論づけている。


なぜならば・・・

社会が自分に求めているゴールと・・・

自分自身が求めているゴールとは別物だからだ。


一生懸命働いて・・・
たくさんの利益をもたらし・・・
少ない給料で文句も言わず働いてくれる社員。

あるいは・・・

たくさんの税金を納めながらも・・・
国には一切の見返りを求めない国民。

そういうものを、社会は求めているのだ。

社会の求めに応じて、
生きていきたいのならば ・・・

社会の求める努力をすればいい。


だが・・・

自分のために生きていきたいと思うなら・・・

何が・・・
自分のための努力なのか・・・
ということを・・・

努力を始める前に、考えなくてはならない。




秋ですかねえ・・・ですね(^^)ww

まだ少し残暑は残るんでしょうが、秋の気配がそこかしこに・・・

肴が旨い(^^)ww  もちろん・・・日本酒も(^^)Good!

さて・・・

今から2400年も前に・・・

アリストテレスは・・・

「人間は社会的動物である」と看破しました。

例えば・・・

物心つく前から、
無人島に放り出されて一人で育った人間は、
人間と言えるのだろうか・・・

我々と同じ種類の
生き物であるという意味では、
間違いなく人間でしょう。

ですが・・・

明らかに
我々とは違う存在、
違う生き物になっているだろうと思われます。

人間というのは、
人間社会の中で育ち、
その中で役割を与えられ、
社会と関わりつづけることによって、
存在しているのだから・・・


社会とは・・・


家庭であり、
学校であり、
友人であり、
会社であり、
国家であり、
関わる人間すべてである。

よって・・・

人間は、
人間と関わることによって「人間」になる。

一人では
「人間」には、成れない。

したがって・・・

人間は、社会的動物なのだ。


社会という組織を作り上げることによって・・・

人間は
地球上の生物の頂点に立つことができた。


どんなに力が強くても、
一人では野生の動物には勝てない。

どんなに頭が良くても、
一人でロケットは飛ばせない。

どんなに手先が起用でも、
一人で車を組み立てることはできない。

人間は・・・

社会を創り・・・

役割を分担し・・・

得意な能力を
最大限発揮し合うことによって・・・

恐るべき力を手に入れたのだ。


社会から孤立してしまった人間など・・・

ただの弱っちい、
ひねくれた生き物に過ぎない(^_^;)


迷子の人間は、あっという間に・・・

他の生き物の餌食になってしまうことだろう。


それゆえに・・・

人間は
社会から孤立することを恐れる。
社会で認められることを求める。


アルプスの少女ハイジに出てくるおじいさん「オンジ」は・・・

山でずっと一人暮らしをする変わり者だ。

だが・・・そのオンジでさえも、
ペーターや村人がいなければ、
生きていくことが出来ない。

それが
人間という生き物なのだ。

だから・・・

我々は・・・

物心ついたときから・・・

人の評価を気にして生きている。

親の評価・・・

友達の評価・・・

先生の評価・・・

同僚の評価・・・

上司の評価・・・

近所の人たちの評価・・・


そういうものを意識せずには、
いられない。

それは・・・

我々人間が、
力と引き換えに背負わされた宿命なのだ。

John Lennonが一人称の歌に託したように・・・

私自身、この宿命が
鬱陶しくて仕方がないと感じることがある。

いや・・・物心ついた頃から、
ずっと、そう思って生きてきたんだと思う。

学校など、行かなくてもいい。

友達も、1人いればいい。

仕事では、誰にも面倒なことを言われず、嫌いなことは一切しない。

知らない人には挨拶せず、愛想笑いもしない。

好きなときに寝て、
好きなときに起きて、
読みたいだけマンガを読み、
見たいだけテレビを見る。

食べたいものを、
食べたいときに、
食べたいだけ食べ・・・

寂しいときには・・・

彼女と会い、
寂しくないときには一人でいたい。

だが・・・そんなことは、もちろん許されない。

我々は、社会的動物なのだ。


学校には
行かなくてはならないし・・・

友達には
さらなる友達がいる。


知らない人には挨拶し・・・

楽しくもないのに笑い・・・

気に入らないことも我慢し・・・

嫌いな食べ物でも、
もったいないから残さずに食べ・・・

会いたいときでも、
相手が急がしければ我慢し・・・

一人でいたくても、
相手が望めば会って楽しく話をする。

それが・・・

人と関わって生きていくということなのだ。


社会は、
その効率を最大化するために、
ルールによって動かされている。

それは・・・

法律であったり・・・

校則や社則であったり・・・

友達同士や夫婦間の決めごとだったりもする。

そのルールを無視すると・・・

その社会から、
はじき出されてしまう決まりなのだ。


友達とのルールを破ったら、友達の輪から追放される。

夫婦の約束を破ったら、家庭から追い出される。

社則を破ったらクビになり・・・

法律を破ったら牢屋に放り込まれる。


それが社会のルール。


社会を
成り立たせるためのルールなのだ。

では・・・そのルールとは、
どこにあるのか?

六法全書の中か。

あるいは・・・

生徒手帳や社則が書かれた冊子の中か。

いや、違う。

ルールは
人間の頭の中にあるのだ。

人間の脳みそ。

その中の記憶。

それこそがルールなのだ。


もしも・・・あるとき・・・


人間の記憶が
ひとつ残らず消去されたら、
どうなるだろう。


能力は、そのままだが、
記憶だけが一切ない状態。

そうなったら、
昨日までのしがらみはゼロになる。

恨みも・・・

愛情も・・・

友情も・・・

貯金も、借金も、犯罪も・・・

すべては・・・無くなってしまう。


六法全書に書かれていることは、
古い予言書の意味しか持たず・・・

誰が、
どの家に住んでいて・・・

どの人と、
どういう関わりを持っているかも解らない。

つまり・・・社会とは、人間の記憶なのだ。


人間は、記憶的動物である。

記憶によって成り立ち・・・

記憶によって役割を与えられ・・・

記憶によって喜び、苦しめられる。

そのすべては・・・

現在生きている人間の
脳みその中にだけ、存在している。


すべての人間が記憶をなくすとき・・・

人間社会は消滅するのである。



台風一過・・・暑いですね(^^)v

風があるので、日陰ならなんとか・・・

って感じですが・・・如何お過ごしでしょうか・・・

さて・・・お盆前、賃金決裁も終わり、
ココぞとばかりに更新します。


TPOって、ありますよね。(^^)ww

Time(時間)

Place(場所)

Occasion(場合)


要するに・・・

「時と場所と置かれた状況によって、
 どう対応するのか考えましょうね」ということです。

人に迷惑をかけないように・・・

その場のルールに反しないように・・・

和をもって尊しとするのです。ww

静かなバーでは大声を出さないとか・・・

高級なフランスレストランや
ゴルフ場ではジャケットを羽織るとか・・・

電車の中では、携帯電話に出ないとか。


では反対に・・・

こういうのはどうでしょう。

例えば・・・

仲間同士で
他人の悪口を言って盛り上がっているときに・・・

「私は人の悪口は絶対に言わない」

なんて言って・・・その場をシラケさせてしまう。

あるいは・・・

不良同士で
コンビニの前などでたむろしているときに・・・

「こんなところに座っていたらみんなに迷惑だ」

などと・・・正論をはいて仲間から煙たがられるとか。


こういうのも、TPOに反するというのでしょうか!?!


TPOというのは・・・

常識やマナー、ルールというものとはちょっと違う。

その場にいる人間が作り出している空気・・・

あるいは、
その場の状況が醸し出す雰囲気・・・

そういうものを壊さないようにしようね、という
暗黙の了解みたいなものではないかと思うのです。

だから・・・

マナーに反するTPOみたいなものも
本当は、あるんじゃないでしょうか。

例えば・・・

エスカレーターに乗るときには、左端に立つ。

・・・という暗黙の了解があります。


右側は、
急いでいる人のために空けておかなくてはならない。

でも・・・本当は、
エスカレーターでは歩行は禁止なわけです。

手すりにつかまって、
じっと立っていなくてはならないのです。

だけど・・・都会ではそんなルールよりも、
都会人同士の常識の方が優先されます。

これも、
TPOというものではないでしょうか。


私は・・・

街を歩いていて、
歩く速度にもTPOがあるよな・・・

と、いつも思うのです。

例えば・・・

自分が急いでいるときに、
とろとろと歩く集団なんかが前にいると・・・

とっても、凄く、かなり、イライラします。

反対に・・・

自分が、
ユックリと散歩している時に・・・

それを押しのけるようにして
スゴイ速度で歩いて行く人がいたりすると・・・

そのうえ、通り過ぎるときに・・・

「トロトロ歩いてんじゃねーよ、このタコ!」

・・・みたいな目で見られると・・・

それはそれで、
かなり、凄く、とっても、腹立たしいものです。



要するに・・・


人間は、自分勝手なのです。

自分に余裕のあるときには
ゆっくりと景色などを楽しみながら歩きたい。

自分が急いでいるときには、邪魔されたくない。

でも、本当のことを言うと・・・

歩く速度にも、
その場に求められる、
TPOみたいなものが、あるはずなのです。


自分が、
今いる時間と、場所と、状況を考えて・・・

それに、ふさわしい速度で歩くこと。

これは、とても重要なことではないかと思うのです。


桜が満開に咲く小道や・・・

クリスマスのイルミネーションが包み込む散歩道。


そういうところは、ユックリと歩くものです。

いくら仕事で急いでいるとか・・・

待ち合わせに遅刻しそうだとか・・・

クリスマスには興味がないとか・・・言っても駄目なのです。


その場所には、
その場所に、ふさわしい歩き方というものがある。

だから・・・そのTPOに合わせて、歩かなくてはならない。


反対に・・・

朝の通勤ラッシュの駅中で、
俳句など読んでいたら、どうですか!?!ww

急ぎ足のサラリーマンを尻目に・・・

「急いでも 地球の自転は 超えられない(字余り)」

・・・などと言いながら、
トロトロと歩いていようものなら・・・

それはもう、
突き飛ばされて、踏みつけられても・・・文句は言えません。


歩くスピードには、TPOというものがあるのです。

だから・・・腹を立てる前に・・・

まずは、その場の歩くスピードTPOというものを
考えないといけません。


そして、それは・・・

生きるスピードに関しても、同じだと思うのです。


歩くスピードと・・・

生きるスピード・・・

どちらにもTPOはあります。


置かれた時代と場所、状況によって・・・生きる速度は変わる。


どんなに、焦っていても・・・

どんなに、ユックリしたくても・・・

そのTPOが、求めるスピードから、人間は逃れることができない。


TPOに合わせて歩き・・・

TPOに合わせて生きる。

それが・・・社会で生きるということなのでは・・・ないでしょうか。



自宅から出掛けに、3日連続富士山が見えました。

夏には、とっても珍しいことです。(^^)ww

さて・・・お暑い中、暑苦しいネタで恐縮です。



もしも・・・

地球上にある企業のすべてが黒字になったら、
それは、何を意味するのだろう。

いや・・・そもそも・・・

そんなことは、可能なのだろうか・・・


会計的に考えれば、
売上総利益以下の販管費で経費を押さえれば
企業は黒字になるのであり・・・

理論上は、
すべての企業で黒字を実現することは、
不可能ではない気がする・・・


要するに・・・

稼いだ以上に使わなければいいのだ。



一方・・・

企業同士が
マーケットを奪い合っているという事実から考えれば・・・

すべての企業が
黒字になることは、チョット考えにくい。

マーケットは、
奪い合うものではなく、創造し合うものだという
理想は素晴らしいとは思うのだが・・・

実際には・・・

ほとんどのマーケットにおいて・・・

企業は、その利益を奪い合っている。


すべての企業が、
勝ち組になることなど考えられないのではないか・・・


いや・・・しかし、こうも考えられる。

世界中の企業の決算を合計して、
もしも黒字になるのであれば・・・

それを、
程よく分配すれば、すべての企業が黒字になるはずだ。

可能性としては・・・

限りなく低いものの、
すべての企業が黒字になる確率はゼロではないだろう。


 
同様に・・・

すべての人が貯金を持っていて、
借金が無いという状態も可能ではないだろうか・・・


企業同様、
稼いだ以上に使わなければ貯金は残る。

もちろん・・・

すべての人々に仕事を分配し・・・

すべての人々が稼いだ以上にお金を使わない・・・
というのは、簡単なことではない。

いや、ほとんど不可能だろう。

だが、不可能ではない。

理屈上は、成り立つはずだ。


人類が稼ぎ出したお金の合計・・・

それ以下の金額で、
人類が生活すれば人類は黒字になる。

その黒字を等分に分配すれば・・・

人間は、
みんな無借金の貯金持ちになるはずだ。


もしもそうなったら、世界はどうなるのだろう。


黒字の企業と貯蓄のある人間しか、
世界に存在しなくなったら・・・


人類はHAPPY!になれるのだろうか!?!


ハッピーかどうか、
それは、そうなってみなければ解らないのだが・・・


ひとつ疑問に思うことがある。


それは・・・

そもそも、
人類全体に貯金ができるということについてだ。

例えば・・・

人類のすべてが、
借金を持つということは可能なのか?

前述の理屈から言えば、それは可能なはずだ。

人類全体で稼いだ以上に使い、
出来た借金を等分に分ければいい。

だが・・・疑問が残る。

その借金は、
いったい誰に借りている借金なのだろう???

人間は、
人間以外には借金することが出来ない。

牛や馬にも、犬や猫にも、宇宙人にも、借金することは出来ない。

だから・・・

人類全体に借金があることなど、不可能なのだ。


・・・であるならば・・・


人類のすべてが、
貯金を持つことも不可能ではないのか!?!


 
人は、人からしか借金できない。

だから・・・

借りている人が、いるということは・・・

必ず、貸している人も、いるということになる。


だが、貯金は違う。


貯金は、自分だけで完結する。

自分が、
稼いだ以上に使わなければ、それでいいからだ。

だから・・・

人類全体が借金まみれになることはなくても、
人類全体が貯蓄だらけになることはあり得ると思う。


その場合・・・

その貯蓄は、どんな意味を持つのだろう。

人類全体の、余力ということになるのだろうか。

もしも、そうだとしたら・・・

人類は貯蓄の分だけ、
何もしなくても、食べていけるということになる。

だが・・・

その食料を作り出すのは誰だろう。

それは、
やはり人間でしかないはずだ。

そこに大いなる矛盾がある。


企業の貯蓄と、個人の貯蓄。


種類は違うが、
その意味するところは同じである。

余力だ。

必要以上に稼いだ結果・・・

それから先、働かなくても、
何かを手にすることが出来る権利、とも言い換えられる。

一年間暮らせるお金があれば
一年間働かなくても生きていける権利があるということだ。

では・・・この権利をすべての企業、
すべての人間が手に入れたらどうなるのか?

どうにも、ならないんだろう・・・

なぜならば・・・

その権利を行使する相手がいなくなるからだ。

人類の貯蓄は、
人類に対してしか行使できない権利なのだ。

だから・・・

そうなってしまったら・・・


その権利には、何の意味もなくなってしまう。

つまり・・・

人類全体の貯蓄は、
人類の余力にはならないということだ。

もちろん・・・

食料や衣料、建築物などは、人類全体の財産として残る。

だが、人類全体の金融資産には意味がない。

それは・・・決して使うことの出来ない権利なのだ。

だが、その権利は実在する。

で、あるならば・・・

これを、
人類はどう処理していくのだろう・・・


暑いのに暑苦しい文章で失礼しましたm(__)m





暑いですね・・・(^_^;)

今年はエルニーニョで冷夏になるって・・・

誰かが行っていたような・・・嘘つき(^^)ww

さて・・・

 
なくてもいい仕事となくてはならない仕事。

その境界線を引くことはかなり難しい。

お医者さんや警察官のように、社会に不可欠な仕事もあるし・・・

歌手やスポーツ選手、おいしい料理を作るコックさんみたいに
楽しく生きるためになくてはならない仕事もある。

清掃業者やクリーニング屋さんもなくなったら大変不便だし・・・

ユニクロや吉野家のように生活インフラとして
必要不可欠になっている仕事もある。

では・・・なくてもいい仕事とは何か???


ドロボーや詐欺師のような仕事は、なくなった方がいいだろう。

だが・・・(・_・;)

それは、そもそも仕事と呼べるものなのだろうか!?!


仕事の定義を

「誰かの役に立ってその見返りとして、お金を受け取る行為」

・・・とするならば・・・

なくなってもいい仕事など、世の中にはひとつもないような気もする。


では・・・

やりたい仕事と、やりたくない仕事の境界線は、どうだろう。

これは、人によって違うので・・・

誰から見ても明確な線で区切ることは難しいだろう。

例えば・・・

私は掃除と洗濯が大嫌いだが、料理は好きだ。

反対に・・・

掃除と洗濯が大好きで、料理が嫌いという人だっているだろう。

さらに言えば・・・

私は料理が好きだが、仕事として料理をしたいとは思わない。

(^_^;)・・・ややこしい話なのだ。


では結局・・・

やりたい仕事と、やりたくない仕事・・・

なくてはならない仕事と、なくなってもいい仕事・・・

そこに境界線などないのだろうか・・・(・_・;)


仕事に優劣をつけるという行為は、
人間としての品格を疑われてしまいそうだが・・・

実際問題として、仕事には優劣がある。

バッシングを受けそうな発言だけれども、それが事実なのだ。

仕事には値段がついている。

どの仕事を選ぶかによって、収入が大きく変わるのはそのためだ。

すべての仕事が、
なくてはならない崇高なものであったとしても・・・

そこに優劣をつけて、
値段を決めるという行為を私たちはしているのだ。


 
もしも・・・

世の中の仕事が、
きれいに四分割されていたとしよう・・・

1.なくてはならない+やりたい仕事

2.なくてはならない+やりたくない仕事

3.なくてもいい+やりたい仕事

4.なくてもいい+やりたくない仕事

どれでも選べるとしたら・・・

当然のことながら、1が一番人気だろう。

二番目は3で、三番目が2、最も人気がないのは4である。

しかしながら・・・

4のような仕事は果たして存在するのだろうか???

必要ない上に、誰もやりたがらない仕事。

そんなものは、存在し得ないような気がする。

3の仕事は、儲からないかもしれないが・・・

自分がやりたいのなら、それでいいような気がする。

問題なのは2の・・・

なくてはならないけれど、誰もやりたがらない仕事だ。

この仕事を、誰かがやらなくてはならない。

そして・・・

実際に、そういう仕事をしている人たちは、たくさんいる。

問題なのは・・・

この人たちの仕事の値段が、決して高くないことなのだ。


例えば、ドライバー。

例えば、ファストフード店員。

例えば・・・・・・


例えば、ビル清掃。

もちろん、この仕事を喜んでやっている人もいるだろう。

だが・・・一般的には、決して人気のある仕事とはいえない。

社員さんが出社するよりも、ずっと早く会社に行き、
自分が汚したわけでもないのに掃除をする。

肉体的にも、精神的にも大変な仕事だ。

・・・にもかかわらず給料は高くない。

私は決して清掃という仕事を軽んじているのではない。

その反対だ。

なぜ?こういう仕事の報酬が低く設定されているのか・・・

それが、不思議でしょうがないのである。


「それが市場経済というものだ」

・・・と言われればもちろんその通り。

他の人間で代わりがきく仕事の報酬は・・・

競争の原理によって下がり続けるのだ。

だが・・・

それも、ずっとは続かないような気がする。

やりたくない仕事をやる人の数が、どんどん減っていくと思うからだ。

その結果・・・

やりたくないけど、なくてはならない仕事の値段が高騰する。


社長よりも、掃除のおばさんの方が高給取りになる時代。

そんな素敵な時代が、早くやってこないものだろうか。

(^^)ww


2014ワールドカップは、ドイツがアルゼンチンを延長戦の末に1-0で破り、
1990年以来となる4度目の優勝で幕を閉じた。

サッカーは監督のスポーツだ。

試合が始まった後は、3人の選手交代しか出来ないが・・・

2010年の南アフリカW杯終了後、原博実技術委員長を中心に監督人事が行われ、
選ばれたのがザッケローニだった。

イタリアの名門クラブを渡り歩き、数々の実績を残し、初めてのナショナルチームとして選んだのが、日本代表。

親日家であり、選手たちにも愛された監督だった。が・・・

なぜ?ザッケローニは国内で退任会見を行わなかったのか・・・

グループリーグ第3戦のコロンビア戦に敗れたのが、日本時間の6月25日のこと。

この結果、日本はブラジルでのW杯を3戦で終えることとなり、
ベースキャンプ地となったイトゥで最後の会見が開かれたのが翌26日のこと。

うまくいかなかったからこそ、本人の言葉でいくつかの原因を話して欲しかった・・・

そうでないと・・・

「惨敗したからさっさとリセットさせようという意図が協会にはあったのではないか」と勘ぐりたくもなる。

サッカー協会は国内のサッカーファミリーから、毎年年貢のように登録料等、少なくないお金を集めている。

それが、オシム事件のように、良くない事には蓋をするようなやり方は如何なものだろうか・・・

ザッケローニ監督はそれまでの掟破り・鶴の一声でない、技術委員会主導の始まりであっただけに残念だ。




2006年の絶望感・・・

2010年の現実を見つめた結果に対しての閉塞感・・・

2014年は、オシムが言った「日本サッカーの日本化」。

そして・・・「自分たちが主導権を握るサッカー」を具現化することだった。

日本人選手が持つ特性(規律、協調性、スピード、テクニック、アジリティーなど)を

前面に押し出したサッカーを・・・「自分たちのサッカー」を具現化し、結果を残すことだった。

就任初戦でアルゼンチンに勝ち、予選も順調に勝ち点を伸ばす。

その中で、必要なチャレンジが不足したのだろうか・・・なぜ、そこまで特定のメンバー固定にこだわるのか。 

「日本のサッカーで世界と互角以上に戦える」ようになりたかった日本は、何か大事なものが不足していた。 
 
それは、南米選手権への不参加だったかもしれない・・・

予選終盤のもたつきによるテスト不足だったかもしれない・・・
 
結果として今大会の敗因は・・・

・特定選手への依存

・選手のテスト不足

・ゲームプランのシュミレーション不足

上記3点に概ね集約されると思っている。


したがって、・・・

・特定の選手に依存しないチーム作り→コンディションや状況をしっかり検討して、むやみに欧州組を招集しない。

・選手層の厚みを増やす→調子のいいものは即時試す。

・相手や状況に応じた戦術的なオプションを増やす。

そうすれば・・・

「日本が“自分たちのサッカー”で世界と互角以上に戦える」ことに近づけるだろう。


私は2014年の敗因をポジティブにとらえている。

それは、2006年の喪失感や絶望とは違い、優勝への長い道のりの一場面だと思うからだ。

今回は残念だったが、
私の生きているうちに優勝をと夢見ている・・・(^^)ww





日本代表が
W杯グループリーグ敗退の現実を突きつけられてから・・・

・・・24時間以上が経った。

グループリーグ突破をかけて戦った日本代表は
序盤から必死にゴールを狙う試合展開をしたものの、
1-4の惨敗に終わってしまい、グループ最下位でブラジルW杯が終了してしまった。

やり切った・・・!?!

そうとはいえない3戦。

しかしながら、
ドイツの時ほどの喪失感は無い。

最後の1戦に関しては、
出し切った結果の惨敗となってしまった感があるが、
W杯3戦を通してやり切った大会ではなかった。


日本代表の敗退は、なぜ起きたのか!?!


初戦・・・そして、ギリシャ戦の日本代表の戦い方と、
最後のコロンビア戦の戦いは明らかに違うものだった。

最後の最後になって日本代表は方向転換し、
勝つためのサッカーを展開した。

コートジボワール戦、そしてギリシャ戦では
日本のサッカーをして勝つことを掲げた結果、
ポゼッションをした上で組織的に崩すサッカーを基本線に戦った。

自分たちのサッカーをすれば勝つことができる。

そう・・・ザッケローニ監督は言ってきたが、
それがまったく世界に通用しない形となってしまったのがこの2戦だった。

ギリシャ戦に関しては、相手が一人退場し、
少ない状況ながら、相手は少ないからこそ引いたサッカーを展開。

引いた相手にどう戦うかというオプションを使うことができず、
苦し紛れに出たパワープレーや、
岡崎の1トップという迷走を生んでしまった。

コロンビア戦は、
序盤から早いプレスを展開し、高い位置で奪おうという意図が見えた。

どんな得点でも良いから得点がほしい。

そういうサッカーだった。

それを初戦からしていたら…???

そう考えてしまう人も少なくないだろう。

W杯に日本のサッカーをしにいったのか・・・

それとも・・・

W杯で勝つために行ったのか・・・

その違いは大きい。


自分たちのサッカーをすることで、必ず世界と戦える。

そう信じてきたその自信。

しかし・・・

現実は、そうではなかった。

ただ、それだけだ。

内田の言葉にもあったように、
世界は遠くはなかったものの、世界はまだまだ広かったのだ。


ザッケローニ監督は選んだ23名の選手たちに、
絶対の自信があるといった。

自分たちのサッカーを
最大限表現できる選手を23名選考したと言ったが・・・

果たしてそうだったのだろうか・・・

毎大会23名全員が出られるわけではないが・・・

今大会は
今までで最大の6名の選手が使われなかった。

まずサイドバックは、
内田・長友以外の選手が交代でも起用されることはなく、
酒井高徳、酒井宏樹、そして伊野波雅彦と
ディフェンダーを3名も、まったく起用しなかった。

怪我を考えての選考ならば、
左右ができて経験のある駒野、
または左右できる酒井高徳一人でも良かったのではないかという
疑問を抱いてしまうほどサイドバック要員を使うことはなかった。

そして・・・

勝つためのひとつの手段として、
速さや高さを求めるような選手を全く選考しなかったのも、
自分たちのサッカーを表現できれば勝てるという慢心からだったと、
この結果では言わざるを得ない。

ここで高さがある選手が・・・

ここで速さでかき回す選手が・・・

そう思わせてしまうような試合をしてしまった。


ここは絶対に勝たなくてはいけないという場面で、
そういったカードが切れないこと、
チームを変える起爆剤を4年間で育てることができなかったことも
敗因のひとつかもしれない。


固定の選手たちを信用し、使い続けた。

その結果・・・

他の選手たちを信じることができずに、
ペースを乱されるのが怖くてカードを切ることができなかったり、
スタメン起用をすることができなかったのではないだろうか・・・

本当に23名の選手たちの選考で、
こういう場面で使おうというビジョンがあったのか・・・

と思わせるような選手の残し方、そして起用方法だったと感じる。



日本のサッカーをする・・・

この言葉は・・・

監督からも・・・

選手たちからも・・・

何度も出ていた言葉ではあるが、
日本のサッカーというのは・・・

そもそも、
どんなサッカーなのか今一度考えたい。

この「日本のサッカー」が指すものは・・・

たった4年で創られたものに過ぎない。


その4年で創られたサッカーを全うすることで
世界のどの相手にも勝てるというのは
間違いだったという結果になってしまった。

自分たちのサッカーを、相手がどこでも曲げずに全うする。

それは
「スタイルを持つ強者のサッカー」だ。

例えば・・・

ブラジルのサッカーやスペインのサッカー、
イタリアのサッカー、ドイツのサッカーなど・・・

それらの国さえもボーダーレス化しつつあると思うが・・・


誰が監督をしても、
その国のサッカーは確立されているものがある。

しかし・・・

日本のサッカーは
ザッケローニ監督のサッカーを4年間行ってきただけであり、
本当の「日本のサッカー」はまだ確立されていない。

アジアでの日本サッカーの立ち位置は、
現在不動というところまでレベルが上がり、
アジアで勝つことは絶対というノルマのようなものとなっている。

そこでは・・・

自分たちのサッカーとして、王者のサッカーが通用するかもしれない。

しかし・・・

世界と戦う上で・・・

自分たちのサッカーを
長い歴史の中で確立してきた各国のサッカーにぶつけるには、
まだ「初心(うぶ)」すぎたのではないだろうか。

自分たちの物差しを・・・

世界の物差しの隣に置いてみたら・・・小さかった。

とてつもなく、小さかった。


W杯前に、それを痛感することができていれば・・・


それはまた、違った結果となっていたのかもしれない。


様々な痕跡から・・・

日本代表における
日本サッカー協会の考え方に一番疑問を感じる。

日本代表はサッカー協会において、
そして日本のサッカービジネスにおいて最高峰であり、
ビジネス的要素が高いのはある程度仕方ないかもしれない。

しかし・・・

いつでも国内で勝てるような相手ばかりと親善試合を行っても
それは強化になっているのだろうか。

代表は招集できる期間も限られており、
現在、日本代表の選手たちの多くが
欧州でプレーしているだけに難しい部分はあるものの、
欧州で短期間のキャンプをした上で世界の強豪と強化試合を行うことが必要だ。

いつでも国内で、
世界ランクがあきらかに下位の国とばかり戦っていたり、
主力を欠いた強国もどき・・・や、
時差ボケ・観光モードの国とのテストマッチでは世界の戦いだけでなく・・・

遠征としての代表チームのあり方や・・・

時差、気候など、すべての面において慣れることは難しい。

ビジネスをすることも大切だが、
日本は強化をしなくても良いほど強くなったわけではない。

日本代表は
まだまだ世界と戦うには足りない部分があるとわかった今・・・

世界の強豪たちと少しでも多く戦い、
世界を肌で感じることが必要なのではないだろうか。


日本が過去に出たW杯の中で、
一番悪い印象として残っているのがドイツ大会だ。

ドイツ大会では、
選手たちの向く方向が違っていたこともあり、
結果として惨敗。

グループリーグ敗退、
そして、チームは空中分解してしまった。

今回は、そのドイツ大会に似た印象を持っている人が多い。

当時を知る選手、
そして関係者たちからは
ドイツ大会のときの状況に良く似ていると話している。

ドイツ大会で起こったことは
二度と繰り返してはいけないと教訓になったはずだ。

しかし・・・

日本サッカー協会は、それを引き起こしてしまった。

感じられたスタメン組や海外組の選手たちのモチベーションと
使われなかった選手たちベンチにいる選手たちのモチベーション。

そのバランスを取る役割の人物がいたのだろうか。

選手たちがどうというわけではなく、
監督の起用方法から、
そういった温度差が出てしまった原因があるのかもしれない。

すべてを出し尽くして負けたのであれば、
悔しくても、
自分たちは足りなかったと受け入れることができるかもしれない。

しかし・・・

初戦、そしてギリシャ戦と勝つための方法の最善を取るよりも
自分たちのサッカーをすることに重点を置き、
プランを一本としたことが最大の残念な部分だったのではないだろうか。

今回の日本代表は、
今までで最強のチームだと言われてきた。

しかし、それは違った。

それが突き付けられた6月25日。

日本のサッカーは、これから、どのように歩むのか・・・

ただし・・・

結果がすべてといわれるが、
W杯は、そこまで歩んだ4年間の歩みの全てが財産だ。

それらが、すべて否定となるのではなく、
敗戦も含めて無理矢理にでも、次につなげなくてはならない。


やったことが通用しなかった。


これが、厳しいながらも結果として残った。

だからこそ・・・これからの日本代表がどう歩むのか!?!

このメンバーで、
このチームで戦うW杯は終わってしまった。

しかし・・・

日本代表は、
これからも選手を変えながら4年間そして8年間、
12年間・・・と戦っていく。

だからこそ・・・

「日本のサッカー」の確立をするために、
サッカー協会が強化の部分でどのような動きを見せるのか。

注目したい。


厳しい現実を受け入れるのにも時間がかかるが、
それもひとつの成長の時間になると信じて。

とは言いつつも・・・

ドイツ大会ほどの喪失感・失望感は無い。

それは・・・

選手たちの「熱」を感じられたから・・・

対戦チームに抗い、
自分たちのサッカーをだそうと感じられたから・・・

ただ、「それ」に勝ちきれなかっただけだから・・・

今の高校生、中学生、小学生のためにも・・・

この経験をしっかりと糧にしたい。