永遠のライバル-ナポレオンが息子に残したもの-⑤ | Salon.de.Yからの贈りもの〜大事な事は全てお姫様達が教えてくれた。毎日を豊かに生きるコツ

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元ワイン講師であり歴史家。テーブルデコレーションを習いに行った筈が、フランス貴族に伝わる伝統の作法を習う事になったのを機に、お姫様目線で歴史を考察し、現代女性の生きるヒントを綴ったブログ。また宝石や精神性を高め人生の波に乗る生き方を提唱しています。

偉大な親を持った子の葛藤を纏めを含めて全6回長丁場でお伝えして参りました。


次回の最終章を前に、今回は生涯の終盤を迎えた薄幸のプリンスの容態を見ていきたいと思います。



容体の悪さに最低2週間の静養を言い渡され、自分の不甲斐無さに悔しさを覚えるライヒシュタット公。

 

生来の頑固さと負けん気の強さプンプンで、容体が安定して隊に戻るとライヒシュタット公は無理をしてしまう。

ウィーンの冬は厳しいのに、微熱がある身体で、-16度の寒さの中閲兵式に出ると言う強情さですショボーン

 

頑張り過ぎる性格と、隊に対して示しがつかないという責任感で自分を追込む為、無理が重なり、ライヒシュタット公は憔悴しきってしまったのです。

 

ライヒシュタット公の騎馬の腕前や、責任感の強さ、人柄は軍の兵士や指揮官等あらゆる人々から尊敬されていましたし、判断力や記憶力、学力や分析力等すべてに置いて宮廷の全ての人々から高い評価を受けていたんです。


外交官達でさえ、その魅力ある人柄に将来が恐ろしいと、ヨーロッパの最重要人物になるであろうと予測されていた程だったんですっておねがい

 

しかし、

 

それだけの評価をされていても、ライヒシュタット公にとって、父ナポレオンの影は巨大であり、自分は武力でヨーロッパの統率は行わないけれども、でも、父の様な英雄になりたいと焦りばかりがあったのでしょう。

 

熱が下がらず、閲兵式を最後まで続けられそうもない程弱った孫を見た皇帝から、即刻、宮殿に戻り身体を直す様、命令されましたプンプン

 

ライヒシュタット公の側にいる兵士達の中で、この措置を「皇族特有の特権」と思う者は、誰もいませんでした。

それだけ、ライヒシュタット公は兵士たちと一緒に汗を流し、率先して働いており、誰の目からみても、安静が必要な程病は進んでいたのです。

 

宮殿に運ばれる途中、余りの不甲斐無さにライヒシュタット公の瞳からは涙が溢れていたのだそうえーん

 

自分と同い年の時、貧乏将校としてスタートを切った父は、24歳の時には、大佐として自力でのし上がっていたと思うと、

 

自分は、いったい何をやっているのか!!

こんなところで、病気になって寝ている場合ではないではないか!プンプンムキー

 

と、自分は父の様になれないと悲観し、落ち込み、自信を失っていったのだそうです。

 

父の若い頃と自分を比較すればするほど、惨めで、父の背中が遠く、また大きな物として悔しさばかり湧上る。

 

軍人として意気揚々とスタートを切った、20歳のライヒシュタット公ですが、この1年で確実に死に向っていったのです。

 

当時の医師団の知識は乏しく、結核に有効な手立てがありませんでした滝汗

 

そればかりか、責任逃れをして、自分達の知識の無さを棚に上げ、一向病状が良くならないのは、プリンスが医者の言う事を聞かず、無理を重ねるからだと主張していたのですゲッソリ

 

それでも、ライヒシュタット公は、いつか病気が治る事を信じて、「病気が直ったら、先ず、病気に負けない体作りから取りかかろう」と希望をつないでいたのだそうです(うっ、健気〜えーん)

 

回復どころか、既に耳が聞こえづらくなっている患者に、医師団の中からは、秋から冬の間、温暖なイタリアへ転地療養させてはどうか、と言う声が上がっていました(遅いんだよっ‼︎ムキー)

 

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ライヒシュタット公は医師達が転地療養を考えている事を知ると、「イタリアへ行けるかもしれない」と気を取り直して、見舞に来る人に嬉しそうに話していたのです。

 

苦しい中でも、自分の目で外国を見る事が出来ると思うと、余程嬉しかったのでしょうおねがい

 

しかし、ライヒシュタット公のイタリア行きに異を唱えていた首脳患部達。

 

メッテルニヒがやっとOKを出したのは、死も目前に迫り、歩く事も出来なくなってからでした。

それも、中々、孫の転地療養が進まず、痺れを切らしたムキー皇帝から命令を下された為だったんです。

 

メッテルニヒは、度々、フランスへの敵意を口にしていました。

 

その度に、ライヒシュタット公は「僕はフランスと戦う事はしません。父の遺訓を守るつもりです」と、母にも手紙で語っていたのです。

 

気候の良いイタリアへ転地させないメッテルニヒに対して、ウィーンの人々は、政敵の子にとどめを刺したムキームキーおーっ!と、口々に噂をしたのでした。

 

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次回はいよいよ最終回です。


……to be continued