永遠のライバル-ナポレオンが息子に残したもの-④ | Salon.de.Yからの贈りもの〜大事な事は全てお姫様達が教えてくれた。毎日を豊かに生きるコツ

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元ワイン講師であり歴史家。テーブルデコレーションを習いに行った筈が、フランス貴族に伝わる伝統の作法を習う事になったのを機に、お姫様目線で歴史を考察し、現代女性の生きるヒントを綴ったブログ。また宝石や精神性を高め人生の波に乗る生き方を提唱しています。

親と子は永遠のライバル。

ライヒシュタット公の生涯も折り返し地点を迎えました。


今回は少し大人になってプリンスが、時代を超え、父とは違う視点でヨーロッパの統一を目指し始めた頃の話しです。




「昔と今では、時代が違うんだよ!」

私達も、何度、この言葉を使ったものでしょう。

 

親子とは言え、生まれ育った時代や環境が違えば、アイデンティティも変わって来ます。

 

旧体制を憎み、倒した革命期に頭角を現したナポレオンは、時代の先を読む力はあったけれど、所詮はコルシカから出てきたての田舎貴族の子。

 

コルシカでは一族による血の結束が固く、縁戚関係は政治的な同盟より強いと思っていました、国際政治の舞台では、親子と政治は別と言う感覚には疎かったのです。

 

一方、ヨーロッパと言う旧社会は、王侯貴族の結束が非常に強く、一つの国が巨大化し、権力が集中しない様、このパワー・オブ・バランスを保つ事が非常に重要であり、過去の経験から、この基盤を維持する事が必須だったのです。

 

しかし、ここに、誤算があったんです。

 

ナポレオンは時代の先を読み過ぎた。


新しい時代を作ろうとして、ヨーロッパの基盤構想を丸ごと変えようとしたけれど、一般市民も王侯も、その壮大な構想には、まだまだ追いつかなかったの。

 

恐らく、自分がヨーロッパのリーダーとして引っ張って行こうと考えていた事を、ナポレオンの息子であるライヒシュタット公はフランスの歴史やナポレオン戦記、政策記等を通して理解を深めていったのではないかと思われます。

 

対して、父と自分の歩んだ足跡を振り返り、歴史の長い名門の宮廷の中で、自身も皇族としての義務を学び、独立運動の波が高まるヨーロッパ情勢を肌で感じているライヒシュタット公は、軍事力だけでは、国政ばかりかヨーロッパの均衡は保てない事を学んで行ったんです。

 

将校試験にも合格し、軍務に就く事となったライヒシュタット公爆笑

 

誰もが、プラハの軍司令部に大佐として勤務する事と思っていました。

 

プラハの軍司令部は、プロイセン、ボヘミア等に隣接する重要地であった為、ハプスブルク家の大公達は、皆、プラハ勤務からスタートしていたからです。

 

ところが、


ライヒシュタット公が皇帝に呼ばれ、辞令を受けたのは、ハンガリー第60連隊大隊長として、ウィーンにある司令本部に勤務する事

 

まさか、ここまで差をつけられるとは…ショボーン

 

これには、家庭教師デイトリッヒシュタインも貴族達も、「歴代の大公達はプラハなのに、これではプリンスが余りにも可哀想だ、しかも大佐になれなかった」と心から落胆したのです。

 

しかし、ライヒシュタット公がハプスブルグのエリートコースから外されたのには訳があったんです。

 

ラヒシュタット公は11歳の時に結核に罹病しており、長い潜伏期間を経て、咳や微熱等、初期の兆候が出始めていたのですガーン

 

痩せて、咳が止まらない孫の身体を心配して、祖父である皇帝が、遠いプラハより、ウィーンに司令本部のあるハンガリー部隊なら、宮殿から通えると判断したのです。

 

しかし、

 

周囲の落胆を余所に、これで自分も父と同じ軍人としてのスタートを切れる。

第一線の兵士達と一緒に汗を流し訓練が出来る、とライヒシュタット公は大喜び照れ

 

毎朝4時に起床し、軍服に身を包んで、愛馬を駆って宮殿を後にしていたのです。

 

しかし、実際は、大佐として事務仕事が多いプラハの勤務に比べて、ハンガリー部隊の勤務は、宮殿から通えるとは言え、毎朝4時に起きて、6時から汗だくになるまで訓練の後、護衛等の任務を行い、午前11時よりやっと本部の勤務。

 

午後からは軍務の勉強と体力的にもハードなもので、結核の症状が出始めたライヒシュタット公の体力を、どんどん消耗させていったのガーン

 

ほどなくして、兵営に大隊長の部屋が出来あがり宮殿から居を移したライヒシュタット公ですが、徐々に、疲労の色が強くなり、痩せて、咳き込み、号令の声も擦れる様になってしまったんです。

 

そして、とうとうサリン将軍の葬儀を執り行う為のパレードで指揮をとった時の事。

 

父を意識した横長の帽子と、父がエジプト遠征で使ったトルコ風の刀を振りかざす姿は、噂に聞く美しいプリンスを一目見ようと集まった人々の目に、細身で颯爽とした姿として映ったラブのですが、号令をかけるその声もしわがれて、プリンスを知る人達からは、余りの痩せかたに病気ではないかと、皆、心配したのです。

 

その年の夏、ペストが流行り、ウィーンでも感染が確認されると、ウィーンの住民達は郊外へ避難し始めました。

 

皇帝一家を始め宮廷も、ウィーンのホーフブルク宮から郊外にあるシェーンブルン宮殿に居を移した為、皇帝一家の中でライヒシュタット公だけがウィーンに残っている状態。

 

孫の病状を心配した皇帝からは帰る様に何度も命令が届いたの。

 

しかし、


「危険だからと言って、兵士達を置いて隊を離れる訳にはいかない。危険な時だからこそ、兵士達と共にあらゆる困難に立ち向かうのが隊長の役目だ」と、頑なに拒否プンプン

 

8月に入り、宮殿に戻った時は、顔は青ざめ、憔悴しきって、ハァハァと苦しそうな呼吸をさせながら、倒れる様な姿で戻って来たんですって。

 

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・・・・to be continued