「優秀な人材」・・・は企業によって異なる。

その通りですね。

世の中には
色々な仕事がありますから、
求められる能力も仕事によって変化します。

その際、重要なことは、
職種で能力を切り分けないことだと思います。

たとえば・・・

「営業職」ならば、
明るいとか、物怖じしないとか、
押しが強いとか、そいういう分類をしないことです。

一口に営業といっても、
そのやり方によって求められる能力は違います。

だからまずは、
自社の事業モデルを分解すること。

つまり・・・

自分たちが

「何をもって他社との差別化を図っているのか」

ということ。


そしてそれを

「どうやって顧客・見込み客に伝えているのか」

ということです。

自分たちがやっている仕事を
細かく分類していけば、
求める能力は明確になります。

そしてもうひとつ・・・

採用時に
見抜いておかなくてはならないのが
「価値観」です。

会社が目指す方向に賛同しているかどうか。

実は
これが能力以上に重要なのです。

そして・・・

価値観の共有を目的とした採用をする場合、
まずやらなくてはならないのが
社長と社員との価値観の共有です。

当たり前の話ですが、
そもそも社内の価値観が一致していなければ
採用などできません。

社員によって欲しい人物像が異なるとか・・・

話す相手によって内容が変わるとか・・・

それでは
面接を受ける側は戸惑うばかりです。

採用活動に真剣に取り組むのなら、
自社の事業の整理と価値観の整理・共有を
同時に行う必要があります。

同時に行うことによって、
価値観の共有度合いが
飛躍的に向上するのです。

採用活動は
組織強化活動でもある。

そう認識しても
間違いでないと思います。

では、
新しい人材、優秀な人材を受け入れるためには
何が必要か。

これも答えは同じです。

採用活動をしながら、
受け入れ態勢も整ってくる。

これが正しい採用のやり方だと思います。

教育体制が整っていないという理由で
採用を躊躇する会社がありますが、
これはナンセンスだと思います。


車の運転をせずに
運転技術が向上するでしょうか?

子供がいないのに
子育てだけが上手くなるでしょうか?

育てる対象が出来て、
初めて人は育てることを考えます。

そして・・・

優秀な人材が
下から入ってくること自体が教育なのです。

同じ方向を向いた優秀な人材を、
まずは入社させること。

すべては、そこから始まるのです。

先日、知人とビールを飲みに行きました。

都内にあるお店で、
クラフトビールがとても美味しいのです。

私はペールエールいうビールが好きで、
この日もさっそく注文しました。

この日は
ペールエールとムール貝の白ワイン蒸し。

そして、ベルジアンフリッツがあれば、
もう幸せいっぱいな気分になります。

このお店は、結構人気店らしく、
18時頃になるともう満席になってしまいます。

私はカウンターが好きなのですが、
その日はもういっぱいでした。

仕方なくテーブル席に座って、
ビールとおつまみを注文しました。

しばらくすると雪解け水のように美しい
IPA(インディア・ペール・エール)が運ばれてきました。

よく冷えたジョッキグラスに満たされたクラフトビール。

飲む前から幸せな気分に浸っておりました。

それから・・・

20~30分は飲んでいたでしょうか・・・

頼んだおつまみが一向に出てこないのです。

お店が混んでいる上にスタッフは二人だけ。

調理はバーテンダーさんが掛け持ちでやっていますから、
まあ仕方ないことなのです。

が・・・ビールはすでに二杯目。

クラフトビールはアルコール度数が高めなので、
つまみがないとすぐに酔っ払ってしまいます。

私は仕方なく、
すぐに出てきそうな、おつまみを注文しました。

すると・・・

ホール担当の人が

「今調理が混んでいるので時間がかかります」

というのです。

「だから調理のいらないものを頼んでいるんじゃないか!」

と言いたくなりましたが・・・

そこはグッと堪らえました。

なぜならば・・・

そのスタッフの女性が、とても美人だったからです。

人間、どんな状況に置かれようとも、
美しい人がいればハッピーになるものです。

私はおつまみが来ないことなど、
まったく気にならなくなりました。

「ぜんぜん大丈夫ですからね。気にしないでくださいね・・・(^-^)・・・」

などと愛想笑いなど浮かべてしまう自分が・・・

情けないやら、嬉しいやらです・・・^^;・・・

そうこうしているうちに、
お待ちかねのムール貝が運ばれてきました。

ムール貝を食べて、よく冷えたビールを飲む。

ベルジアンフリッツを食べて、またビールを飲む。

これ以上の幸せなどあるでしょうか・・・

・・・でも、その時にです。

常連らしき酔っ払いの若い男が、
私たちのテーブルのすぐ横にある
冷蔵庫を勝手にかき回し始めたのです。

知った顔で冷蔵庫のビールをガチャガチャと出し入れします。

すぐ横でガチャガチャやられると、うるさくてしょうがない。

さらに・・・

横にいる私にビールの出し入れを手伝わせようとするのです。

なんと、
あつかましい人なのでしょうか・・・

本当に迷惑な話です。

でも、手伝ってやりました。

なぜならば、美人のスタッフさんが ・・・

「すみませんね」

という顔で微笑んでいたからです。


綺麗な人が微笑むと、何でも許してしまう。

これはもう、仕方のないことでしょう。

その後、
ハイボールを頼んだ私に彼女はこういいました。

「すみません。ソーダが品切れなのです。
 買ってくるまで待っててください」と・・・^^;・・・

もちろん・・・

待ちましたとも。

バーなのにソーダが品切れ?

・・・いいじゃないですか。

・・・美人なのですから。(^-^)・・・

三時間近く飲んだでしょうか・・・


まあ、待っている時間の方が長かったかもしれませんが・・・苦笑

私たちは会計をして、帰ることにしました。

旨いビールとおつまみ、そして微笑み美人に乾杯!!



さて・・・決算の目処もつき、
ブログの固め打ちをしている訳だが・・・

諸処の事情により、
お金について、考えているうちに・・・

個々人の懐具合や・・・

それによる幸せ・・・って、
お金持ちって・・・

そもそも、
お金持ちの定義って
どんなもんだろうか・・・などと
考えてしまった。


私は正直、
自分のことを金持ちだと感じたことはない・・・

情けないことに・・・もちろん、貯金もない。


それでも、普通の人より
たくさん稼いでいたことは確かである。

もちろん、
他の経営者ほどではないが・・・

それなりに、
いい暮らしをしていたと思う。

そして、
その暮らしには、
いつ終止符が打たれるかもしれない。

いわば、
不確かな身分の代わりなのかもしれない。

つまり・・・

貯金も・・・

収入も・・・

ほとんどないという状況に
いつ直面してもおかしくないということなのだ。

・・・で、しみじみと考えたのである。

お金持ちとは
いったい何なのだろうかと。


まず・・・

「あの人はお金持ちだ」と言われるためには・・・

その名の通り、
ある程度のお金を持っていなくてはならない。

早い話・・・

大金を所有していればお金持ちなのだ。

では、
その大金をなくしてしまったらどうなるか。

やはり、
金持ちではなくなってしまうだろう。

今、この瞬間に
お金を持っている人が金持ちであり、
もっていない人は、
金持ちではない。

シンプルな話だ。

つまり・・・

お金持ちというのは、
閉じられた時間の中でしか
存在しないのである。

まあ・・・

私も
しみじみと考えたのだから、
ちょっとくらいは
面倒くさい表現も許して頂きたい。m(__)m・・・


要するに・・・

今、お金持ちの人も
ずっと金持ちとは限らないということである。

そこで!考えたのだ。

「お金持ち人生だった」と、
満足して死ぬためには・・・

どういう条件が必要なのだろうかと。


生まれてから・・・死ぬまで。

そう!

ずっと金持ちだったのなら
話は簡単であるが・・・

そうでない場合は、どうなるのだろう。

人生の前半戦は、
とても貧乏だったが、
後半になって巨万の富を得た人。

これはやはり、
金持ちだったと言えるのではないか。

では反対に、
人生の前半戦は金持ちでも
後半にお金がなくなった人の場合はどうだろう。

「金持ち人生だった」と、
満足するのは難しいのではないか。

人生の最後が
金持ちで終わることが重要、そんな気がする。


人生が・・・

金持ちと貧乏の繰り返しだった場合・・・

最後が
金持ちであることが
重要なのだろうか。

それとも・・・

金持ちである期間が、
長いことが重要なのだろうか。

いくら最後が金持ちでも、
前半の99%が貧乏で、
最後の数日間だけが金持ちというのでは
「金持ち人生だった」と
満足して振り返ることは出来ないだろう。


信じて貰えないかもしれないが、
私は何も「金持ちだった」と満足して
死にたいわけではない。

いずれ、
自分の人生を、どう振り返り、総括するのか・・・

自分の中で
きちんと予測しておきたいのである。


金持ちになることと、
金持ちで居続けることとは違う。

社長になることと、
社長で居続けることが違うことであるように。

私は自分の人生を、
金銭的には、どう振り返るのだろう。

社長だった自分を
どう振り返るのだろう。


この先・・・

二度と社長には
ならないかもしれないし・・・

また、社長になるかもしれない。

ずっと、
貧乏な生活が続くかもしれないし・・・

また、
豊かな生活を手に入れるかもしれない。

社長も・・・

お金持ちも・・・

閉じられた時間の中でしか、存在しないのだ。


また新しい時間の扉が開き・・・

そして、閉じられる。


また開いて、閉じられる。


人生は
閉じられた時間の繰り返しなのだ。


それが・・・

あと何度繰り返されるのか、私には解らない。

だが、いつか・・・

閉じられた時間の束を、
整理する日が来るだろう。

そのとき私は・・・

自分の人生を
どう振り返るのだろうか・・・


人間は猿よりも、
アリに似ているような気がする。

それは、
アリストテレスが言うところの、
人間は「社会的動物」である・・・

・・・というところから思うのだ。

もちろん・・・

ゴリラやチンパンジーだって群れを形成するし、
顔や体つきは、
蟻よりも遥かに人間に似ている。

チンパンジーと人間のDNAを比較すれば
95%以上が一致しているというのだから、
物体的に近いということは認めざるを得ない。

だが、それでも人間は・・・

猿よりも
圧倒的に蟻に近い生き物なのではないかと
酔っ払う度に疑っている。笑


例えば、住居・・・

人間が暮らす団地やマンションは、
よく見ると蟻塚にそっくりだ。

蟻塚や蜂の巣を見ていると、
その建築技術と美的感覚に驚かされることがある。

役割ごとに作られた部屋、
きれいな六角形を積み重ねた形、
なんて凄い生き物なのだと
蟻や蜂をみて感じるのは、
たかが虫のくせにという先入観があるからだ。

どんなに大きな蟻塚や
幻想的なスズメバチの巣にしたところで、
人間が作る高層ビルやガウディーの建築物の比ではない。

人間と比べちゃいかんだろうと思うかもしれない。

だが・・・

人間の次くらいに頭がよさそうな
鯨やチンパンジーでは、
このような建造物を作ることは到底できない。

人間がチンパンジーよりも
頭がいいことは確かだが、
頭の良さと建築の技術は
一致しないということでもある。


話がややこしくなってきた。苦笑

要するに・・・

私が言いたいのは、
人類の進歩は
頭脳の発達によるものだけではない、
ということだ。

人間は群れを作り、
社会を形成することによって進化してきた。

それが
蟻に似ていると思うのだ。

猿も、シマウマも、
群れを作るが、
ひとつの群れを構成する固体の数は
蟻の比ではない。

人間は
他の生物と違って・・・

いくつもの社会(群れ)に所属している。

家族や、
会社ということで考えれば、
その群れの構成要員は
数人から数十人でしかなく・・・

この人数ならば、蟻よりも猿に近い。

だが・・・

国家という括りで群れを捉えるならば・・・

その構成要員は億を越えているし、
小さな地方都市でさえも
数万人という固体を要している。

人間が
チンパンジーと圧倒的に異なるのは、
5%のDNAや
そのDNAによってもたらされる
脳みその質量ではなく、
群れを構成する固体の数であると思うのだ。

エジプトのピラミッドや
中国の万里の長城は、
確かに当時としては、
凄い建築技術で作られている。

では・・・

なぜそのような建築物を作ることが出来たのだろう。

猿から進化し、
ある程度の大きさに脳みそが発達したからか。

いや違う、と私は思う。

ピラミッドや万里の長城は、
技術もさることながら
数によって作られたのである。


その昔、「数は力だ」と・・・

田中角栄さんが言っていたと思う。

それはもちろん、
民主主義における
有権者の数の力ということなのだろうが・・・

民主主義でなかったとしても
人間のパフォーマンスは
数によって決まるのだと思う。

今現在の大富豪が
どんなにお金をかけたところで
万里の長城を作ることはできないし・・・

大きな橋ひとつ作るだけでも大変だ。

それは・・・

集められる人間の「数」が違うからだろうと思うのだ。


かつての権力者は
地域一帯の人間を集めてくる力を持っていた。

ローマ帝国の最盛期には、
人類の四分の一を支配していたそうである。

科学技術が進歩したから
他の地域を支配できたのか・・・

あるいは・・・

群れが大きくなったから
科学技術が進歩したのか。


私は後者だと思う。


人類が月まで行けるようになったのは、
技術が進歩したからではなく、
何億人という人間から
税金を徴収できるようになったからだろう。

もしも・・・

世界人類が
ひとつの国家を作り上げ・・・

その構成要員が
60億人を越えたとしたら・・・

人間は・・・いったい・・・

どんなものを創り出すことになるのだろう。




私の中ではいつも・・・

下記の2つの命題がせめぎ合っています。

「適切な雇用調整をして人件費を軽くしたい・・・」

「有望な若手を採用し、会社の土台造りを進めたい・・・」

・・・という、
二つの想いが交錯しており、
なかなか自分で自分を納得させる理由が
見つかっていません。

最後は・・・

自分で決めなければなりませんが・・・

最近、経営者の友人からも
似たような相談を受けました。


「しんどい時にこそ、採用をしましょう。
 なぜならば、そういう時でないと、
 良い人材は、なかなか採れないから。」

と、通常ならば答えるでしょうね。


13年前に会社をスタートさせた時、
私はこう考えました。

「どんな業種を選ぶかは、問題ではない。
 優秀で、ハートのある人材だけで事業をやれば、
 何をやっても成功する。」

経営者の最大の仕事は、
優秀な人材を集めて離さない求心力なのだと、
本気で考えていました。


いや・・・今でもそういう気持ちはあります。

ただ・・・

若い頃のように単純ではないということです。

そもそも、
優秀な人材などというものは、
条件によって変わります。

ある会社で活躍していた人が、
他の会社では全然駄目なこともあるし・・・

優秀な営業マンだけど、
他の人材のやる気をなくしてしまう人もいる。

どのような環境においても
最高の能力を発揮する人材など、
最初から存在しないのかもしれません。

人を採用しても、
即戦力になることなどまずありません。

入れ替えたいと思っている人材でさえも、
新入社員よりは仕事ができるでしょう。

今いる人材を整理して、新しい人材を採用する。

それは・・・

とても矛盾することのように
感じてしまいますよね。

今いる人材で、
出来る限りの利益を出し、
余裕が出来たところで新しい人材に投資する。

これが、常識的な判断ですよね。

余裕がないときに、
海のものとも山のものとも分からない人材に投資する。

そういう社長は大抵、
組織の中では浮いてしまうものです。

業績がいいときには、
社員もついて来てくれますが、
業績が落ちてきたときには
社員の心は離れていきます。

では・・・

今なら
私も常識的な経営をするのか。

なかなか答えにくい。
答えに窮する質問です。

が、正直に答えます。

私は・・・

何度でも同じことをするでしょう。

私は、自社の社員を好きですし、
そうでない社長は
如何なものかと思います。

しかし・・・

どんなに思いを込めても、
社員はいずれ入れ替わっていきます。

結婚もするし・・・

独立もするし・・・転職もする。

円満な退職もあれば、
そうでない退職だってあるのです。

それは、避けようのないこと。

もちろん、
避ける努力はしないといけないですけど。

結局・・・

会社というものが存続していく以上、
採用しないという選択肢などないのです。

であれば・・・

もっとも優秀な人材が取れる環境で投資をする。

会社の存続を第一に考え、
長期的視野に立てばたつほど、
そういう答えに行き着くのです。

採用することによって、資金繰りが厳しくなる。

お金が回らないかもしれない。

そういう環境ならば、
私も採用を躊躇するかもしれません。

しかし・・・

「社員の理解が得られない」

・・・という理由では、
絶対に採用をやめないでしょう。


もしも・・・

小説を書くとしたら・・・

SF小説を書いてみたい。

例えば、
高橋克彦さんの「竜の棺」のような・・・

有川浩さんの「塩の街」のような・・・

壮大な妄想と終わらない問いかけを
後の世に残すのだ。


そう考える反面、
自分では絶対に書けないだろうとも思う。

SF小説は・・・

あまりにも多くの制約で成り立っているからだ。

もちろん、
恋愛小説や推理小説ならば書けるというわけではない。

どれもこれも・・・

簡単に書けないことは同じなのだが、
SF小説は、まったく別の意味で難しい。

小説が・・・

どのように分類されているか、
よくは知らないのだが・・・

私の勝手な分類において
SF小説は、
人間と何かの間に起こるドラマだ。

それ以外の小説は・・・

人間同士が生み出すドラマ。

あるいは・・・

人というものを
深く掘り下げた思想や哲学が基盤となっている物語。

自分の中に深く深く入り込んでいって、
人間の正体を突き止める。

これはこれで、
なかなか難解な作業だと思うのだが、
SFは違う意味で難しい。

SFは他の小説とは
まったく逆のアプローチで成り立っているように見える。

人間の中に入り込むのではなく、
人間を起点として、
外へ外へとイメージを広げていくのだ。

他の分野に比べれば・・・

SF小説の方が、
ずっと制約が少ないので、
より自由な物語を作れると感じている人は
多いかもしれない。

例えば・・・

推理小説で、
犯人が透明人間でしたとか・・・
幽霊でした・・・などということになると、
読者は怒り出すだろう。

犯人は普通の人間、
しかも登場人物の中にいなくてはならない。

そうでないと、
推理小説にはならないからだ。

それに比べると・・・

SF小説はルールが緩い。

宇宙人でも・・・

地底人でも・・・

超能力者でも・・・出したい放題だ。笑


出したい放題、作りたい放題で、
自由極まりない。

だがそれは、
何でもありという意味ではない。

ただ単に、自由の範囲が広いだけだ。

フィクションは架空の物語で・・・
ノンフィクションは真実の物語。

では、サイエンスフィクションとは何か???


それは・・・

科学のルールに縛られない、
架空の物語ということになる。

やっぱり、
何でもありじゃないかと思うかもしれないが、
これが実際に物語を考えてみると
厄介なのである。

科学のルールに縛られない小説。

それは、すなわち・・・

科学の常識に縛られてはいけない小説であるとも言える。

科学の常識をひとつも踏み外さないものは
SFとは言えないからだ。

では反対に・・・

科学の常識を
完全に逸脱したらどうなるだろう。

これもやはり、
SFとは言えないのである。


科学のルールに縛られないということは、
何でもありということではない。

なぜならば、
全ての制約をなくしてしまったら、
ストーリーにはならないからだ。

例えば・・・

刺されても死なない人間が出てきて盛り上がるのは、
人間は刺されたら死んでしまうという
制約があるからだ。

「普通は死ぬのだけれど、
 この人は、これこれこういう理由で死なない」

という・・・面倒な前置きがあって、
初めてSFのストーリーは成り立つのである。

宇宙人であるとか・・・

超能力者であるとか・・・

クモに刺されたとか・・・

何かが必要なのだ。


何の前置きも制約もなく、
いきなり科学のルールを無視してしまうと、
それはストーリーにはならない。

SF映画を見て

「なんかつまらない作品だったな」

・・・と感じる場合、
それは想像力に欠ける作品であることよりも、
ルールを無視しすぎて
現実味がなさ過ぎる作品であることのほうが多い。

あり得ない話であるにもかかわらず、
制約が必要なのがSFなのだ。

科学のルールを必ずどこかで破りながらも、
基本的には
科学のルールに基づいて創られなくてはならない。

そう考えると・・・

会社の経営も
SF小説に似ているのかもしれない。

どんな商売をやっても自由なのだが・・・

やはり、そこには制約がある。


そして・・・

何を制約にするのかによって・・・

いい作品にも・・・

悪い作品にも・・・なってしまう。


決断と判断とは違う。

よく考えて、
慎重に選べば、答えが出るのが判断。

どんなに考えても答えが出ないのが決断。

どちらかが
確率的に少しでもベターなのであれば、
そちらを選ぶのが基本であり、
そのような
判断に経営者が携わる必要はない。

一方・・・

どちらも五分五分。

あるいは・・・

確率的に
不利な方を選択しなくてはならない場合。

そこには
トップの決断が必要となる。

大きなリスクを抱えるジャッジにこそ!

経営トップの決断が必要なのだと、
私は今まで言ってきたし、
今でもそうだと強く信じている。


果たして・・・

私自身に
そのような決断力があったのか???

ということなのだが、
残念ながら、そこには自信がないし、
たらればに意味はないでしょう。


大事なのは・・・

ブレない信念と、決断のスピードだ。

ブレないことは・・・

想像を遥かに超えて難しい。

ブレないこと。

それはちょうど
免振構造のビルのような感じだと思う。

揺れてはいるのだが、
全体として揺れを吸収している。

そして倒れない。

それに比べて、耐震構造のビルは
揺れそのものを押さえ込もうとする。

揺れは少ないのだが、脆い。

ある一定以上の力がかかると、
折れてしまう。

鍛え過ぎた刀のように。

本当の強さには“しなり”が必要なのだ。


ブレない経営。

それは・・・

しなる経営とも言えるだろう。

だが・・・

“しなり”と“ブレ”の違いは、
終わってみないと解らない。

経営においては、
最終的な目的が変わらないことが
ブレないことなのだと思う。

そして・・・

最終的な目的を達成するためには、
途中の「ブレ」は、
「しなり」として吸収しなくてはならない。

だが、そもそも・・・

最終的な目的とは何なのだろう???


ミッションを達成することか・・・

利益を最大・最適化することか・・・

あるいはイイ会社を作り上げることだろうか。


その全てをクリアしようとすると、
「しなり」の無い脆い会社になってしまう。

では、やはり・・・

ミッションの達成を
最優先事項に掲げるべきか。

利益も待遇も犠牲にし、
全力を持ってミッションを達成する。

そんな会社で
働きたいという社員がいるのだろうか。

私達は
ミッションマニアではなく、
一人の人間だ。

頑張りながらも、
息抜きをしたり、無駄遣いをしたり、
後悔をしたりしながら生きている、
普通の人間に過ぎないのだ。

では・・・

大切なのはバランスか。

程よい環境、適切な利益、無理のないミッション。

無理せず自然体で、出来る範囲で頑張ればいい。

だが、そんなことで・・・

偉大なミッションを達成する会社など、出来るのだろうか。

私達は
歴史に何かを刻むためではなく、
唯・・・生きるために生きている。

それで、いいのだろうか。

結局、なにが究極なのか、
何が本当の最終目的なのかが
解らなくなる。

その結果、目の前にある“捨てたくないもの”や
“失いたくないもの”に固執してしまい、決断が遅れる。

私がやってきたことは
最善手だったのだろうか・・・

今になって思うのだ。

では、意味のある先延ばしとは
いったい、どのようなものなのだろう。

残念ながら・・・

私にはまだ、その答えが見つけられない。

私の中では
ミッションという言葉の定義そのものが
ブレ始めているのだ。

ミッションの主語が見つからない。

それは・・・

私のミッションなのか。

あるいは会社のミッションか。

はたまた、社長としてのミッションか。


人間が何のために
この地球上に生きているのか・・・

私は、その意味を確信できていない。

最終的なミッションが、
明確であるならば・・・

小さな揺れは
「しなり」として吸収できる。

だが・・・

最終ミッションが明確でないならば・・・

その「しなり」は、
ただの凡手となるかもしれない。

ぐらぐらする私には、
そのボーダーを見分けることができない。

リーダーは
決して揺れてはならないのだ。

頑張れ、俺!!



書くことは・・・

残すことだと思っています。

自分の感じたことや・・・

考えたことを言葉にして残す。

それはそれで、
責任の伴うことなのでしょうし・・・

取り消すわけにも
いかないことなのでしょう。


かっこ悪い自分や・・・

情けない自分や・・・

傲慢になっていた自分など・・・

残したくないものも
たくさんありますが・・・

まあ・・・

それも含めて
自分という人間なのでしょうし・・・

別段、
隠し立てするほどのものでもないでしょう。


私は・・・

何の因果か社長になってしまった、
チョット理屈っぽい癖に、
気持ちが熱い小市民です。苦笑


劣等感の塊を背負って生きてきて・・・

その荷物を降ろしたくて・・・

等身大の自分で生きて行きたくて・・・

もがいてきた人間です。

いろんなことがありましたが、
別に後悔はしていません。

自然体で生きられるようになっってきた、
自分が結構好きです。

皆さんが
どう思われるかは解りませんが・・・

ありのまま、感じたままを
これからも書き続けようと思います。

とは言っても、
独り言を言いたいのではありません。

そこに人がいることが解っていて・・・

私は書いているのですから・・・




14期が始まりました。

こんな折ですが・・・

また、
書いてみようと思うのです。

なぜ書くのかというと、

「書かねばならない」というような
後ろ向きの義務感ではなく・・・

とは言え・・・

「書きたい。書かずにはいられない」

という気持ちでもない。

やはり・・・

「書かないわけにはいかない」

というのが今の本音でしょうか。


「そこに山があるから」

という気持ちに似ているかもしれません。


山というのが、何を指しているのか、
私にもよく解りません。

でも・・・

そこに山があることは確かなのです。


これから予見される変化によって・・・

「何かを学んだ」とか・・・

「何かを失った」とか・・・

「何かを得た」とか・・・

まだまだ、
言える状態ではありません。

創業以来、13年間で・・・

何も学んでいないかもしれないし・・・

何かを得たのかもしれないし・・・

何かを失ったのかもしれません。


でも、今の私はその真っ只中にいすぎて、
よく解らないのです。

ただ、
ひとつだけ確実に言えることがあります。

それは、
自分の中で何かが変化したということです。


もう二度と
元の通りには戻せない変化。

ゆでた卵を
生卵には戻せないように。

42度を越えて凝固したタンパク質は、
もう二度と元の状態へは戻せないのです。


私は今でも
社長であることには変わりありません。

しかし、
以前とは明らかに何かが違う。


たぶん・・・

それは
私自身にしか解らないと思います。


周りから見たら、
元気がないとか・・・

覇気がないとか・・・

色艶が良すぎるとか(笑)・・・

見えることでしょう。


きっと・・・

私は変化してしまったのだと思います。


創業以来13年間・・・


ずっと握り続けてきた何かを凝視し・・・

何かをイメージした瞬間に・・・

私は別のところに来てしまいました。


別に意味深に何かを表したい訳でもなく・・・

ただ、私の中で何かが変わったと思うのです。

それだけは確信できます。

その何かが、
何を意味するのか、
それは私自身にも、よく解らないのです。

ただ、一度それを手放せば、
もう二度と元に戻ることはないんだと思います。

なんとなくですけど。

私の変化とは、何だったのでしょう。

それによって、
私自身は、
どう変化してゆくのでしょう。


心配されそうなので、
これだけは断言しておきますが、
私は仕事を辞めるつもりはありません。

事業を組み立て直すことに、
全力を尽くそうと思っています。

応援してくれるお客さんや、
ついてきてくれる社員もたくさんいますし・・・

なぜか、ありがたいことに・・・

周囲の期待をひしひしと感じてしまうのです。


今までよりも、
もっともっといい仕事をしよう。

恩義を受けた人に、少しでも恩返ししよう。

そういう意欲は、持っているのです。

ただ、その意欲・・・そのエネルギーの源泉が、
変わってしまったような気がするのです。


私の源泉は、何だったのでしょう。

「意地」でしょうか。

「責任感」でしょうか。

それとも・・・

「根拠の無い自信」でしょうか。苦笑

今の私には、
その答えが解りません。

最後まで握り締めていたものが、何だったのかも・・・

解らないのです。

いずれにしても、
私は山を登り続けます。


そこに、山がある限り。

そこに、人がいる限り。

私自身が、生きている限り。




「ブルーレット置くだけ」を
トイレの浄水槽に設置しながら、
ふと考え込んでしまった。


これは、
かなりの贅沢品なのではないかと・・・

他にも・・・

アロマオイルやサプリメント・・・

スリッパだって・・・

別になくても生活は出来る。

こうした贅沢品は、
使わないようにすることが
必要なのではないのか???


そう考える反面・・・

こうも思うのだ。

もしも、必要不可欠なものだけで
全国のみんなが生活を試みるとする。

そうすると・・・

今まで売れていたものが、どんどん売れなくなる。

生産している会社や・・・

販売しているお店・・・

そして、
そこで働く社員さんたちの収入は激減する。

これは、全く以って、よくない傾向だろう。

今より、
消費が後退すれば、
景気は悪くなり、東北支援どころか
自分たちの生活すら、
立ち行かなくなってしまうだろう。

と、いうことは・・・

「ブルーレット置くだけ」は、
やはり設置した方が良いということか。

なくても、
生活に支障はないのだけれども・・・笑

あれば、便利で使い続けているもの。

そういうものが
私たちの周りには、たくさんある。

ほんのチョットした贅沢・・・

それらは、
私たちの日常に、
心のゆとりをもたらすと同時に、
経済を支える必需品であったりもするのだ。



では、野球をやること、
そのものはどうなのだろう・・・


高校野球や、プロ野球で、
一生懸命にプレーし・・・

見ている人を元気にすることも
重要な目的なのかもしれないが・・・

そもそも・・・

正直、これらは、
言い出せばきりがないだろう。

コーヒーを飲むことや
お菓子を食べる事だって贅沢な話で・・・

それらに使っているお金と時間を・・・

復興や、モット有用な、何かの為に・・・

捧げるべきだと言われれば・・・

・・・もっともな話だと、答えざるを得ない。


千円や二千円程度を寄付したくらいで、
全力支援と言えるのだろうか。

今日も居酒屋で、
飲んで騒いでいる連中はたくさんいる。

飲んでいる場合なのか、
歌っている場合なのかと言われれば、
答えに窮してしまいそうだ・・・


それでは・・・

私たちは、
どうすればいいのだろう。

野球をやめて・・・

サッカーもやめて・・・

酒も飲まず・・・

歌も歌わず・・・

一円でも無駄なお金は使わず・・・


使える限りの時間とエネルギーを
復興や世の中の為に、
捧げるべきなのか。

だが、
そんなことをすれば消費が落ち込み、
経済が更に悪化することは明白である。


国民が無駄なことを
まったくやらなくなったら・・・

立ち行かなくなる仕事は
いくらでもある。

タクシーに乗ることも・・・

焼きたてのパンを食べることも・・・

娯楽番組を見ることも・・・

なくなってしまったら・・・


それは
理想の未来とは、言えない・・・間違いなく!!


豊かな生活は、
無駄を無くすことではなく・・・

みんなが・・・
少しずつ無駄なことをすることによってしか、
手に入らない。

野菜を作る人・・・

家を建てる人・・・

病気を無くす人。

そういう必要不可欠な仕事に加えて・・・

美味しいコーヒーを淹れる人・・・

心震わせる歌を歌う人・・・

人を楽しませて笑いをつくる人・・・などが、
仕事として成り立つ社会こそ・・・

本当に
豊かな社会と言えるのではないだろうか。


贅沢と豊かさのあいまいな境目は、
どこにあるのか・・・

人間らしく生きる事・・・

このあいまいな関係・・・とても素敵だと思います。