小学生の娘に・・・

なぜ、赤信号を渡ってはいけないのか!?!

・・・という質問をされ、

ングッと・・・答えに詰まってしまいました。

それは、足立区にある広い道路を
横断しようとしたときのことでした。

片側一車線ずつの広い道路で、
信号がちょうど赤になったのです。

車がほとんど通らない道で、
右を見ても左を見ても視界は良好。

どう考えても、危険など欠片もないのです。

しかし、信号は赤。

当然のことながら、私は立ち止まります。

ところが、です。

娘が、その赤信号を無視して、
渡ろうとしているではありませんか。

回りには、車の影も人の気配もない。

こんなところで
赤信号を待つ必要があろうはずがない。

そう考えるのも・・・よく解ります。

しかし・・・

私は親として、
娘の信号無視を止めない訳にはいかない。

マイルールでもありますし・・・

そこで優しく注意したわけです。

「信号、赤だよ」と。

娘は、とても意外そうに・・・

「ここで信号を渡ってはいけない理由は何?」

と聞いてくるではありませんか。

もちろん・・・

「いけないものは、いけないんだ。そんなことに理由などあるか!」

と、一喝する方法もあるでしょう。

しかし・・・

それでは、あまりにも芸がない。

そこで・・・

娘が「なるほど!」とうなずくような・・・

切り替えしトークを考えたのです・・・が、

・・・出てこない。

仕方なく、私はこう言いました。

「車が見えないから危険ではないという判断を誰かがしたとする。
 するとその次には、車は見えているけど、危険な距離ではない
 という判断をするようになり、しまいには、
 危険な距離だけどぎりぎりセーフみたいなことになってしまうんだよ・・・」と。

娘は、もうちょっと気の利いた答えを期待していたのでしょう。

「ふうーん・・・」と言って、一緒に信号を待ってはくれましたが、
明らかに私の答えに落胆しているようでした。

くやしい。

とてもくやしい。

親父としての見せ場だったのに。

それ以来・・・

私は、赤信号を渡ってはいけない理由を考え続けました。

たとえば・・・

「赤信号を渡らない人は大金持ちになれる」とか・・・

「全ての信号機には隠しカメラが備え付けられていて、
 将来受験で落とされる」とか。

まあ、色々考えてみたのですが、全部嘘ばっかりなのです。

・・・あたりまえですよね。

赤信号を渡ってはならない理由など・・・

「ルールだ」ということ以外にはないのですから。

ちょっと、悩んでしまいますよね。

車がまったく見えない道路で、
赤信号は、
本当に渡ってはならないのだろうかと・・・

また、つまらない事を考えてしまいました。




貧富の差があってほしい人・・・

無くなって欲しい人・・・

実際・・・どちらの方が多いのだろうか???


人は皆、
支えあって生きている、
協業して生きている。

一人では出来ないことを
組織の力で成し遂げ、
一人では手に入れられないものを
役割分担によって手に入れている。

皆、持ちつ持たれつなのだ。


一人で生きているのに比べたら、
誰しもが、
豊かで・・・恵まれた生活を
手に入れているはずだ。

社会を作り・・・

協業し・・・

役割分担することによって・・・



もしも・・・

無人島に一人流れ着いたとしたら・・・


小さな藁葺きの家を建て、
木の葉や動物の皮で衣装を作り、
小さな畑を手に入れるだけで・・・人生が終わってしまう。


いや・・・

そんな豊かな生活を手に入れることなど
ほとんど不可能で、
実際には生きていくのが精一杯だろう。

それに比べたら・・・

私たち人間は
とても豊かな生活を営んでいる。

日本人は、特にそうだろう。

世界でも有数の
恵まれた生活を手に入れた国民。

それが、私たちだ。


だが実際には・・・


私たちに、
それほどの満足感はない。

それは・・・

自分以上に恵まれた人たちが
目に入ってしまうからだろう。

無人島に流れ着いた自分と比べて、
ああ、なんて自分は恵まれているのだろうと
満足するフリーターがいるだろうか・・・



自分の周りが
自分よりも豊かな人たちで
満たされていたら・・・

到底、
豊かさなど感じることは出来ない。

それが
人間という生き物なのだ。


 
震災で苦しむ人たちを見ると、
少々苦しくても、
自分たちは恵まれているんだと納得する。

テレビに大金持ちが登場すると、
自分だけ
損な役割を引き受けているような気分になる。

つまり・・・

豊かさや・・・

貧しさは・・・

誰と比べるかによって変わる。


私たちは
他人と比べずには
いられない生き物なのだ。 (悲しいかな・・・)


「他人と比べてもしょうがないよ」

・・・などと諭されようとも、
本能だから変えようがない。

比べずには、いられない。


その場合・・・

私たちは
貧富の差が「ある」ことを求めるのだろうか・・・


それとも・・・


貧富の差が「ない」ことを求めるのだろうか・・・



現実は、ともかくとして・・・

そのような
貧富の差を無くそうというのが
共産主義的発想だと思う。


比較する対象がなければ
みんな幸せでいられるじゃないか・・・


だから、
私有財産など持たず、
平等に豊かな生活を手に入れよう。

その思想は
ある意味正しいと思う。

だが・・・機能しなかった。


「頑張っても、頑張らなくても、結果が同じなら、頑張らなくていい」

・・・という結論に、行き着いてしまうからだ。


もちろん・・・

実際には、同じではない。


頑張れば、
皆でより豊かな暮らしが出来るのだし・・・

頑張らなければ、皆、貧乏になる。

だが、それでも・・・頑張らなかった。

それは、多分・・・


みんなで豊かになることに、魅力がなかったからだ。


 
本当のところは・・・


人は、
みんなで豊かになりたいのではなく・・・

他の人よりも、
豊かになりたいだけなのではないのか・・・


それも・・・

出来るだけ、多くの他の人よりも。


もしも・・・

本当に、
みんなで豊かになりたいのなら、
土地など私有化する必要がないと思うのだ。


一人あたり、
50坪なり、60坪なり、を国から支給する。


都心は狭く、
地方なら広くしてもいい・・・

とにかく・・・

土地は国から借りて、国に返す。

そうすれば・・・

土地を購入するために
人生をローンで縛られることもない。

みんな、一戸建てに住める。

子供は、
親の土地にそのまま住んでもいいし・・・

親の土地を返して、
新しい土地を借りてもいい。


大豪邸に住んでいる人もいなければ・・・

ウサギ小屋みたいに
狭いところに住んでいる人もいない。

・・・理想の世界ではないか。


だが・・・誰も、
そんな世界を求めてはいない。


いや・・・正確に言うと、
求めていない人のほうが多い。


アメリカンドリームという言葉に代表される、
「自由で平等なチャンス」を求めている人のほうが
圧倒的に多い。


そこでは、確かに・・・

誰にでも、チャンスはある。


だが・・・

その確率は、天文学的に低い。

人並みはずれた才能と努力・・・

そして、
桁外れの運に恵まれることによってしか
アメリカンドリームは実現しない。

だが、それでも・・・

人間は求める。


他の人よりも、
豊かになることを。


どう考えても・・・

全員が、
そこそこ豊かになる方が
はるかに簡単だと思うのだが・・・(気のせいだろうか???)


結論。


誰が、何と言おうとも・・・


私たち人間は・・・


「貧富の差」を
自ら求めているのである。

多分・・・^^;・・・



最近、
社会というものについて考えています。

社会とは何なのか・・・

社会の入口はどこなのか・・・

社会から脱出したらどうなるのか・・・

そんな事を考えてしまうのです。

「働かないアリに意味がある」という本で
昆虫の社会について勉強したりもしました。

この本は、
驚くほど面白いのですよ。

例えば・・・

働かないアリや、
出来の悪いアリがいたほうが
巣の生産性が上がるそうです。

アリは大きな食べ物を見つけたときに
自分ひとりでは巣に持ち帰れないので、
巣から餌までの道に目印をつけて仲間を呼ぶのです。

ところが・・・

中には出来の悪いアリがいて、
目印を追いかけられない。

道に迷ってしまう。

でも、迷っているうちに
新しい近道を発見するという訳です。

最初に餌を見つけたアリが、
最短距離で餌までたどり着いた訳ではない。

だから・・・

彼の成功パターンを
みんなで真似していても、全体の効率は上がらない。

まるで人間のようですね・・・( ̄ー ̄)bグッ!

この本によると、
集団と社会とは違うようです。

シマウマのように
只、沢山集まっているだけでは
社会とは呼べない。

社会と呼ばれるためには、
それぞれが
役割をもって
組織的に機能していることが
重要なのです。

アリは、
餌を集める係りや・・・

巣を守る係り・・・

子供を育てる係り・・・などに分かれています。

役割分担することによって、
個別では、成し得ない成果を上げる。

それが・・・

社会というものの意味なのでしょう。

多分・・・


人間も
一人では家も建てられませんし、
着るものだって作れません。

みんなで役割分担して協力し合うからこそ、
驚くほどの繁栄を手に入れることができたのです。

ところで・・・

集団で生活をするためには
ルールが必要です。

ルールに則って役割分担したり、
ルールに従わないものを罰したりして
社会は成り立っています。

社会があるところにルールあり。

言い換えれば・・・

ルールをもった集団こそが
社会なのです。

確かに・・・

ルールがなければ
ただの集まりにすぎませんね・・・

ルールは
社会を正常に保つためにある。

それはそれで事実なのですが・・・

もしかしたら
順番が逆かもしれないと思うのです。

ルールが出来たときに
社会が誕生した。

つまり・・・

ルールこそが
社会の正体ではないのかと・・・


社会とは
人の集まりに過ぎません。

人と人の間にルールが生まれたときに、
そこに関係性が生まれるのです。

たとえば・・・

友だちとか・・・

恋人とか・・・

就職とか・・・

結婚だとか・・・


俺とお前とは、友だちだ。

だから・・・

裏切ってはいけないし、
困ったときには助け合わないといけない、とか。

今日からは
恋人同士だから、
他の人を好きになってはいけないよ、とか。

日本国の国民なのだから、
日本の法律を守らなくてはならない、とか。


私は
「星の王子さま」という本が大好きなのですが、
特にキツネの話が好きなのです。

王子様が
友だちを探しているときに
一匹のキツネに出会います。

話をする。

仲良くなる。

でも・・・まだ、友だちではない。

キツネは、王子様に言います。

もしも・・・

友だちになりたいのなら、
毎日、同じ時間に
同じ場所で会わなくちゃいけない。

そうすると・・・

待ち合わせの時間が近づいてくるだけで、
もうそわそわしてくる。

いつの間にか・・・

ただのキツネが、
特別なキツネになっていて、
もう、そのキツネでないといけなくなっている。

それが友達というものなんだ、と。


同じ時間に
同じ場所で会うという約束(ルール)を守ることによって、
ただのキツネが、かけがえのないキツネになるのです。

もう、他のキツネでは駄目なのです。

同じ時間に、同じ場所。

その繰り返し。

それこそが
社会の入口なのではないかと思っています。

あるいは・・・

人との絆。

社会との絆。

毎日、同じ時間に、メールチェックや、FBをチェックし・・・

毎週、たなくじをUPし・・・

その後、チビ達の朝飯を作る。

そういう生活をずっと続けていると・・・

「ああ、俺も社会の一員なんだな」

・・・と実感できるのです。

社会の出口も、
きっと入口のすぐ近くにあるはずです。

そのうちに
探してみようと思います。

もちろん、
まだ出て行くわけにはいきませんけど。 笑


白状します。

自分の事は自分でする。

なんて、よく言っていますが・・・

私は、私以上に
自分のことが出来ない人間を見たことがありません。

自分のことが出来ない大会があったら、
いい線いくと思います。笑


今さらこんな告白をするのは、
別に開き直っているからではありません。

自分のことは自分でやらなくてはならないなと、
反省しているのです。

また、
中途半端にやって、中途半端でいるより
上手な人に依存することを考えるべきだと思うのです。

いや、本来、社長であったとしても、
自分のことくらいは自分でやらなくてはならないのです。

会社でも、
プライベートでも、
自立することが大事なのです。

カーネギーさんの教えも解っているのですが・・・


私は本来、
恐ろしくものぐさな人間で、
ポストなど三ヶ月に一回くらいしか開けません。

仕事で使う鞄の中にも
要らない書類が山のように入っております。

鞄には詰め込める限り詰め込みます。

半年に一度くらい、
もうこれ以上は無理だというくらい鞄が膨れてから、
仕方なく整理をするのです。

整理すると、
三分の一くらいの軽さになります。

そんな重いものを
毎日持ち運ぶ方が大変だろうと、
よく言われます。

でも・・・

そういうことを言う人たちは、
ものぐさの本質を解っていないのです。


いやー熱く語ってしまいました。笑


自分のことは自分でやろうと決意したものの、
ものぐさ人間として言いたいこともあるのです。

だいたい・・・

ものぐさなんて言いますけど、
みんな本当に
自分のことは自分でやっているのでしょうかね。

私は、はなはだ疑問なのですよ、そこが。


いったいどこまでが
自分でやらなくてはならないことなのでしょう。

そして、
どこからは人を頼っても許されるのでしょう。

毎朝、
彼女に起こしてもらわないと起きられないとか・・・

自分では部屋の掃除もできないとか・・・

そのあたりが
ものぐさ駄目人間の境目でしょうか。

あるいは・・・

引越しのときに梱包まで引越屋さんに頼んだり、
ダスキンの人に掃除をしてもらったり、
自分で洗濯できる衣類までクリーニングに出すのも
駄目なのでしょか。

「お金を払っているのだからいいんじゃないの」

という意見もあるでしょうし・・・

「そのくらいは自分でやらないと駄目だ」

という人もいることでしょう。

要するに・・・

その基準は
人それぞれだということなのです。

自分よりも
ものぐさでない人から見れば、
みんな、ものぐさ人間なのです。


 開き直るわけではないのですが・・・

「自分のことは自分で」

なんていうのは
ちょっと傲慢ではないかと思うのです。

人間、誰しも自分のことを
全て自分でできるわけではありません。

荷物を配達してもらったり・・・

ゴミを回収してもらったり・・・

人が育てた植物を買ってきて
あたかも自分が育てたように
喜んだりしているのです。

チョット・・・ひねくれてますかね・・・

泥棒を捕まえたり・・・

信号の色を変えたり・・・

石油やレアアースを確保したり・・・と、
生活に不可欠なことを
誰かが代わりにやってくれているから
人間は生きているのです。

なので・・・

「自分のことは自分ではできない」

というところから出発するのが
正しい大人の考え方ではないかと思うのです。

自分よりも
上手な人に歌を歌ってもらい・・・

自分よりも
運動神経のいい人に野球やサッカーをやってもらい・・・

自分よりも
面白い人にしゃべってもらい・・・

それを見て楽しむ。

人は、そのほとんどを
他人に依存して生きているのではないでしょうか。

自分で出来ることなど、ほんの少ししかありません。

自分を楽しませることも・・・

自分を立ち直らせることも・・・

自分を笑わせることも・・・

みんな、誰かに頼って
やってもらっているのです。

だから・・・

「自分のことは自分でやります」

などという、
おこがましいセリフは口にしてはいけないのです。

やっぱり・・・

自分のことは、自分では出来ないのです。

これからも、
人を頼って生きていこう。

そう・・・自分を納得させるための、
長い長い言い訳でした。


私はお酒が大好きでして、
年間364日はお酒を飲んでいます。

普段は缶ビール1本ですが・・・

若い頃から
ずっとこのような生活をしているので・・・

私の肝臓は、
かなり鍛えられています!?!(酷使→疲弊?)

ビールに換算すれば・・・

10トンくらいは飲んだと思います。笑

「肝臓の悲鳴が聞こえる」などと言いますが・・・

私がその悲鳴を聞いたことはありません。

私の肝臓は口下手なようです。苦笑


お酒というのは、不思議なものですね。

世界中、どこに行ってもお酒はあります。

そして・・・

見事にその土地の料理とマッチする。

フランス・イタリア料理ならワイン。

ドイツ料理ならビール。

日本食には日本酒。

中華なら紹興酒。

焼肉はマッコリ。

見事なものです。

これは私の私見ですが・・・

多分・・・

最初に出来たのは
お酒の方なのではないでしょうか。

そのお酒に合うように料理が作られた。

だからお酒と料理が合うのは
当たり前なのです。

・・などと、お酒の話をしていたら、
本が一冊書けてしまいそうです。


・・・で、今日の本題なんですけど、
「酒は飲んでも、飲まれるな」について、です。


正直、もしもこの世にお酒がなければ、
私は未だに独身だったかも知れません。

友だちも一人もいなかったかもしれません。

社長にだって、なっていないはずです。


酒を飲んで妄想し・・・

酒に酔って閃き・・・

酒に背中を押されて生きてきました。


私の人生は、
酔拳そのものなのかも知れません。笑

もちろん・・・

それによる失敗も、それ相応にありました。

失敗と成功を量りにかけたら
どちらの方が多いのでしょうか・・・orz。


マリファナや大麻と同じように、
酒も法律で禁止されていた過去があります。

まあ、どちらも
感覚を麻痺させるという意味では
同じなのでしょう。

習慣性があるとかないとか、
いろいろ議論はありますが、
なぜ酒が合法なのかは私にもよく解りません。

モチロン、
私は規制されるのは困りますが・・・

多分・・・

酒がなければ、
人類の失敗は半分以下になるような気がします。

私の友人S君などは、殆ど無くなるでしょう。

でも・・・私たちは酒を合法化した。

それはなぜなのでしょうか。

酒は、人の判断を狂わせます。

スピード感覚が鈍ったり・・・

平衡感覚を失ったり・・・

本能がむき出しになったりします。

とにかく、
正常な判断を狂わせるのです。


酒は飲んでも、飲まれるな。

これは、
酒を飲んでも判断を狂わせてはならない、
ということなのでしょう。


しかし・・・です。


飲むことによって判断が狂うからこそ、
得るモノだってあるのではないでしょうか・・・

たとえば・・・

好きな人に告白できたりとか・・・

間がもたない人とでも会話が弾んだりとか・・・

落ち込んでいるのに笑えたりとか・・・


シラフじゃ出来ない行動ができたり・・・

コミュニケーションの潤滑油になったり・・・

必要ないことを忘れてしまえたり・・・

・・・まあ、
いいのか悪いのか分かりませんが、
酒は人の行動と判断を変えてしまうのです。

もちろん・・・

酔って人に迷惑をかけてはいけないと思います。

吐いたり、絡んだり、一人で帰れなかったり、
そんな迷惑はよくないと思います。
(皆さん思い当たるフシが一度や二度はあるでしょう・・・笑)

でも・・・だからといって、
シラフのときと同じ行動や判断をすることが、
正しい飲み方だとは思えないのです。


酒は美味しい。


食事も一段と美味しくなる。


でもそれだけではない。


人は、なぜ酒を飲むのか!?!


人は「判断を狂わせる」ために
酒を飲むのではないでしょうか。

それが
いいことなのか
悪いことなのかは解りません。

解りませんが、
判断を狂わせるために飲んでいることは確かです。


何かを忘れたいとか・・・

言いにくいことを言いたいとか・・・

大胆に行動したいとか・・・

とにかく、
自分の感覚や、
判断基準を入れ替えたいのではないでしょうか。


もしも・・・

全人類が
一日の大半をヨッパライで過ごすとしたら・・・

どちらの判断が
本当の判断ということになるのでしょう。笑

シラフのときの判断か。

あるいは
酔っているときの判断か。


結局・・・人は何かに酔っているのです。

常識とか・・・

法律とか・・・

民主主義とか・・・

社会保障とか・・・

何らかの先入観で
人の脳みそは酔わされている。


無人島で一人だけの人生になったら・・・

酔っていても、いなくても・・・

あまり変わらないような気がします。

どうなんでしょう・・・そんなとき。

あなたなら、
一人の人生を酔って過ごしますか?

それとも、シラフで過ごしますか?


私ならきっと、
8割くらいはヨッパライですね。

たま~にシラフになって、自己嫌悪を楽しむのです。 (^_-)-☆


「優秀な人材」・・・は企業によって異なる。

その通りですね。

世の中には
色々な仕事がありますから、
求められる能力も仕事によって変化します。

その際、重要なことは、
職種で能力を切り分けないことだと思います。

たとえば・・・

「営業職」ならば、
明るいとか、物怖じしないとか、
押しが強いとか、そいういう分類をしないことです。

一口に営業といっても、
そのやり方によって求められる能力は違います。

だからまずは、
自社の事業モデルを分解すること。

つまり・・・

自分たちが

「何をもって他社との差別化を図っているのか」

ということ。


そしてそれを

「どうやって顧客・見込み客に伝えているのか」

ということです。

自分たちがやっている仕事を
細かく分類していけば、
求める能力は明確になります。

そしてもうひとつ・・・

採用時に
見抜いておかなくてはならないのが
「価値観」です。

会社が目指す方向に賛同しているかどうか。

実は
これが能力以上に重要なのです。

そして・・・

価値観の共有を目的とした採用をする場合、
まずやらなくてはならないのが
社長と社員との価値観の共有です。

当たり前の話ですが、
そもそも社内の価値観が一致していなければ
採用などできません。

社員によって欲しい人物像が異なるとか・・・

話す相手によって内容が変わるとか・・・

それでは
面接を受ける側は戸惑うばかりです。

採用活動に真剣に取り組むのなら、
自社の事業の整理と価値観の整理・共有を
同時に行う必要があります。

同時に行うことによって、
価値観の共有度合いが
飛躍的に向上するのです。

採用活動は
組織強化活動でもある。

そう認識しても
間違いでないと思います。

では、
新しい人材、優秀な人材を受け入れるためには
何が必要か。

これも答えは同じです。

採用活動をしながら、
受け入れ態勢も整ってくる。

これが正しい採用のやり方だと思います。

教育体制が整っていないという理由で
採用を躊躇する会社がありますが、
これはナンセンスだと思います。


車の運転をせずに
運転技術が向上するでしょうか?

子供がいないのに
子育てだけが上手くなるでしょうか?

育てる対象が出来て、
初めて人は育てることを考えます。

そして・・・

優秀な人材が
下から入ってくること自体が教育なのです。

同じ方向を向いた優秀な人材を、
まずは入社させること。

すべては、そこから始まるのです。

先日、知人とビールを飲みに行きました。

都内にあるお店で、
クラフトビールがとても美味しいのです。

私はペールエールいうビールが好きで、
この日もさっそく注文しました。

この日は
ペールエールとムール貝の白ワイン蒸し。

そして、ベルジアンフリッツがあれば、
もう幸せいっぱいな気分になります。

このお店は、結構人気店らしく、
18時頃になるともう満席になってしまいます。

私はカウンターが好きなのですが、
その日はもういっぱいでした。

仕方なくテーブル席に座って、
ビールとおつまみを注文しました。

しばらくすると雪解け水のように美しい
IPA(インディア・ペール・エール)が運ばれてきました。

よく冷えたジョッキグラスに満たされたクラフトビール。

飲む前から幸せな気分に浸っておりました。

それから・・・

20~30分は飲んでいたでしょうか・・・

頼んだおつまみが一向に出てこないのです。

お店が混んでいる上にスタッフは二人だけ。

調理はバーテンダーさんが掛け持ちでやっていますから、
まあ仕方ないことなのです。

が・・・ビールはすでに二杯目。

クラフトビールはアルコール度数が高めなので、
つまみがないとすぐに酔っ払ってしまいます。

私は仕方なく、
すぐに出てきそうな、おつまみを注文しました。

すると・・・

ホール担当の人が

「今調理が混んでいるので時間がかかります」

というのです。

「だから調理のいらないものを頼んでいるんじゃないか!」

と言いたくなりましたが・・・

そこはグッと堪らえました。

なぜならば・・・

そのスタッフの女性が、とても美人だったからです。

人間、どんな状況に置かれようとも、
美しい人がいればハッピーになるものです。

私はおつまみが来ないことなど、
まったく気にならなくなりました。

「ぜんぜん大丈夫ですからね。気にしないでくださいね・・・(^-^)・・・」

などと愛想笑いなど浮かべてしまう自分が・・・

情けないやら、嬉しいやらです・・・^^;・・・

そうこうしているうちに、
お待ちかねのムール貝が運ばれてきました。

ムール貝を食べて、よく冷えたビールを飲む。

ベルジアンフリッツを食べて、またビールを飲む。

これ以上の幸せなどあるでしょうか・・・

・・・でも、その時にです。

常連らしき酔っ払いの若い男が、
私たちのテーブルのすぐ横にある
冷蔵庫を勝手にかき回し始めたのです。

知った顔で冷蔵庫のビールをガチャガチャと出し入れします。

すぐ横でガチャガチャやられると、うるさくてしょうがない。

さらに・・・

横にいる私にビールの出し入れを手伝わせようとするのです。

なんと、
あつかましい人なのでしょうか・・・

本当に迷惑な話です。

でも、手伝ってやりました。

なぜならば、美人のスタッフさんが ・・・

「すみませんね」

という顔で微笑んでいたからです。


綺麗な人が微笑むと、何でも許してしまう。

これはもう、仕方のないことでしょう。

その後、
ハイボールを頼んだ私に彼女はこういいました。

「すみません。ソーダが品切れなのです。
 買ってくるまで待っててください」と・・・^^;・・・

もちろん・・・

待ちましたとも。

バーなのにソーダが品切れ?

・・・いいじゃないですか。

・・・美人なのですから。(^-^)・・・

三時間近く飲んだでしょうか・・・


まあ、待っている時間の方が長かったかもしれませんが・・・苦笑

私たちは会計をして、帰ることにしました。

旨いビールとおつまみ、そして微笑み美人に乾杯!!



さて・・・決算の目処もつき、
ブログの固め打ちをしている訳だが・・・

諸処の事情により、
お金について、考えているうちに・・・

個々人の懐具合や・・・

それによる幸せ・・・って、
お金持ちって・・・

そもそも、
お金持ちの定義って
どんなもんだろうか・・・などと
考えてしまった。


私は正直、
自分のことを金持ちだと感じたことはない・・・

情けないことに・・・もちろん、貯金もない。


それでも、普通の人より
たくさん稼いでいたことは確かである。

もちろん、
他の経営者ほどではないが・・・

それなりに、
いい暮らしをしていたと思う。

そして、
その暮らしには、
いつ終止符が打たれるかもしれない。

いわば、
不確かな身分の代わりなのかもしれない。

つまり・・・

貯金も・・・

収入も・・・

ほとんどないという状況に
いつ直面してもおかしくないということなのだ。

・・・で、しみじみと考えたのである。

お金持ちとは
いったい何なのだろうかと。


まず・・・

「あの人はお金持ちだ」と言われるためには・・・

その名の通り、
ある程度のお金を持っていなくてはならない。

早い話・・・

大金を所有していればお金持ちなのだ。

では、
その大金をなくしてしまったらどうなるか。

やはり、
金持ちではなくなってしまうだろう。

今、この瞬間に
お金を持っている人が金持ちであり、
もっていない人は、
金持ちではない。

シンプルな話だ。

つまり・・・

お金持ちというのは、
閉じられた時間の中でしか
存在しないのである。

まあ・・・

私も
しみじみと考えたのだから、
ちょっとくらいは
面倒くさい表現も許して頂きたい。m(__)m・・・


要するに・・・

今、お金持ちの人も
ずっと金持ちとは限らないということである。

そこで!考えたのだ。

「お金持ち人生だった」と、
満足して死ぬためには・・・

どういう条件が必要なのだろうかと。


生まれてから・・・死ぬまで。

そう!

ずっと金持ちだったのなら
話は簡単であるが・・・

そうでない場合は、どうなるのだろう。

人生の前半戦は、
とても貧乏だったが、
後半になって巨万の富を得た人。

これはやはり、
金持ちだったと言えるのではないか。

では反対に、
人生の前半戦は金持ちでも
後半にお金がなくなった人の場合はどうだろう。

「金持ち人生だった」と、
満足するのは難しいのではないか。

人生の最後が
金持ちで終わることが重要、そんな気がする。


人生が・・・

金持ちと貧乏の繰り返しだった場合・・・

最後が
金持ちであることが
重要なのだろうか。

それとも・・・

金持ちである期間が、
長いことが重要なのだろうか。

いくら最後が金持ちでも、
前半の99%が貧乏で、
最後の数日間だけが金持ちというのでは
「金持ち人生だった」と
満足して振り返ることは出来ないだろう。


信じて貰えないかもしれないが、
私は何も「金持ちだった」と満足して
死にたいわけではない。

いずれ、
自分の人生を、どう振り返り、総括するのか・・・

自分の中で
きちんと予測しておきたいのである。


金持ちになることと、
金持ちで居続けることとは違う。

社長になることと、
社長で居続けることが違うことであるように。

私は自分の人生を、
金銭的には、どう振り返るのだろう。

社長だった自分を
どう振り返るのだろう。


この先・・・

二度と社長には
ならないかもしれないし・・・

また、社長になるかもしれない。

ずっと、
貧乏な生活が続くかもしれないし・・・

また、
豊かな生活を手に入れるかもしれない。

社長も・・・

お金持ちも・・・

閉じられた時間の中でしか、存在しないのだ。


また新しい時間の扉が開き・・・

そして、閉じられる。


また開いて、閉じられる。


人生は
閉じられた時間の繰り返しなのだ。


それが・・・

あと何度繰り返されるのか、私には解らない。

だが、いつか・・・

閉じられた時間の束を、
整理する日が来るだろう。

そのとき私は・・・

自分の人生を
どう振り返るのだろうか・・・


人間は猿よりも、
アリに似ているような気がする。

それは、
アリストテレスが言うところの、
人間は「社会的動物」である・・・

・・・というところから思うのだ。

もちろん・・・

ゴリラやチンパンジーだって群れを形成するし、
顔や体つきは、
蟻よりも遥かに人間に似ている。

チンパンジーと人間のDNAを比較すれば
95%以上が一致しているというのだから、
物体的に近いということは認めざるを得ない。

だが、それでも人間は・・・

猿よりも
圧倒的に蟻に近い生き物なのではないかと
酔っ払う度に疑っている。笑


例えば、住居・・・

人間が暮らす団地やマンションは、
よく見ると蟻塚にそっくりだ。

蟻塚や蜂の巣を見ていると、
その建築技術と美的感覚に驚かされることがある。

役割ごとに作られた部屋、
きれいな六角形を積み重ねた形、
なんて凄い生き物なのだと
蟻や蜂をみて感じるのは、
たかが虫のくせにという先入観があるからだ。

どんなに大きな蟻塚や
幻想的なスズメバチの巣にしたところで、
人間が作る高層ビルやガウディーの建築物の比ではない。

人間と比べちゃいかんだろうと思うかもしれない。

だが・・・

人間の次くらいに頭がよさそうな
鯨やチンパンジーでは、
このような建造物を作ることは到底できない。

人間がチンパンジーよりも
頭がいいことは確かだが、
頭の良さと建築の技術は
一致しないということでもある。


話がややこしくなってきた。苦笑

要するに・・・

私が言いたいのは、
人類の進歩は
頭脳の発達によるものだけではない、
ということだ。

人間は群れを作り、
社会を形成することによって進化してきた。

それが
蟻に似ていると思うのだ。

猿も、シマウマも、
群れを作るが、
ひとつの群れを構成する固体の数は
蟻の比ではない。

人間は
他の生物と違って・・・

いくつもの社会(群れ)に所属している。

家族や、
会社ということで考えれば、
その群れの構成要員は
数人から数十人でしかなく・・・

この人数ならば、蟻よりも猿に近い。

だが・・・

国家という括りで群れを捉えるならば・・・

その構成要員は億を越えているし、
小さな地方都市でさえも
数万人という固体を要している。

人間が
チンパンジーと圧倒的に異なるのは、
5%のDNAや
そのDNAによってもたらされる
脳みその質量ではなく、
群れを構成する固体の数であると思うのだ。

エジプトのピラミッドや
中国の万里の長城は、
確かに当時としては、
凄い建築技術で作られている。

では・・・

なぜそのような建築物を作ることが出来たのだろう。

猿から進化し、
ある程度の大きさに脳みそが発達したからか。

いや違う、と私は思う。

ピラミッドや万里の長城は、
技術もさることながら
数によって作られたのである。


その昔、「数は力だ」と・・・

田中角栄さんが言っていたと思う。

それはもちろん、
民主主義における
有権者の数の力ということなのだろうが・・・

民主主義でなかったとしても
人間のパフォーマンスは
数によって決まるのだと思う。

今現在の大富豪が
どんなにお金をかけたところで
万里の長城を作ることはできないし・・・

大きな橋ひとつ作るだけでも大変だ。

それは・・・

集められる人間の「数」が違うからだろうと思うのだ。


かつての権力者は
地域一帯の人間を集めてくる力を持っていた。

ローマ帝国の最盛期には、
人類の四分の一を支配していたそうである。

科学技術が進歩したから
他の地域を支配できたのか・・・

あるいは・・・

群れが大きくなったから
科学技術が進歩したのか。


私は後者だと思う。


人類が月まで行けるようになったのは、
技術が進歩したからではなく、
何億人という人間から
税金を徴収できるようになったからだろう。

もしも・・・

世界人類が
ひとつの国家を作り上げ・・・

その構成要員が
60億人を越えたとしたら・・・

人間は・・・いったい・・・

どんなものを創り出すことになるのだろう。




私の中ではいつも・・・

下記の2つの命題がせめぎ合っています。

「適切な雇用調整をして人件費を軽くしたい・・・」

「有望な若手を採用し、会社の土台造りを進めたい・・・」

・・・という、
二つの想いが交錯しており、
なかなか自分で自分を納得させる理由が
見つかっていません。

最後は・・・

自分で決めなければなりませんが・・・

最近、経営者の友人からも
似たような相談を受けました。


「しんどい時にこそ、採用をしましょう。
 なぜならば、そういう時でないと、
 良い人材は、なかなか採れないから。」

と、通常ならば答えるでしょうね。


13年前に会社をスタートさせた時、
私はこう考えました。

「どんな業種を選ぶかは、問題ではない。
 優秀で、ハートのある人材だけで事業をやれば、
 何をやっても成功する。」

経営者の最大の仕事は、
優秀な人材を集めて離さない求心力なのだと、
本気で考えていました。


いや・・・今でもそういう気持ちはあります。

ただ・・・

若い頃のように単純ではないということです。

そもそも、
優秀な人材などというものは、
条件によって変わります。

ある会社で活躍していた人が、
他の会社では全然駄目なこともあるし・・・

優秀な営業マンだけど、
他の人材のやる気をなくしてしまう人もいる。

どのような環境においても
最高の能力を発揮する人材など、
最初から存在しないのかもしれません。

人を採用しても、
即戦力になることなどまずありません。

入れ替えたいと思っている人材でさえも、
新入社員よりは仕事ができるでしょう。

今いる人材を整理して、新しい人材を採用する。

それは・・・

とても矛盾することのように
感じてしまいますよね。

今いる人材で、
出来る限りの利益を出し、
余裕が出来たところで新しい人材に投資する。

これが、常識的な判断ですよね。

余裕がないときに、
海のものとも山のものとも分からない人材に投資する。

そういう社長は大抵、
組織の中では浮いてしまうものです。

業績がいいときには、
社員もついて来てくれますが、
業績が落ちてきたときには
社員の心は離れていきます。

では・・・

今なら
私も常識的な経営をするのか。

なかなか答えにくい。
答えに窮する質問です。

が、正直に答えます。

私は・・・

何度でも同じことをするでしょう。

私は、自社の社員を好きですし、
そうでない社長は
如何なものかと思います。

しかし・・・

どんなに思いを込めても、
社員はいずれ入れ替わっていきます。

結婚もするし・・・

独立もするし・・・転職もする。

円満な退職もあれば、
そうでない退職だってあるのです。

それは、避けようのないこと。

もちろん、
避ける努力はしないといけないですけど。

結局・・・

会社というものが存続していく以上、
採用しないという選択肢などないのです。

であれば・・・

もっとも優秀な人材が取れる環境で投資をする。

会社の存続を第一に考え、
長期的視野に立てばたつほど、
そういう答えに行き着くのです。

採用することによって、資金繰りが厳しくなる。

お金が回らないかもしれない。

そういう環境ならば、
私も採用を躊躇するかもしれません。

しかし・・・

「社員の理解が得られない」

・・・という理由では、
絶対に採用をやめないでしょう。