失望感の大きいドローだった・・・

ドイツ2006の時とも少し違う・・・


敵陣に人数はそろっていても、足は止まったまま・・・

3人目の動きどころか、パスを引き出す受け手の動きすら少なかった・・・

フィジカルのコンディションにも問題があったのではないか?

そう思わざるを得ないほど、個々の動きは重かった。

パス交換の呼吸も合わず、命綱のコンビネーションも最後まで空回り。

それならば・・・

ドリブルを仕掛ける手もあったはずだが、
大久保以外に独力突破を試みる勇者も見当たらなかった・・・

終盤、吉田麻也を前線に上げるパワープレーや
3枚目のカードを使わない交代策にどんな論拠があるのだろう・・・

次々と浮かび上がる疑問符が消えない。

追い詰められた者同士の戦いとは、こういうものか。

敗北を恐れ、互いに腰の引けた戦いに終始した感が強い。

確かに、日本は狙いどおりに球を支配することができた。

ポゼッションの率は実に68%だ。

ギリシャが退場者を出したことで、ボールの支配力に拍車がかかった。

しかし・・・それだけだ。

守備ブロックの外側で、用心深くつなぐばかり。

肝心のゴール前に球が入らず、枠内シュートはわずか11本に終わった。

ギリシャは8人が後退して守りに回っている。

最前線に残るのは1人だけ・・・

この状況においてもなお、日本は最終ラインに人がだぶついていた。

 
DFを1人ベンチに下げ、攻撃のカードを切る手立てはなかったか・・・

ボランチの1枚が積極的にエリア内へ侵入していく選択肢はなかったか・・・

せっかくの数的優位を生かせないままだった。orz。


監督にも・・・

選手たちにも・・・

リスクを冒す勇気が足りなかった・・・(・_・;)


ギリシャのプレスが甘く、中盤で楽につなげる展開だったからこそ、
余計に悔いが残るはずだ!!

 
それにしても、日本の動きがあそこまで鈍いのは、なぜなのか???

リスクを恐れるメンタルの問題だけではあるまい。

日本が10人のギリシャから奪えたのは、勝ち点1だけ・・・

1次リーグ突破の可能性が残っているというよりも、
その可能性を広げるチャンスを逃したと言った方が正解だろう。

現地で応援したサポーターはもちろん、
出社や登校前にテレビで声援を送った多くの日本人も、
悔しい思いで1日を過ごしたはずだ。

 
前半は、両チームとも勝利を目指した激しい戦いだった。

初戦に敗れている日本とギリシャだから、
1次リーグ突破には勝ち点3が欲しい・・・

しかし・・・

同38分にギリシャのMFカツラニス主将が退場。

これで、試合の流れは変わった。
 
10人になった直後こそ攻めに出てきたギリシャも、
後半に入ると明らかな引き分け狙い。

全員が自陣に引いて、ゴール前にブロックを作った。

日本は勝つことを放棄したギリシャから、
ゴールを奪うだけだった。

・・・筈だ!!!

しかし、守備には定評のあるギリシャの目的が明確になり・・・ブロックを創られる。

堅固な守備ブロックをこじ開けるのは、簡単ではない。

日本は後半から遠藤を投入し、
さらにベンチスタートだった香川も送り出した。

それでもシュートはブロックされ、クロスは次々とはね返された。

最大のチャンスは後半23分、
香川から右サイドのDF裏に飛び出した内田にパスが通る。

ダイレクトで折り返したボールにフリーで走り込んだ大久保が左足を合わせたが、
大きくゴール左に・・・

日本中がため息に包まれた瞬間だったろう。

結局、その後もギリシャの堅守を破れずに試合は終わった。

 
勝ち点3が必要なギリシャが積極的に前に出てくれば、
岡崎や大久保でDFの裏を突くのは決して難しくないと思っていた。

ところが・・・

10人になった相手が勝利を放棄した時点で、日本の勝ち目は薄くなった。

数的優位は、試合展開の優位につながらなかった。

 
もっとも・・・

10人の相手に勝てなかったのは事実。

相手は1人少ないのだから、勝つための手があったのではと思う。

途中で切った遠藤と香川の2枚のカードは機能していた。

なぜ、3枚目のカードを切らなかったのか・・・

「やりきった」感がなかったのは、そのためかもしれない。

 
ザッケローニ監督は試合後の会見で「青山起用は考えた」と話していた。

1本のパスで相手DFのスキを突ける青山は、
堅固なギリシャの壁を破るのに有効だったのではないか・・・

交代選手が活躍する大会だけに、交代枠を使い切らない采配は残念だった・・・

 
この日、コロンビアがコートジボワールに勝ち、
勝ち点6で1次リーグ突破を決めた。

日本は25日に、そのコロンビアと対戦する。

勝って勝ち点を4にすれば、
同時刻に行われるコートジボワール VS ギリシャの結果次第で1次突破の可能性はある。

 
日本が突破する可能性を整理しよう。 

日本がコロンビアに勝つことを前提に・・・

(1)コートジボワール勝利(2)引き分け(3)ギリシャ勝利、とする。

(1)は勝ち点を6にしたコートジボワールとコロンビアが進出(日本は敗退)。

(2)はコートジボワールと勝ち点4で並ぶ。
   日本が1点差勝利なら得失点差も0で並ぶが、
2点差以上の勝利なら日本が上回って1次突破。

(3)はギリシャと勝ち点4で並ぶが、
   現時点で得失点差マイナス1の日本が同マイナス3のギリシャを上回って
   決勝トーナメントに進める可能性が高い、となる。


 
最終戦、他力になるのは間違いないが、それでも全力で勝ってほしい。

1勝もできないのと・・・

最後に勝つのでは・・・

4年後に向けて、日本のサッカーにとって大きく違う。

日本らしいサッカーを最後に見せてくれれば・・・

この失望感も少しはおさまると思う・・・多分(^_^;)





前半16分、
本田の先制点を喜ぶとともに頭の片隅に嫌な予感が走った。

やや劣勢のゲーム展開の中、唐突な先制点。

ここから主導権を握れるか・・・

結果は・・・押しつぶされるような展開からの連続失点。

・・・逆転負け。

試合を見た限り、敗戦の要因は3つ・・・

・前半、ボールを奪われすぎて体力を消耗しすぎたこと

・前線で機能しない大迫、なかなか調子が上がらない香川にこだわりすぎたこと

・逆転するための戦術的なアプローチにブレがあったこと


監督も、選手も総じて・・・
試合を振り返って「日本のサッカーができなかった」と話した。

この日の日本代表は、
昨年11月の欧州遠征やW杯前の準備試合の日本代表とは違った。

「日本らしいサッカーって何?」。

選手が連動し、素早いパスをつなぐ攻撃的スタイル。

カギを握るのは選手間の距離だ。

前線からDFラインまでをコンパクトに保ち、狭い範囲で多くの選手がプレーする。

足もとの技術が高く、敏捷性もある日本人に合ったスタイル。

それが、この4年間で磨いてきた「日本のサッカー」だ。

個よりも組織で戦う日本にとって、
最も重要なのは選手たちが意識を共有すること。

11人が同じ考え、
同じ思いでプレーすることが日本スタイルのベースだ。

選手の意志統一のために、
ザッケローニ監督は「攻撃サッカー」を掲げた。

全員が「攻める」という意識を強く持つことで、
DFラインは高く保たれ、選手間の距離も短くできる。

ここ数試合、選手たちの意志は統一されていた。

きっかけは「先制点を奪われる」ことだったようにも思う。

リードされれば、攻めるしかなくなる。

攻撃的なスタイルは保たれる。

しかし、リードした場合は状況が変わる。

「攻める」のか「守る」のか・・・

選手たちの気持ちにズレが生じれば、
日本スタイルの攻撃サッカーはできなくなる。

後半、日本は「間延び」していた。

前線とDFラインが遠くなり、選手間の距離も広がった。

パスが通らなくなり、カットされて相手に攻められる。

これでは連動もできないし、組織の力は半減する。

選手の疲労もあっただろうし、足が止まったのも確か。

ただ、その根底に選手たちの意識のギャップがあったのかもしれないと思う。

大事な1次リーグ初戦で1-0のリード。

「守りきろう」という意識が芽生えるのも不思議ではない。

途中出場したドログバの脅威に、どうしてもDF陣は引き気味になる。

前線の選手は「守ってないで追加点を奪おう」と積極姿勢を崩さない。

強烈なカリスマで選手の意志を1つにできる選手がいればいいが、
本田がいくら「攻めよう」と鼓舞しても、後ろは「そうは言っても…」となる。

これでは、
日本スタイルの攻撃サッカーはできない。

「先制点が日本のサッカーを封印した」は言い過ぎかもしれないが、
日本のスタイルでもある「攻撃サッカー」が貫けなかったのは事実。

コートジボワールに反撃されても、なお攻めの姿勢を貫き、
DFラインを高くして選手間の距離を詰める勇気が必要だった。

まだ1試合が終わっただけ。

残り2試合に連勝すれば、1次リーグ突破の可能性は十分にある。

もう勝たなければいけない。

勝つしかない。

1次リーグ3試合を1つの試合だと思えば、
まだ30分経過時点でリードを許しただけ。

次からは、逆転勝ちを狙ってチームが1つになり、
日本らしい攻撃サッカーをやってくれるに違いない。

2006年のようなガッカリは御免だ!



人間の脳みそは
20~30%しか使われていないという話だが、
本当のところはどうなのだろう。

実は・・・100%使われているという説もあるが・・・

詳しいことは、まだ解明されていないようだ。

すべての脳細胞が、何らかの役割を担っている。

そういう意味で
100%使われているというのは納得できるのだが・・・

余力を残していないという意味において
100%使われているとは思えない。

これは脳だけでなく、肉体でも同じだ。

人間はいざという時には、
アドレナリンが放出されて「火事場の馬鹿力」を発揮するといわれてる。

つまり・・・

普段は100%の力が出ないように
制御されているのだろう・・・

「余力」がまったくない100%の状態というものは
非常時にのみ発動されるもので、
人間の意思ではどうしようもない領域なのだと思う。

きっと・・・

100%では肉体も精神も、もたないのだ。

それは、
仕事のパフォーマンスや時間の配分においても同じだと思う。


イチロー選手は野球がうまくなるために、
すべてのものを犠牲にしているというようにも見える。

食事や睡眠、遊ぶ時間でさえも、
野球中心に組み立てられているように見える。

そこまで徹底しなくては、
あれだけのパフォーマンスを維持し続けることはできないだろう。

だが・・・

そうだからといって
1%も無駄な時間がないのかと言えば・・・

そんなことは、あり得ないとも思う。

あのイチロー選手にしたところで・・・

野球には全く関係のない時間、
あるいは、
野球にとってマイナスの時間がゼロだとは思えない。

普通の人間に比べて、
ものすごく少ないことは確かだろうが・・・

それでも、無駄な時間は必ず存在する。

それは、イチローも人間であるからだ。

たまに・・・

「俺は24時間仕事のことを考えている」という社長や・・・笑

「一分一秒たりとも無駄にはしない」というビジネスマンがいる。


まあ・・・

そのくらい一生懸命に仕事のことだけを考えている
という比喩としてはいい。

だが、現実的には不可能だ。

人間は・・・

その持てる時間を100%の集中力で使い続けたり、
能力の100%を発揮し続けたりすることはできない。

ものすごく主観的な意見を言わせてもらうなら・・・

それこそ
20~30%も発揮できないまま終わっていくのだと思う。

あのイチロー選手ですら、50%発揮できているかどうか・・・

それが、現実だと思う。


つまり・・・

私が言いたいのは、こういうことなのだ。

人間は恐ろしいほどの「潜在能力」を秘めている。

使えていない時間や、能力の方が遥かに多いのだ。

それを使いこなすには・・・

どうしたらいいのだろう。

今まで以上の努力か・・・

あるいは、
神のごときストイックな自制心が必要なのか・・・

いや、違うだろう。

結局人間はどんなに頑張ってみても
20~30%の能力しか使えないのだ。

そのことにおいては
イチロー選手がすでに証明してくれている。

あれ以上のストイックな生き方は、
普通の人間にはできない。

それでもやっと50%なのだ(まあ、私の主観であるが)。

大事なのは・・・

30%のパフォーマンスを
50%にすることではない。

どの、30%を使うのかということなのだ・・・


今現在、
ものすごく頑張っている・・・

あるいは、
もうこれ以上頑張れないという人でも・・・

その能力の70%は起動していない。

と、するならば・・・

もしかしたら、
その起動していないものの中に、
人生を変えてしまうような才能が眠っているかもしれないのだ。

私たちにとって、最大の金の鉱脈。

それは
自分自身の潜在能力なのかもしれない。

いままで全く知らなかったことや・・・

興味の無かったこと・・・

やったことがないこと・・・

そういうところに、鉱脈は眠っているような気がする。

私も51歳にして、
掘ったことの無いところを掘り返してみようかと思っている。

さて、何が出てくるのやら。 (^^)ww



人間同士は
言葉によってコミュニケーションする。

もちろん、
身振り手振りのようなボディーランゲージもあり、
そちらの方がより重要だという人もいる。

だが基本的には、言葉だ。

外国に行くときに
その国の言葉を学ぶことはあっても、
ボディーランゲージを学ぼうという人はいないだろう。

そういう学校があっても面白いとは思うのだが・・・

・・・それこそ漫才だ。

やはり
ボディーランゲージだけでコミュニケーションすることは
現実的ではない。

それは
言葉を補うためのサポートツールであると捉えるべきだ。

他にも文字、手話など、いろいろな伝達手段があるが、
そのベースになっているのはやはり言葉である。

まず、言葉ありき。

言葉が生まれたことが、
人間を他の動物たちと異ならしめたのだと思う。

言葉は動物たちにはできない
細かいコミュニケーションを可能にした。

そして・・・

その代償として、
コミュニケーションの限界を作った。

人と人とは
100%分かり合うことができないのだ。

言葉という壁がある限り。

コミュニケーションには
二つの方向性があると思う。

ひとつ目は、
伝達する情報の量だ。

「こんにちは」

「さようなら」という程度の会話ならば
ボディーランゲージでも十分なのだが・・・

料理のレシピや機械の取り扱い説明を
ボディーランゲージだけで伝えるのは不可能だ。

より細かい情報を正確に伝えようとすると、
その情報量は膨大なものになる。


膨大な情報を簡潔に伝えるために、
言葉は不可欠なのである。


人間同士のコミュニケーション、
特に同じ言語を使う人間同士のコミュニケーションにおいては、
細かいことがより正確に伝わる。

言葉を有しない動物には、とてもこんな芸当はできないだろう。

一方で・・・

コミュニケーションのもうひとつの方向、
伝える情報の正しさというものにおいてはどうだろう。

正確に伝えることと、
正しく伝えることは、まったく違う。

「好きだ」といえば「好きだ」という、言葉の意味は正確に伝わる。

だが・・・

それによって「好きだ」という感情が伝わるとは限らない。

そもそも・・・

「好きだ」と言いながらも、
大して好きではない場合もあるし・・・

「嫌い」と言いながら、
本当は大好きという場合だってある。

言葉は、
ある一定の情報を正しく伝える代わりに、
言葉で表現できないモノのコミュニケーションを阻害する。

「ワン」とか「ニャー」という
言葉とは言えない会話のほうが、
情報は少ないながらも
伝えたいことがより正しく伝わっているのではないか。


「伝えたいこと」をいったん「言葉」に翻訳し、
その「言葉」を受け取った側が翻訳し直して
「伝えたいであろうこと」を受け止める。

このコミュニケーションには問題がある。

「言葉」によって表現できることには限界があるし、
言葉を使うスキルによって誤解も生まれる。

「言葉」そのものが伝わらない原因を生んでいるのだ。

そこで考え出したのが・・・

言葉を超える装置である。

頭で考えていること、伝えたいことが、
100%正確に相手の頭の中で再現される装置。

それがあれば誤解が生まれることもないし、
伝えたいことが伝わらないというジレンマからも開放される。

言葉では伝えられない感情や、
その感情を抱くことになった背景など、
時間をかけないと分かり合えなかった事柄も一瞬で共有できる。

この装置ができてしまえば外国語を勉強する必要もなくなるし、
誤解が原因の喧嘩や争いごとも減るだろう。

言語や文化を超えた新しい人間関係が
生み出されていくことにもなる。

考えてみれば・・・

恋愛も、ビジネスも、政治も、経済も・・・

全ては
人間同士のコミュニケーションで成り立っているのだ。

言葉を超えるコミュニケーションが発明されたら、
世界は劇的に変わると思うのだが・・・

あるいはそれは、
世界を破滅に導く第一歩になるかもしれない。

伝わらないことによって、
人は関係を保っているとも言えるのだから・・・


また随分とサボってしまいました。

反省・・・m(_ _)m

お陰様でプラウドは無事に14期を締めくくりまして・・・
15期に突入致しました。

思えば、30代後半だった私も50代です。

まったく、光陰矢の如し・・・とはよく言ったもんです。

さて・・・

私も若い頃は、
「生きる意味」とか・・・
「自分らしさ」ばかり考えている人を、
ちょっとバカにしていましたね。

暇な人というよりは・・・

弱い人なのだと決めつけていました。

「俺はそんなには弱くない」

「何があっても傷つかない」

「挫けない」

「自分の力で立っていられる」

そう、信じていました。

しかしですね、
まあ、生きていると色々あるわけで・・・

会社が潰れそうになったり・・・

借金で首が回らなくなったり・・・

毎日人に頭を下げて回ったり・・・

社員がいっぱい辞めていったり・・・

本当に実際・・・色々あったわけです。

特に離婚と社員の離職は、結構、傷つきましたね。

やっぱり人間を一番傷つけるのは・・・

出来事ではなくて、人間そのものです。


中でも・・・

一番人を傷つけるのは、自分自身なのです。

自分で自分を傷つけるようになったら・・・

これはもう耐えることができません。

私はキツかった時期・・・

ただただ、「生きる」こと。

これだけを肝に銘じて生きていました。

それで・・・生きる意味についてなんですけど、
やっぱり考えるようになるわけです。

俺は、いったい何のために生きているのだろうかと。

その疑問は、
どんどん大きくなっていきます。

そして、
人間は何のために生きているのか?という
根源的な疑問にぶち当たるわけです。

環境が大事だなんて言うけれど、
環境を破壊しているのは人間ではないか。

鯨とかイルカとか
自分たちが好きな動物だけ守ろうとする。

その一方で・・・牛や豚を食うためだけに飼育する。

可愛がっているペットを去勢したり、捨てたりもする。

ベジタリアンにしても
生命を食べているのは変わらないわけで、
動物は駄目で植物ならいいという境目も曖昧。

しかし・・・

そんなことを言っていたら生きていけない。

オゾン層が危ないなどと、
心配しているけれども、
太陽が燃え尽きることは心配しなくて良いのか。

あと40億年したら、
太陽は確実になくなっているのだ。

そうなったら地球も終わりなのだ。

じゃあ、何のために生きているのだ。

・・・などという、
たわいもない、役にも立たない妄想を、
するようになるのです。

まあ、ひと言で言えば歳ですね。

歳を取ったのです。

かれこれ十年くらいは考えていましたね。

生きることの意味について。

で・・・結論はこうです。

「生きることに意味など無い。」

それを言っちゃあおしまいだよと、
言われそうですけど・・・

もうちょっと丁寧に言うと、こういうことです。

生きることに意味など無い。

生きることに意味を持たせるのが人生なのだ。

それができるのは自分だけだ。

・・・ということです。


ありのままの自分とか・・・
本当の自分を探すことが大事なのではなく・・・

受け入れることが
大事なのではないでしょうか。

本当の自分なんて、
今ここにいる自分以外にはないのですから。

人間の人生なんて、あっという間です。

大したことなんてできません。

お金持ちになるとか、
大統領になって国を動かすとか、
人を感動させる歌を作るとか、
私たちが凄いと感じていることも、
他の動物からすれば・・・

「何やってるんだか・・」って感じですよ。きっと・・・

結局・・・

私たちは
人間に認められるために生きているのです。

特に、自分に近い人間に。

特に自分自身に。

だからまず・・・

自分のことを
好きになることが大事ですよね。

それから・・・

家族だとか、友だちだとか、同僚だとか、
身近な人をできるだけ好きになって・・・

その人たちに
「あなたがいないと駄目だよ」とか・・・

「あなたがいてくれて嬉しいよ」とか・・・言われて・・・

そして
「ああ俺ってなかなか素敵な人間かも・・・」なんて、
感じることができたら・・・

それが、最高の人生なのだと思います。

でも、その一方で・・・

私は、無駄な抵抗を続けようとも思っています。

「俺は他の人間とは違う。俺だけは違う。断じて違う。」

という無駄な抵抗です。

本当は、みんな大して違わない。

そんなことは、
解っているのですけれどもね・・・


でも・・・それじゃあ人生つまらないじゃないですか・・・(^^)

だから、抵抗してやるのです。

人間の運命に、逆らってやるのです。

神様にだって、逆らってやるのです。


小説という妄想の書物には、
どこにも無いはずの答えが書かれていたりする。

だから私は、
答えの無い問いに直面したときには、
小説を読むことにしている。

???

いや、ただの習慣かも知れない・・・中毒か???

そこには・・・

深くて、美しくて、醜くて、いいかげんで、
とても人間的な答えが書かれている。

小説は本当に面白い。

もしも残りの人生で、
小説かテレビか、どちらか一方を選べといわれたら、
私は迷わずに小説を選ぶだろう。

それにしても・・・

小説はなぜあんなにも面白いのだろうか。

映画化されたものなどは、大概原作に負けている。

ストーリーの奇抜さ・・・

登場人物のカッコよさ・・・

流れるような文体・・・

まあ、小説が面白いのには
たくさんの理由があると思う。

中でも・・・私の一番のお気に入りは、
現実には絶対にあり得ないはずの会話。

ありそうなんだけれども、
現実には絶対に起こりえない会話のやり取りだ。


例えば・・・

伊坂幸太郎さんの「重力ピエロ」という小説の中に、
こういうやり取りが出てくる。

主人公と、ある探偵との会話だ。

主人公「探偵というからには、助手や事務員がいるんですか?」

探 偵「仕事はひとりでやるものだ」

主人公「ビートルズは四人でやってましたよ」

探 偵「だから解散しただろ。ボブデュランは永遠に解散しないぞ」

主人公「そりゃそうですよ」

というものだ。


何気ない会話だが、
こんな会話が現実世界で行われることは
絶対無いと、断言できる。

なぜならば・・・この会話には間がないからだ。

考えるための間。

将棋でいうところの考慮時間だ。

当たり前の話だが、
こんな何気ない会話に考慮時間などというものはない。

だが、考慮時間無しに
この会話を成立させることは難しい。


まず、主人公の・・・

「探偵というからには、助手や事務員がいるんですか?」

という問いかけに対して、

探偵の答えは・・・

「仕事はひとりでやるものだ」というもの。

カッコいい決め台詞だ。

私もどこかで使ってみたい。

気が利いたセリフではあるが、まあ、ここまでは普通の会話だ。


だが、その探偵の答えに対して、
主人公はこう切り返す。

「ビートルズは四人でやってましたよ」と。

こんなにも面倒くさくて、へそ曲がりで、
それでいて気の利いた切り返しは、普通の人間にはできない。

主人公は
決して頭の切れる設定ではないのに、
この切り返しの見事さはどうだろう。

そして、更に驚くのは・・・その後の探偵のことば。


「だから解散しただろ。ボブデュランは永遠に解散しないぞ」

ですって!!!!!!


「仕事はひとりでやるものだ」の切り返しに
ビートルズが出てきたら、普通はそこで降参である。

にもかかわらず・・・この探偵は、ボブデュランで応戦している。

ここで必要なのが考慮時間なのだ。

私だって・・・

会話と会話の間に30分ほど時間をいただけるのであれば、
この程度に気の利いたセリフは考え付くかもしれない。

しかし・・・

この人たちは
会話の中で瞬時に切り返しているのである。


人間の頭脳では到底不可能だ。

その、
異次元の切り返しに対して、
主人公が最後に言うセリフ、

「そりゃそうですよ」 はないでしょう・・・(^_^;)・・・


「あなたの異次元の切り返しには恐れ入りました」

・・・と降参するべきなのです。

あり得ない言葉を使って、
いかにもありそうなストーリーを作り上げる。


それが小説の面白さの正体ではないかと・・・

私はそう思うのです。


あけましておめでとうございます。

思えば随分と更新をサボってしまいました。

恐縮です・・・m(__)m

今年も宜しくお願いします。(^-^)・・・

さて・・・

一万人にひとりの逸材は、
一万人にひとりしか必要とされない。

もし二人いたら、
五千人にひとりの逸材になってしまうから、
という話ではありません。

そもそも、逸材とは何なのだろう。

100メートルを9秒台で走れる人とか・・・

世の中を変えてしまうような発明家だとか・・・

作る曲が次々にヒットする作曲家だとか・・・

そんな類だろうか。


辞書には、こう書かれている。


逸材とは・・・

「人並み以上に優れた才能。その人物」であると。

???

そして、同義語として・・・

天才・不世出・神童などが挙げられている。

人並み以上を不世出と呼ぶのは、
ちょっと大げさすぎないだろうか・・・(^_^;)・・・

いつも思うのだが、
辞書というものには一貫性がない。

矛盾する内容を
そのまま違うページに載せていたりするし、
そもそも、
肝心要のところが辞書には書かれていない。

「親友」を辞書で引くと、
「特に親しい友だち」と書かれている。


「そのぐらい解るわい!」


そんなことは、誰でも解っているのだ。

どのくらい親しければ親友なのか、
辞書を引く人は、それを知りたいのである。

ちなみに・・・

「不世出」を辞書で引くと・・・

「滅多に世に出ないほど優れていること」と書かれている。

それが、人並み以上と同義語だというのだから、
やはり、大事なことは自分の頭で考えるしかない・・・(^_^;)


十年にひとりの逸材という表現もあるように・・・

やはり、逸材とは
「発生率が少ない+優れている」人材のことだと思う。

何らかの優れた才能を持っていて、
その才能を持っている人の割合が少ないこと。

それが、逸材の条件なのだ。

では、どのくらい少なければ逸材と呼べるのだろう。

百人にひとりか。

一万人にひとりか。

私が思うに・・・

結局は、
そのどちらも逸材なのではないだろうか・・・

百人には百人の・・・

一万人には一万人にひとりの逸材がいる。

例えば・・・

陸上競技には、
100メートル競走、200メートル競走、400メートル競走と、
距離によって競技が異なる。

さらには・・・

800メートル、5000メートル、一万メートルという競技もある。

では、何のために、こんなにも細かく、
競技を分ける必要があるのだろうか???

それは・・・

それぞれに勝者が異なるからだ。

100メートルの勝者が、
200メートルで勝つことはあっても、
全てのレースに勝つことはあり得ない。

それぞれの距離に、それぞれの逸材がいるのだ。

他にも、不思議な分け方をしている競技がある。

たとえば走り幅跳びと、三段跳び。

一歩で跳ぶ距離で競うか、
三歩での距離を競うかの違いであるが・・・

なぜ?二段跳びは無いのだろう。

さらに・・・

走り高跳びに対しては、棒高跳びがあるのに・・・

走り幅跳びに対して、棒幅跳びは無い。

二段跳びや、棒幅跳び、30メートル競走があったなら・・・

きっと、そこにも逸材は存在したはずだ。


競技の種類に関しては、
きっと歴史的な背景があるのだろう。

だから・・・

なぜこのような競技がないのかということを考えても、
そこには意味など無いのかもしれない。

大事なことは、
もしもそういう競技があれば、
そこには新たなスペシャリスト、
逸材が存在したであろうという事だ。

分ければ・・・そこにはスペシャリストが存在する。

その分野では・・・逸材と呼ばれる人たちが。

では・・・

一万人にひとりの逸材とは何か???

それは、
一万人というフィールドにおいての逸材。

そういう意味ではないのか・・・

一万人集まることによって、初めて発動する才能。

5000メートルという競技でだけ
跳びぬけて才能を発揮する選手と同じように。


世界が、もし百人の村だったら、
野球が上手い人よりも
怪力の持ち主のほうが、逸材と呼ばれるに違いない。


百人の村では、
野球の才能はあまり役には立たないからだ。

全ての才能は、
その能力が必要な人数になったときに顕在化する。

一万人にひとりの才能も、
一万人になったときに初めて開花する。

社会から必要とされることによって・・・

個性は、才能へと変化するのである。


2013年も終わりに近づいてきました。

プラウドの14期です。

思えば2000年の創業以来、
安閑とした日々とは無縁であったような・・・^^;・・・

今期は創業以来、お世話になっていたVCから独立しました。

特に独立したかった訳ではなく・・・

関係各位を見渡してみると・・・

それが良かろうと・・・

ここまでの半生を省みると・・・

不思議だなあと思います。

特段、夢と呼べる大きなものもなく・・・

ただただ、その時々に「どうあるべきか」と自問し、
ただただ、「守るべきもの」を守ってきただけのような気がします。

幾多のピンチも周囲の皆さんに支えられ、
何とか乗り越えてきました。

この先、5年・10年と素敵な時間を積み上げて、
「御苦労さん、俺!」って言えるように頑張りますわ・・・(^-^)・・・





今、不思議に思っている事は・・・


人の気持ちって何だろう?



綺麗・汚い・臭い・良い香り・・・等は
ある程度同じなのに・・・

好き・嫌いが、人によって違うのは・・・なぜ?

学生の頃は
可愛い人を見たら胸がキュンとなっていたのに・・・

年齢を重ねるごとに、
胸キュンが少なくなるのは・・・なぜ?

嫌い(苦手)と思っていた人が、
ある日突然気になる人になったり・・・

寝ても覚めても、ずっと想っていた人が、
ある日突然、頭の中から消えたり。

他の動物も同じなのだろうか?

見て解るのはいいけど・・・

見えない部分に関して、
どうも不思議くんが騒ぎます。笑


あんなに親しくしているのに・・・
影では悪口を言っていたり。

いい歳をして、
どうしても人間関係が不思議な今日この頃です・・・


社会の疑問というよりは、人間の疑問。

これを解りやすく解説できたら、ノーベル賞が取れそうです。笑


難しい問題ですが、
ひとつだけ断言できることがあります。


それは・・・

他の動物は、
このような面倒臭い事を、
決してしないだろうということです。


人間は、ややこしい生き物である。


全ては、
そこから始まっていると思うのです。

必要以上に食べてから、
一生懸命ダイエットに励む・・・とか。

飢え死にしそうな人間はそっちのけで、
鯨やイグアナを守る・・・とか。

「何があっても一生愛します」などと
出来もしないことを宣言し、
舌の根も乾かないうちにあっさりと別れる・・・とか。


なぜ???必要もないのに食べるのか。

なぜ???愛していることを他人に宣言するのか。

何のために???絶滅危惧種を救うのか。


論理的に説明がつかないことに、やたら目くじらを立てる割には、
論理的説明がつかないことばかりにエネルギーを費やす生き物。


それが人間なのです。


大好きだけど大嫌い。


何故だか解らないけど好き。


そういうものなのです。

でも・・・

それでは済まされないのです。

面倒くさい生き物なのです。


人間の本質を知りたいと思うのなら、
小説を読むのがいいと思うのです。


答えのないものに輪郭を与えるために、
3行で済む話を30ページに拡大した読み物。


人間には裏表があるとか・・・

愛情は冷めるものであるとか・・・

結論だけ言ってしまえば、それで終了なのです。


でも・・・

小説では、そんなことは許されない。

その結論に
行き着くまでのドラマを何万通りも考え・・・

表現を変え・・・

役者を変えて・・・

何世代にも渡り、読み継がれてきたもの。

小説こそが、人間の人間である証。


人間が、
如何に面倒な生き物かということを証明する、
証拠物件なのです。



世界がもし100人の村だったら・・・

 57人のアジア人
 21人のヨーロッパ人
 14人の南北アメリカ人
 8人のアフリカ人がいます

 52人が女性です
 48人が男性です 

 70人がキリスト教以外の人で
 30人がキリスト教

 6人が全世界の富の59%を所有し、
 その6人ともがアメリカ国籍

 ・・・・・・というような話です。

世界が本当に100人の村だったら、
この6人のアメリカ人は、
すぐに村八分にされますね・・・


でも・・・

実際にはあり得ないのです。


100人の村だったら、
このような偏りは絶対に生まれない。

もしも・・・

世界が100人の村だったら、
お金持ちはいない。

全世界の富の59%なんていっても、
せいぜい家畜くらいなものでしょう・・・

それに・・・

職業も三つくらいしか無いと思います。

食糧確保と・・・

家事と・・・

あとは・・・戦いくらいでしょうか。


残念ながら100人では、職業に幅が出ないのです。


不動産屋も・・・

自動車メーカーも・・・

ペットショップも成り立ちません。

職業に幅が出るためには、
ある程度の大人数が必要なのです。


考えてもみてください。


もしも世界が100人の村だったら・・・

野球選手が食べていけますか?

歌手はどうでしょう?

もちろん・・・

上手な歌にみんなが癒されることはあるでしょう。

しかし・・・

歌を唄う以外に何もしなければ、ご飯を食べてはいけません。

みんなが働いているときに、
野球をやったり、歌を歌ったりしていたら、
「働け!」と怒られてしまいます。笑


そう考えると・・・


特殊な職業が成り立つには、
ある程度の人口が必要なのです。


歌うだけで、
仕事を成り立たせるためには1万人くらいでしょうか。


野球で食べていくには、
10万人くらいは必要かもしれません。

人間は、集まって社会をつくる。

そして・・・

集まることによって、
特殊な隙間産業を生み出している。


・・・だから都会は面白いのです。


色んな特殊なものが、そこにはあるのです。



100万人に一人の才能ならば、
100人分くらいの収入は稼げそうです。

でも・・・

その才能を職業に変えるには、
100万人の人間が必要だということ。

お金持ちなどという特殊な存在は、
何百万人という人間の集まりがあって、
初めて成り立つのです。


考えてみれば・・・


お金持ちも
ひとつの職業だといえるのかも知れませんね。

なんの役に立っているのか、
よく解りませんが、
必要だから存在しているのでしょう。

世界には、60億人も人がいて・・・

物理的にも、情報的にも、
世界はひとつになりつつあります。

60億人も人がいたら・・・

・・・それこそ・・・

誰も思いつかないような仕事をする人も現れるのでしょうね。


お金持ちよりも、
もっと役に立たなさそうな仕事。


そんな仕事を考えてみたいものです。苦笑