努力は報われない。

そんな身も蓋もないことを言ったことがある。

私はそもそも、
努力というものが子供の頃から大嫌いだった。

いや・・・

正確には
努力が嫌いだったのではなく・・・

努力と定義されているものが、
嫌いだったのだ。

年表を覚えたり・・・

数式を早く解いたりして・・・

テストの点を
100に近づけること。

そういうことを・・・学校では努力と言う。

今から考えても、息が詰まりそうだ。


自分が好きな努力であれば、
私だってよろこんでやったと思う。

例えば・・・

クワガタムシを観察したり・・・

山に行って土器や化石を採集したり・・・

サッカーしたり・・・

面白い物語を読んだり・・・

そういうことならば、
何時間でも出来たと思う。

だが・・・残念ながら、
そういうことを学校では、努力とは言わない。

決められた努力をすること。

それが努力なのだ。


人に何かを一方的に決められることが嫌だった私は、
結果的に・・・
学校での努力(と言われているもの)を全然やらなかった。

だが・・・

それが原因で「努力は報われない」などと・・・

ひねくれて言っているわけではない。

私だって、努力そのものが嫌いな訳ではないのだ。

ただ残念なことに・・・

世の中には、
報われない努力が多すぎる。

それが事実だ。

その原因が、
どこにあるのかを考えてみたい。


私は・・・性格がひねくれていたので、
他人に押し付けられる努力が大嫌いだった。

だから・・・

常に、
自己流の努力というものを考えていた。

例えば・・・

歴史の年代暗記が嫌いだったので、
年表マシンというものをつくることにした。
箱の中に年表が収まっていて、
くるくるとそれをまわしながら歴史を覚えるのである。

私はこの道具をつくるために6ヶ月を費やし、
結果的にひとつの年号も覚えることが出来なかった。

あるいはゴルフをやり出したときにも、
決められたメニューをこなすことが嫌で
自己流の練習ばかりをやっていた。

結果的に・・・

全くゴルフがうまくならなかったことは言うまでもない。

私のような人間を、
要領の悪い馬鹿な人間というのだ。

ある、京大出身の友人に聞いたことがある。

彼は中学のときに、
先生からこう言われたそうだ。

「もしもいい大学に行きたいのなら、
 何のために勉強するのか
 ということは受験が終わるまで一切考えるな」と。

その教えを守って、
彼は見事に京大に合格したわけだ。

余計なことを考えずに、
言われたことに全力を尽くす。

そんな盲目的な努力のおかげで、
成功した人はたくさんいる。

だが一方で、努力が報われずに
悶々とした人生を過ごしている人もいる。

こういう努力をするべきだ。

そんな風に、
盲目的に信じられている努力は、たくさんある。

いい成績を取ること。

一流の学校に入ること。

有名企業に就職すること。

資格をたくさん取ること。

英語が話せること。

・・・他にもたくさんある。

もちろん私も、
これらがすべて無駄な努力だとは思わない。

だが・・・その中には
残念ながら無駄に終わってしまう努力もたくさんある。

その最大の原因は、
努力をするための目的設定ではないだろうか。

何のためにその努力をするのか。

それを考えずに
いきなり努力してしまう人が多すぎる。

「何のために勉強するのか」

を考えていたらいい学校には入れない。

そんなことを考えている暇があったら
目の前の努力に全力を尽くすべきだ。

この理屈は、受験においては正しいと思う。

ゴールがひとつだからだ。

だが・・・社会では事情が異なる。


努力することが
目的になってしまった結果・・・

俺はこんなに努力しているのに・・・

私はこんなにも一生懸命働いているのに・・・報われない。

というような結果に行き着いてしまう。

社会では、
盲目的に頑張ってはならない。

私は、そう結論づけている。


なぜならば・・・

社会が自分に求めているゴールと・・・

自分自身が求めているゴールとは別物だからだ。


一生懸命働いて・・・
たくさんの利益をもたらし・・・
少ない給料で文句も言わず働いてくれる社員。

あるいは・・・

たくさんの税金を納めながらも・・・
国には一切の見返りを求めない国民。

そういうものを、社会は求めているのだ。

社会の求めに応じて、
生きていきたいのならば ・・・

社会の求める努力をすればいい。


だが・・・

自分のために生きていきたいと思うなら・・・

何が・・・
自分のための努力なのか・・・
ということを・・・

努力を始める前に、考えなくてはならない。