人生というもの、お金というもの、どちらも、とても深くて険しい…。お給料日、いつもよりすこし奮発した買い物帰り、ハンドルを握ったところで、ふと浮かんだ。げに、どちらにしても、考えてもどうにもならぬことの方が多いけれども、それでも、考えないではいられないものだ。つまりは、いつも苦労されられるもの。ということだけは間違いないようだ。ほんのひと月ほど前、わたしの不注意と不用意のせいで、ここ何年かの未払い分があることが、わかり、それを既払いにするには、なんと、貯金の大半を払わねばならぬことがわかったとき、それはもう、内臓の全部が裏返るくらいの動転をし、しばしは眠れなくなるくらいに阿鼻慟哭⁈したものだった。カード決済のなんとおろそしきを思い知ったのだった。


とうに、件の決済も終えた今となっても、我ながら、丼勘定だったことへの、猛省も含めて、悲しく痛々しい思いを、まだ少し引きずっているやもしれぬ。日頃の、不安や心配のそのほとんどは、こころが勝手に作り出してることに過ぎないとはいえ、備えなければ憂いだらけ。というのも、また真のような気もするのです。文字通りの清貧をすべし。と言うことなのでしょうね。知らぬがほとけとはこのことで、この何年か、未決済のいくつもがあるとも知らず、やりくりの中で暮らせていると信じ、いくつもの旅や旅行を繰り返せていたことは、今となっては、古き良きありがたき時間だったのでせうねぇ。


無論、切り詰めた毎日の中から、捻出して、年に数えるほどの、遠出をするのもまた楽し。そうなることを、祈念しながら、目下は、慣れない倹約暮らしの中におります。そうは言っても、学生時代そんなふうに暮らせていたのだからと、懐かしい感覚を引き寄せては、日々少しずつ楽しみも見つけられつつあるのであります。かくして、冒頭のことばが、浮かんだのです。


それにしても、いまこれを書いてるのもそれなのですけれど、スマホひとつで、なんでもかんでもができてしまうようになってしまったこの頃。なんでもかんでもが、愛想もなく、ひとの声もなく、温もりもなく。日々の暮らしまでもが、果たして、そうなるような気配もうかがえるし。ともあれ。便利と引き換えに、失われていくものは、ものすごくたくさんある気がしますね。キーボードでこれを打っていた頃が、いたく懐しく。もしかすると、スマホに触れずに暮らせる暮らしほど、贅沢はないのかもしれませんねぇ。


歳を重ねてくると、あるときふと思うのですよねぇ。このままこの暮らしが続いて、しを迎えるだけなのだろうかと。いえ、悲観してそう思うというのではなく。もうなにも、変化は起きないのだろうなぁと、不意に思う瞬間が訪れるのです。若い時は、このままおわるわけでない、というのが、いつも意識のどこかにあったのに。歳をある程度重ねてくると、不意に浮かぶのが、ああこのままおわるのだろうか、に、変わってくるのです。これが老いるということなのかもしれませんねぇ。諦念だけでなく、滋味豊かな味わいの先にある愉しみのようなものを、起念できるといいのでしょうねぇ。人生とは、ときに、深くけわしいものでして。まもなく春ですねぇ。