小説という妄想の書物には、
どこにも無いはずの答えが書かれていたりする。

だから私は、
答えの無い問いに直面したときには、
小説を読むことにしている。

???

いや、ただの習慣かも知れない・・・中毒か???

そこには・・・

深くて、美しくて、醜くて、いいかげんで、
とても人間的な答えが書かれている。

小説は本当に面白い。

もしも残りの人生で、
小説かテレビか、どちらか一方を選べといわれたら、
私は迷わずに小説を選ぶだろう。

それにしても・・・

小説はなぜあんなにも面白いのだろうか。

映画化されたものなどは、大概原作に負けている。

ストーリーの奇抜さ・・・

登場人物のカッコよさ・・・

流れるような文体・・・

まあ、小説が面白いのには
たくさんの理由があると思う。

中でも・・・私の一番のお気に入りは、
現実には絶対にあり得ないはずの会話。

ありそうなんだけれども、
現実には絶対に起こりえない会話のやり取りだ。


例えば・・・

伊坂幸太郎さんの「重力ピエロ」という小説の中に、
こういうやり取りが出てくる。

主人公と、ある探偵との会話だ。

主人公「探偵というからには、助手や事務員がいるんですか?」

探 偵「仕事はひとりでやるものだ」

主人公「ビートルズは四人でやってましたよ」

探 偵「だから解散しただろ。ボブデュランは永遠に解散しないぞ」

主人公「そりゃそうですよ」

というものだ。


何気ない会話だが、
こんな会話が現実世界で行われることは
絶対無いと、断言できる。

なぜならば・・・この会話には間がないからだ。

考えるための間。

将棋でいうところの考慮時間だ。

当たり前の話だが、
こんな何気ない会話に考慮時間などというものはない。

だが、考慮時間無しに
この会話を成立させることは難しい。


まず、主人公の・・・

「探偵というからには、助手や事務員がいるんですか?」

という問いかけに対して、

探偵の答えは・・・

「仕事はひとりでやるものだ」というもの。

カッコいい決め台詞だ。

私もどこかで使ってみたい。

気が利いたセリフではあるが、まあ、ここまでは普通の会話だ。


だが、その探偵の答えに対して、
主人公はこう切り返す。

「ビートルズは四人でやってましたよ」と。

こんなにも面倒くさくて、へそ曲がりで、
それでいて気の利いた切り返しは、普通の人間にはできない。

主人公は
決して頭の切れる設定ではないのに、
この切り返しの見事さはどうだろう。

そして、更に驚くのは・・・その後の探偵のことば。


「だから解散しただろ。ボブデュランは永遠に解散しないぞ」

ですって!!!!!!


「仕事はひとりでやるものだ」の切り返しに
ビートルズが出てきたら、普通はそこで降参である。

にもかかわらず・・・この探偵は、ボブデュランで応戦している。

ここで必要なのが考慮時間なのだ。

私だって・・・

会話と会話の間に30分ほど時間をいただけるのであれば、
この程度に気の利いたセリフは考え付くかもしれない。

しかし・・・

この人たちは
会話の中で瞬時に切り返しているのである。


人間の頭脳では到底不可能だ。

その、
異次元の切り返しに対して、
主人公が最後に言うセリフ、

「そりゃそうですよ」 はないでしょう・・・(^_^;)・・・


「あなたの異次元の切り返しには恐れ入りました」

・・・と降参するべきなのです。

あり得ない言葉を使って、
いかにもありそうなストーリーを作り上げる。


それが小説の面白さの正体ではないかと・・・

私はそう思うのです。


あけましておめでとうございます。

思えば随分と更新をサボってしまいました。

恐縮です・・・m(__)m

今年も宜しくお願いします。(^-^)・・・

さて・・・

一万人にひとりの逸材は、
一万人にひとりしか必要とされない。

もし二人いたら、
五千人にひとりの逸材になってしまうから、
という話ではありません。

そもそも、逸材とは何なのだろう。

100メートルを9秒台で走れる人とか・・・

世の中を変えてしまうような発明家だとか・・・

作る曲が次々にヒットする作曲家だとか・・・

そんな類だろうか。


辞書には、こう書かれている。


逸材とは・・・

「人並み以上に優れた才能。その人物」であると。

???

そして、同義語として・・・

天才・不世出・神童などが挙げられている。

人並み以上を不世出と呼ぶのは、
ちょっと大げさすぎないだろうか・・・(^_^;)・・・

いつも思うのだが、
辞書というものには一貫性がない。

矛盾する内容を
そのまま違うページに載せていたりするし、
そもそも、
肝心要のところが辞書には書かれていない。

「親友」を辞書で引くと、
「特に親しい友だち」と書かれている。


「そのぐらい解るわい!」


そんなことは、誰でも解っているのだ。

どのくらい親しければ親友なのか、
辞書を引く人は、それを知りたいのである。

ちなみに・・・

「不世出」を辞書で引くと・・・

「滅多に世に出ないほど優れていること」と書かれている。

それが、人並み以上と同義語だというのだから、
やはり、大事なことは自分の頭で考えるしかない・・・(^_^;)


十年にひとりの逸材という表現もあるように・・・

やはり、逸材とは
「発生率が少ない+優れている」人材のことだと思う。

何らかの優れた才能を持っていて、
その才能を持っている人の割合が少ないこと。

それが、逸材の条件なのだ。

では、どのくらい少なければ逸材と呼べるのだろう。

百人にひとりか。

一万人にひとりか。

私が思うに・・・

結局は、
そのどちらも逸材なのではないだろうか・・・

百人には百人の・・・

一万人には一万人にひとりの逸材がいる。

例えば・・・

陸上競技には、
100メートル競走、200メートル競走、400メートル競走と、
距離によって競技が異なる。

さらには・・・

800メートル、5000メートル、一万メートルという競技もある。

では、何のために、こんなにも細かく、
競技を分ける必要があるのだろうか???

それは・・・

それぞれに勝者が異なるからだ。

100メートルの勝者が、
200メートルで勝つことはあっても、
全てのレースに勝つことはあり得ない。

それぞれの距離に、それぞれの逸材がいるのだ。

他にも、不思議な分け方をしている競技がある。

たとえば走り幅跳びと、三段跳び。

一歩で跳ぶ距離で競うか、
三歩での距離を競うかの違いであるが・・・

なぜ?二段跳びは無いのだろう。

さらに・・・

走り高跳びに対しては、棒高跳びがあるのに・・・

走り幅跳びに対して、棒幅跳びは無い。

二段跳びや、棒幅跳び、30メートル競走があったなら・・・

きっと、そこにも逸材は存在したはずだ。


競技の種類に関しては、
きっと歴史的な背景があるのだろう。

だから・・・

なぜこのような競技がないのかということを考えても、
そこには意味など無いのかもしれない。

大事なことは、
もしもそういう競技があれば、
そこには新たなスペシャリスト、
逸材が存在したであろうという事だ。

分ければ・・・そこにはスペシャリストが存在する。

その分野では・・・逸材と呼ばれる人たちが。

では・・・

一万人にひとりの逸材とは何か???

それは、
一万人というフィールドにおいての逸材。

そういう意味ではないのか・・・

一万人集まることによって、初めて発動する才能。

5000メートルという競技でだけ
跳びぬけて才能を発揮する選手と同じように。


世界が、もし百人の村だったら、
野球が上手い人よりも
怪力の持ち主のほうが、逸材と呼ばれるに違いない。


百人の村では、
野球の才能はあまり役には立たないからだ。

全ての才能は、
その能力が必要な人数になったときに顕在化する。

一万人にひとりの才能も、
一万人になったときに初めて開花する。

社会から必要とされることによって・・・

個性は、才能へと変化するのである。


2013年も終わりに近づいてきました。

プラウドの14期です。

思えば2000年の創業以来、
安閑とした日々とは無縁であったような・・・^^;・・・

今期は創業以来、お世話になっていたVCから独立しました。

特に独立したかった訳ではなく・・・

関係各位を見渡してみると・・・

それが良かろうと・・・

ここまでの半生を省みると・・・

不思議だなあと思います。

特段、夢と呼べる大きなものもなく・・・

ただただ、その時々に「どうあるべきか」と自問し、
ただただ、「守るべきもの」を守ってきただけのような気がします。

幾多のピンチも周囲の皆さんに支えられ、
何とか乗り越えてきました。

この先、5年・10年と素敵な時間を積み上げて、
「御苦労さん、俺!」って言えるように頑張りますわ・・・(^-^)・・・





今、不思議に思っている事は・・・


人の気持ちって何だろう?



綺麗・汚い・臭い・良い香り・・・等は
ある程度同じなのに・・・

好き・嫌いが、人によって違うのは・・・なぜ?

学生の頃は
可愛い人を見たら胸がキュンとなっていたのに・・・

年齢を重ねるごとに、
胸キュンが少なくなるのは・・・なぜ?

嫌い(苦手)と思っていた人が、
ある日突然気になる人になったり・・・

寝ても覚めても、ずっと想っていた人が、
ある日突然、頭の中から消えたり。

他の動物も同じなのだろうか?

見て解るのはいいけど・・・

見えない部分に関して、
どうも不思議くんが騒ぎます。笑


あんなに親しくしているのに・・・
影では悪口を言っていたり。

いい歳をして、
どうしても人間関係が不思議な今日この頃です・・・


社会の疑問というよりは、人間の疑問。

これを解りやすく解説できたら、ノーベル賞が取れそうです。笑


難しい問題ですが、
ひとつだけ断言できることがあります。


それは・・・

他の動物は、
このような面倒臭い事を、
決してしないだろうということです。


人間は、ややこしい生き物である。


全ては、
そこから始まっていると思うのです。

必要以上に食べてから、
一生懸命ダイエットに励む・・・とか。

飢え死にしそうな人間はそっちのけで、
鯨やイグアナを守る・・・とか。

「何があっても一生愛します」などと
出来もしないことを宣言し、
舌の根も乾かないうちにあっさりと別れる・・・とか。


なぜ???必要もないのに食べるのか。

なぜ???愛していることを他人に宣言するのか。

何のために???絶滅危惧種を救うのか。


論理的に説明がつかないことに、やたら目くじらを立てる割には、
論理的説明がつかないことばかりにエネルギーを費やす生き物。


それが人間なのです。


大好きだけど大嫌い。


何故だか解らないけど好き。


そういうものなのです。

でも・・・

それでは済まされないのです。

面倒くさい生き物なのです。


人間の本質を知りたいと思うのなら、
小説を読むのがいいと思うのです。


答えのないものに輪郭を与えるために、
3行で済む話を30ページに拡大した読み物。


人間には裏表があるとか・・・

愛情は冷めるものであるとか・・・

結論だけ言ってしまえば、それで終了なのです。


でも・・・

小説では、そんなことは許されない。

その結論に
行き着くまでのドラマを何万通りも考え・・・

表現を変え・・・

役者を変えて・・・

何世代にも渡り、読み継がれてきたもの。

小説こそが、人間の人間である証。


人間が、
如何に面倒な生き物かということを証明する、
証拠物件なのです。



世界がもし100人の村だったら・・・

 57人のアジア人
 21人のヨーロッパ人
 14人の南北アメリカ人
 8人のアフリカ人がいます

 52人が女性です
 48人が男性です 

 70人がキリスト教以外の人で
 30人がキリスト教

 6人が全世界の富の59%を所有し、
 その6人ともがアメリカ国籍

 ・・・・・・というような話です。

世界が本当に100人の村だったら、
この6人のアメリカ人は、
すぐに村八分にされますね・・・


でも・・・

実際にはあり得ないのです。


100人の村だったら、
このような偏りは絶対に生まれない。

もしも・・・

世界が100人の村だったら、
お金持ちはいない。

全世界の富の59%なんていっても、
せいぜい家畜くらいなものでしょう・・・

それに・・・

職業も三つくらいしか無いと思います。

食糧確保と・・・

家事と・・・

あとは・・・戦いくらいでしょうか。


残念ながら100人では、職業に幅が出ないのです。


不動産屋も・・・

自動車メーカーも・・・

ペットショップも成り立ちません。

職業に幅が出るためには、
ある程度の大人数が必要なのです。


考えてもみてください。


もしも世界が100人の村だったら・・・

野球選手が食べていけますか?

歌手はどうでしょう?

もちろん・・・

上手な歌にみんなが癒されることはあるでしょう。

しかし・・・

歌を唄う以外に何もしなければ、ご飯を食べてはいけません。

みんなが働いているときに、
野球をやったり、歌を歌ったりしていたら、
「働け!」と怒られてしまいます。笑


そう考えると・・・


特殊な職業が成り立つには、
ある程度の人口が必要なのです。


歌うだけで、
仕事を成り立たせるためには1万人くらいでしょうか。


野球で食べていくには、
10万人くらいは必要かもしれません。

人間は、集まって社会をつくる。

そして・・・

集まることによって、
特殊な隙間産業を生み出している。


・・・だから都会は面白いのです。


色んな特殊なものが、そこにはあるのです。



100万人に一人の才能ならば、
100人分くらいの収入は稼げそうです。

でも・・・

その才能を職業に変えるには、
100万人の人間が必要だということ。

お金持ちなどという特殊な存在は、
何百万人という人間の集まりがあって、
初めて成り立つのです。


考えてみれば・・・


お金持ちも
ひとつの職業だといえるのかも知れませんね。

なんの役に立っているのか、
よく解りませんが、
必要だから存在しているのでしょう。

世界には、60億人も人がいて・・・

物理的にも、情報的にも、
世界はひとつになりつつあります。

60億人も人がいたら・・・

・・・それこそ・・・

誰も思いつかないような仕事をする人も現れるのでしょうね。


お金持ちよりも、
もっと役に立たなさそうな仕事。


そんな仕事を考えてみたいものです。苦笑


小学生の娘に・・・

なぜ、赤信号を渡ってはいけないのか!?!

・・・という質問をされ、

ングッと・・・答えに詰まってしまいました。

それは、足立区にある広い道路を
横断しようとしたときのことでした。

片側一車線ずつの広い道路で、
信号がちょうど赤になったのです。

車がほとんど通らない道で、
右を見ても左を見ても視界は良好。

どう考えても、危険など欠片もないのです。

しかし、信号は赤。

当然のことながら、私は立ち止まります。

ところが、です。

娘が、その赤信号を無視して、
渡ろうとしているではありませんか。

回りには、車の影も人の気配もない。

こんなところで
赤信号を待つ必要があろうはずがない。

そう考えるのも・・・よく解ります。

しかし・・・

私は親として、
娘の信号無視を止めない訳にはいかない。

マイルールでもありますし・・・

そこで優しく注意したわけです。

「信号、赤だよ」と。

娘は、とても意外そうに・・・

「ここで信号を渡ってはいけない理由は何?」

と聞いてくるではありませんか。

もちろん・・・

「いけないものは、いけないんだ。そんなことに理由などあるか!」

と、一喝する方法もあるでしょう。

しかし・・・

それでは、あまりにも芸がない。

そこで・・・

娘が「なるほど!」とうなずくような・・・

切り替えしトークを考えたのです・・・が、

・・・出てこない。

仕方なく、私はこう言いました。

「車が見えないから危険ではないという判断を誰かがしたとする。
 するとその次には、車は見えているけど、危険な距離ではない
 という判断をするようになり、しまいには、
 危険な距離だけどぎりぎりセーフみたいなことになってしまうんだよ・・・」と。

娘は、もうちょっと気の利いた答えを期待していたのでしょう。

「ふうーん・・・」と言って、一緒に信号を待ってはくれましたが、
明らかに私の答えに落胆しているようでした。

くやしい。

とてもくやしい。

親父としての見せ場だったのに。

それ以来・・・

私は、赤信号を渡ってはいけない理由を考え続けました。

たとえば・・・

「赤信号を渡らない人は大金持ちになれる」とか・・・

「全ての信号機には隠しカメラが備え付けられていて、
 将来受験で落とされる」とか。

まあ、色々考えてみたのですが、全部嘘ばっかりなのです。

・・・あたりまえですよね。

赤信号を渡ってはならない理由など・・・

「ルールだ」ということ以外にはないのですから。

ちょっと、悩んでしまいますよね。

車がまったく見えない道路で、
赤信号は、
本当に渡ってはならないのだろうかと・・・

また、つまらない事を考えてしまいました。




貧富の差があってほしい人・・・

無くなって欲しい人・・・

実際・・・どちらの方が多いのだろうか???


人は皆、
支えあって生きている、
協業して生きている。

一人では出来ないことを
組織の力で成し遂げ、
一人では手に入れられないものを
役割分担によって手に入れている。

皆、持ちつ持たれつなのだ。


一人で生きているのに比べたら、
誰しもが、
豊かで・・・恵まれた生活を
手に入れているはずだ。

社会を作り・・・

協業し・・・

役割分担することによって・・・



もしも・・・

無人島に一人流れ着いたとしたら・・・


小さな藁葺きの家を建て、
木の葉や動物の皮で衣装を作り、
小さな畑を手に入れるだけで・・・人生が終わってしまう。


いや・・・

そんな豊かな生活を手に入れることなど
ほとんど不可能で、
実際には生きていくのが精一杯だろう。

それに比べたら・・・

私たち人間は
とても豊かな生活を営んでいる。

日本人は、特にそうだろう。

世界でも有数の
恵まれた生活を手に入れた国民。

それが、私たちだ。


だが実際には・・・


私たちに、
それほどの満足感はない。

それは・・・

自分以上に恵まれた人たちが
目に入ってしまうからだろう。

無人島に流れ着いた自分と比べて、
ああ、なんて自分は恵まれているのだろうと
満足するフリーターがいるだろうか・・・



自分の周りが
自分よりも豊かな人たちで
満たされていたら・・・

到底、
豊かさなど感じることは出来ない。

それが
人間という生き物なのだ。


 
震災で苦しむ人たちを見ると、
少々苦しくても、
自分たちは恵まれているんだと納得する。

テレビに大金持ちが登場すると、
自分だけ
損な役割を引き受けているような気分になる。

つまり・・・

豊かさや・・・

貧しさは・・・

誰と比べるかによって変わる。


私たちは
他人と比べずには
いられない生き物なのだ。 (悲しいかな・・・)


「他人と比べてもしょうがないよ」

・・・などと諭されようとも、
本能だから変えようがない。

比べずには、いられない。


その場合・・・

私たちは
貧富の差が「ある」ことを求めるのだろうか・・・


それとも・・・


貧富の差が「ない」ことを求めるのだろうか・・・



現実は、ともかくとして・・・

そのような
貧富の差を無くそうというのが
共産主義的発想だと思う。


比較する対象がなければ
みんな幸せでいられるじゃないか・・・


だから、
私有財産など持たず、
平等に豊かな生活を手に入れよう。

その思想は
ある意味正しいと思う。

だが・・・機能しなかった。


「頑張っても、頑張らなくても、結果が同じなら、頑張らなくていい」

・・・という結論に、行き着いてしまうからだ。


もちろん・・・

実際には、同じではない。


頑張れば、
皆でより豊かな暮らしが出来るのだし・・・

頑張らなければ、皆、貧乏になる。

だが、それでも・・・頑張らなかった。

それは、多分・・・


みんなで豊かになることに、魅力がなかったからだ。


 
本当のところは・・・


人は、
みんなで豊かになりたいのではなく・・・

他の人よりも、
豊かになりたいだけなのではないのか・・・


それも・・・

出来るだけ、多くの他の人よりも。


もしも・・・

本当に、
みんなで豊かになりたいのなら、
土地など私有化する必要がないと思うのだ。


一人あたり、
50坪なり、60坪なり、を国から支給する。


都心は狭く、
地方なら広くしてもいい・・・

とにかく・・・

土地は国から借りて、国に返す。

そうすれば・・・

土地を購入するために
人生をローンで縛られることもない。

みんな、一戸建てに住める。

子供は、
親の土地にそのまま住んでもいいし・・・

親の土地を返して、
新しい土地を借りてもいい。


大豪邸に住んでいる人もいなければ・・・

ウサギ小屋みたいに
狭いところに住んでいる人もいない。

・・・理想の世界ではないか。


だが・・・誰も、
そんな世界を求めてはいない。


いや・・・正確に言うと、
求めていない人のほうが多い。


アメリカンドリームという言葉に代表される、
「自由で平等なチャンス」を求めている人のほうが
圧倒的に多い。


そこでは、確かに・・・

誰にでも、チャンスはある。


だが・・・

その確率は、天文学的に低い。

人並みはずれた才能と努力・・・

そして、
桁外れの運に恵まれることによってしか
アメリカンドリームは実現しない。

だが、それでも・・・

人間は求める。


他の人よりも、
豊かになることを。


どう考えても・・・

全員が、
そこそこ豊かになる方が
はるかに簡単だと思うのだが・・・(気のせいだろうか???)


結論。


誰が、何と言おうとも・・・


私たち人間は・・・


「貧富の差」を
自ら求めているのである。

多分・・・^^;・・・



最近、
社会というものについて考えています。

社会とは何なのか・・・

社会の入口はどこなのか・・・

社会から脱出したらどうなるのか・・・

そんな事を考えてしまうのです。

「働かないアリに意味がある」という本で
昆虫の社会について勉強したりもしました。

この本は、
驚くほど面白いのですよ。

例えば・・・

働かないアリや、
出来の悪いアリがいたほうが
巣の生産性が上がるそうです。

アリは大きな食べ物を見つけたときに
自分ひとりでは巣に持ち帰れないので、
巣から餌までの道に目印をつけて仲間を呼ぶのです。

ところが・・・

中には出来の悪いアリがいて、
目印を追いかけられない。

道に迷ってしまう。

でも、迷っているうちに
新しい近道を発見するという訳です。

最初に餌を見つけたアリが、
最短距離で餌までたどり着いた訳ではない。

だから・・・

彼の成功パターンを
みんなで真似していても、全体の効率は上がらない。

まるで人間のようですね・・・( ̄ー ̄)bグッ!

この本によると、
集団と社会とは違うようです。

シマウマのように
只、沢山集まっているだけでは
社会とは呼べない。

社会と呼ばれるためには、
それぞれが
役割をもって
組織的に機能していることが
重要なのです。

アリは、
餌を集める係りや・・・

巣を守る係り・・・

子供を育てる係り・・・などに分かれています。

役割分担することによって、
個別では、成し得ない成果を上げる。

それが・・・

社会というものの意味なのでしょう。

多分・・・


人間も
一人では家も建てられませんし、
着るものだって作れません。

みんなで役割分担して協力し合うからこそ、
驚くほどの繁栄を手に入れることができたのです。

ところで・・・

集団で生活をするためには
ルールが必要です。

ルールに則って役割分担したり、
ルールに従わないものを罰したりして
社会は成り立っています。

社会があるところにルールあり。

言い換えれば・・・

ルールをもった集団こそが
社会なのです。

確かに・・・

ルールがなければ
ただの集まりにすぎませんね・・・

ルールは
社会を正常に保つためにある。

それはそれで事実なのですが・・・

もしかしたら
順番が逆かもしれないと思うのです。

ルールが出来たときに
社会が誕生した。

つまり・・・

ルールこそが
社会の正体ではないのかと・・・


社会とは
人の集まりに過ぎません。

人と人の間にルールが生まれたときに、
そこに関係性が生まれるのです。

たとえば・・・

友だちとか・・・

恋人とか・・・

就職とか・・・

結婚だとか・・・


俺とお前とは、友だちだ。

だから・・・

裏切ってはいけないし、
困ったときには助け合わないといけない、とか。

今日からは
恋人同士だから、
他の人を好きになってはいけないよ、とか。

日本国の国民なのだから、
日本の法律を守らなくてはならない、とか。


私は
「星の王子さま」という本が大好きなのですが、
特にキツネの話が好きなのです。

王子様が
友だちを探しているときに
一匹のキツネに出会います。

話をする。

仲良くなる。

でも・・・まだ、友だちではない。

キツネは、王子様に言います。

もしも・・・

友だちになりたいのなら、
毎日、同じ時間に
同じ場所で会わなくちゃいけない。

そうすると・・・

待ち合わせの時間が近づいてくるだけで、
もうそわそわしてくる。

いつの間にか・・・

ただのキツネが、
特別なキツネになっていて、
もう、そのキツネでないといけなくなっている。

それが友達というものなんだ、と。


同じ時間に
同じ場所で会うという約束(ルール)を守ることによって、
ただのキツネが、かけがえのないキツネになるのです。

もう、他のキツネでは駄目なのです。

同じ時間に、同じ場所。

その繰り返し。

それこそが
社会の入口なのではないかと思っています。

あるいは・・・

人との絆。

社会との絆。

毎日、同じ時間に、メールチェックや、FBをチェックし・・・

毎週、たなくじをUPし・・・

その後、チビ達の朝飯を作る。

そういう生活をずっと続けていると・・・

「ああ、俺も社会の一員なんだな」

・・・と実感できるのです。

社会の出口も、
きっと入口のすぐ近くにあるはずです。

そのうちに
探してみようと思います。

もちろん、
まだ出て行くわけにはいきませんけど。 笑


白状します。

自分の事は自分でする。

なんて、よく言っていますが・・・

私は、私以上に
自分のことが出来ない人間を見たことがありません。

自分のことが出来ない大会があったら、
いい線いくと思います。笑


今さらこんな告白をするのは、
別に開き直っているからではありません。

自分のことは自分でやらなくてはならないなと、
反省しているのです。

また、
中途半端にやって、中途半端でいるより
上手な人に依存することを考えるべきだと思うのです。

いや、本来、社長であったとしても、
自分のことくらいは自分でやらなくてはならないのです。

会社でも、
プライベートでも、
自立することが大事なのです。

カーネギーさんの教えも解っているのですが・・・


私は本来、
恐ろしくものぐさな人間で、
ポストなど三ヶ月に一回くらいしか開けません。

仕事で使う鞄の中にも
要らない書類が山のように入っております。

鞄には詰め込める限り詰め込みます。

半年に一度くらい、
もうこれ以上は無理だというくらい鞄が膨れてから、
仕方なく整理をするのです。

整理すると、
三分の一くらいの軽さになります。

そんな重いものを
毎日持ち運ぶ方が大変だろうと、
よく言われます。

でも・・・

そういうことを言う人たちは、
ものぐさの本質を解っていないのです。


いやー熱く語ってしまいました。笑


自分のことは自分でやろうと決意したものの、
ものぐさ人間として言いたいこともあるのです。

だいたい・・・

ものぐさなんて言いますけど、
みんな本当に
自分のことは自分でやっているのでしょうかね。

私は、はなはだ疑問なのですよ、そこが。


いったいどこまでが
自分でやらなくてはならないことなのでしょう。

そして、
どこからは人を頼っても許されるのでしょう。

毎朝、
彼女に起こしてもらわないと起きられないとか・・・

自分では部屋の掃除もできないとか・・・

そのあたりが
ものぐさ駄目人間の境目でしょうか。

あるいは・・・

引越しのときに梱包まで引越屋さんに頼んだり、
ダスキンの人に掃除をしてもらったり、
自分で洗濯できる衣類までクリーニングに出すのも
駄目なのでしょか。

「お金を払っているのだからいいんじゃないの」

という意見もあるでしょうし・・・

「そのくらいは自分でやらないと駄目だ」

という人もいることでしょう。

要するに・・・

その基準は
人それぞれだということなのです。

自分よりも
ものぐさでない人から見れば、
みんな、ものぐさ人間なのです。


 開き直るわけではないのですが・・・

「自分のことは自分で」

なんていうのは
ちょっと傲慢ではないかと思うのです。

人間、誰しも自分のことを
全て自分でできるわけではありません。

荷物を配達してもらったり・・・

ゴミを回収してもらったり・・・

人が育てた植物を買ってきて
あたかも自分が育てたように
喜んだりしているのです。

チョット・・・ひねくれてますかね・・・

泥棒を捕まえたり・・・

信号の色を変えたり・・・

石油やレアアースを確保したり・・・と、
生活に不可欠なことを
誰かが代わりにやってくれているから
人間は生きているのです。

なので・・・

「自分のことは自分ではできない」

というところから出発するのが
正しい大人の考え方ではないかと思うのです。

自分よりも
上手な人に歌を歌ってもらい・・・

自分よりも
運動神経のいい人に野球やサッカーをやってもらい・・・

自分よりも
面白い人にしゃべってもらい・・・

それを見て楽しむ。

人は、そのほとんどを
他人に依存して生きているのではないでしょうか。

自分で出来ることなど、ほんの少ししかありません。

自分を楽しませることも・・・

自分を立ち直らせることも・・・

自分を笑わせることも・・・

みんな、誰かに頼って
やってもらっているのです。

だから・・・

「自分のことは自分でやります」

などという、
おこがましいセリフは口にしてはいけないのです。

やっぱり・・・

自分のことは、自分では出来ないのです。

これからも、
人を頼って生きていこう。

そう・・・自分を納得させるための、
長い長い言い訳でした。


私はお酒が大好きでして、
年間364日はお酒を飲んでいます。

普段は缶ビール1本ですが・・・

若い頃から
ずっとこのような生活をしているので・・・

私の肝臓は、
かなり鍛えられています!?!(酷使→疲弊?)

ビールに換算すれば・・・

10トンくらいは飲んだと思います。笑

「肝臓の悲鳴が聞こえる」などと言いますが・・・

私がその悲鳴を聞いたことはありません。

私の肝臓は口下手なようです。苦笑


お酒というのは、不思議なものですね。

世界中、どこに行ってもお酒はあります。

そして・・・

見事にその土地の料理とマッチする。

フランス・イタリア料理ならワイン。

ドイツ料理ならビール。

日本食には日本酒。

中華なら紹興酒。

焼肉はマッコリ。

見事なものです。

これは私の私見ですが・・・

多分・・・

最初に出来たのは
お酒の方なのではないでしょうか。

そのお酒に合うように料理が作られた。

だからお酒と料理が合うのは
当たり前なのです。

・・などと、お酒の話をしていたら、
本が一冊書けてしまいそうです。


・・・で、今日の本題なんですけど、
「酒は飲んでも、飲まれるな」について、です。


正直、もしもこの世にお酒がなければ、
私は未だに独身だったかも知れません。

友だちも一人もいなかったかもしれません。

社長にだって、なっていないはずです。


酒を飲んで妄想し・・・

酒に酔って閃き・・・

酒に背中を押されて生きてきました。


私の人生は、
酔拳そのものなのかも知れません。笑

もちろん・・・

それによる失敗も、それ相応にありました。

失敗と成功を量りにかけたら
どちらの方が多いのでしょうか・・・orz。


マリファナや大麻と同じように、
酒も法律で禁止されていた過去があります。

まあ、どちらも
感覚を麻痺させるという意味では
同じなのでしょう。

習慣性があるとかないとか、
いろいろ議論はありますが、
なぜ酒が合法なのかは私にもよく解りません。

モチロン、
私は規制されるのは困りますが・・・

多分・・・

酒がなければ、
人類の失敗は半分以下になるような気がします。

私の友人S君などは、殆ど無くなるでしょう。

でも・・・私たちは酒を合法化した。

それはなぜなのでしょうか。

酒は、人の判断を狂わせます。

スピード感覚が鈍ったり・・・

平衡感覚を失ったり・・・

本能がむき出しになったりします。

とにかく、
正常な判断を狂わせるのです。


酒は飲んでも、飲まれるな。

これは、
酒を飲んでも判断を狂わせてはならない、
ということなのでしょう。


しかし・・・です。


飲むことによって判断が狂うからこそ、
得るモノだってあるのではないでしょうか・・・

たとえば・・・

好きな人に告白できたりとか・・・

間がもたない人とでも会話が弾んだりとか・・・

落ち込んでいるのに笑えたりとか・・・


シラフじゃ出来ない行動ができたり・・・

コミュニケーションの潤滑油になったり・・・

必要ないことを忘れてしまえたり・・・

・・・まあ、
いいのか悪いのか分かりませんが、
酒は人の行動と判断を変えてしまうのです。

もちろん・・・

酔って人に迷惑をかけてはいけないと思います。

吐いたり、絡んだり、一人で帰れなかったり、
そんな迷惑はよくないと思います。
(皆さん思い当たるフシが一度や二度はあるでしょう・・・笑)

でも・・・だからといって、
シラフのときと同じ行動や判断をすることが、
正しい飲み方だとは思えないのです。


酒は美味しい。


食事も一段と美味しくなる。


でもそれだけではない。


人は、なぜ酒を飲むのか!?!


人は「判断を狂わせる」ために
酒を飲むのではないでしょうか。

それが
いいことなのか
悪いことなのかは解りません。

解りませんが、
判断を狂わせるために飲んでいることは確かです。


何かを忘れたいとか・・・

言いにくいことを言いたいとか・・・

大胆に行動したいとか・・・

とにかく、
自分の感覚や、
判断基準を入れ替えたいのではないでしょうか。


もしも・・・

全人類が
一日の大半をヨッパライで過ごすとしたら・・・

どちらの判断が
本当の判断ということになるのでしょう。笑

シラフのときの判断か。

あるいは
酔っているときの判断か。


結局・・・人は何かに酔っているのです。

常識とか・・・

法律とか・・・

民主主義とか・・・

社会保障とか・・・

何らかの先入観で
人の脳みそは酔わされている。


無人島で一人だけの人生になったら・・・

酔っていても、いなくても・・・

あまり変わらないような気がします。

どうなんでしょう・・・そんなとき。

あなたなら、
一人の人生を酔って過ごしますか?

それとも、シラフで過ごしますか?


私ならきっと、
8割くらいはヨッパライですね。

たま~にシラフになって、自己嫌悪を楽しむのです。 (^_-)-☆