人生というもの、お金というもの、どちらも、とても深くて険しい…。お給料日、いつもよりすこし奮発した買い物帰り、ハンドルを握ったところで、ふと浮かんだ。げに、どちらにしても、考えてもどうにもならぬことの方が多いけれども、それでも、考えないではいられないものだ。つまりは、いつも苦労されられるもの。ということだけは間違いないようだ。ほんのひと月ほど前、わたしの不注意と不用意のせいで、ここ何年かの未払い分があることが、わかり、それを既払いにするには、なんと、貯金の大半を払わねばならぬことがわかったとき、それはもう、内臓の全部が裏返るくらいの動転をし、しばしは眠れなくなるくらいに阿鼻慟哭⁈したものだった。カード決済のなんとおろそしきを思い知ったのだった。


とうに、件の決済も終えた今となっても、我ながら、丼勘定だったことへの、猛省も含めて、悲しく痛々しい思いを、まだ少し引きずっているやもしれぬ。日頃の、不安や心配のそのほとんどは、こころが勝手に作り出してることに過ぎないとはいえ、備えなければ憂いだらけ。というのも、また真のような気もするのです。文字通りの清貧をすべし。と言うことなのでしょうね。知らぬがほとけとはこのことで、この何年か、未決済のいくつもがあるとも知らず、やりくりの中で暮らせていると信じ、いくつもの旅や旅行を繰り返せていたことは、今となっては、古き良きありがたき時間だったのでせうねぇ。


無論、切り詰めた毎日の中から、捻出して、年に数えるほどの、遠出をするのもまた楽し。そうなることを、祈念しながら、目下は、慣れない倹約暮らしの中におります。そうは言っても、学生時代そんなふうに暮らせていたのだからと、懐かしい感覚を引き寄せては、日々少しずつ楽しみも見つけられつつあるのであります。かくして、冒頭のことばが、浮かんだのです。


それにしても、いまこれを書いてるのもそれなのですけれど、スマホひとつで、なんでもかんでもができてしまうようになってしまったこの頃。なんでもかんでもが、愛想もなく、ひとの声もなく、温もりもなく。日々の暮らしまでもが、果たして、そうなるような気配もうかがえるし。ともあれ。便利と引き換えに、失われていくものは、ものすごくたくさんある気がしますね。キーボードでこれを打っていた頃が、いたく懐しく。もしかすると、スマホに触れずに暮らせる暮らしほど、贅沢はないのかもしれませんねぇ。


歳を重ねてくると、あるときふと思うのですよねぇ。このままこの暮らしが続いて、しを迎えるだけなのだろうかと。いえ、悲観してそう思うというのではなく。もうなにも、変化は起きないのだろうなぁと、不意に思う瞬間が訪れるのです。若い時は、このままおわるわけでない、というのが、いつも意識のどこかにあったのに。歳をある程度重ねてくると、不意に浮かぶのが、ああこのままおわるのだろうか、に、変わってくるのです。これが老いるということなのかもしれませんねぇ。諦念だけでなく、滋味豊かな味わいの先にある愉しみのようなものを、起念できるといいのでしょうねぇ。人生とは、ときに、深くけわしいものでして。まもなく春ですねぇ。

海外行きのチケットは〜、あんまり早すぎる時期に買ってはいけない、ということなのでしょうねぇ〜。いえ、一年も前に、一年後の体調のことを全く考えず、それも、払い戻しできないからそのお値段というのを、買ってしまって、1年後の冬になって、あわてふためく〜、そんなお馬鹿さんがどこかにいたものですから…。いつまでも若くない、ということ…、いえ、若くても、猪突猛進だけでは、あきまへん〜、ということなのでしょうね。相変わらずです。まぁ、こうして半分笑い話にできるのも、千円のキャンセル保険のおかげで、大半は戻してもらえることになったのと、それから、いつもの体調不良のはずが、期間も程度も想定を超えてやってきて右往左往のかぎりを尽くした体調が、ここにきて、やっとどうにか復調の波にかわってくれたからでしょうかねぇ。


それにしても。そのまま行ってきたらば、今ごろアルプスに程近いどこかの、スキー場で、慣れないボードに載せられて、それとも、ほとんど初心者に近いスキーを履いては、目の前の急斜面にたじろぎ、ほとんどの斜面をお尻で滑っていたのでしょうかねぇ。ともあれ。しかし。復調してくると、げんきんなもので、無理しても行っていれば良かったかもしれぬ、などと、また、懐具合の大寒波を忘れて、そんな調子のいいことを、考えてもみてしまうのですから、ひとは、ほんと、どうにもこうにも、こまった生き物なのですねぇ。向こうの友人のひとりが、なんとか、息子たちが小学校をおえるまでに、来てくれないかなぁ〜の、約束⁈を、今なら、かろうじて一年遅刻くらいにできたのだけれどなぁ〜。それもまた、縁。なのでしょうねぇ。それにしても。やっぱり残念でしたねぇ。


それにしても。揺れるたびにおもいます。理不尽と、さだめのようなことを。でも、そんな達観などしたくもない、かなしさややるせなさが、そこここにやってきていて。ことばの無力を思いますねぇ。それから、もうひとつ。どーして、揺れるのはいつも、1がふたつならぶ日取りなのですか?たまたまですか?そして、こんどのは、あろうことか、元旦だなんて。わざわざそこに一家が集まったひとと、正月を前に、若い人の住む街にでていて難を逃れたひとと…。それを、さだめのひとことで、片付けるのは、あまりにやるせないと思うけれども、それでも、それが現実と言われたら…。返すことばを失うばかりですねぇ。ともあれ。ほんとは、毎日の一秒一秒に、そんなのと変わらぬ、運があって、ひとは、気づかずに、生かさせている、のだけれど、こんな大きな被害があって初めて、そういう根源的なことに気付かされるのでしょうねぇ。


とはいえ。脳の中の、アドレナリンだかセロトニンだか、なにかが、意思とは全く違う次元のところで、出たり止まったり、そんなこんなで、生きてるエネルギーを、与えられたり奪われたり、これとても、運命なのだと、言うのでしょうかねぇ。これも、一病息災だと。マイナスのときは、何を言われても、どーしもこーにもならないのです。当たり前すぎることを、言われれば言われるほどに深く、沈むし、それができない自分が情けなく、起きてるのが、しいては、いきてるのがつらいとかどーとかなどと思ってしまうわけです。マイナスに掛けて、唯一プラスを生み出せるのは、マイナスしかないわけで。プラスな言葉、勇気の出るなんとかとか、エトセトラ、元気な人が口にする言葉は、それらがプラスであればあるほど、マイナスの方は、打ちひしがれる。短調の音楽、それに、苦しみながら描かれた絵画、あるいは、どーしようもなく暗い映画…。不思議とそういう中に、ふと快復を手助けしてくれる作品があたり、するのですが。その都度、その当人さえ。なにが癒しとなってくれるのかがわからないから、右往左往。動かぬ低調と過ぎない時間の中で、潰れそうな中に居るわけです。そういうときに、もっと辛い人がいるからなどと言われようものなら、何をできない自分を、責めて余計に苦しくなる…。ところが。時期が過ぎて、ふとした拍子に、ながいトンネルを抜けた途端。あれ?大丈夫じゃん、なんとかなるじゃん、お金よりどんな時間を送るかでしょ、海外だって行けるときにいっとかなきゃ⁈、なーんて、思い始めとる誰かさんが、いるのですからねぇ。困ったものですねぇ。


ともあれ。少しずつ良くなっています。お薬の効果もあるのでしょうか。このぶんだと、なんとかやっていかれそうです。いつだったか、四柱推命の本と格闘してたときに、ひとには、定住が向く星のひとと、流転の星をもつ人があるのだとか…。流転の変化を、もたらすために、かくもこんなかたちの変化が、見舞ってくるのだとしたら…。変化なら、もう少し、苦しくないかたちの変化のかたちでもって、やっていきたいものです…。そんなこんなを、切に願いながら、そして、震災の現場のたいへんさを、思うとやっぱりこころがいたくなる、大寒間近の小雪の舞う午后なのです…。どーして、いつも揺れる時は寒さの厳しいときなのでしょうか…。

人生最大のピンチかもしれませんね。こんなに苦労するなんて。なるようになると、ひとはいうけど、それを言えるのはまだゆとりのあるときかもしれないですねぇ。これでも、かなり快復してるのでせう。いえ、そう思える部分と、まだもう少しと思える部分があります。それでも、生きているから、これまで当たり前と思てたことがどんなにありがたいかが、ものすごくわかったいまだから、なんとか大事にしていきたい。この病と上手におりあって。生きていきたいものです。


更年期だけのせいなのか、それ以外もあるのか。ともあれ、上手につきあって、なんとか、元気といえる感じになりたいものです。こうして、言葉を書く元気が戻って来てくれているのは、うれしいことです。どういうわけか、ジグソーパズルだけは、以前から夢中になることができて。それにしても、健康でいられるって、すごくすごくありがたいことなのですね。当たり前のことを、身にしみてわかることができるのが、それを失いそうになって初めてなのですから…。なんとも情け無いですね。


今年の年賀状は、ごめんなさいになりそうな按配です。いつものような絵の具を出して辰の字を書くのは、間に合わないような気がしています。元旦に届いたものにだけ、既成のハガキで書けたらいいなと、そう思っています。6月半ばにダウンして、ずうっと苦労していました。いつもなら、数週間か数ヶ月で、ダウンは抜けるからと時を待ってみましたが。更年期が合わさっているのか、よりしんどくなるばかりでした。それで仕方がなく入院。そこは全く時間の経たない別世界で。正直、療養する心理にはなれなかったです。食事だけはありがたかったですが。


若いドクターは、話はうーん、うーんと聞いてくますが…。いえ、話しやすくやすくて熱心でいい先生だとは思います。結局はお薬をどーするという話だけになってしまうのは、やっぱり少し残念ですね。眠剤に頼らず、再び寝られるようになりたいと、すごく願っていますが…。どうなのでしょう。今のところは、お薬飲んで寝ています。


ともあれ。当たり前の日常を、取り戻して、普通にやっていけたらいい。年の瀬らしいことは、何も出来ていないけれど…。ひとまず、時間が経たない症からは快復しつつあります。今できることを少しずつ。無理もしない。ありのままに。それでも、入院前よりは、すごくよくなってる。そんなところです。また、書きます。歯切れのよくない文章ですね。。。我ながら…。

とっても長い夏と初秋でした。やまいは気からといいますよね。気力で治せたらどんなにいいだろうってなんども思いました。程度の差こそあれ、誰にでもあることなのだから、もっと、騒がず、職場に迷惑もかけずにのりきれてたら、どんなによかったろうって思います。自力ではどーしても眠れないというのが、こんなにも続いたのがいちばんつらかったように思います。それでも、治療しながら、いま1週間と少し休ませてもらっている仕事にも、出来るだけはやく復帰したいと思っています。できるなら、今週末にも。多少しんどくても、復帰できれば、暮らしの不安も少なくできるし、何より自信も快復できるし。治療をしながら、仕事もがんばる。そうしたい、がんばりたいと、思えるまでに、体力と気力を戻してこられていることに感謝です。


これまで、ずうっと、自力と時間薬だけで、来たから。そのうち治ると思って期待してたから。専門の治療にもちからをかりようと思っています。お薬がどんなふうに効いて、仕事との両立ができることが、かぎですよね。でも、前向きに取り組んで、乗り越えたいと思っています。

先週ものすごく、疲弊が進んでいた時、そんなことは全く考えられなくなっていました。ご飯も自分で用意できないくらいに、こころとからだか疲弊して。


こうやって書いて、自分自身を鼓舞しています。きっと、わたしは生きていける、大丈夫。なんとかなる。ずうっと言い聞かせています。そうしなくちゃいけないくらい、それができるかの自信をなくしそうになっていたのですね。ともすると、いまも、揺らぎそうになるのを、自分に言い聞かせています。あんまり、考えこまないことですよね。なんとかなると、思うこと。いちにちいちにちでいいと思うこと。時間と、いろんな人のやさしさに救われて、きっとあとはよくなるだけ!そうなんだとおもいます!もうすぐまた、元気にコースを歩きたいですね。まもなく。眠れない朝の、早朝のつらさにはもう負けません。がんばっていきます。ほっと、胸を撫で下ろせる日が来た時のことを思い浮かべながら〜。よろしくお願いします。ふつうのげんきにもどりたい。あとすこしですね。

どうしたものか。もうみつき、いえ、4ヶ月近くになります。これが初めてというのではないのですが…。だうんしょうと勝手に呼んでいるけれど。とにかくしんどいのです。ひとは、なんでも聞いてくれますが、同時になんでもいいます。あれをすればいい、これをすればいいと。それができないからしんどいのに。いったい、脳の中のなにがどうなって、こうなるのでしょうね。手元の機器で調べれば、必ず、薬の治療をすれば治るとありますが。ほんとなのでしょうか。ともあれ。つらくて眠れないのでなく、眠れないからつらいのでもあり、でも、からだの方はなにもしないで寝ていたい…そんなふうに願っているようです。寝て休みたいのにあたまが休んでくれない〜そこで、なにかがオーバーヒート?、いえ、充電切れを起こして、当たり前のことが億劫でたまらなくなるのでしょうか。


あの秋の日の赤煉瓦のそばの、見事過ぎる満月を観たあと、どういうわけか、言葉が降ってくる…そんな風になったのを覚えています。そのあと3年ほどして、また、晩秋のある日に同じように声が聞こえてきたようになって…ちょっとした騒ぎを起こしてしまいました。当の本人はその時、見事に物語の中の人物のように、いわゆるゾーンに入ってるような状態なわけです。そのあとは、そんなこともなく、平和に時が流れ…。しかし、唯一の家族を亡くしたあと、再び…。それでも、だうんの時の睡眠がそれなりに確保できる時は、まだなんとかそれほど苦しまずに済んできたのですけれども。これは不治の…?と、思うとさらに塞いでしまいます。


この夏は、どーしようもない暑さとともに、この眠れない症が訪れてしまったので、七転八倒…、あれも試し、これも試し、どれも続かず、果たして万策尽きたようになって…。やっときょう。しかし、これもいちにちだけなのか、それとも少しずつ良くなるのか…。なにしろこれまでの時が、たいてい、いつも、それとわかるような、軽くなる感覚とともに、ひとまずの元気になっていたのですから…。こんなことで生きていけるのだろうかとか、このままだったらどうしようとか、そんなことをいくら悩んでもなにも解決するわけでもなく、もうどうにでも〜などと思えたら、案外なんとかなっていくものなのでせうかねぇ。


おそらく、眠れないからつらいのではなく、からだは疲れ切っているのに、ねるにねれない…。晩年のははが少しこわれていくまえに、こんなふうに苦しんでいましたっけ。それを体感させるために、降りて憑いているのか、定かではないですが。ともあれ、まことに、元気であるということの、なんとありがたきことでせうね。一病息災とは言うけれど、これではいちびょうそくしではないかと、悪態もつきたくなってしまいそうです。確かに。元気であるとき、いつも季節ごとにいえ、いつも伝えたい言葉が溢れてくるので、いつも手紙を書いていましたね。それをしても、このやまいのひとつなのだと言われてしまうと…。とても悲しい…のですね。


いまこんなふうに、辛さを、抱えている時、元気な時の自分は、別の…とは言わないけれど、今思ういくつもの心配や慎重さや謙虚さのようなものをなくしてるのは確かなようです。これをなんとか元気のときの自分に伝えられないものかと思案しますが…。果たして。参りましたねぇ。仮にこんなふうにあっぷとだうんを繰り返すにしても、もう少し自分でそれなりに、やりくりできる程度であってくれたなら…。これを、なんとか一病息災にするには、はて…。しかし。自分の意思で、どーにもできないこれを〜、はて、どうやって制御したものか〜。いえ、制御できぬから、やまいというのでしょうけれども。


ここまでひどくはなくとも、眠りの悩みは多くのひとを困らせているようですけれど。然して、かくも、かような状態につき、なんともかんとも、毎日がいささか以上にくるしい時間とのお付き合い…になっておるのです。かような近況を伝えてられても困惑しかないやもしれませぬが、ともあれ、ひとまずの生存と苦悩をお伝えすべく書いた次第です…。生きることのなんと難しいことでせうねぇ。ここにこうして書いていくことで、幾分でも、ささやかに平坦に暮らせる日々に近づくことができたらよいのですけれども…。はて、次の書簡はいつ、書けるものやら…。あの場所で突然、腰が伸びたおばあさんのように、なれないものでしょうか…。

とあるゴルフ場のマスター室を頑張っている女の子がふとつぶやく…。春はへんたいがわいてくる頃なんですかねぇ〜。げに。情けないことですねぇ。紳士の意味をわからぬもののなんと多いことか…。実に嘆かわしく候…。もっとも、いつまでも根雪が溶けず、雪深いこの地方にあっては、なおさら、春は待ち遠しいものではあるけれど…。そして、啓蟄とは、実によう名付けたものだと感心するけれど…。先人は、かくものことを、想定してつけたのではありますまい。お金や地位があっても、紳士の意味と無縁のまま一生を終えるひとも、一定の割合ではいるでしょうが…。ほとんどの人が、出入りできるようになった今となっては、紳士の意味は多少、哀しくも、レベルダウンを余儀なくされるとしても、それでもですよねぇ。それ以前の人のあるなしを見るにつけ〜、ほんまに、日に何回の嘆息を数えるだろうか…と…。結局は、人格、そして人柄、人間性に尽きるのでしょうねぇ〜。へらへら下手に出てれば、腹で何を思っててもわからぬとでも思うのか…。言葉はいくらでも嘘をつけるが、空気は絶対につけないのだ。思ってることは、自然と空気となって、身の回りにまとわりつくし、無言の時にその気配のなかで、思ってるやましいことを消すことは絶対にできないのに…。


それにしても。二十代前半のころ、無意識に危険は察知してもいたけど、それほど、酷いものが目に入ってくることが、少なかったのは…。はて。運が良かったのか、それとも、運良く姿勢わるくして歩いていたのだろうか…。少なくとも、今のような、おかしなものに、いっつものように、警戒警報を全開にしなくちゃのような、ことにならなかったのは、はて、なぜだったのでしょうねぇ。おそらく、若すぎると対象にならない?。そんなあほな〜ですよね〜。まぁ、それはいいとしまして…。ともあれ。おそらく、思うに、幼いとき、母親もしくは母に代わるひとに、充分な愛情を受けられたひとは、おそらく大丈夫なのでしょうねぇ。おんなきらいのおとこの数だけ、おんなの人にもそんなひとは、かなりいますから、そんな意味で、生まれながらのふこうもたくさんあるのはあるとおもいます…。見てると、素晴らしい方、素敵な方の、母上は実は立派な方ばかり。とすると、鶏か玉子か、ともあれ、おんなが、かぎなのですかねぇ。優しさにりあふれたおんなのひとというのは、限りなく少ないですからねぇ。気の強くない女を、探すのはほとんど無理だけど、男の人の半分もやさしさを、もってる女の人ははてどのくらいいるのでしょうねぇ。女の人の優しさを育むのが、もし、父親の愛情なのだとしたら、うーん、やっぱり、どっちもおなじくらいに大事ってことなのですかねぇ。はてさて。


ところで。いつかも書きましたが、おんなが惚れることは限りなく少ないと、書かれていた吉行さんの一節にいつかふれましたが…。いかにも。ほかの友だちより裕福になれるとか、ひとまず物欲を満たせるとか、そんなこんなを、ぜーんぶ外しても…、愛していると言える女の人は…。いやいや、この先は書きますまい。語弊が増え過ぎそうですし…。ともあれ、人としての、友情にも似た人情や、愛情をもって接してるなぁ〜って見える方は、たくさんありますけれど…。そもそも、おんなが、男の人のように、惚れやすい生き物だったら、10ヶ月もの子どもを身に育てることはできないからでしょうかねぇ?いい意味でもどちらでも、ある意味鈍感でないと…。そうはできないものなのかもしれませんねぇ。なあ〜んて。愛というものの捉え方、認識の仕方が、そもそも双方で、初めから多少は、いえ、大きく違っているから、いろんな勘違いが出来て、結果的にうまくいく⁈ようになっているのですかねぇ。君の名は、とか、ニューヨーク舞台の巡り合い、とか、巡り逢えたら、とか、あれは、会うまでの時間だけを写しているから、あんなに、綺麗に描けるのですかねぇ。いや、きっと、いつまでたっても変わらぬ愛や、思いやりの人たちは、きっと映画にもならずに、ひっそりと、静かに暮らしているのですかねぇ。目立たぬように…。そうでもないと、夢があまりになさすぎますよねぇ。それにしても、紳士とは、このまいくと絶滅してしまうのではないかと…。心配、危惧があふれて仕方ない、この季節です。スマホの中なんかに、真実はなにもないのに。スマホなしで、街で佇める、あるいは、ひとりで旅ができる、そんなわかものは、今でもどこかに。ちゃんといるのでしょうかねぇ。自分の頭で考えて、きちんと決断して、行動できるわかものは、どこかにちゃんといるのでしょうかねぇ。


それにしても。ゴルフとは、一にもニにも、決断の切れ味。いかに、決断を、くだして、次の一打を繰り出せるか。どこまでいっても、その決断の美しさを、競えるかいなか。それに尽きますねぇ。決めないまま打つことの、なんと無意味なことか。なんと醜いことか。結果がうまくいくかいかぬかより、何倍もかっこわるい。ちゃんと決めて、決断して、そっちを向いて、その球種で、そのボールで、勝負する、そう決めて、打つからこそ、美しいボールが飛んでいくのです。スコアしゃかりき、過程の決断ないがしろのなんと醜いことでしょう。せっこいゴルフを見ていたら、見てるだけでもつまらなく、そしてその場の空気さえ濁ってみえます。状況しだいで、ちゃんとピンの根元に打てる勇気のなんと素晴らしきか。入ってくれ、でも、入りますように、でもなく、入れる、入るように打つ、そうやって打つから入るんですよ。ちゃんと赤道を芯で打つから。からだの芯と軸と肚を、ちゃんと持って立っているから。だから、芯に当たるんですよ。胸張って、姿勢よく立ってるから。距離感がでるのですよ。背中丸めてでは距離感はでないものです。顎をひき過ぎてもです。おそらく、三半規管が影響するのでせう。

とにもかくにも、決断の切れ味。これがいいのは、どんなものでも美しい。切れ味がいいと味が素晴らしいのは、料理だけではないようですねぇ。

ところで、この冬以降、いろんな流れや偶然が重なって…結局、不思議な習慣が定着してしまいました。道路に面した部屋での電気を使わない。つまり、つけたり消したりをしない、ということ。いちじき、実際、旅に出ていていなかったときもあったし、かえってからも、半分は除雪がしんどい、ただそれだけのために、車は離れた公共施設の駐車場に停め、歩いて行き来。ほとんど、かくれんぼごっこみたいになってたのは確か。それを、心配してくれ、なかには、どこか別の居場所が?、そう泣きべそ⁈してくださった方もあったけど…。ともかく。偶然の繋がりで、結果的にそうなってはいるももの。まぁ、節電以上に、その方針をなかなか気に入ってはいるのです。何しろ、日暮れに台所の電気をつけた途端、それとわかるよに、横の通りに車のライトが動く。それも、かなりの頻度で。まぁ、偶然というのもありでしょうが。トムソンガゼルの直感も侮ったものでもないのです。空気というものだけは、いつわれないのですから。やましさやあやしさのないものと、そうでないものの、発する空気は全く違う。これだけは万国共通。まあね。家にライオンがいたなら、あるいは、コワモテオオカミさんでもいてくれたなら。こんな心配は、きゆうに数えてもかまわんのでしょうが。いつの時代も、ばかにつけるクスリには、みなが多かれ悩まされてはきたのでしょうね。実にくだらぬことともいえるが、そも、つみといえるものの、根源はなにかと問われれば、おそらく、結局、ほとんどすべてが、そんな類の、にんげんの情けないごうやら、よくやらに、動かされているのは事実で、そんなこんなを考慮すると、軽視もとても易えきとはできますまい。


それにしても、あらゆることは氷山のいっかく。(いつかも書きましたね)。どこかの局で捕まった方もおられたようですが、あーいうものは、勉強をしたとかしないとか、そのたあらゆるかたがきは全く意味をなさなもので。要は品格。要は理性。要は人間性そのものなのでしょうね。含羞のあるひと、あたりまえに痩せ我慢が当たり前の〜そんな、ちゃんとした御仁にはもちろん無縁のはずの話ですけど。時々、往来の多い通りに面する苦労と気苦労を、吐露したくなる日もあるけれど、これ、ある意味、かえって、衆人環視、抑止力にもむしろ役立ってもいるのでしょうかね…。これが人里離れた山奥なら、いつか書きた、おそらくいまでも、はいかいをやめられてない、ひゃうとうばんとうろくの、ばかやろう人は、そんな山奥にこっそり夜に乗り出す青の車を車庫に大事に数十年もっては愚行を続けているようだが…。そりゃね、できることなら、カメラでもなんてつけて、とっ捕まえて、紙面にものせて、塀の向こうにおいやりたいですよ、できるなら。しかし、無期にできない限りは、余計なきけんをあとに残すだけ。それこそ、ばかにつける薬はありませんからねぇ。ほんまに、おかしなはがもんぜーんぶまとめて、お縄にできて、一生戻れぬ離小島に幽閉できたら、どんなにいいか。いつも、おもうんですよ。あなたのお嬢さんが、おなじこと、されたら、せったいに、ころしたいっておもいますよ、ってね。でも、そんなの、いくら言っても現場を抑えぬ限りは、考え過ぎのひとことで一蹴されてしまうでしょ。あらゆるきけんは、それが、おもてになるころには、もうおそい、そのほとんどが、そういう性質を、はらんている、それは、少しでもおかしいと感じたら、きちんと対策するのがいちばんの肝心。なーんて、まあ、あえて、少し大袈裟に書きはしましたが、それでも、当たらずとも遠からずの現実はあるけど、なるたけ、素知らぬ風に、あらゆる用心を駆使して、暮らしているのです。そんなこと、いちいち声を大にしたところで、なんの有益もうまれないことがらですものね。にんともかんとも。いつのよも、ひとは、いちぶのならずものに、なやまされるものなのでしょうね。苦労しますよ、ほんとに。


そんなことより!ゴルフです。一球必打。一打完結。その一打にすべてをそそぐ。これがなんだめなんて、せこいこと考えて打つから、かっこわるい球筋しかでなくなるのです。真ん中に当てる。からだの芯で、軸をしっかり持って立って、重心をしっかり感じて、芯で打つ!ただ、これだけ!芯でうつから、肚のある、魂のある球が飛んで、あるいは転がって、いくのです。それを目指して、真剣に打ってるひとの姿を見れば、それが、たとえ、7打目だろうと、8打目だろうと美しいのです。真摯なすがたが。たとえば、81歳と4ヶ月だとしても。いきざま、スタイルの美しい方、特に生き方の綺麗な方は、話を聞いてるだけでも、楽しくなるし、こちらまで、こころが洗われる気持ちになれて素晴らしい。そう思います。どーして、こーも、生き方の美しい方は、小柄な方が多いのでしょうかねぇ。不思議です。


いつまでたっても、スコア出しに一喜一憂し、打ちたい球の種類を、増やしたり、ほんとうの一打を、磨く努力に愉しさを、見出せず、ボギーになるとすぐにつまらぬ顔をして、目の前の一打にも真剣さを失い、数字だけにしか興味のないゴルファーがもし、近くにいたとしたらば、それはそれは残念な事柄に違いないですねぇ。ひとは、まあ、そのひとが、できること、イメージできることか、達成てきぬし、話しも聞けぬといいますから、言われてもできないことは一生できない、のかもしれませぬけど…。せっかく、あんなに素晴らしいコースに恵まれながら、いくつもの難所からのリカバリーショットの練習に時間を費やせていないとしたら、それは実に残念なことですねぇ。数字を超えたその先のなにか、そんな真髄に気づけたなら、どんなに奥行きのあるゴルフができるのだろう。ひとはみな、いきてるかぎりいきている。つまり、意識のあるあいだは永遠にいきてる、のだから、なにを、そんなに心配するのか、したいことからすればいいのに、じふんのきもちに正直に生きてるひとと、ゴルフすると実に気持ちがいい。わくわくするし、飛んでくボールもじつにきれい。これを長く読んでくださってる方はもちろん、そんな、素敵なゴルフをできるお友達たちに恵まれるのはほんとに感謝ですねぇ。きのうの、いっーーばい、ボールを放りこみました。島がたくさんあるコースの池に。池は越えるためにあるのですからねぇ。逃げて通るなんて、めちゃめちゃもったいないですよね〜。おかげで、ひゃくてんどころでは全然すみませんでしたが、じつにたのしかった。数字にまけない、おかねにまけにい、は、ほんとに良きことばですねぇ。いっしょにまわってくださる紳士よりかならずおおいスコアでまわる、のは、数えてるわけではないけど、たいがいうまくいくのが、不思議でもあり、うれしくもあり。これはだれにもいえないひみつの楽しみ方なのやもしれませぬねぇ。もちろん紳士の場合に限りますよ!^ - ^なんてね。

ジャックさんがイメージしたというところに行ってきました。順目はじつによく伸びる。じつに楽しい。バンカーにしても出しがい寄せがいがじつにある。とてもいいコースでした。むずかしくないとゴルフ場ではないですからねぇ。どうしてでしょう。なんとなく立って、よし、これで届けばはいる!そう、時には声にも出して、構えて。パターの困ったことは、打つ瞬間が見えてしまうことですよねぇ。見えないくらいにあたまをうごかしちゃまずはいらないのだから…。みてるしかない。ベッドを出す。つまり手を、手を動かすためには、肩甲骨を、そして、それを、スムーズに動かすためには、おへそから。からだの芯、腹が据わるの、そのはやの部分、つまり、腹筋を意識して始動する。あとは、あのへんまでなら、このくらいというのは、これはもう直感と感覚です!バックバームするとき、歩測してからなげるイチローさんはいないでしょ、と思うのは、掌を組んだ時左手の親指がうえになる!わたしだからなのですが…。ともあれ、外角低めのコントロールは勘と勇気でしょ!、だから、しっかり打ったらぜったいはいる!といつも思ってうっています…。それでも、立つところが、完全なレベルで水平なんてことは、まずないですから、そのライに対してのまっすぐです。グリーンの傾斜に逆らわないでのまっすぐ。たぶん、これが案外てごわいのでしょうなぁ。だから、プロだって、3つ覚悟で勝負しなきゃのときもある。の、だろうなぁ〜と、勝手に想像しています。ともあれ、なぜ立てるか、なぜ自然に勘に任せて立ったら打てる場所にピタリとはまって立てるのか、我ながら実に不思議で仕方ないですけれど、それでも、打てるんですねぇ。フェードなら。つまりは、スライスラインなら。朝飯前に打って見たことないですが、それでも、スライス系のましてや登り、しっかり打ってもOKなときは、実にわくわくしますよねぇ。果たして。頭が止まって、ゆっくり打った姿勢のまま、しばらくしてから首だけ回してボールを見送る。これができてるときは、調子がいい。こころの中で、お〜きょうは(これが)できてるできてる〜。そう、内心もほくほく。で、ボールがいい回転でホールに向かって、さいごのひとのびで、コロンとカップに消えてくれるときの、あの爽快さ。といったら、ほかのどんな気持ちよさにもまさるのでは、そう思えるような嬉しさたのしさでありますねぇ。


短いのは、はて、どうするか。ちょうど立ったとき、視界のはじっこに、カップがみえる、あれがいちばんなやましい…。あたまをうごさせと、誘惑してくるんですよねぇ。目の端にいるカップの存在が…。おい、みてみて〜ってね。そうはさせじと、こころに言うんです。こうなりゃ、ふだんは、しっかり胸張って、そして腰の高さも無理なく自然に自分の身長のまま。ひざは曲げない。これが美しいし、なにより、これがいちばん距離感がでる。のだけれど、短いときはさにあらず。いまは、距離感などどーでもよく!要は入れるか入れないか。はいるかはいらないか、なんて思っちゃいけません!入るのではなく、入れるんです!ここまできて、神に頼んでどうなります?要はボールの回転。あとは初速と強さがすべてです。しっかりボールの面とボールの面を密着させる。こわいもんだから、は、と、さわるかさわらんかで、あ〜〜〜と、嘆く御仁のなんと多いことか。ショートパットほど、低い重心でどっしり立って!しっかりボールに対峙して。そして入るボールの転がりや、強さをしっかりイメージ。これ肝心。イメージできるボールはかならず打てます!から。ひっかかりそうで、外したら抜けそうで、びみょ〜〜なラインは。フック系なら、パターヘッドの先っぽで。スライスなのなら、ヘッドの根っこで。しっかり、カップの内側に!それでいて、まっすぐ内角低め、あるいは外角低めのギリギリに、しっかり入るように、つまり、カップの内側にボールの隅まで入るようなラインに立って、打つんです。絶対入る!そう確信しながら。これ大事です。ボールだってことば同様、気を、受けますから。たましいだってこもりますから。ね。それこそ、ほんまにめちゃくちゃ急な下り坂、どう見たって30センチでさえも、カップ一個、あるいてボール一個は切れるでしょ、って、そんなときには、その入ってくライン、ボールの通り道を想定して、きっかりな強さをイメージして打つ!。まぁ、これは、なによりセンスと度胸。スローカーブをなげるような、度胸と覚悟で打つよりほかありますまいねぇ。しかし、これが入ったときもまた、投げた瞬間、バッターの見送りとストライクのジャッジを、確信しきって、キャッチャーミットにおさまるよりずっと前に、ベンチに走り出してるときとおなじの、してやったりが、ありますねぇ。どうだ、見たか!ってね。


そんな具合に、いちだいちだに、壮大なロマンから、ささやかだけど、いっせいいちだいの覚悟や賭けが、それこそ、コースで打てる数だけあるのですから!〜。いっぱい打てるの、しあわせですよ〜。失敗がきたら、もいちど、あのわくわくを味わえるチャンスが、増えたんですよ〜。料金はかわらないのに!。こんないいこと、ほかにない!そう思うのに〜、ど〜して、あんなに焦って、なーんの準備もイメージも、ぜんぜんせぬまま、いまの失敗なかったことに3秒いないなら、取り消せるかというように、どーして、あんなに焦って打つのですかねぇ。みんな…。クラブだって、替えたら、いまの失敗が生かせるかもしれないし〜、もっと別の、球筋にだって、挑戦できるライにやってきたかもしれぬのに。待てば海路の〜って、こととは違えど、それでも、失敗の後こそ、じっくりですよ。ホームラン打たれて、カッとなって、安易にストライク取りに行ったら、またカツーンってやられるでしょ。いつでも、どこでも、初球が肝心。どの一打もぜーんぶ、強打者への初球、あるいは、ウイニングショット。打てる数だけ、そんなワクワクがあるスポーツ、ほかになかなかないですよ〜。もちろん、状況しだいでは、次への布石。それでも捨て駒だけはどこにもない。次にどこから。どんなボールを打つのか、しっかり考えるなら、木の下から次の一打にふさわしい場所への、一打がいかに大事で、どんな一打より、見どころもやり甲斐も大きいか。枝と枝の間を抜けたときの、あのやったあ感。ちょっと、いまのVTRみんなで観ようよ…そう言いたくなりそーな、一打があるのは木の下です。どーして、みんな、フェアウェイばかりよろこぶのですかねぇ。もったいないですねぇ。ましてや、ドライバーはバッグから抜いて、フェアウェイウッドまでやめてる御仁もあるほどで。いつも打つのは決まった7番ウッド一本で。あるいはユーティリティ。旗を狙って打つからバーディが来るんです。奥まで打つから、寄せがいのあるアプローチができるんです。あるいはバンカーが。よったときのあの爽快感。酔った時とはちがいますよ〜。


手前からパーでいいなんて、いったい誰が言い出したのでしょう。そも、ゴルフというものは、パーでいいのを、確認するスポーツとは違いませんか〜。くるまに72や36をつけたいきもちはめちゃくちゃわかる気がしないでもないですが…。それはそれ。バーディ狙って、アプローチだって、必死の集中で打つから寄るのであって。かっこよく、すずしく打ってよるわけないでしょ。プロたちの、あの、一打への集中、ピンをさす一打を打つときの、あの気魄と刺すような緊張感。あれを間近にしたことあれば、いい加減な、気持ちで打つのがいかに、無礼で失礼か。てきとーにうって、てきとーにパターして、いいスコアがでないお嘆く口あれば、はて、どうしてせいばいしたものか。なあ〜んで、いまのは冗談ですけど。ともあれ、かくも真剣に立って打つのがゴルフなんです。それでいて、打って仕舞えば、入るもなんとか入らぬものなんとか、なんですよ。なにより、打った瞬間わかるでしょ。芯で打てた、よし入ったって。すこーしでも、ひっかけたり、あるいは、こわくて開いたり、芯でないのの感覚あったら、わたしあかんたれ、そう、打った瞬間わかるもの。悔しさよりも、情けなさは、ありますねぇ。まぁ、自分にやさしく!をこころがけてるから、いつでも、1秒悔いたらすぐ忘れる!のですけどね〜。はい、つぎいってみよ〜〜って。そうそう、パーの話。はじめから、パーしか狙わぬスコアなんとか。ひたすら数字にひれ伏して、スコアだけを、自慢しているどこかのだれか。あーそーですか。それはそれはすごーおましたなぁ〜。そー言いたくなるのをぐっとこらえて、なるべく近寄らない!のがいちばんですねぇ。数字に負けてしまったひとというのは、どーしてあーも会話力から、人間力まで、どこを、どー切ってもおもしろみのひとつでてきませぬねぇ。なぜでしょね〜。いまさら、保育園のおりこうさんでもありますまいに〜。ゴルフはとにかく、ワンパットするスポーツなんです。谷越えショットに5球要したって天晴れではないですか〜。ボール以外の損失のないとこで、いったい何を、恐れるのでしょう。ゴルフだからこそ、何度でも挑戦できるのに。この頃いつもの池越え4番ミドルのティーショット。だいがい、4球打ちますなぇ。それでいて、たいてい、行ってみたなら、一球目がかろーじて、水切りいちばん、ギリギリに超えているんです。それも、右でしか打てないところに。仕方ないから、ピッチングがピーエスを裏返して、右打ちするのですけれど。前の前は見事成功。このまえはというと、見事にシャンク。池にぽちゃ〜ん。たのしくって、おもしろくって。コントみたいですねぇ、ゴルフも、人生も…。たぶんね。もちろん、打ち直しも、クラブ裏返して、右打ちリベンジですよ。前のときより、いいのに打てたら、これまた嬉しい!やったね。こーして腕は上がるんです。なあーんて、ともあれ。いろーんなライに、創意工夫で、いろーんな打ち方しているうちに、球筋も持ち玉も、球種だって、増えていく。だから、ねんねんおもろくなる。そーんなことを、おもってやると、いかよーにも、人の数だけ攻め方だつて、守り方だって、ホールホールで局面もかわるし。そーんな、駆け引き、やってたら、知恵は要るし、覚悟もふえるが、賢人にもちかづくーーーん〜と、ちゃいますかねぇ。100年やっても、まだやってないこと、でてくるのとちがうかなぁ。ですから、だから、パーいのちで、あかんたれな、小さくまとまるショットだけを、繰り返してるよな、そーんなひとはほっといて、もっと、いっぱいたのしいゴルフを見つけませんか。ものは観よう、考えようで。気持ちのもちよう、そんなこんなで、まだまだいーっぱいいいこと、すぐちかくにかくれてあるんとちがいますかねぇ。


ほんで、いつ行きましょか〜?夢のフェアウェイへは…。うちのコースにも是非いちど、来てみてほしいものですねぇ。また、お便りします。

いまはまだ2月9日なのですが…。ふと気がつくときょうでした……そういえば、ひゃく何年か前の、文化か文政のころですかね、きょうとのいまではとってもゆうめいなお茶の銘柄とおんなじ名前の、我が家のごせんぞさん、つまり、初代当主だった方の誕生日でもあるらしい!…のです…。だからどうした、と言われればそれまでなのですが…、日付けのことをしっかり忘れたまま…きょうの流れのまま…日暮れからいつものカフェのような、つまりは有名なコーヒーショップの…いつもの席で…やっぱり、手紙は書こうと思った時に書くべしである!と、あの言葉を励みにいつもそうしてるように…、書き始めて、はたと、きょうの日付けに気がついて、あらまぁびっくり…と、なった次第…。そしてまた、いつもみたいに、手元にあった…ハガキに書きたいことを、伝えたいことを…どんどん書いていった次第…。4枚になりました。地元の美術館でいつか買った一枚に…、去年の今ごろ、奈良を旅した時に求めた一枚〜その勇壮な表情に魅かれて手にした木の仏像…、地元の大きなショッピングモールの3階にひっそりとあったアメリカ帰りの店主がかつて買い集めたという中の一枚…、そしてきょうそのコースショップを訪れる直前に近くの大型書店で見つけた春の子猫のワンショット〜じつは、同時に求めた中に思わず手にしそうになったワンちゃんの一枚…いちばんに似つかわしいと感じた一枚は…、きっともういまはいなくなってしまわれたあの子たちを思い出されてしまいそうだから…と、やめたのでした…泣きそうなくらいにかわいい一枚でしまけれど…、ともあれ、この頃とみに、ワンちゃんとまた?と、自問自答を繰り返すわたしにとっても…、泣かせる一枚となっていたのでもありましたが…、それもともあれ、然して、一気に書き上げた4枚の手紙であるのですが…、いつもと違うのは、いつもなら、そのままそこで封をしていつものポストに投函してからかえってくるのですけれども…、はて、どこにどう宛てて書いたらよきか…、いまだ、わからぬままなのに、やっぱりきょうは書きたいと、書いてそして持ち帰ったので、ありました。はてさて、どうしたものでしょう。


2月の風は、ぬるいときでも、ひえてるときでも、なんとなく、一月のそれとも、三月のもやもやっとしたのともちがう…、冴えきった一月のともやはり違うが、それでも充分透明感、静謐感にあふれていて、それでいて、早春の、このあとどんどんあたたかくなる方向に向かっていくのが、なんとなくわかるような…兆しのような香りを纏った肌ざわり…。そんな感じの風に感じます。立春とともに、真のいちねんの暦がスタートするのとも、こころなしか、神聖というか、清新というか…そんな心持ちを呼び起こすような…、そんなイメージです。かつて中学の頃に、いつも熱心に古文の美しさ、響きの良さを一所懸命伝えてくれた、おんなの国語の先生が、いちばん好きな季節は早春のころ、と言っておられたのが、いまもなお印象に残っています…。ことばの美しさを、いつも精一杯の表現を使って、伝えようとしてくれた先生でした。何年か前に、ものすごくたいへんか大病をされたけれども、東京に渡って難手術を乗り越えられて、無事に生還されたのでした…。あんなふうに、わたしはこの季節がいちばん好き!そんなふうに言えるのって、すごくいいな、素敵だな…そう思った当時のことが、何年経っても覚えているのは、なぜでしょうね。何年経っても、記憶に残る、そんなワンシーンワンシーンを持てるっていうのは…、やっぱりこころなのでしょうね…。こころのありよう…。こころとつながつたことばを話されているということ…。一所懸命伝えたいと本人が、真に思っているということ…。そんなことごとが…きっと、こころに届く言葉になる、ってことなのでしょうかねぇ。ひとは何かを話しますが、いったいそのどれだけが、そんなふうな言葉にすることができるのでしょうねぇ。言葉とは、ことばであって、でも、そのすべてが、真のことばというわけではないのかもしれぬ、つまり、届くことば、届かんとする言葉というのが確かにあって…、それはやっぱり、ひとは気持ちで生きている、ということと、無縁ではないのだろうなぁ〜という、感嘆・感慨のようなことを、いま、わたしは、その妙について、言いたくて、それで、こうして書いているのだと思います。やっぱり、きょうのうちに、つまりは、9日のうちに書きたかった!というのも大きくて…。


こどはには、あるいは文には、文章には、いまこのときでないと、書けない流れや表現があるのは、確かなのでしょうね…。あしたになると、もう、ニュアンスやことばの軽重、つたえたい直球の球速やキレ、重みに違いがうまれるような…。そんな感じ…。詩にも、詞にも…あるいは譜にも…そんなことは、きっといつでもあることなのでしょうね…。いまのいましか、生まれようのない…そんな一節が…。たぶん、きっと、おそらく…たぶん…。冬に飛ぶとんぼはまだ、見たことはないのだけれど…。それでも、そのことについても、その4枚の中に書いて綴った宵なのでありました…。冬の匂いって、やっぱり確かにありますね。

雪国からのしばしのとうぼうをはかって…、一日延ばしにしているうちに…、うっかりそうなってしまいました。どうやら、最近増えてるらしい、シンプルのみ、シャワールームのみ、の新しいスタイルのようでした…。窓を開けると、遥かに、色のついた塔も見え、眼下には黒い瓦屋根や、いにしえのひとたちの眠る場所も間近の…、古くからの町のかたすみ…。ツーブロックもあるくと、あの繁華街があるなんて、まるで嘘みたいな…。そうなることさえ、なければ、きっと、また来たい一角になったでしょうに…。あの、映画のワンシーンみたいな、天井からのシャワーヘッドと、温水を頭から浴びるあったかさは、なかなかのものでしたが…、やはり日本人なのですかねぇ〜、やっぱりバスタブのない場所は、食卓のない台所みたいな感じをうけてしまいますねぇ…。


そんなことで、あわてて、場所を移って、有名な大橋にもほど近く…、わずか4週ほど前にも滞在した、驚くほど、気持ちのいい応対をしてくれる宿のちょうど、真向かいにある、似たような〜、でも、こっちにはバスタブがちゃんとあって、おまけに、質素だけれど、畳の間があるでも洋風な、不思議な空間でした…。各階にひとつしかない、通りを見通せる部屋に通してもらえたので、件の宿や、大通りを行き交う往来の様子も眺めることができて〜、いつかも書いた野菜処なのに、お肉のお弁当が破格に上質で驚く!このお店で買ってきたお弁当を運んで…、日暮れ前から〜、ゆっくりしっかり休息モードでくつろいたんですけどねぇ〜。


喉のいっかくにへばりついてしまったそれが、これほど、なかなかにやっかいにすみついてくれるとは…。もっとも、さすがのいちにち伸ばしもリミットとなって…、こんどは夜明け前に目が開いたまま、さらに粘りたくなるこころを追いやって〜、実に時速2キロもままならぬほどの、渋滞にも平然と、綺麗な山の遠景なんかを愉しみながら〜、実に、ふだんの3倍近くの時間をかけて〜、帰路についのが、いささか急ぎすぎたのでしようかねぇ〜。もう2、3日、どうせなら、珍しい雪景色を、楽しむくらいの、余裕でもって、のんびり温泉にでもつかって、冬至の湯治でもしてくるのが、是、だったのですかねぇ〜。


ともあれ、オムツ常備をひしひしと感じる長丁場にも、なんとか持ちこたえて〜、昼寝する亀より遅い行程をも、そのゆったり流れる時間をかろうじて愉しむゆとりも、持ち合わせられていたのですけどねぇ〜。エアコン嫌いなわけが、とっても、よくわかったきがします…。どんなに暑くても、どんなに寒くても、自然の風にまさるものはないのですね〜。っと、いうことで、しばし、のどのあれこれと、向き合っておるところです…。実に変化に富んで、相変わらず、ビックリなほどのおっちょこちょいじけんにも富んで!、自分で自分の流れに驚くことにも慣れてるつもりだけど…、驚きのうっかりパターンは、はて、あとどのくらいレパートリーが残されているのだろうか…と、半ばやけに、でもちょっぴり楽しみにもならなくもない…、相変わらずの珍道中のあれこれを〜、半径3ヤードに戻ったいつもの場所から、思い浮かべては、はやくこの喉のナニガシに、早く去ってもらえないものかと…、わずかに嘆息もしている…目下の処、なのでありまする。


冬には冬にしかない、空気のいろんな風情があるもので…、凍てつくような早朝の、明けていく空のいろいろや〜、朝日を浴びて、色をつけていく丘陵地帯の、いえいえの佇まいや〜、やまぎわの色の濃淡のせつなさのような、希望のようなその灯りの加減や〜、そんな静謐で、透明なことこのうえない、空気の質感は、たしかに、冬は朝!だと、断言するに間違いない!と、感じるところでは、ありますねぇ〜。冬にこそ、寒いところを旅してはじめて、味わえるものがある。確かに、年々、その実感や、味わいの深さは、大きくなっとくしたいなと思うところ、ではありますが…。でも、やっぱり、時々、太陽さんさんのあのやわらかな冬のひざしと、ちっともあれくるわない海の佇まいのそばに、身を置きたくなってしまいますねぇ〜。地中海のような、独特の風情のある海のそばに…。


と書いてるうちに、はや如月。あと2日もすれば、豆をまかねばの時なのですねぇ。それにしか、えほうまきなんて、いったいいつからどこからきたのですかねぇ。ほんとはちゃんと昔からあったの?ただ、コンビニがなかっただけ?ほんまにそうですか。にんとも、わかりませぬが、チョコ同様、なんとか、冬の間に、イベントを、少しでも増やして、生きてる実感を、ふやすための工夫の末…なのですかねぇ。はて、年末に戻ってきた書簡と、描いただけで、文面もまだの賀状は、相変わらず、手元で、こののんびりカメさんの、どうしたものかを、のんびりのんびりみまもっている、しだい…。まっている、というのは、それをわすれてしまったら、のんびりたたずんでいただけ…と、おんなじ、平穏さ、なにごともなかった安寧さで、受け止めてもらえるものなのですかねぇ〜。そも、はじめから、そんな大袈裟なこと、皆無だったかもしれないのに…。どーころがっても、やっぱり珍道中!そんな風情のなかにただ居るだけ…ただ、言ったそばから忘れていくひとりごとを囁いているだけ、かもしれないのに…ですねぇ。なあ〜んて、そもそも本音のわからぬタヌキの戯言なのですけどねぇ。それにしても、あそこの、冬季限定かもなんばと、親子丼は、実に美味でした。行くたびに、あのお勘定台にいらっしゃる方のことばの柔らかさ、歴史感の重厚さに感心させられてしまいます…。一字一句を控えておきたくなるくらいに…。