もしも・・・

小説を書くとしたら・・・

SF小説を書いてみたい。

例えば、
高橋克彦さんの「竜の棺」のような・・・

有川浩さんの「塩の街」のような・・・

壮大な妄想と終わらない問いかけを
後の世に残すのだ。


そう考える反面、
自分では絶対に書けないだろうとも思う。

SF小説は・・・

あまりにも多くの制約で成り立っているからだ。

もちろん、
恋愛小説や推理小説ならば書けるというわけではない。

どれもこれも・・・

簡単に書けないことは同じなのだが、
SF小説は、まったく別の意味で難しい。

小説が・・・

どのように分類されているか、
よくは知らないのだが・・・

私の勝手な分類において
SF小説は、
人間と何かの間に起こるドラマだ。

それ以外の小説は・・・

人間同士が生み出すドラマ。

あるいは・・・

人というものを
深く掘り下げた思想や哲学が基盤となっている物語。

自分の中に深く深く入り込んでいって、
人間の正体を突き止める。

これはこれで、
なかなか難解な作業だと思うのだが、
SFは違う意味で難しい。

SFは他の小説とは
まったく逆のアプローチで成り立っているように見える。

人間の中に入り込むのではなく、
人間を起点として、
外へ外へとイメージを広げていくのだ。

他の分野に比べれば・・・

SF小説の方が、
ずっと制約が少ないので、
より自由な物語を作れると感じている人は
多いかもしれない。

例えば・・・

推理小説で、
犯人が透明人間でしたとか・・・
幽霊でした・・・などということになると、
読者は怒り出すだろう。

犯人は普通の人間、
しかも登場人物の中にいなくてはならない。

そうでないと、
推理小説にはならないからだ。

それに比べると・・・

SF小説はルールが緩い。

宇宙人でも・・・

地底人でも・・・

超能力者でも・・・出したい放題だ。笑


出したい放題、作りたい放題で、
自由極まりない。

だがそれは、
何でもありという意味ではない。

ただ単に、自由の範囲が広いだけだ。

フィクションは架空の物語で・・・
ノンフィクションは真実の物語。

では、サイエンスフィクションとは何か???


それは・・・

科学のルールに縛られない、
架空の物語ということになる。

やっぱり、
何でもありじゃないかと思うかもしれないが、
これが実際に物語を考えてみると
厄介なのである。

科学のルールに縛られない小説。

それは、すなわち・・・

科学の常識に縛られてはいけない小説であるとも言える。

科学の常識をひとつも踏み外さないものは
SFとは言えないからだ。

では反対に・・・

科学の常識を
完全に逸脱したらどうなるだろう。

これもやはり、
SFとは言えないのである。


科学のルールに縛られないということは、
何でもありということではない。

なぜならば、
全ての制約をなくしてしまったら、
ストーリーにはならないからだ。

例えば・・・

刺されても死なない人間が出てきて盛り上がるのは、
人間は刺されたら死んでしまうという
制約があるからだ。

「普通は死ぬのだけれど、
 この人は、これこれこういう理由で死なない」

という・・・面倒な前置きがあって、
初めてSFのストーリーは成り立つのである。

宇宙人であるとか・・・

超能力者であるとか・・・

クモに刺されたとか・・・

何かが必要なのだ。


何の前置きも制約もなく、
いきなり科学のルールを無視してしまうと、
それはストーリーにはならない。

SF映画を見て

「なんかつまらない作品だったな」

・・・と感じる場合、
それは想像力に欠ける作品であることよりも、
ルールを無視しすぎて
現実味がなさ過ぎる作品であることのほうが多い。

あり得ない話であるにもかかわらず、
制約が必要なのがSFなのだ。

科学のルールを必ずどこかで破りながらも、
基本的には
科学のルールに基づいて創られなくてはならない。

そう考えると・・・

会社の経営も
SF小説に似ているのかもしれない。

どんな商売をやっても自由なのだが・・・

やはり、そこには制約がある。


そして・・・

何を制約にするのかによって・・・

いい作品にも・・・

悪い作品にも・・・なってしまう。


決断と判断とは違う。

よく考えて、
慎重に選べば、答えが出るのが判断。

どんなに考えても答えが出ないのが決断。

どちらかが
確率的に少しでもベターなのであれば、
そちらを選ぶのが基本であり、
そのような
判断に経営者が携わる必要はない。

一方・・・

どちらも五分五分。

あるいは・・・

確率的に
不利な方を選択しなくてはならない場合。

そこには
トップの決断が必要となる。

大きなリスクを抱えるジャッジにこそ!

経営トップの決断が必要なのだと、
私は今まで言ってきたし、
今でもそうだと強く信じている。


果たして・・・

私自身に
そのような決断力があったのか???

ということなのだが、
残念ながら、そこには自信がないし、
たらればに意味はないでしょう。


大事なのは・・・

ブレない信念と、決断のスピードだ。

ブレないことは・・・

想像を遥かに超えて難しい。

ブレないこと。

それはちょうど
免振構造のビルのような感じだと思う。

揺れてはいるのだが、
全体として揺れを吸収している。

そして倒れない。

それに比べて、耐震構造のビルは
揺れそのものを押さえ込もうとする。

揺れは少ないのだが、脆い。

ある一定以上の力がかかると、
折れてしまう。

鍛え過ぎた刀のように。

本当の強さには“しなり”が必要なのだ。


ブレない経営。

それは・・・

しなる経営とも言えるだろう。

だが・・・

“しなり”と“ブレ”の違いは、
終わってみないと解らない。

経営においては、
最終的な目的が変わらないことが
ブレないことなのだと思う。

そして・・・

最終的な目的を達成するためには、
途中の「ブレ」は、
「しなり」として吸収しなくてはならない。

だが、そもそも・・・

最終的な目的とは何なのだろう???


ミッションを達成することか・・・

利益を最大・最適化することか・・・

あるいはイイ会社を作り上げることだろうか。


その全てをクリアしようとすると、
「しなり」の無い脆い会社になってしまう。

では、やはり・・・

ミッションの達成を
最優先事項に掲げるべきか。

利益も待遇も犠牲にし、
全力を持ってミッションを達成する。

そんな会社で
働きたいという社員がいるのだろうか。

私達は
ミッションマニアではなく、
一人の人間だ。

頑張りながらも、
息抜きをしたり、無駄遣いをしたり、
後悔をしたりしながら生きている、
普通の人間に過ぎないのだ。

では・・・

大切なのはバランスか。

程よい環境、適切な利益、無理のないミッション。

無理せず自然体で、出来る範囲で頑張ればいい。

だが、そんなことで・・・

偉大なミッションを達成する会社など、出来るのだろうか。

私達は
歴史に何かを刻むためではなく、
唯・・・生きるために生きている。

それで、いいのだろうか。

結局、なにが究極なのか、
何が本当の最終目的なのかが
解らなくなる。

その結果、目の前にある“捨てたくないもの”や
“失いたくないもの”に固執してしまい、決断が遅れる。

私がやってきたことは
最善手だったのだろうか・・・

今になって思うのだ。

では、意味のある先延ばしとは
いったい、どのようなものなのだろう。

残念ながら・・・

私にはまだ、その答えが見つけられない。

私の中では
ミッションという言葉の定義そのものが
ブレ始めているのだ。

ミッションの主語が見つからない。

それは・・・

私のミッションなのか。

あるいは会社のミッションか。

はたまた、社長としてのミッションか。


人間が何のために
この地球上に生きているのか・・・

私は、その意味を確信できていない。

最終的なミッションが、
明確であるならば・・・

小さな揺れは
「しなり」として吸収できる。

だが・・・

最終ミッションが明確でないならば・・・

その「しなり」は、
ただの凡手となるかもしれない。

ぐらぐらする私には、
そのボーダーを見分けることができない。

リーダーは
決して揺れてはならないのだ。

頑張れ、俺!!



書くことは・・・

残すことだと思っています。

自分の感じたことや・・・

考えたことを言葉にして残す。

それはそれで、
責任の伴うことなのでしょうし・・・

取り消すわけにも
いかないことなのでしょう。


かっこ悪い自分や・・・

情けない自分や・・・

傲慢になっていた自分など・・・

残したくないものも
たくさんありますが・・・

まあ・・・

それも含めて
自分という人間なのでしょうし・・・

別段、
隠し立てするほどのものでもないでしょう。


私は・・・

何の因果か社長になってしまった、
チョット理屈っぽい癖に、
気持ちが熱い小市民です。苦笑


劣等感の塊を背負って生きてきて・・・

その荷物を降ろしたくて・・・

等身大の自分で生きて行きたくて・・・

もがいてきた人間です。

いろんなことがありましたが、
別に後悔はしていません。

自然体で生きられるようになっってきた、
自分が結構好きです。

皆さんが
どう思われるかは解りませんが・・・

ありのまま、感じたままを
これからも書き続けようと思います。

とは言っても、
独り言を言いたいのではありません。

そこに人がいることが解っていて・・・

私は書いているのですから・・・




14期が始まりました。

こんな折ですが・・・

また、
書いてみようと思うのです。

なぜ書くのかというと、

「書かねばならない」というような
後ろ向きの義務感ではなく・・・

とは言え・・・

「書きたい。書かずにはいられない」

という気持ちでもない。

やはり・・・

「書かないわけにはいかない」

というのが今の本音でしょうか。


「そこに山があるから」

という気持ちに似ているかもしれません。


山というのが、何を指しているのか、
私にもよく解りません。

でも・・・

そこに山があることは確かなのです。


これから予見される変化によって・・・

「何かを学んだ」とか・・・

「何かを失った」とか・・・

「何かを得た」とか・・・

まだまだ、
言える状態ではありません。

創業以来、13年間で・・・

何も学んでいないかもしれないし・・・

何かを得たのかもしれないし・・・

何かを失ったのかもしれません。


でも、今の私はその真っ只中にいすぎて、
よく解らないのです。

ただ、
ひとつだけ確実に言えることがあります。

それは、
自分の中で何かが変化したということです。


もう二度と
元の通りには戻せない変化。

ゆでた卵を
生卵には戻せないように。

42度を越えて凝固したタンパク質は、
もう二度と元の状態へは戻せないのです。


私は今でも
社長であることには変わりありません。

しかし、
以前とは明らかに何かが違う。


たぶん・・・

それは
私自身にしか解らないと思います。


周りから見たら、
元気がないとか・・・

覇気がないとか・・・

色艶が良すぎるとか(笑)・・・

見えることでしょう。


きっと・・・

私は変化してしまったのだと思います。


創業以来13年間・・・


ずっと握り続けてきた何かを凝視し・・・

何かをイメージした瞬間に・・・

私は別のところに来てしまいました。


別に意味深に何かを表したい訳でもなく・・・

ただ、私の中で何かが変わったと思うのです。

それだけは確信できます。

その何かが、
何を意味するのか、
それは私自身にも、よく解らないのです。

ただ、一度それを手放せば、
もう二度と元に戻ることはないんだと思います。

なんとなくですけど。

私の変化とは、何だったのでしょう。

それによって、
私自身は、
どう変化してゆくのでしょう。


心配されそうなので、
これだけは断言しておきますが、
私は仕事を辞めるつもりはありません。

事業を組み立て直すことに、
全力を尽くそうと思っています。

応援してくれるお客さんや、
ついてきてくれる社員もたくさんいますし・・・

なぜか、ありがたいことに・・・

周囲の期待をひしひしと感じてしまうのです。


今までよりも、
もっともっといい仕事をしよう。

恩義を受けた人に、少しでも恩返ししよう。

そういう意欲は、持っているのです。

ただ、その意欲・・・そのエネルギーの源泉が、
変わってしまったような気がするのです。


私の源泉は、何だったのでしょう。

「意地」でしょうか。

「責任感」でしょうか。

それとも・・・

「根拠の無い自信」でしょうか。苦笑

今の私には、
その答えが解りません。

最後まで握り締めていたものが、何だったのかも・・・

解らないのです。

いずれにしても、
私は山を登り続けます。


そこに、山がある限り。

そこに、人がいる限り。

私自身が、生きている限り。




「ブルーレット置くだけ」を
トイレの浄水槽に設置しながら、
ふと考え込んでしまった。


これは、
かなりの贅沢品なのではないかと・・・

他にも・・・

アロマオイルやサプリメント・・・

スリッパだって・・・

別になくても生活は出来る。

こうした贅沢品は、
使わないようにすることが
必要なのではないのか???


そう考える反面・・・

こうも思うのだ。

もしも、必要不可欠なものだけで
全国のみんなが生活を試みるとする。

そうすると・・・

今まで売れていたものが、どんどん売れなくなる。

生産している会社や・・・

販売しているお店・・・

そして、
そこで働く社員さんたちの収入は激減する。

これは、全く以って、よくない傾向だろう。

今より、
消費が後退すれば、
景気は悪くなり、東北支援どころか
自分たちの生活すら、
立ち行かなくなってしまうだろう。

と、いうことは・・・

「ブルーレット置くだけ」は、
やはり設置した方が良いということか。

なくても、
生活に支障はないのだけれども・・・笑

あれば、便利で使い続けているもの。

そういうものが
私たちの周りには、たくさんある。

ほんのチョットした贅沢・・・

それらは、
私たちの日常に、
心のゆとりをもたらすと同時に、
経済を支える必需品であったりもするのだ。



では、野球をやること、
そのものはどうなのだろう・・・


高校野球や、プロ野球で、
一生懸命にプレーし・・・

見ている人を元気にすることも
重要な目的なのかもしれないが・・・

そもそも・・・

正直、これらは、
言い出せばきりがないだろう。

コーヒーを飲むことや
お菓子を食べる事だって贅沢な話で・・・

それらに使っているお金と時間を・・・

復興や、モット有用な、何かの為に・・・

捧げるべきだと言われれば・・・

・・・もっともな話だと、答えざるを得ない。


千円や二千円程度を寄付したくらいで、
全力支援と言えるのだろうか。

今日も居酒屋で、
飲んで騒いでいる連中はたくさんいる。

飲んでいる場合なのか、
歌っている場合なのかと言われれば、
答えに窮してしまいそうだ・・・


それでは・・・

私たちは、
どうすればいいのだろう。

野球をやめて・・・

サッカーもやめて・・・

酒も飲まず・・・

歌も歌わず・・・

一円でも無駄なお金は使わず・・・


使える限りの時間とエネルギーを
復興や世の中の為に、
捧げるべきなのか。

だが、
そんなことをすれば消費が落ち込み、
経済が更に悪化することは明白である。


国民が無駄なことを
まったくやらなくなったら・・・

立ち行かなくなる仕事は
いくらでもある。

タクシーに乗ることも・・・

焼きたてのパンを食べることも・・・

娯楽番組を見ることも・・・

なくなってしまったら・・・


それは
理想の未来とは、言えない・・・間違いなく!!


豊かな生活は、
無駄を無くすことではなく・・・

みんなが・・・
少しずつ無駄なことをすることによってしか、
手に入らない。

野菜を作る人・・・

家を建てる人・・・

病気を無くす人。

そういう必要不可欠な仕事に加えて・・・

美味しいコーヒーを淹れる人・・・

心震わせる歌を歌う人・・・

人を楽しませて笑いをつくる人・・・などが、
仕事として成り立つ社会こそ・・・

本当に
豊かな社会と言えるのではないだろうか。


贅沢と豊かさのあいまいな境目は、
どこにあるのか・・・

人間らしく生きる事・・・

このあいまいな関係・・・とても素敵だと思います。




私は共産主義者ではないが、
資本主義的経営とはつまるところ搾取ではないのかと、
考えずにはいられなかった。

億単位の年収を取っている経営者の中には、
確かに
その年収に見合うほどの仕事をしている人もいる。

だが、そのほとんどは・・・

経営者であるという立場によって
収入を得ている人たちだ。

労働による収入ではなく、
権利による収入。

実際・・・それこそが、
「金持ち父さん」が標榜する
成功のイメージなのではないのか。

働かずに、高収入を得ることこそが、
資本主義経済における究極の成功者なのだと・・・

しかし・・・

とても違和感が・・・

社員の生産性を高め、
出来るだけ高い労働分配率で、
払える限りの給料を払う。

その結果、社長よりも
給料の高い社員が現れてくるかもしれない。

だが、それこそが
社長の目指すべき究極の姿なのだと、
考えるようになった。

その結果・・・組織は機能しなくなった。


一代で大企業を築き上げるような、
偉大な経営者から見れば、
何とバカなことをするのだろうと
笑われてしまうだろう。

だが、
私は試さずにはいられなかった。

何よりも・・・

搾取の無いシステムこそが
究極なのだと信じていたのだ。

若かったのか・・・

バカだったのか・・・

その両方なのか・・・苦笑

いずれにしても、私はやってしまった。

そして・・・

それが間違っていることを確信した。


リーダーは全ての労働者から
搾取しなくてはならない。
(搾取という言葉が適切ではないだろうが・・・)


特に・・・

よく仕事ができる稼ぎ頭からは、
たくさん搾取しなくてはならない。

それが、
私の行き着いた結論である。

一生懸命に働いて、
出来るだけ多くの成果を上げる。

その成果を下回る給料しか、
リーダーは与えてはならない。

それが
リーダーの仕事なのだ。

自分が出した成果よりも
少ない報酬を得る。

そうすると、そこに余りが出る。

その余りの積み重ねが
会社の蓄えとなり、再投資の原資となり、
働いた人の増収となり・・・社会の貯金になるのだ。

考えてみれば、当たり前の話だが・・・

全ての人類が、
働いた以上の報酬を受け取ると、
社会の貯金がどんどん無くなっていく。

働いたとおりの報酬だと、社会の貯金は増えない。

社会の貯金を増やすためには、
受け取った報酬以上の労働を積み重ねるしかない。


社会の貯金とは何か???。


それは、
橋や道路であったり、
学校・病院であったり、
その他様々な施設やシステムだ。

もしも・・・

我々の祖先が
労働に見合う収入を
受け取り続けていたならば・・・

今現在の社会には、まったく貯金が無く、
橋も、信号も、ビルも、消防署も・・・

何もかも無い状態だったと思うのだ。

それは、
現在の日本を見てみればよく解る。

国民のほとんどは、
払った税金以上の見返りを求めている。

もっと年金を・・・

もっと安心を・・・

もっと充実した社会保障をと・・・

損をしないことに躍起だ。


払った以上に受け取れるのなら、得。

払ったものよりも、受け取りが少ないのならば、損。

だから払いたくない。


それが国民の心理だろう。

だから、この国の財産は、
減り続けているのである。


こんな私が言うのもなんだが・・

国のトップは
国民からもっと搾取しなくてはならない。

搾取することが悪いのではなく、
問題はその使い方なのだ。

搾取したものをトップの懐に仕舞い込むのなら、
それは本当の搾取である。

だが、
それを社会全体の貯金にすれば、
社会はどんどん豊かになっていく。

リーダーとは、
嫌われながらも社員から吸い上げ、
それを会社の豊かさに変える人。

国民から吸い上げ、
社会の豊かさに変える人なんだと思う。

この豊かな国を冷静に眺めていると・・・

私たちの先達が、
いかに偉かったのかを実感できる。

適切な搾取を望む・・・笑


食料の自給率を上げる、
という事について・・・

そろそろ、
その本質を考えた方がいいのではないかと、
強く強く思うのです。

セクショナリズムの強い人たちに、
「会社全体のことを考えろよ」なんて言いますよね。

だって・・・

会社が
なくなってしまったら・・・

その部署だけが
どんなに素晴らしくても意味がない。

会社が無くなって、
部署だけが残るなんて事、あり得ないわけですから。


同様に・・・

国がなくなってしまって、
地方都市だけが残ることや・・・

農業だけが残ることなど、
あり得ない訳で・・・

「国全体のことを考える」

ということは・・・とても大事なことなのです。


つまり・・・

「農業を犠牲にしてでも、国全体の利益を考えろ!」

と、言いたい訳ではありません( ̄ー+ ̄)キラリ


そろそろ「日本の自給率」などという、
意味の無い指標は忘れようよと、
言いたいのです。

皆さんは、どう思いますか?

世界が無くなって、
日本だけが残るなどということが、
ありえると思いますか。

私には
滑稽に思えてなりません。

なぜ、
日本人の自給率を高める必要があるのですか?

それは、
外国から食料が入ってこなくなったら大変だから。

まあ、
そういうことですよね。

では、
東京都の自給率は、高めなくてもいいのですか?

新宿区の自給率はどうですか?

他の都道府県から、
食料が入ってこなくなったら、飢え死にですよ。

でも、そんなことはあり得ない。

そうですよね。

それは
同じ日本人だからですか。

あるいは
法治国家だからですか。


なぜ、
東京のど真ん中でコメを作らないのか。

それは、
適していないからです。

効率が悪いのです。

それぞれの地域・・・

それぞれの人間には・・・

適正というものがあります。

だから・・・

それに応じて
役割分担しているのです。

一人で
生きていくのは大変です。

一人で
食料を調達し・・・

一人で
調理をして・・・

一人で
着る物を作り・・・

一人で、家を建てる。


掃除洗濯だって・・・

娯楽だって・・・

全部一人で
自給自足しなくてはなりません。

こんな
大変なことはないですよねえ・・・。

だから・・・

人間同士は、役割分担をしている。

家族の誰かが食料を調達し、
他の誰かが子育てをする。

料理が得意な人は、料理を。

裁縫が得意な人は、裁縫を。

そうやって、支えあいながら・・・

人類は
豊かな生活を手に入れてきたはずです。

家族というユニットから、地域というユニットへ。

そして国という、大きなユニットへ。

そのユニットが、大きくなるたびに・・・

得意分野は、細分化されていきます。

そして・・・

その細分化が
みんなの生活を、より豊かにするのです。

だって、そうでしょう。

イメージして下さい!

もしも、家族だけで、
役割分担しているのだとしたら・・・

そこには・・・

野球選手や、歌手などという役割は、
生まれませんよ。

「バカ野朗ー!、歌なんか歌ってないで働け!」

ってなことになるわけです・・・笑。


役割分担する人数が増えること・・・

それは
ニッチなスペシャリストを生み出すことにもなるし・・・

より、正しい・・・向き、不向きが適用され、
人々の豊かさを押し上げることにもなるでしょう。


東京のど真ん中で農業をするのは
効率が悪い。

それと同じ理屈が
世界の中の日本という地域で
適用されているのです。

地域だとか、国だとか、
そんな、みみっちいことを言ってないで・・・

世界全体・人類全体で、
役割分担すればいいんじゃないですかねえ・・・。

人類全体の適材適所で、いいじゃないですかねえ・・・。

日本人の自給率?

それと東京都の自給率に
どれほどの差があるって言うんですかねえ・・・。

我が家の自給率なんて、
イマドキ・・・誰も考えませんよねえ・・・。

やはり大事なのは
「人類の自給率」だと、思うんですよねえ・・・。


それを
最大化する方法を・・・

その役割分担を・・・

人類みんなで、考えればイイんじゃないですかねえ・・・。

同じ、日本人同士じゃないですか。

同じ、人間同士じゃないですか。

信じあいましょうよ。


他の国の人間よりも
自分家のネコの方が信用できるなんて、
どうかしてますよ。

人間が飢え死にしているのに
鯨や白熊を守るのだって、
どうかしてます。

日本の経済だとか・・・

日本の安全だとか・・・

日本の自給率だとか・・・

主語がもう古い。  小さすぎです。


日本から、世界へ、
主語を変えなくてはならないでしょう。

それが
グローバル化だと思うのです。

ユニットに参加する人間の数が、増えること。

それは
人類の豊かさに
間違いなく直結しているのです。


人間は、社会的動物である。


一人では、
ライオンどころか
牛や猿にも勝てません。

社会という集団で
役割分担をしているからこそ・・・

人間は
他の動物を凌駕することが出来るのです。


人間なんて・・・

素晴らしい、社会的動物なんだと思うんです。




20年物のワインや・・・

30年物のウイスキーは、何故美味しいのだろうか。

それは「自然の摂理」の匂いがするから・・・

と言ったら
チョット嫌な気分になるだろうか。

酒に限らず・・・

私たちは
腐敗した食べ物を好んで食べる。

納豆、チーズ、お漬物、などなど。

もちろん・・・

私たちは
そのような食べものを「腐敗」とは呼ばない。

「発酵」という言葉に置き換えて、
おいしそうなイメージを作り出している。

だが・・・

その基準は曖昧で、
結局のところ・・・

人間の価値基準によって
使い分けられているに過ぎない。

人に役立つ食べ物を生み出すのが
発酵であり・・・
食べられないものを生み出すのが
腐敗である・・・と。

肉に至っては、
腐る直前が一番美味しいとされている。

腐る直前・・・

すなわち
人間が食べてもおなかが痛くならない程度に
腐っているのが「発酵」ということになる。

それ以上発酵させると
人間の体には害を及ぼすから「腐敗」ということになる。

だが・・・

例えば、他の動物にとって・・・

それは腐敗ではなく、発酵であるのかもしれない。

現にハイエナは
腐った肉(人間から見れば)を食べる。

いや、人間であったとしても
「腐敗」と「発酵」の境目は
人によって、
まちまちなのではないだろうか。

そう考えると・・・

賞味期限や消費期限などに
いったい、
どういう意味があるのだろうかと考え込んでしまう。

太古の昔から賞味期限が存在していたら、
きっと今現在、
存在していない食べ物もたくさんあるはずだ。

納豆も、チーズも・・・

ヨーグルトも、干物も・・・

単なる
賞味期限切れの食べ物ということに
なっていたのかもしれない。


結局、
どんな言葉で置き換えてみても・・・

私たちは
腐敗という現象を
受け入れて生きているということなのだ。

腐敗とは
すなわち自然に帰ることであり、
それを美味しく感じるという、
私たちのメカニズムには、きっと意味があるはずだ。

多分・・・???

体は、発酵(腐敗)した食べ物を欲している。

それは、
もっとも自然に近い状態であるからではないのか。

だが一方で・・・

私たちは
腐敗と戦いながら生きていることも事実だ。

それは、
体に良くない腐った食べ物を
摂取しないということだけではなく・・・

例えば、
老化を防ぐためのアンチエイジングとか・・・

あるいは
単純に虫歯にならないための予防だとか。

体が老化することも・・・

虫歯が出来ることも・・・

それは、
人間が自然に帰るためのステップであるともいえる。

けれども・・・

私たちは
そこに徹底的に抵抗して生きている。

老化せず、病気にもならず・・・

出来ることなら 新品のままの・・・

まっさらな肉体を、
永久に保持したいと願っている。
(せめて、腫れの凹んだ・・・苦笑)

車が錆びることも・・・

家具が劣化することも・・・

服がボロボロになることにも・・・抵抗したい。


だが、その一方で・・・

程よい錆び方だとか・・・

使い込まれた家具だとか・・・

色褪せて穴の空いたジーパン・・・などを
私たちは好んで使う。

それは、やはり・・・

自然な状態に
限りなく近いという事実が生み出す、
安心感なのではないだろうか。

私たちは
心のどこかで腐敗(自然に帰結すること)を求めながら、
腐敗に抵抗して生きている。

虫歯や病気と闘い・・・

老化に抵抗し・・・

さびない金属を生み出し・・・

その一方で、
腐る直前の食べ物を欲する。

古民家住宅を好み・・・

年代物のウイスキーに、心を震わせたりもする。



「腐敗を求め」

そして・・・

「腐敗への抵抗」



30年物のウイスキーは、
人工であるにもかかわらず、自然の香りがする。


自民党よりはましだろう。

そういう国民の総意から誕生した民主党政権も、
今は昔・・・

アベノミクスバブル!?!のおかげで、
その存在そのものも
いよいよ
限界に来てますね。

民主党総理達は
確かに頼りなく・・・

そして
上辺だけのように感じてしまいました。

が、しかし・・・

それは何も、
民主党の責任ではないのです。

もう、いい加減・・・

気がつかないといけないのです。

ハッキリ言いましょう。

どの党が政権を握ろうが・・・

誰が総理になろうが・・・

大きな変化はしません。

それは・・・

国民が求めているものが
「自分たちの豊かさ」だからです。

老後の心配とか・・・

社会保障とか・・・

景気だとか・・・

そんなものを求めている限り、
誰が総理大臣になっても同じです。

この国の予算には、限界がある。

そして、それは・・・どんどん減っていく。

誰が考えても、当たり前の話です。

「もしかしたら自民党が
 とんでもない無駄遣いをしているのではないか・・・」

そういう考えから、
民主党が選ばれ、事業仕分けを行った。

その結果、解ったことは・・・

「大した無駄遣いはしていなかった」

ということです。

何かに予算を増やすためには、
何かを削らなくてはならない。

結局、国民の誰かが、痛みを伴うのです。

誰が政権を担当したところで、
この事実に変わりはありません。

皆に公平に・・・難しすぎます。


もういい加減に・・・

ありもしない予算を取り合うのは
止めにしましょう。

政治家は
予算配分を決める人たちであって・・・

お金を運んでくる人たちではありません。
(もちろん、外国の政治家が営業活動熱心なのは事実ですが・・・)

社会保障の予算を増やすためには、
税金を上げるしかない。
当たり前の話じゃないですか。

年金問題・・・

社会保障・・・

外交、経済対策・・・

それらの80%以上は、
誰が政権を担おうと同じ結果になると思うのです。

実際、変えようがありますか?

社民党が政権を握ったら、
沖縄から基地が無くなるのですか?

増税無しに
予算をどこかから運んでくるのですか?

いくら野党とはいえ、
出来もしないことを言うのは止めてほしい。

国民が混乱するだけです。


私は、最近よく思います。

首相公選制って出来ないものだろうか・・・と、

直接自分たちの手で、総理大臣を選ぶのです。

そもそも・・・

国のことを真っ先に考えないといけない国会議員が、
選挙に勝つために地元のことばかりを優先する。

そして・・・

その地元の代表が
選挙で総理大臣を選んでいるのです。

そのような選ばれ方をした人が、
国家の利益を最優先に出来るはずがない。

結局は・・・

議員の顔色を見ながら
玉虫色の政策に落ち着かせるしかないのです。

私たちは
なぜ選挙に行かないのか。

それは、
誰を選ぼうと変化が無いことを
感じ取っているからです。

自分の選挙区から立候補する人のことを
あなたは知っていますか???

そのほとんどは、
見たこともない人のはずです。

知らない人の中から選ぶことなど
できないのです。

でも・・・

もしも・・・

総理大臣を決める国民投票があったら、
あなたは選挙に行くはずです。

この国の代表を
たった一人だけ選ぶ。

その人に国を託す。

そうなれば、
必ず国民は選挙に興味を持ちます。

選んだ人に責任も持ちます。

一年くらいかけて
立候補者の考えを国民に伝えればいいじゃないですか。

その中から
国民が自分たちの代表を選ぶ。

選ばれた総理は
しがらみなど関係なく、内閣の人事ができます。

まさに・・・政党を超えた適材適所。

国民が
ビートたけしを選んだらどうするか?

いいじゃないですか。

それが
国民の総意なら解りやすい。

国民は
そんなにバカではない。

ただ・・・

責任の無い選挙ばかりやらされているので、
責任感が希薄になっているのです。

正直に言って・・・

政策の八割以上は、
誰が総理大臣になっても変わりはしないでしょう。

いや、変えようが無いのです。

それよりも大事なのは残りの10~20%!

国民を豊かにする方法は
誰がやっても変わりませんが・・・

国民を明るくする方法や、
国民をやる気にする方法は、
誰が総理になるかで、大きく変化するでしょう。

豊かな国とか、最小不幸社会とか、
当たり前のことは、もう言わなくていいです。

それを願わない人が、いるはず無いですよね。

そこは出来る限り頑張るとして、
大事なのはそれ以外なのです。

「●●の国、日本!」

この●●に入る言葉を候補者が掲げる。

つまり・・・

日本のアイデンティティーです。

そして、
それを国民が選ぶ。

解りやすいと思いませんか!?!

こだわりの国でもいいし・・・

お笑いの国でもいいし・・・笑

世界平和を願う国でもいい・・・

要するに・・・

チョットくらい景気が悪くても、
国民がグッと来るビジョン。

世界一豊かではないけど、
世界一グッと来る国!!!!!!!

なんか、素敵じゃないですか。


良心という言葉がある。

人間が、
何か悪い事をしようとする時・・・

それを止めてくれる、
心の声のようなものだ。

違法な事はモチロン・・・

ズルい事や・・・

卑怯な事をやろうとすると・・・

「ちょっと待て」と忠告してくる。

「本当にそれでいいのか?」

「お前は後悔しないのか?」

「大事なあの人を裏切ってもいいのか?」と・・・

問い質してくる。

この心の声のお陰で・・・

してはいけない事を・・・

人間は結構な割合で
思い留まってきたのではないだろうか。

もしも・・・

人間に良心というものが無ければ、
世界は、
もっと滅茶苦茶になっていたかもしれない。

ところで・・・

この「良心」とは、
いったい何なのだろうか。

DNAに刷り込まれた
遺伝子レベルの情報なのか・・・

あるいは・・・

後天的な
教育や環境によって芽生えるものなのか。

やっていい事と・・・

いけない事・・・

この二つの境目を
私たちは
どうやって切り分けているのだろう???


法律・・・

校則・・・

社則・・・

そういう
ルールに従うときには、
人間は頭で考えるものだろう。

これは
ルール上OKなのか・・・

あるいは
そうでないのか・・・

ルールに沿って考えれば、
自ずと答えは明らかになる。

だが・・・

ズルイ事や・・・

卑怯な事・・・というのは、
人によって
その境目が異なるし、
明確なルールがあるわけでもない。

これを
どう切り分けるのかが、
人間に果たされた命題なのだろう。


本能と理性。

この2つの言葉を使う時・・・

私達は
本能を悪者として捉えることが多い。

物欲や性欲などの「本能」を・・・

グッと押さえ込むのが「理性」であると。


だが・・・

本能の中には
母性本能のように、
他者への保護や労りに結びつくものもある。

本能のままに生きる事が
善なのか・・・

あるいは、
悪なのか・・・

もしも・・・

本能に従って
全ての行動を是としたら・・・

社会は
もっと良くなるのだろうか???

あるいは・・・

破壊されつくされ、
崩壊してしまうのか???

少なくとも・・・

人間以外の動物は、
本能に従って生きている。

そして・・・

秩序を保っている。


人間だけが
本能に従えないのは・・・

何故か???

もしも・・・

この宇宙に、
ルールや秩序を
司っている神がいるとしたら・・・

それは・・・

本能そのもの、
なのではないだろうか。

本能に従って、生きていれば・・・

全ての生き物は、
秩序を乱すことなく、
与えられた役割とポジションを
全うする事ができる。

そんな・・・気がする。

だが・・・

人間には、
それができないだろう。

どう贔屓目に考えてみても・・・

人間が
本能のままに生きていく事が
秩序の維持に繋がるとは思えない。


人間にも・・・

本来は
正しい本能が
備わっていたはずだ。

心の声・・・

それに従っていれば、
秩序は保たれていた・・・はずだ。

だが・・・

人間は、覚醒してしまった。

自我が芽生え・・・

自分の頭で、
判断するようになった。

そして・・・

本能が
少しずつ退化していった。

そう考えると、
非常に辻褄が合う。

自分で考えて・・・自分で判断する。

それは、ある意味で・・・

本能という神への、裏切りかも知れない。

いや・・・

神からの、自立なのかも知れない。

自立した結果・・・

本能からの
メッセージが届かなくなっていく。

だが・・・

それでは、秩序が保てない。

そこで・・・

人間は、
理性という「自作自演の神」を創り出したのだ。

・・・本能の赴くままに。

それは・・・

本能に
100%従って生きていた時にだけ、許された事。

本能から自立した私達は・・・

本能に沿って生きる事が許されない。

本能から
正しいメッセージを受け取る事が出来ない。

だから・・・

頭で考え、自分自身で、
答えを出し続けるしかないのだ。

良心とは、本来・・・

本能に近いものであったのかも知れない。

だが・・・

時代の流れと共に、
それは
理性に近いものに変わっていく。

いや・・・変わらざるを得ないのだ。

何が、正しいのか。

何が、正しくないのか。

やっていい事と・・・やってはいけない事。

時代が進むほどに・・・

その答えを ・・・

自分達で
考えなくてはならない割合が増える。

いつか・・・

完全に
本能から解き放たれ・・・

理性だけで
生きていくようになった時・・・

人間は
存在に足る生き物でいられるのだろうか???

その答えを決める分岐点に・・・

昨今の私達は立ち・・・所在無く・・・

困惑っているような気がする。