パワカンのブログ(輸入車個人輸入代行)

パワカンのブログ(輸入車個人輸入代行)

日本 アメリカ 人と車。日本の将来を考えます。

日米の行き来があるので、両国の違いを書いていきたいと思います。
特に日本の遅れている車事情や交通事情、いまや日本も車社会。

人間と車の共存を真剣に考える時がきているのではないでしょうか。

いつもご覧頂きありがとうございます。

 

前回まで、渡米の話を書いてみました。アメリカで経験したことは大きな宝になっています。

帰国してすぐ、神奈川県の川崎にあるアパレル量販店で修行をした時はすでに25歳。と言っても丁稚(でっち)のように無給ではなく、きちんと給与が貰えます。自宅から通えない距離ではないのですが、修行と言う意味でも、また一人暮らしが始まりますが、アパート、水道光熱費を差し引くと1日1,000円以下でやりくりしないといけない。弁当箱に白米を詰めて出社、あとはパートさん達におかずを貰ったりするような日々でした。毎日9:00から22:00、残業手当はないのが当たり前の時代で、休みの日でも出社したものです。日本の組織は違うタイプの人間や、同調しないものには圧力をかける習慣がありますよね。そういう所は相当苦労しましたが、言葉の通じない異国に居た苦労を考えれば、案外楽しいものでもありました。

 

3年の修業を終えたのが28歳、そしてちょうど2000年(29歳)には運よくアパレルの小売店を3店舗持つするようになっています。

一時もっと店舗数を増やした時もありましたが、失敗成功を繰り返して落ち着いたのが3店舗。31歳頃から輸入車の事業 パワーカウンティも始めたり、結婚と離婚を経験したと言うのも大きい。

そしてその数年後、ロサンゼルスに現地法人を立て、数年間ロサンゼルスに住むことになります。今は管理してくれるビジネスパートナーがいるので、アリゾナ州のフェニックスに移転していますが、こうして今に至る訳です。

そう考えると、21歳で渡米してから33歳まで目まぐるしい12年でした。

これが出来たのは読んでくださった皆さんにはおわかりと思いますが、出発点は間違いなく渡米してからです。

 

川崎での修業時代も、自分を貫けたのはアメリカで培ったものが大きかったし、店探しから店づくりに至るまで、WAL MARTで働いていた時にノートを書いていたと言いましたが、しっかりした青写真が出来ていたんですね。

 

パワーカウンティ(輸入車の事業)は全く想定外でしたが、たまたまこの仕事をする流れになったんですね。米国に現地法人を創ったのも、たまたまそうせざるを得なかったから。

学生時代に渡米していなかったら、考えもしなかった。

 

 

老子の言う「道」

水は高い所から低い所に流れる自然の摂理。

 

ご存知の方も多いと思いますが、アルケミスト(パウロ コエーリョ著)、羊飼いと前兆の話。

要は夢にたどり着くためには自分に正直になる事しかなくて、それが出来れば行くべき道(前兆)が見えてくる、と言う。

実感する人も多いのではないでしょうか?

嘘をつくと永遠に前兆は聞こえなくなってしまうそうです。これも分かる気がしますね。

 

感じたことに素直に従ったら辛いことが起きたと言う事がありますが、後になってそれは目標への通過点だったと気づく経験てありますよね。

僕にも色んな事がありましたが、今を構成する部品の一つだった事を実感します。

 

でも誘惑が多い世の中なので、楽しい事やお金に目を奪われて、ましてやそれを捨てて本心に従うのは簡単な事ではないんですよね。現状維持ってホント楽ですから飛び出そうなんで考えたくない。そうした邪念に取りつかれちゃう。

僕の場合で言えば、海外旅行したら経験したことのない楽しさを感じた。だから、渡米をした。ただそれだけです。新しく手に入れるために今あるものを捨てる、それが出来るかどうか、結局そこに尽きてしまうんですね。だから、人生ってそれが出来る人と出来ない人の差でしかなくて、能力の差ではないんじゃないかと。

 

僕の場合、英語を覚えたこと以上に海外で得た友人や経験は何にも代えがたい。

もっと言えば、国を越えて移住する事も出来る。

狭く資源も少ないこの日本に億の人がいて、物の取り合いをしている訳です。

この国がいつどうなるか、誰にも分かりません。だから変わっていくことへの免疫を身に付ける意味でも、行ける人は海外にでてください。

そして感じた事をやってみて欲しいんですね。

 

2年前に来た未成年の男の子は、着々とカナダ行きの階段を上っていて、資金は早いうちに貯まったようです。あとは英語力だと毎日英語のリモート授業を受けているようですが、なかなか会話力が向上しない、と言う事で、日本に住むフランス人の女性と付き合った。一心不乱に夢を追いかけてるみたいで頼もしいです。更に、僕はまだ親の資金的援助がありましたが、彼はそれに頼ることなく、そして僕が渡米した21歳と同じ事をしようとしている。

凄いことですね。

元々は彼も大学生でしたが、コロナのせいで学校にも行けず、徐々に増える奨学金の返済と言う未来に愛想が尽き、辞めて就職するも会社の運営が厳しく、再就職を模索中に弊社に来た。僕の「カナダに行ってみたら?」と言う言葉は、彼の心を打ったそうです。

辛いことばかりで、彼には失うものは無かった、のかも知れません。

楽しい青春を謳歌していると言うと聞こえは良いですが、その足かせを外して新しい事にチャレンジできない人が大半ですね。だから、逆に彼にとってはラッキーな環境だったんじゃないかと。いや、成るべくして成ったのかも。

アルケミストを思い出す今日この頃。

世界中で読まれている本です。是非読んでみては。

 

ブログもどんどん長文になり、まとまらなくなってきたので、今回は短く書いてみました。

 

では、皆さんまたよろしくお願い致します。

続きをご覧頂き、ありがとうございます。

 

前回は手違いか何なのかWAL MARTで解雇されたものの、何とか頼み込んで買い物カート集めの部署に配置された所まで書きました。

 

この年はもうフロリダは春から夏にかけて暑くなっていた頃。その秋には渡米3年を過ぎようと言うタイミングでもあります。期限を決めていた訳ではありませんが、3年間のアメリカ生活が目安でした。フロリダに移り半年を過ぎ、ようやく生活習慣や言語にも慣れてきたところでした。

 

これまでアメリカに住んでいて分かった事は沢山あります。

外国に出る事は、日本の長所や短所を知る事とよく言われます。世界から見た日本の非常識さも見えてくるし、言い換えれば自分の非常識さや無知さも思い知らされます。

こうして現地の人達と同じ環境に身を置いて知った事は数多くあります。

カートプッシャーの業務に話を進める前に、そんな事を書いてみようと思います。

 

治安面もそうですが、食べ物に無頓着すぎるというか、なにも気にしない日本の文化に気付きます。サンドイッチのサブウェイで、パンの種類として、ホワイト、ウィート、マルチグレイン、オーツ、ライムギ、どれにする?と聞かれて分かりますか?

白い小麦粉に何の疑問も持たず、当時は余りにも無知でした。

今でこそ全粒粉くらいは知られている程度ですが、日本は食べ物に気を付けている健康な人種、アメリカはジャンクフードだらけの害食文化と思ったいたのは、今も昔も大きな勘違いでした。

 

考えてみれば、アメリカほどの多民族国家が、食べ物に疎いはずがない。

東南アジアや中東の友人と外で食事をすることは殆どなかったのは、牛や豚、肉だけでなくエキスも摂りたくない文化もあったし、禁じられているものもある。ベジタリアンもいれば、動物性のものは食べない(今でいうビーガンのような考え方)に人もいます。サラダは先に食べるもの。これだってアメリカでは昔から常識だったんですね。

 

確かにアメリカにはジャンクフードが蔓延している一方で天然食物を心がける人達も多く、そこからオーガニックやNon GMO、グルテンフリーを唱える今に至りますが、それに比べて我が国はどうでしょうか。パン屋に並び、麺を好み、品種改良に疑問すら持たない日本の現状もあります。小麦粉は麻薬と変わらないと言う話も聞きます。一度摂取するとまた欲しくなる。アレルギーやアトピーも小麦の品種改良から始まったとも言われるではありませんか。ようやく全粒粉を聞くようになったのは最近ですね。小麦アレルギーが反応しないと言われる古代小麦の入手は未だに苦労します。何せ、美味しさを求めて品種改良と言う人工食物を作り出すのは日本の得意分野ですね。

私はほとんど買いませんでしたが、アメリカで食パンを買いに行けば、どれを買ったら良いのか分からないほど種類があります。

 

 

アメリカの健康志向も高まって、その後WHOLE FOODS(ホールフーズ)やTrader Joes(トレーダージョーズ)と言うスーパーが登場し、価格の高いWHOLE FOODS、Trader Joesはオーガニックや契約農家の商品を買いやすい価格帯で揃えるようになります。

 

 

アメリカの食べ放題形式Buffet(ビュッフェ)、野菜も豊富でマッシュルーム、カリフラワー、ズッキーニ、ブロッコリー、ニンジンも生で食べます。農薬が気になるのは当然です。

 

 

これが凄い美味しい。

日本に帰ってくると生では食べられない野菜が多い事に愕然としたものです。同じ名前でも、日本とアメリカの食材には大きな違いがあります。

スイカ=Water Melonは日本の二倍近い大きさですが、とても甘く、水分、歯ざわりも良く、フロリダやカリフォルニアではとにかく美味しくて安かったですね。「アメリカは何でも大味」と言われていたのは嘘でした。

因みに、$1.99 eaと書いてあれば、1個1ドル99セント(約200円)、ea=eachの意味です。

野菜を重さ買う時は、LBで表記されています。

LB(lb)をポンドと読み、99¢/lbと書いてあったら1ポンドで99セント。

99¢per LBと書いてあっても同じ意味。ブロッコリーをよく買っていたので、使わない枝からポキポキ折ってなるべく重さを減らしたものです。重さはレジで測って換算されるので、ピッタリにする必要もありません。

 

 

パナマシティにはワッフルハウスWaffle Houseと言うレストランが沢山ありました。

Coffee House と言う名前もありましたが中身は同じで、小さい町でも10店舗はあったと思います。ここでワッフルとコーヒーを注文し、日本に手紙を書いている事が多かったです。当時は3ドル弱でサラダ、コーヒー、フライドポテト(またはハッシュドorマッシュポテト)が付いてきます。飲み物のお代わりはサーブしてくれます。

オクラホマは炭酸でもコーヒーでもお代わり無料でしたが、フロリダはコーヒーのみだったので、州ごとに文化ってあるんですね。

ワッフルハウス以下参考

https://www.wafflehouse.com/

 

そんな訳でスーパーも利用していたし、ワッフルも食べたし、ベーコンにしても日本では食べたことのない味と触感で、すっかり現地に馴染んでおりました。

 

今でも外国に旅行に行く際は、冷蔵庫やキッチンの付いた宿泊を予約したりします。

スーパーに行けば、きっと買ってみたい野菜や果物にも出会うし、調理もしたくなるものです。ロサンゼルスの出張では、Extended Stay America と言う宿泊を取ったりしますが、。やっぱりアメリカのマーケットは楽しい物ばかりです。その際は是非利用してみてください。

 

そんな日常生活も違和感なく送り、WAL-MARTでの仕事に何とか噛り付く形でカートプッシャーに配属され、丁度この頃から、ノブは帰国をし、他の日本人達とも会う余裕もなく過ごしておりました。

カートプッシャーがあまりにも私にとって過酷だったから、と言うのが一番だったかも知れません。

 

 

今では軽量化され、時には電動のモーターを繋げている姿を見かけますが、当時はスチール製の重いものでした。カートプッシャーに配属された時は、写真のように5-6台繋げて所定の位置(お客さんの出入り口)まで戻す繰り返しです。

もっと繋げれば効率的ですが、体力的に5-6台が限界でした。とにかく重い。これ以上長くすると、重すぎて曲がらなくなります。カートを繋げると、カーブを描いて進むと言う事が出来ないんですね。真っすぐ進んでしまうので、曲げるときは90度ターンをしないといけない。そう考えると重くできない訳ですが、それ以前に何度も駐車場を往復していると5台のカートでも相当体力を消耗します。

広い駐車場ですから、往復200メートルを50回も往復すれば、カートを押して10km歩く計算になる訳ですから。

カートを所定の位置に戻し終えて振り返ると駐車場内のカートが増えている。基本的に両翼に人員を一人ずつ配置しているだけなので、私側の出入り口は私一人で処理する必要があります。だから、振り返る度にぞっとする訳です。逆側には少し年上20歳中ごろの口数の少ないアーロンと言う長く勤めている風の男性がいますが、彼は特に屈強と言う感じもなく、スムーズに処理しています。他にアレンと言う40歳近くのヒゲの長身の男性がオールマイティに動いてくれます。どうにも溜まってしまうとアレンが10台位まとめて持って来てくれるので、何とか需要と供給が間に合うといった感じ。だから休んでいる暇はないんですね。フロリダなので時々スコールがあります。気温は40度を越えるような日も多く、こんな時はスコールに当たって体を冷やすつもりでカート集めをすれば、瞬間的に駐車場のカートを減らす良いタイミングだったりするのです。もちろん一旦雨が止めば、大変な勢いでカートが駐車場に溢れる訳ですが、スコールはペースを取り戻すひと時でもありました。

カートプッシャーを始めて2日目、体力が戻らず始める前からヘトヘト。3日目、カートを触る手のひらがビリビリしています。

この仕事を続けられるだろうか…? そんな事を考えて5日が過ぎ、ようやく2日間の休みが入ります。肌は真っ赤、ナイキのスニーカーは底が剥がれる。1日8時間で24ドル、5日で120ドル。これでスニーカーを消費するし、筋肉痛、日焼け、続く気がしない訳です。2日の休みもあっと言う間に終わり、2週目が始まり極度に気が重い。手のひらはカートを押す形にしっかり内出血しています。痛くて堪らずタオルを手に巻いて押すこともありましたが、滑るし長くて邪魔、大して役に立たず、諦めて我慢して素手で押した記憶があります。

明日辞めよう。そう思いました。でも悔しいですよね。アーロンやアレンは大汗かきながらも涼しい顔して10台のカートを持ってくる訳ですから。

 

 

「明日こそ辞めよう」そう思う日が続きました。そして更に1週間が経つ。アメリカでは給料は2週間ごとに支給されました。Pay Check、つまり小切手を渡され銀行に換金に行きます。諸々引かれて200ドル弱が手元に入る。靴をまた買おうと思ったら、靴の底が減らなくなったのに気づく。手が痛い、暑い、と言う環境から、体が勝手に省エネモードになっていたんでしょうか。体力の消耗は相変わらずですが、エネルギーを使わないコツと言うものも体得していたはずです。

明日こそ辞めようと思って1か月が経ちます。勤務時間も昼から夜の時間帯に変わります。

他に、早朝から午後まで、昼前から夕方まで、と言う時間帯あります。24H営業ですが

夜から朝まではお客さんも少ない事から、適当に他の社員が片づけてくれます。

私が午後から夜の時間に変わったと言う事は、つまり夕方から夜までは私一人で何とか出来るレベルになったと思われたのではないでしょうか。

その頃は、カートも10台は繋げられたし、曲がるときはカートの最後尾を上に持ち上げる、例えると鉄の棒の後ろを上に上げることで、簡単に90度向きを変えることができるんですね。長いカートの列が反りあがる訳ですが、もう手も痛くないし、靴も減りません。

それでも、夕方6時から夜8時までの2時間はゾッとする量のカートとの闘いです。

そして3か月くらい過ぎた頃は、常に13台位を連ねるようになりました。混雑時でもちょっと様子を見られる状態にもなった。

時折、新しい人材が増員される事はありましたが、殆どは3日で辞めていきます。1日と言う人もいました。なので、いまやレギュラーメンバーはアーロン、アレン、そして私の3人になっていました。夏休みになるとポールと言う大学生が入ってきてからの事を思い出します。いつも私の事をLazy(怠け者)とうるさい。この頃の私は少ない台数では取りに行きませんでした。彼は3台位でも取りに行くのですが、言い換えると彼の体力値もそれ位です。私も最初はそうでしたから言いたい事はよく分かります。お前が取りに行かないから俺が行く羽目になると言うポールの言い分も理解できます。

ただ、私は一番遠い所にカートがあると、それだけ取りに行くのではなく、その帰りに集めながら13台位になるタイミングを見計らっていたりするのです。

数台を取りに行っても、戻ってきた時はまた数台溜まっています。

8時間、この往復を休みなく100回繰り返すのと、10台位溜まったところでさっと取りに行ってくるのでは体力の消耗が全く違います。

ポールもそのうち10台運べるようになればその意味も分かると思ってブツブツ言っても放っておきました。その彼は意外にも1か月を過ぎてもこの仕事を辞めませんでした。ただ、3日に1回位しか来ないから体力が慣れなかったのか、最後の方は時々10台並べて運べるようになっていましたが、相当体力がきつかったらしく結局は辞めてしまったようです。彼の乗っていた80年代のダッジトラックがうるさ過ぎない音をしていて、実はいつも楽しみにしていたので残念でした。

そしてこの頃になると私は、あんなに辞める事を考えていたカートプッシャーを楽しんでおりました。10台並べて押してもお客さんと挨拶する余裕もできるようになったし、そうするとお客さんも、軽くしあげると言ってその列から1台持って買い物にいく人もいます。店の入り口まで一緒に押して行ってあげるよ、と言う人もいたし、カートを放置しないで、わざわざ私の所に持って来てくれるお客さんもいます。だから10台押して帰っている間に13台に増える事はよくありました。それを超えてしまうと、急に止まれないという理由でアーロンに注意されたほどです。なので若干の+アルファを考えて10台を連ねて戻るのが目安になります。

そうこうしてカートが駐車場に溢れるペースが読めるようになっていました。精神的、体力的、時間的にも相当余裕を持てるようになっていたせいもあり、駐車場でエンジンルームを眺めているお客さんがいると声を掛けるようになります。サーモスタットから冷却水が漏れているとか、ベルトが切れているとか、スターターモーターが回るけどエンジンが回らないとか。自分の車修理で経験していた事は結構ありました。必要部品と店内の部品売り場を教え、その間に駐車場の端に止めていた自分の車から工具を取りに行って私が直すなんて事はよくありました。もちろん、カートを集めながら、駐車場の様子を見ながらですが、こんな些細なお客さんとのコミュニケーショがカートプッシャーにはありました。店内のTOY売り場ではなかったことです。ついでにチップとして10ドルくらい貰えます。車内に貯めてある小銭を沢山もらう事もあったので、家に帰ると一山出来上がっているような状態でもありました。カートプッシャーは時給3ドルだったので、チップはありがたい収入でした。日本人の習性か、最初はチップを断ったものですが、必ず受け取らされる。断るより、「ありがとう」と言って受け取る方がマナー的にもお互いの気分的にも健全だと言う事を、相手の表情を見て経験しました。

チップを断って「ムッ」とする人が居るんですよね。「俺の好意が受け取れないのか?」と感じたのかもしれないし、私が「足りない」と言っているように誤解された可能性もあります。

 

後々の事ですが、こんなことがありました。

休みを利用してトローリング(ボートに乗って沖で釣りをする)に行った事があります。

たしか30ドル位(3,000円位)払ったと思います。船頭にアシスタントが付いて沖に連れて行ってくれますが、釣りも終わり港に戻り下船となります。

釣り客はアシスタントにチップを渡していきます。それを見て考えていなかった私は慌てて用意するも相場がわからない。とりあえず、10ドル札を手に、20ドル札をポケットに入れておきました。下船の握手時に10ドル札を渡したら、苦笑しながらしっかり手の甲で押し返してきた。ゴメンごめんとポケットの20ドル札を渡すと笑顔で「ありがとう」と満足してくれました。実際には10ドルでも良かったと思いますが、釣れた人と釣れなかった人の差はあると思います。私の場合は1mを越えるシーラ(マヒマヒ)は私だけだったので20ドルだったのではないかと思われます。

 

WAL MART入口右側

 

ともあれ、WAL MARTでのカートプッシャーは板についたというか、楽しみながら仕事をするレベルになっていました。

度々40度を超える気温も夕方まで、それ以降は少しずつ涼しくなります。

夜8時には判を押したようにぐっとカートの数も減り、更にはとても気持ち良い風が吹くようになります。日も沈み、ビーチ沿いの通りを挟んだバンジージャンプの叫び声も減り、町のネオンも静かに光り出して、波の音、虫の音も聞こえて来る。時折、遠くからアミューズメントパークからの「ワーキャー」と言う声が若干でも聞こえてきて、人淋しくも無く、でもとても静かな最高のひと時でした。

本当は8PMが定時で退社でも良いのですが、この時間がとても好きで、慣れない人が集めるには多すぎるカートですが、私には散歩がてらのカート集めで10PMまで2時間を残業にするようにしていました。辞める事を考えていた時とは嘘のようです。そして帰り道のバスキンロビンス(31アイスクリーム)でシャーベットを買って帰るのが最高の楽しみだったりしました。

 

 

フロリダ州パナマシティの気温は日本より暑く、湿度もあります。森に行くと私の嫌いな蚊が大量にいます。でも、日本のような曇りやシトシト雨が続く天気はでなく、わっと晴れてザーっとスコールが降る。と思うと嘘のように晴れる。その境がはっきりしていました。雨ばかり続く日は記憶にはありません。

走っていても、対向車がヘッドライトを点けているなと思うと、突然に大雨に出くわします。

境界線が雨のカーテンで区切られているような時もあります。そんな気候での仕事だったので、真っ黒に日焼けし、日本人と思われる事は少なく、どちらかと言うとポリネシアンに見えていたようです。

 

先に書いたように、WAL MARTで仕事を始めてからは、日本人同士で集まると言うタイミングはなくなり、ノブやマリは帰国、ナオは私が学校を替えてからすっかり会う機会を失ったのですが、隣のアパートに引っ越してきた。とはいえ、昼から夜10時までWAL MARTで仕事なのと体力的、時間的にも会う機会は殆どありませんでした。そのナオも、大学を辞めて私の学校に移って来たので、最後の頃は授業の時に言葉を交わす程度ですが、わずかな日本語を話す程度だったこともあり、夏には日本語の禁断症状のようなものを感じた事があるほどです。独り言でぶつぶつ日本語を口走る事もありました。使わないと日本語を忘れるんじゃないかと言う危機感を感じた時がありました。一種のストレスなんですが、ここまで来れた。こういう環境に身を置けた、と言うことが忍耐の証というか、嬉しかったりしたものです。寝食忘れるではありませんが、母国語を忘れる世界に身を置くのも良い経験です。

そしてある時、電話で波乗り(釣り)情報を発信している番号を思い出します。全く分からなかった、英語にも聞こえなかったあの情報です。今度は理解できるんだろうか。そこに電話を掛けてみたところ、はっきりを言っている事がわかるではありませんか。逆に、何故わからなかったのか不思議に思うほどです。アナウンスする人が変わった雰囲気もなかったので、ひとつやり遂げたと言う充実感がありました。休みを利用してマイアミにもキーウェストにも行った。ルイジアナのニューオリンズにも行ったし、ボブと揉めたもののロサンゼルスにも行った。

一通りの満足感と、丁度その時に日本から「そろそろ帰ってきたらどうだ?」と言う連絡があり、帰国をする事に決めました。父もその頃は狭心症を患っていた事が最大の理由でもありましたが、長く住む国でもない、そんな気もしていました。彼女もいるし、仕事に苦痛を感じる事も無く、英語のストレスももはや無くなり、生活は格段に楽しくなった。

新しい環境には何かと苦労しますが、これを乗り越えて何とか楽しくする術を知る。だからと言って、楽しい日々に甘んじる年ではないと、父はそう感じていたと思います。ひとつ達成したら、次なる目標を掲げて立ち向かう、そう決断したのは夏もそろそろ終わる9月頃でした。

 

学校に事情を説明して帰国する事になる訳ですが、先生の家で皆が集まり送迎会を催してくれました。ご馳走を出してくれて、とても楽しい時間を過ごす事ができた。

 

サチ子さんにも今後の予定を報告。彼女は家財道具や車の処分を最後まで面倒見てくれました。へたくそでも車は全て新品のエアコンに取り替えて良く冷えていたし、オイル漏れも直した。キャブレターや点火系の調整もしてあるし、エンジンの掛かりも良くなり、買った時より格段に状態は良くなっていた。50万キロから60万キロに増えた程度で、状態が良ければ距離を気にしないのもアメリカです。個人売買の代理としてすっかりサチ子さんにお世話になってしまいました。

 

さすがにWAL MARTでは孤独にカートプッシャーをしていた身であったことと、ボブと疎遠だった事もあって、あっけない退職となると覚悟はしていましたが、自分なりには日本人として最後まで責任を持って仕事を全うしてきたという自負と満足感で十分です。

辞めようと思う毎日でしたが、日本人がきたらすぐに採用されるような仕事ぶりをしたいという葛藤で結局ここまで来たのは今でも大きな体験と自信に繋がっています。

いざ、事務局に行き、帰国の話をして最初に握手を求めてきてハグまでしたのは実はボブでした。驚きですね。父の狭心症(Heart Attack)に同情した事もあったかも知れませんが、根に持たないのが彼ら持ち前の長所のような気もします。

事務局を退出し、店内の売り場を通ってそのまま外に出ます。

どこからともなく、通路の右の売り場、左の売り場から拍手が聞こえたと思うと、私に近づいてきます。会話を交わした事も無い、見覚えも無い、そんな従業員が寄ってきて握手をし、皆が「よくやった、よくやった」と讃えてくれるのです。

普通に顧客が買い物をしている売り場の中での光景です。こんなシーンは映画ではあっても、WAL MARTに勤めて今まで見たこともないし、不思議で少し恥ずかしいものでした。しかし、陰ながら見ていた人が居た事はとても嬉しい事で、良いアメリカ生活だったな、と駐車場に出て更に実感したものです。

 

外国に住むと、最初は日本の短所が見えて来て、次第に日本の長所が見えてくる。

言い換えれば、住めば住むほどその国の醜い所も見えてくると言う事です。

足し算と引き算を繰り返してどう感じるかはその人それぞれですが、アメリカ生活をネガティブにしか考えられなかったナオと言う少年がいた反面、私のように全てが足し算であったように感じる人間もいる訳です。

その足し算をいかに日本で活用できないかをいつも考えていて、それがWAL MARTで勤める動機にもなっていた。WAL MARTに入社した時23歳だった私は、いつもどうでも良い事をメモしていたのを覚えています。どんな事を書いていたのか。

残念ながらそのメモはどこかに行ってしまいましたが、感じたことは止めどなくカート集めの合間を縫ってメモしていたのでした。

例えば、

車を店の近くに止める従業員も結構たくさん居る中で、私はいつも自分の車を駐車場の南側の奥。出入り口から数百メートル離れた一番端のスペースに止めていました。

こんな事でも、どれだけのお客さんに不都合を押し付けないですんでいるだろうか?

とか

WAL MARTでは店頭に定年した年配の従業員を配置して、お客さんに挨拶をしています。

働く人、来店する人、どれだけ生活を豊かにしているだろうか?

とか

買い物の後にカートを放置しないで、わざわざ持ってきてくれる買い物客について、私がありがとうと伝えれば、彼らも一日良い気分で過ごせるかも知れない。

とか。

当たり前で、時にはどうでもよい事も書いていたはずです。世間も常識も知らない23歳の少年でした。

しかしその後、帰国して川崎のアパレル量販店で勤める事になりますが、この時に感じてメモした事は、自分の意思力を高める事になっていたんですね。常識だから、しきたりだから、規則だから。そこに立ち向かう気持ちは海外生活で養われたと言っても過言ではないのではないかと思います。

何となくぼんやりと見過ごしてしまう出来事に、自分なりにこだわってみたのが私のアメリカ生活ではなかったでしょうか。

 

習うべき師は身の回りに沢山いるもので、外国に行けば尚更です。若いうちは何もかもが新鮮に映り、些細な事にショックを受けたり、感動したりしたものです。それについて次に書いてみようと思います。

引き続きご覧頂きありがとうございます。

 

1993年、初のアメリカ大陸、オクラホマシティへの渡米当時は、朝起きたら夢であって欲しいと願ったホームシックだったその2年後、前回書いた通りフロリダ パナマシティでアメリカ生活をエンジョイしておりました。

知り合った友達と遊ぶ事もありましたが、実際には生活の大半は1人で居る事は多かった。

特に釣りをすることは結構あり、週末はドライブがてら海岸線を数時間走って釣り場を探しに行ったり、夜釣りをしたり、と言う事もありました。海釣りはもちろん、淡水での釣りも試したことがあります。しかし、池や川を探すとなると、フロリダの場合は道も無いうっそうとした森を抜ける事が多く、ぬかるみに車のタイヤを取られる事も少なくありません。

ある時、ジャングルのような森を走って出くわした川がありました。早朝を目指して出ているので、夜明けまでの数時間、車内で少し待つ事にしました。何か分かりませんが、動物の鳴き声が聞こえてくる。鹿を道路わきで良く見かけるし、アメリカでは野生のコヨーテは珍しくはありません。動物よけにかがり火のようなものを焚いた方が良いのかなとか考えていると、バシャーン!と川に飛び込む音が聞こえてきました。誰かいるのかなと思うと怖くなります。KKKもそうですが、とにかく行方不明の多いアメリカです。物取り、殺人に出くわす事もあるかもしれない。考えてみると、フロリダはワニが多いので夜中の川に人が飛び込むとは思えない。ワニが何かを追いかけていたりしているのだろうか。しかし、暗くて何がいるのか分かりません。結局、車に居れば安心だと思いつつも、どんな生き物がいるか分かりませんから、武器を持たない私は釣りを諦める事にしました。

過去に、車がぬかるみにはまり立往生した事があります。その時は、車を置いて歩き、蛇をよけ、幸運にも数十分で幹線道路に出られたし、ヒッチハイクで家に戻る事も出来た。

トラックのベッドに載せて貰った時に、猟銃が転がっていて近くには何やらシートが掛けられていて、鳥肌が立った事があります。

そう考えると無防備すぎる自分には川や池での釣りは不向きです。相当な蚊に刺されるのも嫌でもっぱら海での釣りがメインになりました。

とは言うものの、此処はフロリダなので、走っていて「この辺を入っていけば海にでられそうだな」と言う景色に出くわすと、衝動的に入る事はよくあり、気が付くと密林の中に居る事もあります。それでも夜を避け、常に明るい時間に出かけるようにしていたので、安心感は相当違います。

4時間位かけて、海岸沿い東にある小さな町ペリー(Perry)の南を走っていたら少し入れば良さそうな海がある気がして、道を折れた事があります。うっすら2メートル幅の轍があり、左右には人の身長を越える葦の長い草むらの中を走っていると、前触れなく目の前10メートル位先を白いものが横切ります。昼間なので怖いと言う感覚はそれほどありませんが、180cmほどの長身細身の二足歩行の白い猿のような生き物。若干背中を丸めてこちらを振り向くことなくホイホイと横切る姿は不気味で、引き返した事があります。外国にいると、魑魅魍魎とした状況に遭遇する事があり、命の危険や日本のお化けとはまた違った怖さや不思議を体験した人は少なくないのではないでしょうか。

 

釣りに明け暮れた訳ではありませんが、自分で何か考える時間にはうってつけでした。見ず知らずの町を通過する道のりで、ちょっとした孤独を感じながら何か可能性を感じたりするんですね。いつでも白紙から始められる自由を感じたり、くよくよ悩む事がばかばかしくなったり。少しずつ自分の中で価値観が作られてくる。だから、若いうちに外国に出てみる事は大切だなと思う訳です。

 

私の場合は、車の中では現地のラジオを聞いたりしていましたが、さだ まさし さんのカセットテープを聞く事もよくありました。風に立つライオンと言う曲があり、最近は大沢たかおさん主演で映画化されています。

日本人医師が彼女と別れてケニアの診療所で生きていく歌の中で、自分の人生に「思い上がりたくなかった」と言うセリフがなんとなく自分の気持ちに重なって、他にも共鳴する歌詞もあり、何が自分には出来るのか、アメリカに住んで考えるようになった。

この頃になると、私の日本の大学在籍時に突如言い出した「渡米」に反対した友人も、就職したものの続かなかった、と言う結果が出ていたりする。大卒の証が欲しくて就職して挫折した彼らの2年と、大学を辞めて渡米した私の2年。比較する事はできませんが、あの時の私がもし今、思い切って外国に出ていたら…とか、特別な事はしていない2年を過ごしてしまったと感じていたら、と思うと嫌がる私の背中を押してくれた父や兄への感謝を感じたり、残された時間でのこれからの自分を海を見ながら設計する時間が釣りにはありました。

この2年間、道なき道を何とかやってこられたと言う充実感は大きな自信にも繋がります。

外国生活に慣れても、不意にとてつもない寂しさ、孤独に襲われる時があります。

最初は何をしても何事も手に着かない状態でも、徐々に真剣に向き合って、それを楽しむ事が出来るようになります。人と別れると淋しさで何も考えられない時がありますよね。この期間はアメリカで生活していると常に付きまとうので、どうしても日本人同士で胡麻化してしまいがちですが、最終的には自分で消化していかなければならない。

私もフロリダに引っ越しをした時は再び極度の孤独に捕らわれました。気を紛らわす術も無かったし、以前にも書いたように警察に止められる、外国人である以上は生活の中で差別もある。サーファー向けに電話の波乗り情報があると知った時、それを聞いた時は英語のヒアリングの無さに呆然と落ち込んだ時もある。まず英語にすら聞こえないのです。

アメリカに行くと言い放って日本を出た自分が恥ずかしく感じてもきます。

普段の生活で支障のない英語レベル。一見このレベルは、それなりの英語力に聞こえるかもしれませんが、スーパーに買い物に行っても殆ど話をしないで生きていける。

フロリダでの大学の授業では、教授の話す言葉は20%くらいしか理解できていない。意味合いとして50%理解している程度。予習復習で授業内容を補うだけで英語力が補えない。

つまり実生活では、言いたい事、伝えたい事はまず通じない次元で生きているものですから、人生を謳歌しているとは言えません。

日常会話くらいは問題ない?

とんでもない、この日常会話に10年費やしても出来ない人も沢山いるのです。英会話のCMなどで見かける棒読み程度の英語、日常では全くと言って良いほど生きないし、そこから先に進むのが簡単な事ではない。レストランで「Water please」「Hu?」のやり取りも日常で、一度では通じない。2年経っても。

だから徐々に無口になってしまうものです。

余計な事を聞こうとも思わないし、冗談を言おうとも思わない。

いつしか必要最低限の英語が通じて満足してしまう。生活は普通にできてしまうのですから。

もちろん、丁寧に理解しようとしてくれるハワイアンのウィリーや外国人であれば、十分会話は成り立ちます。話す速度もお互いに決して早くない。一生そこで生きていくならゆっくりで良いですが、そのつもりでない無い自分がいる。

渡米当時とあまり変わらない訳で、あと1年で急激に伸びるとは考えられません。

英語が目的でアメリカに来た訳ではないとしても、日々通じない英語に不安を覚えて過ごしているのは留学生の性ではないでしょうか。だからどうすると言う手立ても無い。

 

英語力はさて置いて、何かやりたいと言う思いが私にはありました。

 

話は変わりますが、

パナマシティに住んでからは、よく知らなかったWAL MART(ウォールマート)が身近になります。人口の少ないこの町に3つもあります。そのうちの一つはスーパーセンターと言って24時間営業をしています。食品もずらっと並んで安く手に入ります。

グループ会社の大量買いのSAM’S(サムズ)と言う会員制ディスカウントストアもあります。

何故、こんな小さな町にこんなにあるのか。

WAL MARTの考え方はそれまでと大きく異なり、少ない商圏で運営する理念がありました。つまり人口の少ない地域に出店する事が、そこに住む人の生活に貢献できると言う考え方です。確かに大都市は何でも手に入るんですよね。人口の少ない町に大型店は必要ない。それがWAL MARTの考え方になると逆転する。人口が少なければ来店客数を増やせばよいのです。3日に1回の来店を毎日来てもらおうと。つまり、そこで必要なものを徹底的に

揃える。必然的に売り場面積も大きくなって大型店になるのは彼らの結果論です。ポイントは日常で必要とされているものを揃える。調べてみるとそんな興味が湧く話が沢山出てきました。

その他、出入り口にはおじいさんやおばあさんが座っていて「こんにちは、ごきげんいかが?」、「欲しい物はあった?」と声を掛けてくる。店頭の自動販売機で飲み物を買うと1本10円が寄付されると書かれている。ボランティア精神にも長けている企業のようです。

こういうスーパーを日本では見たこと無かったし、外国人の私でも雰囲気の良いディスカウントストアだっただけに、買い物のメインはWAL MARTになっていました。

更に、スーパーセンターは引っ越ししたアパートからフロントビーチロードまたはバックビーチロード1本で10分も掛からない近さ。

そう書けば、働いてみたいと言い出すだろうとお思いと思いますが、留学生は仕事を禁止されています。WAL MARTも雇ってはくれません。だからみんな個人店で手伝いを装ってアンダーテーブルと言うのをよく聞きました。

ただ、これが見つかると強制送還、そのさき10年は渡米できなくなる。周囲にはキューバやミクロネシア方面から、船に潜り込んで亡命同然で来て仕事をしている外国人もありました。しかし彼らの命がけの生活は認められるべき状況で生きている。

だから私が違法状態でWAL MARTで仕事をするなど考えもしなかったし、言っても入り口で一蹴されておしまいです。

 

それよりも、日本人のノブやマリの行っていると言うShaw Adult Centreが学費無料だと言う事を知って興味を持っておりました。それで事務局に話を聞きに行ってみたのです。

以前に書いたように、外国人やアメリカ人がもう一度勉強をし直しできる州立の施設です。留学生の私も入学でき、VISAを引き継ぐ !-94も入手できると言う事で、早速大学から移る事を考えました。大学で講義を聞くと言うスタイルよりは、自習時間が多い為、学生同士が各々の得意分野を質問し合っていたりする風景に魅かれたのが大きな要因です。

Communication不足の私にはうってつけです。大学の事務局に行き、Adult Centreに移る手続きもアッと言う間でした。その旨をもってAdult Centreに入学手続きにいきます。配置される教室の担当:Mrs. Vanderhoef. ミセス V(ヴィ)と皆に呼ばれていた;に紹介され新たな学生生活が始まります。

その際に、彼女が私に仕事はしないの?と聞いてきます。「留学生だから」と言うと、「それでは許可書を出しましょう」と言うではありませんか。

そうは言うものの、WAL MARTは外国人留学生を受け入れてくれないので、ぬか喜びで終わりです。

 

 

大学にいる日本人留学生ナオにも大学を辞めた事を伝えます。

新しい入学祝い、と大学の近くのレストランで晩御飯を食べていました。

本当は入学では無くてWAL MARTに就職できたら面白かったのにと言う話をしたりしておりました。

すると、隣でテーブルを囲んでいた家族のお母さんらしきアジア人女性が「Are you Japanese?」と話かけてきました。そうだと答えると、「まぁ珍しい」この町で会えるなんてと言う事になり、レストランでの話もなんだから、家にいらっしゃいと言う事になります。

元旦那さんはやはり米軍関係者、再婚はしていないが、彼氏がいて、娘2人は丁度私と同じくらいの年でした。このサチ子さんの家は私のアパートから遠くもなく、せっかくなので、レストランを出てコーヒーをご馳走になる事になります。

そこで「今後、困ったことがあったら私に相談しないさいね、普段はそこのWAL MARTで仕事しているから」と言う。

それはもう、私は前のめりです。WAL MARTで仕事できませんか?と

私は売り場だけど、事務局の友人に話を通しておくから後日お店にいらっしゃい、と一歩話が進みます。

その後、直ぐにお店に行きます。やっぱり留学生はダメ、と言われるのか。

事務局の彼女に会うと、仕事の許可が得ているか尋ねられてます。パーミッションがあると言うと、尿検査のキットと共にトイレに行かされ、それが終わると問題集が手渡される。制限時間無しだと言う。どんな問題かと思うと、適性試験のようなものでした。

100問ほどでしたが、難しものではありませんが、答えがあって無いような悩ましい質問ばかりでした。

記憶に残っている質問を書いてみたいと思います。

 

本(book)売り場のスタッフが顧客に寝具売り場は何処か尋ねられました。

そして、寝具売り場の通路番号を丁寧にお客に伝えました。

以下のいずれかに〇をする

 

強く反対 少し反対 少し賛成 強く賛成

 

と言う質問です。

日本でありがちな「どちらでもない」が無い。少し考えてしまいませんか?

簡単に〇×回答できない質問ではないでしょうか。皆さん、如何ですか?

ちょっと考えて答えを決めてみてください。

 

そして

更にその次は質問でした。

 

本(book)売り場のこのスタッフは顧客を寝具売り場まで案内をしました。

 

強く反対 少し反対 少し賛成 強く賛成

 

 

WAL MARTも販売員だけではないので、これによっていろいろな部署に当てられるようですが、後日私はサチ子さんから入社許可を知らされ、おもちゃ(TOY)売り場で働く事になりました。

 

 

学校を替え、偶然にもWAL MARTで働けるチャンスに恵まれたわけですが、とにかく周りの人達のお陰で念願の仕事が出来るようになりました。

大切なのは、こうした縁や機会あってここまで来れたと言う事です。盲目に日々の楽しみだけ求めていたら、その頃は日本では何をしていたでしょうか。

諺にもある通り、つまずく石にも縁を感じて生かす事、が人生の大きな分かれ道だった事に気が付いたものです。それまで偶然が重なってたどり着いた道だったからです。

たまたまノブにガソリンスタンドで声を掛けられ、知り合ったお陰で学校を替える事になり就業の許可まで出してくれた。そして、レストランで話しかけられたサチ子さんにWAL MARTを紹介して貰えた。自分独りでは成しえない事ばかりですが、結果的には自分がやりたいと思っていた事が出来た。そして、あとは何があってもサチ子さんの紹介に恥じない働きをする事だけです。

 

 

日本では、正社員やアルバイトと言う言い方しますが、アメリカではパートタイムとフルタイムの区別しかありません。いずれも正社員です。

私の場合は、休みの日はフルタイム、授業のある日はパートタイムで働きます。

当時の時給は3ドル。当時は日本円にして300円を切っています。

日本でアルバイトをしていた時は時給1,000円を越えていましたが、アパート2万円と考えれば、驚くほどのものでもありませんでした。今は時給14ドルになっているようです。

 

給与も2週間おきに受け取るのが習慣です。小切手を貰い、自分の銀行に持っていけば、入金されます。週5日フルタイム+一日残業3hで働いても、1か月の手取りは600ドル位

でした。私は仕送りがある身でしたが、1人で生計を営む人にはギリギリだったのではないでしょうか。

 

仕事の内容としては、商品の整理や陳列がメインです。私のボスはジュディと言う愛想の無いおばさんでしたがバックヤードの仕事がメインで、売り場に立つのは私一人だけだったので、気も楽でした。また、関係者やお客さんからの問い合わせには、基本的に売り場が対応します。店内放送で「Toy line 1, please」と言うアナウンスが流れると、売り場の電話から1を押してお客さんに繋がると言う仕組みです。

 

店内放送が聞きづらくて何度も逃しているうちに、隣のハードウェア売り場のスタッフが来て、「おい、1番に電話しろ」と教えてくれたものです。ただ、私の場合、裏に居るボスや事務所からの指示が殆ど。時にはカスタマーセンターに行って、返品の山になったカートを持って来ては返品と再陳列するものに分けたり、黙々と仕事をこなすのが精いっぱいで

とにかく凄い商品量でした。誰と会話するでもなく、とにかく商品の分類と陳列。

話すのは内線電話で指示を受けるとき位のものでした。

 

ある時、休憩室で私の数列前に座っている売り場スタッフ2名のうちの一人が不意に振り向いて、私に中指を立て「Do you know this?」と言います。私は一瞬、どういうことか?と戸惑っていると、彼の隣にいた女性スタッフは「あなたのそういうところが嫌い」と言って

かばってくれました。

つまり、「英語も分からないお前でも、この中指の意味くらいはわかるのか?」と言う解釈と同時に、「英語も分からない奴が一緒に働かれると迷惑なんだ」と言いたかったのかも知れないとも感じたのでした。相当、私はみんなに迷惑を掛けているのかも知れないと実感したと共に、しかし私にはどうにもできない歯がゆさもありました。

 

また更にこんな事もありました。レジャー売り場にいたお客さんが私の売り場に来て、探し物をしていると言います。しかし、私には何を指しているのか全く分からなかった。どんなものかと聞いてみても何を言っているのか分からない。オフィシャルな英語ではなく、ローカルなダラダラした英語に困惑している様子の私を見て、「お前みたいな英語を話せない奴はアメリカで働くな」と言われた。しかも鼻をほじりながら言われる訳です。

あの時言われた、「You shouldn’t work here」「Go home」と言う言葉だけは鮮明に聞こえ、今も記憶に残っています。流石に喧嘩になりそうなほど怒りがこみ上げてきます。彼が外国人であれば納得ですが、大して外国語も勉強しないアメリカ人に言われたくない言葉でもあります。しかし彼らは、英語が世界共通の言語であり、外国人は英語が話せて何の不思議もないと考えています。だから、何を言っても通用しません。それ以前に、喧嘩出来るほどの英会話力もない。それが悔しくて仕方がないんですね。

言われたい放題言われて、嫌気がさしてきて、売り場に戻ってまた何事も無かったように黙々と仕事をこなします。こんな事には慣れています。

それでもですね、無心でいようとしても、しかし、もう涙しか出てきません。

一生懸命に堪えても涙が止まらないんですね。とにかく悔し涙を流しながらの仕事です。

内線につないでお客さんと話をしても、また似たような事を言われます。

涙を流して売り場の見えない所に立ち尽くす、と言う事が何度あったでしょうか。

でも、これが外国に住むと言う事なのです。日本では絶対に経験できない、人種差別と言うものを身をもって知り、同時に黒人の差別がどれほど壮絶なものなのかを体感する。

こうした悔しい思いは、それまでに経験する事はありませんでした。

と言う事は、それだけでもこの仕事ができた事に大きな意味があった訳です。

 

その頃に前後して私に彼女ができます。

台湾人の女性ですが、両親がレストランを経営しているので留学生ではなく、現地に住んでいるので英語も流暢です。

また、少ししてWAL MARTの私と同じTOY売り場にケリーと言う短大生の女の子が

配属になります。金髪、そばかすの白人の女の子です。私ではきっとお客さんからの電話に対応しきれないと思った事務局が入れたのかも知れません。ケリーはとにかくよく喋る。と言うか、よく話かけてくるのです。最初は「どこから来たの?」「日本」「日本はどこ」「東京」「東京の人口はどれくらい?この町より大きいの?」

そんな事も知らないのかと呆れそうですが、当時は日本にはまだ侍がいると信じるアメリカ人もいると言う話は、なるほど嘘でも無さそうだと実感したのです。

日本は中国と思っている人も居ましたから。台湾を中国と思っている日本人がいるのと同じですね。あまりのも情報が入ってこない小さな町なだけに、会うたびに質問攻めで大変です。あの人どう思う、この人どう思うとかなんとか。

しかし、これが良い英会話の練習になるのです。的確に言うと、英会話に慣れる。

後から実感として湧いたのですが、実は英語は聞けたし話せた。なのに聞けない、話せない症状に陥っていたと言う事です。外国人と英語で話すのと、ネイティブと英語で話すのでは全く違う精神状態に陥ってしまうんですね。心の準備など不要で、慣れればどうってことも無い。練習では完璧だったのに、いざ舞台に立つと萎縮してしまったり力が入ってしまったりするのと同じで、何故か頭が無意識にパニックに陥っていた気がします。

1か月もすると、悔し涙を流していた自分が嘘のようになります。内線でもお客さんと話せるし、売り場でお客さんと対等に話をするようにもなります。単語力不足で分からないものもありますが、連想ゲーム的なやりとりでそれに行きつく。

ある時は、ダイパーは何処にあるのか聞かれたことがあります。ダイパーとは何か?赤ちゃん用品だけど、おもちゃじゃない。違う売り場を案内した後で、そのお客さんが「これこれ」と持って来てくれた製品に「パンパース」と書いてあった。そうして一つ一つ覚えていく事もできた。こうしたお客さんが時々売り場に立ち寄ってくれて、声を掛けてくれるようになる。

「習うより慣れよ」とはこのことです。頑張ってもダメなときはダメですが、機が熟せばすんなりと受け入れられる事がありますね。

 

やっぱり最も大きいのは、私生活も仕事でも英語での会話ばかりしていたのが良かったですね。一旦転がり始めた雪だるまはどんどん大きくなるように、人との会話も面白いように増えます。良い事も悪い事も、どんどん大きくなる。だから、英語力の事はさておいても、WAL MARTの仕事に慣れてからと言うもの、時間を見計らっては売り場を問わず店内を歩くようにしていました。いつも休憩に行く途中で、お客さんに声をかけられる事が多かった事から、何かしら手助けできる事は無いかと思ったからです。

お客さんには商品を探している人以外に色んな人がいて、商品を見ながらどちらのデザインが良いのか迷っていたり、組み立て方が分からない、使い方が分からない、手が届かない。20cmって書いてあるけどどれ位なの?と聞かれた事もあります。

このくらいと指で示して「8インチね」などと言う会話もありました。

本売り場で車いすの男性に棚から本を取った事もあります。

あれ取ってくれ、これ取ってくれ、と決まるまで付き合った事もあります。

英語が話せなくても、こんなに人助けができたと言う事を、話せるようになってから実感したのですが、当初は頭いっぱいで話しかけられるのも怖かった事を考えれば、短期間で仕事観も変わって来たのでした。

とは言え、持ち場を離れるなと店内を見回るマネージャーのボブに注意される事も度々。

売り場の担当者に任せておけと言うばかりですが、担当者が居ないからお客さんに声を掛けられるのだと、話は平行線です。自分の売り場に戻っても、管理もコツを得ると暇な時間が出てくる。ボーっとしていても仕方がないから、お客さんに聞かれて的確に案内できるようにとの言い訳を秘めて、こっそり違う売り場にも行くようにしていました。

 

店内にあるファーストフードで休憩をしていた時、幾度か本探しを手伝った車いすの男性がいる事に気が付きました。「ごきげん如何ですか?」と言うと、「おお、丁度よい」と私に書いている途中だと言う手紙を見せられました。そこには「おもちゃ売り場に居る男性が私の本選びを手伝ってくれ……云々」と言う推薦状のような物。この店のBig BOSSは僕の友達だから、君の事を教えて上げたくなって書いてるんだ、と。

私の事はともかく、そう思ってくれる人が居る、と言うのはとても嬉しいことです。だから、マネージャーのボブとはそりが合わないものの、店内散歩を止めるつもりは無かった。

ある日、紹介をしてくれたサチ子さんに会った時、ボブに怒られるわよ、と言われた時があり、この時はさすがに迷いました。矛先がサチ子さんに向くのではないかと。

 

こうした難しいタイミングを訪れた時、私は気分転換に5日位の休暇を貰うことにしました。

売り場のボスはジュディですが、彼女に言うとエリアの長のボブ聞けと言う。そして彼に休暇の承諾を得て、行ってみたいと思っていたロサンゼルスに旅行に行きます。東海岸から西海岸なので、車ではなく飛行機です。そして旅行から戻り、出勤日、いつも名札の裏に付いているバーコードをタイムレコーダーに読み込ませて始業となるのですが、何度通しても読み込まない。事務局に行くと、驚くべき事に無断欠勤につき「解雇」と言う記録になっていると言う。ボブに話をしても決まった事だから、と取り合わない。間違いだったと彼が言うはずもない。もう辞めた事になっている以上、事務局も何もできないと言う。四面楚歌、いや万事休すと言った感じで事務所を出て途方に暮れます。でも、せっかく紹介してくれたサチ子さんにも申し訳ないし、もっと大きな事を言えば、日本人に悪い印象しか残らない。誤解があろうと何であろうと、辞めてしまったら言い訳にしか聞こえなんですよね。

だから「はいそうですか…」と引き下がる訳にも行かず、事務所にきびすを返します。

 

ボブの話がどうであれ、どうしても辞める訳にはいかないんだと言うだけです。

何でも良いから仕事をしたい。売り場が変わっても、何でも良いからと言うと、もう各売り場の配属は決まっていて空いているところが無い、と言う。キャッシャーもダメ、カスタマーセンターもダメ、ダメダメ尽くしです。

そこでトイレ掃除でもするから、と言うとハッと顔色が変わった。そしてサチ子さんが呼ばれ、ボブも呼び出され何やら話をしていました。そして事務局の担当者が私の所に来て「駐車場のカート集めは出来る?」と聞いてきました。もちろん何でもします。決まりました。

 

サチ子さん曰く、事務局がボブをヒヤリングしたところ、彼の反応に怪しさを感じ、彼の管轄外の駐車場の仕事なら問題も起こらないだろうと言う結論に至ったらしいのです。

「あの男はそういうところがある!」と言いながら、カート集め(Cart Pusher)は大変よと心配気味のサチ子さんでした。

 

しかし私にとっては、これで私も彼女の顔に泥を塗らないで済んだ事にホッとしたと当時に、少し気が晴れたのです。何故ならば、もうボブに干渉されないし、彼女にも迷惑を掛けないで済む訳です。反面、もう売り場に戻れないので、今までのようなお客さんの手伝いは出来なくなるのは残念です。

 

果たしてCar Pusher(カートプッシャー=カート集め)と言う仕事では、何が私を待ってるのでしょうか。

 

次回に書いてみようと思います。

雪の多い今シーズン、千葉-東京は大したことはありませんが、足元にはくれぐれもご注意ください。特にマスクをしていると酸欠状態になっているので頭が働いていない時があります。車に乗っても、なるべく外気循環を利用してください。日本は何気なく内気にしているので、眠気やぼーっとしてきたら気にしてみては如何でしょうか。

アメリカ車は外気循環設定をデフォルトとしているので、何でだろうと思われがちですが、こういう理由があるのですね。

 

さて、前回はフロリダに引っ越して半年に満たない間ですが、ボランティアをしてみたり、日本人と知り合ったりする機会を持つことができました。

オクラホマに居た時と異なるのは、外国人とも一緒に居る事で、日本人を含めても英語が会話の主体であった事でしょうか。日本人同士では日本語ですが、大体外国人も一緒におりました。

前回、ノブ、ナオ、マリと言う三人の日本人と知り合いましたが、マリの彼氏はウィリーと言うハワイアンで、とても優しくて面倒見の良い男です。

ティンドルAFBに勤める軍人ですが、肉体系と言うよりも知能型の職務についていました。

とは言え、体格はしっかりしていて体力もある男なので、文武両道のタイプでもあったので、よく私の車の修理やメンテナンスを付き合ってくれました。と言うより、アドバイスされることが多かったかもしれません。例えば、私の代わりに運転をしている時に、ドライブシャフト(日本ではプロペラ―シャフトと呼ばれます)のルーズさを指摘された事があります。そのうちと思っていたら、案の定ユニバーサルジョイント部(留め金)にヒビがあったのでしょう。走行中にこれが完全に外れ、下回りでシャフトが暴れ出し、叩きつけるような事がありました。こうなると止まれても動きません。AT車ならサイドブレーキが甘いとPレンジに入れても車は動いてしまう。坂道だったので、ハンドルを切ってタイヤで縁石に当てて止めるしかない。でも、この手法は基礎操作なのです。日本人はすっかり忘れているようですが、今も坂の多いサンフランシスコなどは、正常な車であっても、ハンドルを切って停車しています。

 

ところで、そんなウィリーですが、とても温和な性格でいつも「マリちゃんマリちゃん」とべたべたしてきた反面、彼女は男っぽい性格だったので一風変わった2人に見えたものです。そのウィリーにも男っぽい時はあったようです。前から気になっていた腕の大きな火傷の痕について聞いてみました。ここには大きなタトゥーが入っていたとか。10代には意外と無茶な事をしていたそうですが、タトゥーがあると昇進が限られるから、レーザーで消すしかなかったと言う事でした。アメリカではタトゥーは誰にも干渉されない当たり前の自由だと思われがちですが、実際にはこういう所でのリスクは耳にします。

最近でも、ロサンゼルスのディーラーであったことですが、夏にディーラーのセールスマンが、両腕にタトゥーがあるから長袖しか着れないとボヤいていた事がありました。大人になって後悔する人も結構いるようです。

片腕にFire もう一方にBlizzardを漢字で掘ったタトゥーがあると言って見せて来た。

それが実際には「火 氷」と書いてあって、自動販売機のHOT & COLDをイメージしたり、いつか消すな…と思うのは私だけでしょうか?

 

話は戻りますが、フロリダ パナマシティに落ち着いて、徐々に車の修理や釣りを満喫するようになります。暑い所なので、水温があがる、エンジンオイルの漏れが激しくなる、エンジンが掛からなくなる、エアコンもステレオも壊れている、日常に使用では快適とは言えない部分を自分で修理をするようになります。チマチマ直しているので、時間は掛かりますが、ちょっとずつ直せるようになってきます。

ただ、いつも直すのはアパートの駐車場と言うのは気が引けます。

そんな訳で、町も知ったことだし引っ越しを考えます。

よく釣りに行っていた桟橋があります。この桟橋は大学を挟んで反対側にあります。

距離にして50km位はあったと思います。当時はガソリン1ガロン99セント。つまり1L当たり25円の世界でしたから、のどが乾いたらガソリン飲めと言う時代。コストは気にする事はありませんでしたが、この桟橋に近い所に賃貸でコテージ風の建物を並べてありました。スタジオルームと言って、日本語ではワンルームの建物ですが、これが200ドル。車も家の前に止められるし、ビーチ通り沿いの海風が爽やかで、何よりお隣さんと壁一枚と言う事じゃないのが良かったんですね。それまでは夜に隣の部屋から漏れて聞こえる声で目が覚める事もしばしばでしたから。

 

大きく言えばフロリダ パナマシティですが、パナマシティを挟んで東にキャラウェイ、西にパナマシティビーチと言うエリアに分けられます。それまでのアパートも海沿いですが、いわゆるBayであって、今回のアパートの海はまた違った”広い”
に変わり、家賃も6万円から2万円と単純計算1/3です。エアコン、トイレ、台所の設備があるので、狭くても全然気にしません。更に、大学も若干近く、桟橋(ピア)も近い。なので、ワクワクしながらの引っ越しです。

 

右(東)のキャラウェイから左(西)パナマシティビーチへ。ハート形のポイントは大学です。

そして桟橋も近くて青に囲まれた明るい雰囲気のエリアです。

 

 

今も容姿変らず残っています、Bay Front Apartment. ここから引っ越し。

 

引っ越し先も健在。↓

覚えていた住所Gardenia streetですぐ出てきました。コテージも相変わらず。

黄色の矢印でマークしたコテージに住んでいました。

当時はコテージの敷地内は海の砂に囲まれていて、部屋の前に車を駐車していたのでよくスタックしていました。

現在はWalk Wayが出来ていますね。

 

100mほど歩けば海に出ます。同じ海でも全く雰囲気の異なるエリアです。

 

こういうのは気分が変わる大きな転換期にもなるものです。

これでボランティアをしていた店舗は大学より更に先になり、足も遠ざかります。

引っ越しと同時にSalvation Armyにどうしたものかと聞いてみたのですが、登録をしたまま、機会があればまた来て欲しい、と言う程度のものでした。

 

この引っ越しが秋頃で少し話が前後するのですが、その前にパナマシティに台風が襲います。ハリケーンはフロリダでは珍しくありません。ハリケーン(Hurricane)とか(タイフーン)Typhoonとか言いますが、一般的にはハリケーンです。規模の大小で変わるのでしょうか。この頃は10月、英語では“ハリケーン オポ”と名付けられました。10月の誕生石「Opal=オパール」の英語発音です。

風速は日本と表記が異なることもありますが、数字を見ても良く分からないんですね、台風の強さというのは。

テレビやラジオではやたらとevacuationを連呼するので、退避や避難と言う言葉と発音を覚えました。

ハリケーンはヒュラケーンと言う発音が近く、evacuationはイバキュエイション。ただ、いまいち警戒レベルが分からない。

一番大事な部分ですが、カテゴリーで言われても更に混乱するだけ。

スーパーで前もって買い物を済ませ、学校以外には出歩かない様にしようと少し警戒をしてみます。今日の夕方には台風が来る?と言う事で、午後は臨時休講のつもりで大学に行きます。

そこで自分の甘さを知る訳ですが、行ってみると大学には誰も居りません。

まさか台風?と思いながら、アパートに引き返す。何か物々しい感触があるのですが、日本ではこんな事は聞いた事がない。

行きに気付かなかった帰り道の店々のガラスにはべニヤ板やスコッチテープが貼られ、人通りも極端に少ない。慌ててアパートに引き返し籠城するしかありません。アパートに着くとすべての部屋の窓が同じようにベニヤが貼られています。出るときは背にしているので、これにも気づかなかった。食べ物はあるので部屋に籠るも不安はありませんが、今さらべニヤ板やテープは手配出来ない。ガソリンスタンドでさえ閉まっていて打つ手なしです。ガラスが割れたどうしようか。隣の部屋に避難できないか?と考えるも、駐車場には誰の車も停まっていない。要は、アパートから皆出てしまっている。となると、自分もここを出たい衝動に襲われます。窓ガラスのべニアは、誰も居なくなるための防犯の意味もある訳です。私はとりあえず必要なもの(パスポートや貴重品)を取りに部屋に戻ると共に、同じ大学の日本人留学生のナオからタイムリーに電話があり、彼も同じくアパートに取り残されていると言う。どこに避難しようかと話しているうちに、アパートの駐車場に海水が入ってきているではありませんか。このまま沈没する訳には行かない。その時に知るのです、1階が中2階の高さから始まるこのアパートにはその意味があったと言う事を。結局、ひとまず大学近くに住むナオのアパートに行き、ここも大学の湾にあるものの、少し陸が高く、入り組んでいるので、私の車を止めて、ナオの車で町を出る事にしました。最初はこういう時こそアメリカンSUVであって、スポーツカー(日産の240SX)の出番じゃない、と言うナオの主張でしたが、10万円と60万円の車です。高年式かつ価格に高い方が確実と言う話になってホッとした。

 

町を避難するのが昼過ぎなっていましたが、既に看板や信号が落ちて通れない道もある。赤信号を待っていると、標識が飛んできそうな恐怖を目の当たりにして、こんな時に誰もいない町で呑気に青信号を待つ、と最初はまだまだ危機感の乏しい日本人ぶりを発揮しておりました。大陸人の咄嗟の行動力には遠く及びません。

避難と言っても、どこ行く宛てはありませんから、南から来る台風なので、ひたすら北上するばかりです。

ラジオを聞きながらあとは予想進路から外れるしかない。北西に向かっていると言えば北東。内陸に入れば台風も落ち着きます。400km位内陸にあるアラバマ州のDothan(ドーサン)と言う小さな町にたどり着き1泊して翌朝引き返す事にします。しかし、どのモーテルも満室ではありませんか。見れば、ナンバープレートにはBayのエンボスが。パナマシティのナンバーの証です。更にDothanも危険だと言うラジオを耳にして、更に東に寄りながら北上し、ジョージア州のアトランタを目指す事にするのですが、見知らぬ一般道を600km走っているうちに、そろそろ引き返しても良いんじゃないか?と言う事で、帰路につく。

運転交代しながらでも、もう疲れたといったところですかね。どこかに1泊して帰れれば良いですが、自分の車もアパートも気になります。一刻も早く帰りたいので、明け方には町に着きたい。そう思う一心でした。

改めて書きますが、どこかで車を止めていれば?と思う人もいるかも知れませんが、駐車場などで停まって車内にいるには危険極まりない。日本のように路上駐車と昼寝などアメリカはご法度で、更には治安の悪いと言われたアラバマ州の見知らぬ土地で、誰が近くにいるかも分かりません。

例えば、携帯電話が鳴ったから、と一時的にでも車を寄せて話す、と言うのも今のアメリカでも非常識に思われるし、もちろん禁止です。今後旅行に行く時は気を付けてください。

時々見受けられます。脇に止めてナビゲーションを操作しようとする日本人的習慣を。

 

ようやく明け方、走っていたのは北から町に入れる唯一とも言える信号の少ない一般道(ハイウェイ)で、あと15分もしないで着くところ、まだ見渡す限り、森や林しか見えない所で大渋滞。渋滞と言うより、町が封鎖され、解除されるまで5時間位は止まっていたと記憶しています。みんな、道路で寝ていましたが、熱くなって来て車内に戻る、そんな太陽の位置でした。フロリダの10月はまだ暑いです。お陰で私もすっかりコンクリートの上で熟睡出来たものの、暑くて目が覚めた。同時に、喉の渇きが酷く、このままでは干からびそうなほど辛かった。考えてみれば、前日の台風上陸は10月5日、私の誕生日と一緒にやってきていた。気付いたのは数日後です。

とにかく、この間に町は電気、水道、レスキューやらミリタリーが一斉に集中して応急処置をしている訳ですね。規模によって政府が介入して、早期に平常化される。期待はしませんが、ちょっとだけでもこういう所は日本の地方自治体含め政府も見習ってほしいものです。

 

封鎖解除の直後は、我先にとなだれ込む車の数々を見て、幻滅したのを覚えています。誰もが自分の住まいや環境を心配するのは当然ですが、阪神淡路大震災の時、日本はどうだったかを考えると、日本人で良かったと思うひと時でもありました。

 

台風オパールの去った町は、至る所で電柱が倒れて道が通れない、家や車が飛ばされている状態でしたが、生活路や主要道路は通れるように処理されていて、電気や水も正常に使用でき、私の車もアパートも問題なく、相当ホッとしておりました。

全面復旧はもう少し掛かるとしても、生活には支障ないレベルです。

唯一残念だったのは、海沿いのコンドミディアムの土台の砂が洗い流されて骨組みがむき出しになって、ビーチに近づけない事や、白い砂が侵食され茶色い砂浜と共に、海藻などの漂着物で色が変わっていた事です。「(Most Beautiful Beach in the U.S.A.)全米で一番美しいビーチ」投票で選ばれたビーチだったので、白い砂浜とエメラルドグリーンに戻るには相当な時間が掛かるだろうなと思うと、もっとビーチを満喫すれば良かったと後悔したものです。更に桟橋は先端が破壊され、途中までしか行けなくなった。住んでいたアパートはキャラウェイだったので、釣り以外にビーチに行こうと言うのはあまり無かったんですね。

 

パナマシティに戻り、まず友達ともお互いの無事を確かめ合います。しかし、マリが意識不明で入院している、と言うではありませんか。

どこで何が起きたとか、どこの病院だとか、マリの住む家のおばあさんは教えてくれません。

おばさんは必死に祈るばかりで心の余裕が無かったようで、1日して回復した時にようやく連絡がありました。

彼女がひょっこり現れて説明を聞くと、てっきり台風の影響かと思っていたのですが、その予想は全く外れていました。

「アリに噛まれちゃった」と。

台風前日、庭の掃除をしていた時に、数匹のアリが上ってきて、チクッと感じたそうです。

気持ち悪くてすぐにシャワーを浴びたのが悪かったのか、そのまま卒倒、病院に運ばれたとか。直ぐに手当されたものの、意識不明のまま、台風当日を迎えたため、シェルターでその日を凌いだと言う事です。おばさん曰く、マリはもう助からないと思っていたそうで、「She must have gone…(もうダメだと思う」」とばかり言っていた。

日本で近年話題になっているファイアーアンツ(火蟻)ですが、日本ではその恐ろしさは見くびられているでしょう。私も最初に住んだ海沿いのアパートが決まった時、海沿いなのがうれしくて防砂林を歩いたことがありました。

歩き始めてすぐ、手の親指の付け根がチクッと感じて見てみると、「何だ、アリンコか」と軽くデコピンで飛ばした事がありました。ホントに小さいアリで少し赤い。デコピンで飛ばした後、何か付いているのでよく見ると、頭だけしっかり噛み付いて残っているではないですか。「ひゃ~執念深いなぁ」と思って散歩を続けるも、疲れていたのか、少し気分が悪くなり部屋に戻り休む事にしました。まさかアリとは思わなかったけど、それから噛まれたところがイボみたいに小さく固くなっていたので、まさかとは思っていた。

なので、マリの話を聞いた時、やっぱり!と合点がいった。更に3匹となると、致命的なのも頷けます。

 

それで、パナマシティニュース(ローカル新聞)にも、ハリケーンをシェルターで過ごした日本人としてまで記事にされる有様。

 

フロリダに引っ越してからというもの、若さゆえの浅はかな常識では付いていけない事ばかりで、それがある意味では新鮮で楽しくて仕方がなかった。

 

行動範囲を広げる意味でも、まずは安くて車の修理や整備ができるようなアパートはないかな、と言う思いが強くなり、パナマシティの西側のビーチに引っ越しをすることになるのです。

 

パナマシティから西へ向かう道は3本あります。フロントビーチロード、ミドル、バックビーチロード。私のアパートはフロントビーチロードから少し入ったところです。

引っ越しを終え、いつも海岸線を走るフロントビーチロードを利用していましたが、休みになると遠方から学生がこの町に遊びに来て盛り上がります。その時、このフロントビーチロードは大混雑します。ピックアップトラックのベッドに友達を乗せ、見知らぬ対向車(学生同士)と止まって会話したりするので渋滞になります。そんな事を知らない私は独り車で入って白けた空気が流れる経験をしているので、週末やブレーク時は使わないように心がけていました。特にスプリングブレークは酷いものです。

 

秋から冬にかけてはフロリダとは言え、パナマシティは常夏とは言えません。

Wikipediaからの引用で下に画像を貼り付けしています。

フロリダの形状をフライパンに見立て、その柄(取っ手)となる地方をパンハンドルと呼ばれます。日本で言うと、沖縄と九州の緯度の違いがあるでしょうか。ですから、それなりに寒くもなります。

https://en.wikipedia.org/wiki/Florida_Panhandle

 

夜釣りできますが、海で泳ぐには寒い。フロリダで外交官をしている大沢さんと言う方が居て、ノブやマリの知り合いだと言う事もありトローリングに連れて行ってくれたりしました。プライベートビーチから自家用クルーズで沖まで行き、釣りをしたりできるのです。和食レストランHappy Coatのお客さんで近くに住んでいると言う事でノブも知り合ったと言う事です。マリは年配の日本人のコミュニティから聞いて知っていたと言う。

年配の日本人の方達は、基地に勤めるアメリカ人の奥様がたで、たどたどしい日本語を話す現地生活の長い方々なので、逆に日本の事を知りたい事もあって、色々とお世話をしてくれておりました。困ったことがあると丁寧に教えてくれるんですね。日本語と英語が混ざる会話なので、英語にも慣れる良いお付き合いにもなります。

 

ミシシッピ州にあるビロキシー(Biloxi)にあるカジノに行こうと数人で遊びに行った事もありました。その途中で夜に道に迷ったところで、ハワイ人のウィリーが近くの基地に車を寄せて道を尋ねた時、ヘッドライトを消灯しなかったがために、軍人である彼はかなり厳重に注意を受け、アメリカが車のヘッドライトに神経質な事を知るキッカケとなったのはこの時です。

 

(余談)ライトは照らすポイントは見えるようにしてくれますが、光の届かない暗闇は更に見えにくくします。今はLEDやHIDに変わりつつあり、暗いからと言ってヘッドライトを明るくする人も増えています。ただ、これは見えている物を更に照らしているだけで、その周辺の潜んでいるものを更に見えなくしているんですね。

例えば、部屋の電気を消した時には真っ暗でも、時間が経てば見えて来ますね。つまりそこそこの明るさがあれば、暗い物陰も見えてくるんですよね。何か暗いからと言って、ヘッドライトを明るくすると、周囲が真っ暗になって飛び出しそうな人影も見えなくなる。更に対向車が明るいと尚更で、歩行者の存在に気付かなかったと言うケースが増えています。

夜には目が見えなくなるのはやはり農耕民族の特徴なのでしょうか。

逆に騎馬民族の特性でしょうか、夜目の効くアメリカの人達は、これを大きく嫌う傾向にあるので、敢えてハロゲンを好んだり、メーカー純正のHIDも白くならない4000ケルビン付近で抑えています。また、アメリカでは純正以外のHIDをイリーガルとして、イギリスは原則HIDを禁止しています。霧の無い時にフォグライトの点灯も取り締まりされ、一般的に光の関する理解度が深い反面、日本は光に対する知識はまだ成熟していないようです。

バス、パトカーさえも、雨の日の無灯火、やたらなフォグライトに使用が日常です。

皆さん、ヘッドライトを明るくしたり、意味なくフォグライトを点灯したり上を向けたりしていませんか?対向車の視認を妨げない様にお願いします。

因みに私は夜目の効くタイプなので、最近の日本のヘッドライトのあり方に困る反面、アメリカに行くとほっとします。

(余談おわり)

 

話は戻り、ミシシッピ州のカジノに行くと、当時はスロットマシーンはそのままお金(硬貨)が出て来た時代です。遊ぶと言っても、私たちは5セント(5円)程度です。500枚当たって喜んでも、つまり500円です。増えては減って…を繰り返し、長い時間遊べますが、シーソーゲームに疲れ、友達にトイレ言って来るからと言って一旦席を離れてしまうと、数分後には何も無くなっています。数百円とは言えど、そこにあるのは現金ですからね。隙を見て誰かが持って行ってしまう。

あくまでも5セントなので、損をするも得をするも500円位のものですが。

今はバウチャーが出てくるので、それを持って違う機械に入れればまた遊べるし、退席も簡単です。また当時は機械式リールだったスロットマシーンも現在はデジタルに変わり、ボーナスゲームなども多彩にあるので、大きく当たる事もあります。

1セントで何気なく遊んだスロットマシーンで880ドル当たった事もあります。88,000円として88,000倍です。だからと言って、この時1ドル掛けていたら880万円になっていたか?と考えると疑問ですよね。ラスベガスではデニーズなのどのレストランにも本当の硬貨を使うコイン落としがあったり、現金に換えられるスロットマシーンなど、ガソリンスタンドにも置いてあるほど賭け事が普及していますが、このBiloxiではスロットマシーンを置いてあるレストランは見かけませんでした。

 

その他、急に意味も無くタラハッシー(Tallahassee)に行こうとなった事もあります。

タラハッシーはフロリダ州の州都です。デイトナビーチ、オーランド、キーウェスト、ましてやマイアミでもありません。日本でいう県庁所在地、

東京は新宿区、神奈川は横浜、千葉は千葉市、大阪は大阪市、北海道は札幌、と言うように、州都には何かあるだろうと考えてしまうものです。

これはアメリカ人も意外に知らない知識なのです。

例えば

ニューヨーク…ニューヨークシティ(ニューヨーク市)、テキサス…ダラス、カリフォルニア…サンフランシスコorロサンゼルス、テネシー…メンフィス、etcと思いがちですね。

おわかりですか?

ニューヨーク オルバニー

テキサス オースティン

カリフォルニア サクラメント

テネシー ナッシュビル

と言うように、地名に馴染みのない方も多いかも知れません。

オースティンは別としても、州都=観光地ではないのがアメリカでした。

 

話は戻り、タラハッシーに向かう途中、モーテルで一泊しようと言う事になりました。四人一部屋で安く借りる事ができました。

一旦、部屋にチェックインし、外に食事に行こうと言う事になり、電気やエアコンを消して部屋を出ます。そのうちの一人が部屋に戻り、電気を全て点け、出てきます。何で点けたのか聞くと、折角お金を払っているのだから、使えるものは使わないと勿体ない、と言う。

同じ日本人として悲しくなりました。だって誰も得をする人は居ないのです。得するどころか、経営者は少額でも損する訳です。他人の得を妬む、他人の損を喜ぶ、と言うか、この彼の言動は今も心に刻まれています。「そんなことしても誰も得する訳じゃあるまいし」と言うと、「子供の頃から家族でそうしていた」と言う答えが返って来て何も言えなくなる。

会話は日本語でしたが、一緒にいたスペイン人、ハワイアンにはどう映ったのだろうか。

 

必要ないのに、あるものは使う、と言う考え方ってどうなんでしょうか。

ホテルに滞在する際は、髭剃りも歯ブラシ歯磨き粉も用意していくし、チェックアウトの際は部屋の整頓とベッドを整理(布団、シーツは外して畳む)などして出るようにしています。

アメリカでもレンタカーでも借りると綺麗に洗車して返却したりもしていましたので、彼の言動には全く理解が出来なかった。

ただ、アメリカのモーテルはシャンプーもアメニティも付いていないケースが多いので、自分で用意していくのが常識的です。

もしシャンプーが付いていたら、彼は流すか持って帰るかしたのでしょうか。

それから私は彼との心の距離が出来るようになり、こうした外出は減ったように思います。

 

さて、州都タラハッシーに到着したものの、あまり観るものも無さそうだと言う事で、街中をドライブしていると、シビックセンターを通りがかった時、広場に白い三角の頭巾を被った白装束の集団が立っていた。そう、お分かりの方も多いと思います。

大きく掲げたプラカードにKu Klux Klan=クー クラックス クラン=白人至上主義 (略してK.K.K)と書かれているではないですか。

これにはゾッとしました。この車には日本人2人、アフリカ系黒人のスペイン人、ハワイ人の有色人種しか乗っていないので、思わず身をかがめてみたものです。皆が見た瞬間、身をかがめたのもあって、本当にKKKだったのか?と言う話になり、もう一度シビックセンターを遠目に見てみようと戻ったらもう誰も居なかった。やっぱりそうだったんだ…と言う事になって、意気消沈してパナマシティに帰る事になりました。この辺りでご飯を食べようなんて考えられないどころか、誰か付いてこないかと時々後ろを確認する臆病ぶりでした。

 

私の人生で真近にKKKを目撃したのはこの一度きりですが、当時は噂は聞いた事がありました。以前住んでいたオクラホマにも拠点があり、フロリダにもあると。更に、和食レストランHappy Coatも開店直前に壁にKKKと落書きがあったと。これに臆する吉田さん夫婦ではなかったようですが。

https://en.wikipedia.org/wiki/Ku_Klux_Klan

 

さて、フロリダに来て半年を過ぎ、それなりにパナマシティをエンジョイしてた訳ですが、早いもので渡米をして足掛け3年。目が覚めたら夢だったら…と思ったオクラホマ到着当時が昨日のようで、2年が嘘に思えます。実質日本に半年以上いたとはいえ、経過している年数に違いはない訳です。当初3年位はと思っていたのも残り1年足らず。光陰矢の如し、Time Flies, 焦らずにはいられません。

 

ここで急な転機が訪れますが、それはまた次回で書いてみようと思います。

 

今回もお読み頂きありがとうございました。

 

P.S. 昨年、近くに住む19歳の学生さんが、大学を辞め、カナダでのワーキングホリデイに挑戦すると話を聞きに来店されました。

先日も来店され、仕事も決まり、順調に貯金も進み、来年の今頃はカナダにいる予定で進んでいると報告を受けました。将来が楽しみです。

 

2022年も良い年でありますように。

今更ながら、今年もよろしくお願い致します。

 

前回にようやくフロリダ パナマシティに到着し、これからの腰を据えたアメリカ生活が始まります。

大学の入学許可もあるし、車も手に入れた。あとは住所が決まればフロリダ住民です。

アパートはスーパーマーケットの出入り口にフリーペーパーや観光案内などがあり、探すのは簡単でした。まず公衆電話からの空き部屋確認ですが、なかなか見つからない。本当にそんなに埋まっているものなのだろうか、と不思議に思ったものです。相場は4万円位ですが、3万円弱位のアパートも数多くありましたが、安い物から当たっていって結局入居可能な物件に突き当たらなかった。とにかく、即日入居、オクラホマから来たばかりの留学生と言う条件に不安を感じたと言う事もあるんでしょうね。空きが出るまでモーテル暮らしと考えても1か月も泊まれば10万円位にはなって来る。数週間で済む場合もありますが、無期限で入学目前に住所不定の状態というのは高い物につくかも知れません。

1990年代は、こういう危うさの中で生きていく武勇伝を敢えて体験するような風潮があったものの、私はそこには余り興味は無かったですね。と言うか、進んで飛び込むような事はしなくとも、勝手の違う国にいること自体、私にとっては既に自分との闘いでした。無茶に色んな事を経験しようとするがために、命を落とした人もどれだけいたでしょうか。

時には慎重になっても損はないのだと思って欲しいです。五感を信じて石橋を叩いて途中で引き返すのも立派な勇気です。

 

結局、即日入居可能のアパートが見つかりましたが、6万円弱。

大学から30km以上離れ、キャラウェイと言う静かな町です。

海沿いのアパートで見晴らしも良く、部屋にはディッシュウォッシャー、カウンターキッチン、プールまで付いています。これに魅せられたわけではありませんが、大学までの距離を考えると最終地点ではありました。この先はまた橋を越えてテンドールAFBと言う空軍基地になってしまうのです。アパートにはテレビ以外は家電製品完備なので、車に積んである家財道具の他に買い足すものが一切ないのは良かったです。テレビは持っていたものの、あまり観ない質なので、不便はありませんでした。

まずはこのアパートを拠点に、学校に通いながら町を知る事も出来るし、今後は総合的に快適なアパートを探すのも楽しみの一つです。

 

最初にすることは手紙を出す。これは大切な事ですね。居場所を知らせるために住居を決めたと言っても過言ではありません。電気、電話を通す。これもすぐにやっておかないとなりません。日本からの急な電話に対応するためですが、当時は固定電話の新設です。今はスマートフォンがあるので、更に簡単ですね。ディスカウントストアや家電品屋さんに行けば、その場で電話番号(シムカード)、携帯電話もゲットできます。一緒にプリペイドカードを買えば、あっという間に開通するし、残高が無くなれば通話料を予測してカードを買えば

良いだけです。

 

やっと気分的にも落ち着き、学校が始まるまでは町を探索です。スーパーの位置などを知る必要もありますが、どんな町なんだろう?と言う好奇心は尽きません。

オクラホマ生活とは大きく異なり、今度は車があります。更に4輪駆動と言う事で、砂浜にも沼地にも近づける。急に開放的になった感じで町中をウロウロし始めたのです。

時に危険も無く、至って治安の良い町でした。釣りもできるし、オクラホマでは食べられなかった魚が大漁です。さばいて冷凍庫に入れる、せっかく繋がった電話で調理方法は父に聞いたりもしたものです。

そんな治安の良い町フロリダへの引っ越しも成功し分かった事。目の先のベースキャンプはそれなりに規模があり、私の住むアパートの住民は殆どがミリタリーだと言う事でした。日本では沖縄の米軍基地が問題視される事がありますが、朝は気持ちよくみんな挨拶してくれるし、治安もオクラホマとは比較にならないほど良いと言うのが個人的な感想です。

 

そんな治安の良さを予感したフロリダ州キャラウェイですが、住んで間もなく、車で信号待ちをしているとやたらとパトカーに寄せられて職務質問をされる事がありました。何を言われる訳ではないのですが、1日何度も止められるとさすがに反発したくなる。それも、いつも走行中ではなく、信号で止まっている時、後ろにパトカーが付くと必ず決まってルーフのライトが光る。脇に寄せて止まれと言う合図です。

思わずいい加減にしてくれと言いたくなって、車と脇に動かして後続のパトカーに聞きに行こうとした時があります。しかし、これはやってはいけない事ですね。

昼間の温かいフロリダの空の下で開放的な気分になっていたと言うか、安心していたと言うか、咄嗟の行動に警官もびっくりしながら、NO! NO! と叫んで銃を向けられたのでした。

私もさすがにハッとして動けなくなりました。オクラホマに続き、銃を向けられたのは2度目、猛省です。警察官も良い方だったのを覚えていて、「こんな事初めてだよ、びっくりしたよ」と言うニュアンスの事を言っておりました。レジストレーション(登録証)を見せて、問題ないと言う事で結果的にまたその場で解放される訳ですが、止められた理由を聞いてもどうもはっきり分からない。とにかく分かった事は、一刻も早くオクラホマのナンバープレート(ライセンスプレート)からフロリダに替えろと言う事でした。その場でDMV=Department of Motor Vehicle(陸運局)の場所を教えてもらい、直ぐに向かう事にしました。フロリダの免許証とナンバーに替える手続きで、これは即日、その場で発行され終わります。日本と違い、いままでのオクラホマのナンバープレートも免許証も返却され、渡されたフロリダのナンバーを自分で取り付けるだけです。

 

時間を置いて知った事ですが、私がフロリダに越した直後、オクラホマシティで歴史的に大規模な爆破テロがあったのです。滅多に見かけないオクラホマナンバーをぶら下げていれば、止めない訳にはいかなかったのですね。9.11が起こるまでは米国史上最悪の規模で168人亡くなり、1日1人の計算で約半年間、全米が半旗とされた大事件でもあったのです。

既に日本には引っ越しの手紙が届いているかいないか、の状況でしたので、タイムリーに無事を知らせられた出来事ではありました。アパートの住民はミリタリーばかりだったので、私の車を見てもしかしてちょっとした話題になっていたかも知れません。

同時に、ニュースを見る意味ではテレビの必要性を感じたりしたのでした。

アメリカでは映画を見るために、VHSとテレビを買ったのが目的だったので。

 

そして問題なく入学手続きも終え、改めて大学生生活が始まります。

とは言え、日本の大学と同じく最初は選べる教科は限られています。

その中で、インターミディエートマス(中級数学)と言う教科も必須です。

なんてことはありません。一次関数から始まる、日本人としては算数のようなものから進みます。それでもアメリカ人はなるほどと頷きながらメモを取る。少しの間は楽勝なのですが、進みが早い。アメリカは予習復習が無ければ付いていけないと聞いていた通り、1か月位するとあっという間に置いて行かれそうになる。たかが州立のローカル短大と馬鹿にしている暇もありません。

勉強の話はさて置いて少し話を戻しますが、オクラホマ生活時代に学校探しで訪れたこの町の日本食屋さん:「Happy Coat」日本のハッピを意味します;に挨拶に行ってみました。

おじさん夫婦(吉田さん)は健在で、会ったのが昨日のようにあっさり迎えてくれます。

そして、見習いなのか、同世代と思われる男の子が時々おじさんに突かれる姿もあって、

相変わらず飲食業は厳しいと言われる話を思い出す。数少ないこの町の日本人です。

とは言え、早速挨拶してお互いに友達になると言った気にもならず、吉田さん夫婦を間に、遠目で見えている程度でしかありません。

そんな感じで現地に馴染むような生活はもう始まっています。

Happy Coatの食事は私にとって決して相性が良かった訳でもなく、お金も掛かると言う意味でも、数か月から半年に一度程度であまり行かなかったでしょうか。

それより、このままの大学生活だけでは物足りないと感じた私が決めた事は、ボランティア活動でした。アメリカにはSalvation Army(サルベションアーミー)と言うボランティア団体があります。

日本語では救世軍と少し重々しい訳になってしましますが、アメリカでは町中至る所に看板を見かけます。どんな事ができるんだろうと、まずは参加しました。これなら仕事にはならないし、大学に行きながらであれば、アメリカ留学生としての違法滞在にもならない。

 

所属して数か月間、何をしたか。地元から持ち込まれる様々な不用品(無料で引き取られる)を自社の店舗で販売、寄付すると言う流れ、つまりチャリティの手伝いですね。

店舗も大学とアパートの中間地点にあり、都合が良い。

しかし、チャリティと言えば聞こえは良いですが、現場にはそれほどの覇気はない。

次々に持ち込まれるものを店内に並べる仕事ですが、ペタンと値段を貼ってテーブルに置く。その品物が何なのか全く分からない。何かのキャップのようなもの、使いかけの消しゴム、家具まで色々です。問題はお客さんが殆ど来ない事。言い方は悪いですが、私にはゴミ捨て場のような印象でしかないのです。それをどうにか出来ないか、掃除したり並べ替えたり説明を添付してみたりと試みるも、無料奉仕と言う口実で、皆からそこまでしないで良い、と水を差される始末。とにかくやりにくいのですね。もっと直接的に関与できる人助けはないかと模索するも、少しずつボランティアから心が離れて行く事になります。

 

そんなこんなでもう夏です。ただ、ボランティアを辞めても大学の勉強をするだけの身、仕事は禁止されています。果たして大学の勉強が今に自分にどれだけ意味があるのか、早くも焦りが出てきます。

 

とある日、大学の授業が終わり、駐車場で自分の車を始動しようと試みるも、どうもエンジンが掛からない。アクセルの踏むタイミングを若干違えるとキャブレターが被るのです。現在はキャブレター方式のエンジンは少ないので、ピンとこない方も多いと思うので簡単に説明すると、要はエンジン内部にガソリンが溜まり、点火装置が発火しない、と言う症状が起きる事は珍しく無かったのです。

 

掛かりが悪いのは前からの事ですが、こうなると数時間はエンジンが掛からない。もがけば更に悪化するばかりです。暗くなる前に帰ろうとアパートに向かって歩き始めますが、これが思った以上に遠いのです。3時間もあればと思っていた予想に反して、中間地点にも満たない目標のガソリンスタンドに着いた時には暗くなる寸前でした。既に2時間は歩いています。ヒッチハイクするか、大学に戻るか、立ち止まって半分途方にくれます。

もし車に戻ってもエンジンが掛からなかったら….とか、このまま帰っても明日どうしようか、とか。治安が良いとは言え、日没後に独りで歩くのも、ヒッチハイクするにもリスクはあります。タクシーは流し(手を挙げて止めること)は許されていませんので、公衆電話から呼ぶしかない。幾らかかるんだろうか?とか、そんな事ばかり考えている訳です。

そんな時、「おーい」と声が聞こえてきました。声の聞こえる方を振り向くと、ちょうどそのガソリンスタンドで給油していた若者が来て、「君、Happy Coatに来ていたよね?」と声を掛けて来た少年がいました。この町の日本食屋の見習いと思っていたノブと言う同級生の日本人留学生でした。まずは事情を話したら、時間が経ったことだし、車まで送ってあげると言う事になり、エンジンも何事も無かったように無事に掛かってくれたのでした。

折角だったので、ご飯を何処かでと思ったのですが、結局ノブの住んでいる家でご飯を食べようと言う事になりました。

(登場人物は仮名にしています)

 

彼の家は帰り道のSalvation Armyの近くの家で、その時は既にHappy Coatを辞め、学校のクラスメートでスペイン人の2人、計3人で住んでいたのでした。

1人はアンドレス、もう一人は忘れましたが、アンドレアはアフリカ系黒人で、アーティスト的でユーモラスな性格でした。

また違う生き方をしてきた人と出会い、自分を見つめなおすきっかけにもなった節目でもありました。

 

その後、ノブやアンドレス達と釣りをしては調理したり、過ごす時間は増えることになります。そんな彼らは私と同じ大学ではなく、Shaw Adult Centreと言う学校で、現地の人が昔受けられなかった基礎教育を受けなおす所でした。しかも学費は無料。

ノブは私と同じ年ですが、北陸の出身、日本の6大学を卒業し、知り合いの吉田さん夫婦宅に居候して、他州の大学の受験の準備をしていると言う事で、基本的には彼は一日中、Shaw Adult Centerで自習をしている毎日でした。

そして時折学校に現れると言う日本人、マリの紹介も受けます。

彼女は、外交官を務めるアメリカ人のおばさんがこの町に居るので、それを頼って遊びに来ながらShaw Adult Centerで勉強をしていると言うスタンスの持ち主です。

日本では学校に通わずモデルの仕事をしていたので、基礎的な勉強がとても役に立つようで、もしかして実用英語を一番身に付けていたのも彼女かも知れません。

 

そして、大学のとある授業で出席を取る時に、ナオと呼ばれる名前がありました。

表情無く、大人しい感じで見た以上では日本人そのもの。ちなみにアメリカでは、出欠と取る時の返事は「Here」と言います。ここにいるよ、と言う意味で、Yesと言う場合もありますが、Hereが大半です。

私の時に「YUTAKA」と呼ばれて彼は気になっていたのでしょう。

日本人の多いオクラホマを離れた私は敢えて声を掛ける気にはなりませんでしたが、何回目かの授業の終わりに、彼から小さい声で「日本人ですか?」と聞いてきました。

控え目と言うか、まだ外国に慣れないと言うか、見ていても何か心配になるタイプです。

 

これで、この町で知った同世代の日本人3人目になるわけです。

 

こんな町でも日本人の若者が4人も居るのです。

驚きですが、時々会うレベルでみんな自由に生きている感じなので、とても心地良かったのです。

それに、オクラホマの時とは違い、皆が違う方向性を持っていたと言うのが面白いです。

大学のマスターを目指すのが大半のオクラホマとは違い、何にも縛られない自由意志のようなものを感じたのでした。

ここには登場していませんが、他にサーフィンをしながら現地高校生をしていた日本人も1人いて、彼のフェイスブックを見た以上では、今もこの町にアメリカ人として家庭を持っているようです。きっと日本語はもう忘れているでしょうね。

 

これからも色んな事が始まりますが、長くなりましたので、今回はここまでです。

次回に書いていきたいと思います。

 

それでは、皆さんありがとうございました。

 

P.S. 今、東京でも2度目の雪が降っています。

いつもご覧頂きありがとうございます。

今回はGoogle Mapをキャプチャーしながら記憶を元に足取りを追ってみたので、1か月近く掛かったこともあってアッと言う間の2021年末、(この記事が書き終わるのは12月大晦日)この忙しい時は無理しがちなので、皆さんお体にお気を付けください。

 

少しだらだらするかも知れませんので、飛ばし飛ばし読んでみてください。

 

さて前回の続きですが、オクラホマに再渡米したのは4月でした。

ウォールマートに興味を持ったものの、それまで車を持っていなかった私にはどんなディスカウントストアなのか、さほど関心を寄せていた訳ではなかったのです。

日本にはディスカウントストアと言うもの自体、規模の大きいものは無かった時代で、小さいバッタ屋のようなものがその時のイメージだったので、突っ込んで見てみたいと言うほどのものでは無かったですね。

 

また、父がオクラホマにはルート66が通っていると話していたのですが、そこにも興味はなく、それよりフロリダに向けての引っ越しで頭がいっぱいでした。

 

さて、フロリダに向けてオクラホマを出発です。

ここからまた自分独りの生活が始まります。また何も知らない遠い町に慣れない車で行くんだなと思うと、なんだかワクワクしてきますよね。

無事にフロリダに着いててくれよ!と願いつつ、楽しかったオクラホマ生活を思い出しては不安な気持ちになったりして、こういう繰り返しが少しずつ自分を成長させてくれるんでしょうか。

数千キロの道のりですから、早速、高速道路を利用します。

高速道路と言っても、速度制限の高い一般道と州を跨いで縦横に走る高速道路(インターステートハイウェイ)があります。地図のように青い▽に数字でが表示されているもので、私の場合はInter State Highway 35に乗ります。一般的にI 35(I thirty five)と呼ばれます。

 

Good Bye Oklahoma Road

 

Dallas Down Town

テキサス州I-20 ダラス ダウンタウン

 

ルイジアナ州に入りシュリーブポートI-49で南下

 

I-10で東、ルイジアナ州 州都バトンルージュへ。

 

I-10は西海岸ロサンゼルスから東海岸フロリダを横断する最長とも言える高速道路。

当時バトンルージュでは、日本人留学生がハロウィーン仮装中に誤射で亡くなる事件が起きた町でもあります。

あの有名なミシシッピ川を渡って左にはバトンルージュのダウンタウン。

この時は既に夜です。何せ1,300ドルのブロンコでフラフラしながら50mile/h(80km/h)で走り続け。この辺で適当に下りて、モーテルに一泊したのでした。

 

まず高速を降りて給油がてらエンジンオイルの量も確認したかった。

夜の人気のない所でボンネットを開けていたところ、人影が近づいて来るのが見え、数リットル入れたかったのに、1リットル入れたところで車を出すことにしました。案の定、「手伝ってやろうか」と声を掛けられ、「何でもないから」と言って走り去ったのを覚えています。夜、ウロウロするのは危険と思い、直ぐに安いモーテルに泊まり、焦らず翌日ニューオリンズに向かう事にします。

ちなみにモーテルは10ドルちょっとの記憶で、流石にボロボロだったのを覚えています。鍵のデポジットとして別に15ドル位を要求され、初めての経験でした。きっと鍵を持って行って住みつこうとするのが居るのかと思うと、管理人以外の誰かがこの部屋の合鍵を持っていたら…ベッドからドアを眺めて怖くなるものです。

特に90年代は、ルイジアナ、ミシシッピ、アラバマは人種差別が酷いと聞いていました。トイレも白人と黒人が区別されている所があるとか。治安の悪さには免疫があったので眠れない事はありませんでした。

 

さて、翌朝英気を養ったところで出発。

まず向かうはニューオリンズ、今も昔もジャズのメッカとして有名です。

どうしても街並みを見て見たかったし、散歩やミシシッピ川を眺めて一息つきたかった。

ようやく見えてきたダウンタウン。どの都市もビル群が見えて来た時はいつも興奮するものです。

 

フレンチクオーターをドライブし、路面電車を見てみたかった。

 

私は飲めませんが、時間があれば夜に生ジャズを聞きながらバーボンストリートを歩いてみたかったのですが、フロリダに越して誰かといつかきっと来たいと思いました。

 

ミシシッピ川を眺めて、ニューオリンズを後にしました。

トムソーヤの冒険をみた記憶通り、ミシシッピ川には蒸気船ですね。当時はカジノになっていました。

 

またI-10に戻りひたすら東に向かいます。ミシシッピ州、アラバマ州を越えればようやくフロリダ州に入ります。

 

ルイジアナ州→ミシシッピ州境

余談ですが、アルファベットの重複からなる MISSISSIPPI のスペルにアメリカ人もよく迷います。

また言いにくい事から、1 Mississippiと言うと丁度一秒経過すると言われ、10秒数えて!と言うと、1 Mississippi 2 Mississippi 3 Mississippi……10 Mississippiと言います。

 

オクラホマから比べると、森も近く高くなってきます。湿地帯のような風景も出てきて、「ここまで来たんだ」と言う実感が湧いてきます。

看板のWelcome to Sweet Home Alabamaは、単なる「アラバマにようこそ」と言うより、レナード・スキナードの歌Sweet Home Alabamaに掛けています。ちょうどフォレストガンプでも、トムハンクスが幼馴染みのジェニーとこの曲で踊っていました。映画の舞台はアラバマ州グリーンボウ、町の名前は架空です。

昔、アリゾナの高速道路を走っていて、ウィンズローと言う町の境界線に「Standin’ on the corner in Winslow Arizona」と言う看板を見かけたことがあります。イーグルスのTake it easyの2曲目の歌詞ですが、アメリカはこういう看板が好きです。

 

さて、アラバマ州を走っている時はもう暗く、仮眠をとる事にします。

高速道路には数100キロ置きにレストエリア(Rest Area=休憩所)があり、車を止める事ができます。

 

注意点はひとけが無い事。夜はドアをキチンとロックしておかないと、誰が忍び寄って来るかわかりません。自動販売機くらいは置いてありますが、鉄格子で囲まれていて、細い格子の間に手を入れて、うまく飲み物を取り出さなければならない。

 

停車した後、この時の私の仮眠方法としては、シフトはニュートラルでエンジンはかけたまま、リクライニングを倒しキャップを被ってアジア人と分からない様にして仮眠しました。手には何かを握っているようなポーズで。

いざ、と言う時はシフトを入れるだけで逃げられるように、と言う準備をして寝ました。

深い眠りにはつけませんが、眠気は十分取れます。

朝にはフロリダ州に入るような予定で、暗いうちにアラバマ州のレストエリアを出発です。

 

I-10 East でアラバマ州モービル(Mobile=モビール)を目指します。ミリタリーの拠点でメジャーな都市です。

 

右手には戦艦アラバマ(バトルシップ)が展示、もう海沿いです。

大戦後は日本にも入港しています。以下wikipedia

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%90%E3%83%9E_(%E6%88%A6%E8%89%A6)

 

アラバマ州モービル市内に突入すると、見えてきた次なるポイント、ペンサコーラのサイン。

ようやくフロリダ州が近い証です。

 

そして、いよいよフロリダ!Welcome to Florida!

 

フロリダでは急なスコールは日常的。

まずペンサコーラに向かうため、I-10から29号線南に乗り換え、これからは下道でハイウェイ98を目指します。

 

左折、あとは98号線に沿って東に向かえば目的地のパナマシティに着きます。

 

さてここで

ペンサコーラ(Pensacola)からパナマシティ(Panama City)まで残り150kmほど。

これからは下道で目的地までもう少しです。

海沿いを走るルートで行きたかったのです。

 

道路わきの白い物は何だろう?と思いませんか?

初めて見た時、雪だと一瞬勘違いをしたほど実際には白くて驚きました。

 

フロリダの内側(Gulf of Mexico=メキシコ湾)白い砂は石英の結晶が削れたもの、手に取ると透明なだけに水晶の粒に近く、サラサラしていて歩くたびにキュッキュッと鳴ります。

フロリダの砂は塩水と太陽によって自然に漂白され、小さく丸くなったと言う説明がネット上で見つかりました。

 

ペンサコーラからパナマシティまでの町ディスティン。すっかり開発が進む。

 

途中の小さい海沿いの町、ミニチュアのような家が並ぶ別荘地シーサイド。

トゥルーマンショーと言う映画のロケ地になってから観光地化して大混雑。

 

パナマシティの手前から、今は高層のコンドミニアムが建ち始めています。

 

ようやくパナマシティビーチに来ました。左側のレストランは当時よく利用していた定食屋さん。すっかり宿泊施設に囲まれた好立地になっています。

 

ようやくGulf Coast Community College(現Gulf Coast State College)に到着しました。

 

と言っても、入学は数週間先、この時は住所不定状態で、モーテルに泊まると言ってももったいないので、このままアパート探しに向かいますが、出来れば当日入居可能のアパートが良いですね。

 

これからのフロリダ生活の始まりは、次に書いてみたいと思います。

それでは皆様、良いお年をお迎えくださいませ。

 

パワーカウンティ 高久

 

いつもご覧頂きありがとうございます。

 

衆院選から一か月が経ちます。

この3年間、色々な事があったにも関わらず、いつもと変わりがない結果を見て、妙に律儀な日本人らしさと変化を恐れる島国の風習を実感しています。

日本は時代に乗って変わる事が出来るのでしょうか。

 

輸入したポルシェの加速騒音の音量を下げるべく、先月から長い作業が続いておりました。

なかなか静かにならない、と言う話を聞いては居りましたが、リアエンジンともなるとメカニカルノイズと排気音の合唱で相当苦労をしておりました。ともあれ、試験も無事に合格し、国内登録の目途がたったところで、ブログの更新をしております。

 

さて、留学のその後の続きを書きたいと思います。

1994年の秋も終わる頃、日本に一時帰国をしたのでした。翌年の5月にフロリダの大学に入学するための準備です。ちょうど渡米して1年が経過したところです。

準備と言うか、まず実家に戻り入学時期までアパレル業の仕事を手伝う。

年末に掛けて忙しいと言う事もありますが、学費のスポンサーですから、手伝うのは当然。高校一年になった時、初めてのアルバイトで勤めた新橋駅のロッテリア。その面接で、「お小遣いを貰わないと約束すれば雇ってやる」と言われて以来、そういうものと染みついていたのかも知れないです。

そんな訳で、実家の仕事を手伝いながら、自分が日本で使えるお金とアメリカでの少しでも

足しにするお金を工面するために、空いている時間を時給が高いアルバイトに費やす事にします。

実家の仕事をしている朝9時から夜6時まで時間を外す

条件を満たす仕事を探しておりました。

そんな時にたまたま手紙が届きました。

私が渡米を決める際、ちょうどニューヨークから絵の勉強から帰って来た方に励まされたことがありました。

その方が、乃木坂で個展をやるから是非来てくれと言う知らせでした。

そのついでもあり、六本木に金魚と言うショーパブのウェイターの面接を受ける事にしました。ショーは夜から始まり、夜中に終わる。すぐに支度すれば終電で帰れるし時給も1,500円位で条件的に良かったんですね。

 

当日、乃木坂の画廊に挨拶と進捗状況の報告を兼ねて向かいました。

この方は父や兄弟が政治や芸能の世界にあるにも関わらず絵描きを志していたので、相当なプレッシャーもあったものと思います。それが個展を持てたと言うのは、私にとっても心強いニュースでした。

他にも応援して下さる方々から感性哲学の本など頂いたりして、妙に?熱くなっていた頃でもあったんですね。

六本木「金魚」のアルバイトも決まり、5月までの日本生活が始まります。

「金魚」では、店長さんにはフロリダの大学の入学時期には渡米したいと言う事情を説明して仕事をさせて頂きましたが、あとは他言無用と言う事にしていました。

21歳にもなって大学を目指すフリーターと言う事で、相当白い目で見られていた感じがありました。アルバイトしているのは皆大学生だった事もあってか、年下の彼らに「3浪してまで行くほどのものじゃない」と皮肉を言われることも度々です。

あまりにもしつこいから、「自分は大学に居た、それを辞めて留学するんだ、そのためにお金を貯めて準備をしているんだ」なんてことを口を突いて言ってしまいそうな時もありましたが、言ってしまうと何かが崩れ去りそうな気もしていて口には出せませんでした。

じっと心に秘めている事で、そのエネルギーが持続することってありますよね。

あまりペラペラと口に出すタイプでも無く、どちらかと言うと無口な性格だったのもあったのかも知れないです。

「金魚」での仕事は片付けまでいると終電が無くなってしまうので、当初は途中で帰る事にしていましたが、帰りにくい時が出てくる。夜中2時を過ぎた時は、仕方なく歩いて帰るのですが、割り切って夜中の恵比寿、品川を散歩のつもりで帰ったら、6時間も掛かり、家に着くとそのまま仕事と言う時もありました。

それから、ラストまで仕事する時は自宅の車で行く事にしましたが、当時は路上駐車が当たり前の時代だったので、コインパーキングなどは殆どありませんでした。六本木では路上駐車は二重駐車にも関わらず、殆ど止められるスペースがなかった。その昔のディスコ(今でいうクラブ)全盛期ほどではないにしても、駐車場所を見付けるのは一苦労したものです。

何度か車で行ったものの、やっぱりこれはこれで大変です。

かと言って、終電のあるうちにと言って途中で帰るのも悔しくて、居心地の悪い上に更に険悪なムードになるのが嫌で、まっすぐ速足で帰れば3時間、と頑張った時もありました。

最終的には、六本木の交差点に今は無きArby‘sと言うファーストフードがあり、2時間程度の深夜の清掃スタッフと言うのがありました。始発まで仮眠休憩可と書かれていて、これが丁度よかった。こんな事をして日本でアメリカ生活の足しにとチマチマとお金を貯めておりました。その間に、フロリダから願書を取り寄せては返送していたのですが、3月に入学許可書が届きます。渡米に関して初めに書いたI-94と言うものが入手できた訳です。

早速「金魚」の店長さんに話をして退社します。「修練と時」が終わります。

家財道具はオクラホマにあります。そこからフロリダに引っ越し、アパートを借りるまでを考えると、のびのびして居られません。「金魚」で最後の給与を受け取り、4月にはあのオクラホマに再渡米をします。

日本に居る間、アメリカのディスカウントストア「WAL MART ウォールマート」についての本を読み、始まりはオクラホマ州キングフィッシャー(Kingfisher)と言う町から始まった事を知った時、一度この町を見てみたいと思っていました。

なので、先ずオクラホマ渡米後はすぐに車を買いに行きます。

1,500ドルを更に引いてくれて1,300ドル。当時は日本円で11万円です。

ダークグリーンの84年FORD BRONCOⅡと言う車。フルサイズのブロンコを小さくしたエクスプローラーの元祖ですね。リペイントされていて外観はとても綺麗でしたが、メーターは2-3回転していると言われたものです。つまりオドメーターは5桁なので10万マイルで0に戻ります。概算で30-40万キロ走っている計算ですから、10万円ちょっとと言うのは安いように思えますが、日本なら距離を考えれば値段が付けられないレベルですね。

それでも、これがよく走ってくれたのです。

早速この車で当時キングフィッシャーの町まで行ってみた。都市から離れた町だからこそ、ディスカウントストアとして成り立ち、全米一の企業にされたと本に書かれてはいましたが、数えるほどしか信号機がないこの小さな町から、こんな大企業が生まれただなんて信じられない、と言うのが率直な感想でした。とは言え、創始者のサム(サミュエル) ウォルトン氏の父親の農業が困窮、幼少期にはミズーリ州に引っ越しをしています。その後、アーカンソー州のニューポートと言う町で店を持ち、同州ベントンビル ロジャースでWAL MARTとしてディスカウントストアの開業を果たした。

1号店は西にオクラホマ州境、北にミズーリ州境があり、その分岐点にアーカンソーの町です。私が渡米した時の大統領は、ビル クリントン(ウィリアム ジェファーソン クリントン)で全米一の田舎町(州)から出た大統領と呼ばれたほどです。

一度、アーカンソー州の州都リトルロックに行った事がありますが、都会のイメージではあったし、全体的に見ても全米一の田舎町と言うには大袈裟な気はします。アメリカは都市部を外れれば大田舎ですから。

 

余談ですが、ビル クリントンと言う名前は何処から来たのか不思議に思う人もいるかも知れません。例えば、キャサリンを短くしてケイトやケイ、エマニエルはメニー、などはよくなりますね。しかしクリントンに関しては、ビルと呼べる名前が見当たりません。説は色々あって調べると色んな話を見かけますが、ウィリアムをビルと呼ぶ習慣があるようです。例えば、ウィリアム ヘンリー マッカーティ。誰の事か分かりますか?

ビリー ザ キットの本名だそうです。

日本でも、久子(ひさこ)さんをチャコさんと呼びますね。そういうものでしょうか。

 

話を戻して、ウォールマートがディスカウントストアとして営業を開始した経緯として、「都市部から離れた町に住むことでの日々の買い物に要する半日の無駄」を解消したかった事が最大の理由だそうです。

なるほど、サム ウォルトンが都市部に住んでいたら、ウォールマートは無かったかも知れません。

 

 

さて、車をゲットしたし、友人宅に預けてあった荷物を積み、エンジンオイルがポタポタ垂れるので、1リッター(1クオート)ボトルのエンジンオイルを2ダース買い込んで、いざ2,500km、フロリダに向けて出発です。

初めての渡米から1年半が経過したところですが、私の中では今までにない本格的な海外生活が始まる予感がしていました。

日本での半年近い生活のストレスの反動もあったのかも知れません。

 

それでは、

今日はこんな所で、次回に続きたいと思います。

 

 

皆さん、如何お過ごしでしょうか。

前回の続きを書いてみようと思いますが、衆院選が近くなってきましたね。

 

-選挙-

 

選挙と言うといつも思うのは、アメリカは毎回政権が代わる事実。

よほど評価が高ければ別ですが、政権を代える事に意味がある、と言う考え方なのかも知れません。

普通は、一つの政権が継続出来れば、政策を引き継いで貫徹できるのでは?と考えがちですよね。だから日本では自民党が長い間政権を維持しています。

コロコロ代わるアメリカの政権ですが、例えば。

私が渡米した21歳の時、それまで日本では錦糸町の飲食店アルバイトをしていた時の時給は1,000円。ちょうどバブル崩壊の後だったので、参考にならないかも知れませんが、もっと遡ると、16歳の高校生の時に新橋で550円でした。

後々詳細を書いていきますが、渡米して23歳の時、引っ越ししたフロリダの田舎町での時給は3ドル(当時270円)。今、そのディスカウントストアの時給が14ドル(1,500円)になっています。つまり、30年足らずで5倍近くに上がっています。

それまでリーマンショックと言う大規模な不景気を経験しても、雇用をあっという間に取り戻す人達であります。

比較して、日本ではアベノミクスとも言われ大企業は成長したものの、この30年間、東京の最低時給はようやく1,050円付近に上がってきましたが、それでも1,000円が30年掛けて1,050円です。高校生の時と比べても2倍にも満たない。

消費税は当時より7%上がっているというのに。

だから、いつも選挙がくる度に、政権が代わるアメリカは適正に思えてくるのは私だけでしょうか。

もはや、誰が政権と取ったら変わるとか、変わらないとか、そういう事では無いようです。政権が代わらないと間違った政策は取り払われない。確かに当事者は否定しにくいですよね。アメリカでは大統領が毎回新しい何かを始め刷新する。結果が吉と出るか凶と出るか、果たしてそれが成功例、失敗例として次の政権にゆだねられる。政権が代わると言う事は、失敗や癒着、悪習慣が一旦リセットされるメリットもあるんですね。

実際に中国の史記を読んでいても、癒着を正そうと世界初の法治国家を築いた「秦」も多数を占める癒着した高官達に滅ぼされたようなもの。始皇帝が一番信頼を寄せていた蒙恬(もうてん)と蒙毅(もうき)と言う二将も騙されて、あっという間に殺害された。戦う余地さえ無いんですよね。

 

現状に満足できれば政権交代は必要ないかも知れませんが、与野党の勢力は拮抗させていた方が健全のような気もします。

 

-アメリカのインフレ-

 

最低時給を決めるのは私達では無くとも、時給の設定は会社の努力に他なりませんから、私達も最低ラインをそれなりに上回るように精進しているし、出来たら今日にでも1,500円位を最低ラインに持って行きたいですよね。でもなかなか進まない。税金の活かされ方に問題はないのでしょうか。

アメリカとの時給の差、1人当たりのGDPの差は桁が変わってきています。時々、日本のGDPは世界第三位と言う言葉を目にします。第二位との差を見ると愕然とします。一人当たりのGDPの差を現実的に置き換えてみると、危機感を感じる今日この頃です。

例えば、昨年FORD BRONCOが復刻、市販化されました。夏にオーダーが開始され、弊社もファクトリーオーダーを頼まれました。注文が殺到したこともあり1年掛かってようやく生産に乗った感はありますが、まだまだ長い列に並んでいる状況です。

現地のディーラーもようやく店頭に並ぶようになったのです。

車両価格は350万円から650万円位まで幅があります。10年前から比べると、ぐっと車両価格が高くなった。それまでの感覚なら200万円から400万円です。ここで1.5倍以上です。更に、店頭に並ぶ新型のBRONCOの店頭価格を調べてみると、13万ドルがズラッと並んでいます。品薄になっているがためのプレミアムです。今のレートに換算すると1,500万円です。買う人は居ないだろう、と思いがちですが、だとしたら2倍以上に釣り上げられた車両がこんなに市場に溢れるものでしょうか。日本なら、3年待つか2倍払うか、の選択肢では諦める人が多いと思われますが、アメリカではミッドグレードを1,000万円以下でなら、と考える水準に達していて、使えるお金が豊かなんですよね。

最近はもう新車のアメリカ車は買えないかも、と言う声も聞こえてくるほど、突き放されてきています。

 

-アメリカを満喫する-

 

実際にアメリカに行くと、何か見えてきたりするのです。

前回書いたように、チップだったり無料の高速道路だったり、案外自分達に回ってくるお金の使い方が出来る国なんだなというのが実感です。

 

自動車の維持費もさることながら、国内旅行をする事に金銭的精神的に自由な気持ちで居られるにも、自由の国とよく言われたのも頷けるのではないでしょうか。日本ではどうしても高速代を考えてしまいますよね。気に入ってるのに、あまり乗らない車に掛かる維持費を考えると、気が重くなるし、税金もアメリカとは一つ桁が違います。

 

そういう事があってかは分かりませんが、スポーツ観戦に行っても、何にしても思いっきり楽しめている感じが羨ましい。

よくテレビで見る光景ですが、野球でもバスケットでも、最初に必ず国歌斉唱していますね。

これは小さいローカルチームでも同じく、歌い手が斉唱しますが、その間、観戦者はハットや帽子を脱いで手を胸に当てたり、頭を下げたり、何かお祈りしているように静寂な中で国歌「星条旗」が熱唱されると、心が高揚しますよね。アメリカ人の愛国心の大きさを感じる場面でもあります。

今年2021のスーパーボウルはジャズミン サリバン(R&B)とエリック チャーチ(カントリーシンガー)でした。こういう大イベントは滅多に行けるものではありませんが、小さいゲーム観戦でも迫力満点です。アメリカに来てるんだなぁ!と実感できるひと時です。

戦闘機は飛ばないまでも、打ち上げ花火などで結構華やかです。

YOUTUBE SUPERBOWL 2021

オクラホマならではで、ロデオに行った時はまた違う感動がありました。

ロデオは屋外でやるものだと思っていたら、屋根のある会場でやっておりました。炎天下の下で見てみたい気もしたのですが。

優勝賞金はモデルチェンジしたばかりの赤いダッジラムで、エントランスに入ってすぐの広場に飾ってあって、ボンネットにはバッファローの角が飾ってある。こんなデカい車、誰が乗れるんだろう?と特に当時は驚きでした。

更に、冷静に考えると「ピックアップトラック貰っても…」と私日本人の典型的な意見と更にバッファローの角も付いてきちゃうのかな?と思いながら、インパクトは抜群でした。

 

 

Dodge Ramが飾ってある広場には、テンガロンハットやウェスタンブーツ、ベルトとバックルなど、カウボーイ用品が並んでいて、雰囲気にのまれて思わず買ってしまうんですよね。やけに大きいバックルとか。

 

アメリカで初めてみた映画はケビンコスナーのパーフェクトワールドでした。

これは大して英語が分からなくても理解できた。映画のクライマックスで観客達が「YES!!」と腕を挙げたり、立ち上がったりと、こういう言動もアメリカ人ならではでした。

トムハンクスのフォレストガンプも当時上映でしたが、早速ビデオを買い、英語の教材として辞書を使わずに何度も見返したものです。答え合わせをしたのは、何年も過ぎた日本での字幕映画を見返した時でしたが、何ともピンとこない文面に、翻訳の難しさを感じたのでした。

 

こういう映画の世界でも観るように

アメリカ人と言うのは、アメリカを楽しんでいる、と言う感じがするんですよね。アメリカ人に「アメリカはどうだ?」と聞かれ、「凄い国」だと言う度に、皆頷いて「すごいだろ!」と自信満々に答えに返す。愛国心なのか何なのか分かりませんが、中には「アメリカはNO.1、海外に行くなんて考えられない」とまで言う人が結構いるのは、やっぱり誇りなんでしょうね。日本人は日本に来た外国人に何て答えているのか気になるところです。

 

-自転車が無い-

 

オクラホマでの普段の移動手段は自転車でした。アメリカではBicycleではなく、バイクと言う言い方をしますが、渡米から一年近くすると周りは殆ど車を持っていました。それでも、私はバイクで歯医者にも行ったし、遠い所は誰かが車に乗せてくれるので不自由ない生活でした。

それがある時、大学の駐輪場に止めていたバイクが無くなっていました。駐輪場と言っても、図書館(ライブラリー)の前にちょっとした柵があって、そこにバイクを繋ぎとめておくだけのものです。探していると、構内を見回るセキュリティが来たので聞いてみたのです。

「どうせ盗難にあったんだろう。探しても出てこないのだから付いてこい」と塀で囲まれた広い自転車置き場に案内されました。そして一言、好きなバイクを持っていけ、と言うのです。

高そうなバイクからボロボロのものまで、“選り取り見取り”とはこの事。

自分の20ドルもしないバイクからすれば、立派なものが沢山です。

でも、いくらそう言われても、何処の誰のかも分からないのに、勝手に持っていく訳にはいきませんよね。「あ、そうですか」とは言えないし、躊躇しているとセキュリティは更に付け加えました。「ここにあるバイクは、所定の場所に止めていなかったもので、撤去したにも関わらず、引き取りにすら来ない物が集まっている、気にしないで持っていけ」と言うのです。それでも、やはり気が咎めます。勝手にそんな事して良いはずがない、ただそれだけです。

彼は最終的に「禁止場所に止めたから此処に保管しているのに取りに来ない奴がいる。正しく止めても盗まれて困っている者もいる。その困っている君に此処にある自転車をあげて誰が僕を責められるか」と言い始めた。

なるほど、まさしく「捨てる神あれば拾う神あり」とい言いますが、その気持ちが嬉しくて

感謝したものの、やはり貰う訳には行かず、歩いて家に帰った事がありました。

もし貰っていたら、それがきっかけで、元持ち主とトラブルになる事だってあるかも知れません。

現に、アパートの駐車場で車が180度ひっくり返っていると言う出来事があり、人種間と個人間のトラブルだと言う話を耳にしていたりもしていました。

フロリダに引っ越しする日もそう遠くないと言うのもあったかも知れないし、周囲も車を持っている頃で、自転車が無くなって生きていけない、と言うほどの環境では無くなっていたのです。

 

-異国の距離を感じる瞬間-

 

ある時、国際電話で父と話をしていた時にこのエピソードが飛び出しました。アメリカにいると簡単な事に思えるかも知れない彼のしたことは、日本ではなかなか出来ないのが現状だと、深く感心しつつ、こういう事を私に経験させたいと思っていたようでした。

 

話は変わりますが、当時はアパートには電話を引いていなかったので、国際電話はいつも公衆電話からでした。硬貨には1,5,10,25セント(¢)があり、単純に1,5,10,25円位の感覚です。

この中で一番使うのは25セント。100セントで1ドル($)になります。

100/25つまり1/4と言う事で、25セント硬貨をクオーターと言います。

公衆電話で国際電話する時は、011 81 3 3651 xxxxと言うようにダイヤルすると、2dollar and 50cents for 3 minutes(クオーター10枚で3分)というようなアナウンスと共に硬貨を入れて電話がつながりますが、会話中でも更にあと3ドルで3分と言うアナウンスが割り込み、その分の硬貨を入れると”thank you”の音声が鳴り、入れないと少し間を置いて”ブツッ”と切れる。日本の公衆電話のように「ブーッ」と聞こえてからカチャカチャ硬貨を少しずつ入れる手順じゃないので、結構慌てながらの電話です。

いつも30枚位クオーターを持って電話しに行きますが、途中で「クオーターが足りない」となって通話が途絶える。国際電話では1秒でも惜しいので、出来るだけ話をして途中で切れたらおしまい、とお互いに割り切って電話が終わる訳です。“あと数十秒で通話が急に終わる”と言うあの空気感と、途中で通話が切れて終わった後のあの寂しさと言うか、切なさと言うか、しみじみ心に残ります。

感傷的になりたくないがために、何も無かったようにすたすたと歩き始める度に、異国との距離を思い知らされた人は少なくないのではないでしょうか。

 

-触れ合いの習慣-

 

自転車が盗難された時に声を掛けてくれたセキュリティのようなやり取りがありましたが、ちょっとでも踏み込むと危険な目にあうのもアメリカですが、人を助けると言うか、協力を惜しまない人が多いと言う実感もあります。

 

一度、郊外の高速道路で車が止まった事がありました。写真のように路肩が広いので、事故につながる危険性は少なそうですが、出来るだけ右側に寄せて悩んでいました。するとすぐに停まってくれた車から女性が出て来て、とりあえずバッテリーを繋いでくれ、エンジンがかかった。「ありがとう」に対してyou are welcomeではなく、「You Bet!」と返され、後で知ったのは形式的な「どういたしまして」と言うより、親しみを込めた言い方だと。カントリー風に言うと「いいってことよ!」とでも言えるでしょうか。彼女が去り、車を動かそうとしたらまた止まっては動かなくなる。すぐ次に警察がきた。またバッテリーを繋いでもらったのですが、エンジンが掛かってもすぐ止まる。警官は、アクセルをふかしながら進め、と言って、慌ててどこかに行ってしまった。時間を取られると思ったようでした。結局はエンジンがまた止まり動けなくなったのですが、よく見てみたら、オルタネーターに掛かるベルトが切れて無くなっていたのです。要は充電機が働いていないのです。何か音がしたものの、問題ないと思っていたのですが、どうやらその時に切れたのでしょう。エアコンが効いていた時期なので走っているうちに充電されないバッテリーが力尽きた結果、アイドリングも維持できなくなったようです。日が暮れると厄介ですが、レッカーを呼ぶと意外に来ない。それ以前にどこに電話があるかも分からない。ならば、とバッテリーを買いに走り、2時間位で戻って来た後は、すぐにカー用品店に寄ってベルトを買って取り付けをしたのでした。

 

 

止まってくれた人が他にも居たのですが、親身に気に掛けてくれる人がこんなにいるんだ、と言うことです。親指を立てたり、手を挙げたりせずとも。

日本でヒッチハイクをしていると、何時間もつかまらない、と言う話を聞いた事がありますした。こんなに安全な日本がそうであるにも関わらず、危険なアメリカで何故こうも助けてくれる人が多いのか。

その疑問の一つの答えは、習慣によるものがあるのかなと感じるのです。

 

外国では常識的な事ですが、次の人のためにドア開けて待つマナーがあります。

Hold the Door Opened で画像検索してみてください。

 

 

5m離れた程度ならドアを開けてその人を待つ位の事は当たり前にありますが、日本でこの姿をどれだけ見かけるでしょうか。

エレベーターのドアをそそくさと閉めたり、早く閉まれと念じるかのように閉まるボタンを連打する光景を見かけることすらあります。

私も日常でドアを開けて次の人が来れば待つ事はしていますが、日本では「ありがとう」とはっきり言える人は正直なところ少ないのです。照れているのかも知れませんが、アメリカでは行動は心の表現でもあり、伝える事は重要です。

日本でヒッチハイクを見た人はどれ位いるでしょう。日本では殆ど見かけませんが、10年以上前ですが、秋葉原を車で走っている時、乗せた事があります。どこに行くの?と聞いたら大阪と言われたので、大型トラックの多い界隈まで乗せて行ってあげる程度しかできませんでしたが、道中で聞いたところによりと秋葉原で1時間以上誰にも声を掛けられなかったようです。あんなに人が沢山いるのに。

こういう環境に生まれたものからすると、アメリカで困った時に気軽に話しかけられるのはとても新鮮かつ刺激的な事ではあります。

助けてもらった恩は、誰かに返したり、分けたりしないと、と思ったものです。

 

-メニューにないもの-

 

アメリカで初めて行ったレストランはデニーズだったのですが、ここで一緒に行った台湾人のケン(KEN)がサーロインステーキを頼みました。当時からアメリカでは、最初にサラダが出てくると言う習慣に驚いたものですが、皆の料理がとっくに出て来ているのに、ケンにはステーキが出てこないのが気になります。ウェイターに尋ねると、この野菜がそうだと言うのです。頼んだのはサーロインステーキだと言うと、この野菜がそうじゃないか、と言うのです。どういう事か拙い英語で話しているうちに、サーロインステーキはこの野菜“セロリ”になってしまっていた事を知ったのです。つまり、これが“セロリ スティック”だ、と漫才のような笑い話がありました。

これを読んで気になる人もいるでしょう。そうなんです、私もすかさず伝票を貰ってどんな価格が付いているんだろうと。すると、セロリスティックとして1ドル程度のおまけのような値段が付いていた。しかし、メニューには無いんですよ。こういうのはある意味で感動です。フランチャイズでメニューにない要望を聞いてくれる驚きのようなものです。

ただ、似たような事が10年前位ですが日本でもあって、お台場のレイトショーで映画を見た後に急に何か食べたくなって、遅くまでやっている近くのLa Bohemeに入った時の事です。水分が欲しくてフルーツが食べたいと聞いてみたら、メニューにもないのに盛り合わせを作ってくれました。かなり満足する内容だったにも関わらず、1,000円程度の気の利いた価格を付けてくれて、Global Diningと言う会社はちょっと面白いと感激したものです。

 

 

-英語上達法-

 

1年いると、色々と経験する事も増え、異国の文化も馴染み始めようになります。

外国人では、台湾、香港、韓国、インドネシア、サウジアラビア、メキシコなどの南米の友人も増え、共通語の英語を使う事で、何となくでも下手な英語が話せるようになる。

それでも思ったほど英語が上達はしないものでした。実は昔から英語だけは得意で、中学1年からずっと満点でないと気が済まなかったし、高校受験ではラサールや開成の問題ばかり解いていた私も「今までの英語は何だったんだろう」と自信を失ったほどでした。机上の空論とはこういうことを言います。文法や単語は覚えただけで、身に付けてはいなかった。だから読む事は出来ても、会話になると解釈が間に合わなくなるし、思ったことも言えなくなる。

外国人の中でも、習ったいわゆる、主語-動詞-目的語のSVOの順序が共通だったり、入れ替えるだけの言語が多く、例えば

I love youは中国語で 我 愛 你 のSVO、スペイン語はYo te quiero のSOV、フランス語もSOVでJe t’aime.

特にヒスパニックなどスペイン語圏の国は多いので、それに比較して日本人は修得に後れを取る傾向にあるかも知れないし、既にバイリンガル?と思えるほど、渡米後すぐに英語を話す外国人は多い。通じれば良い勢いで話してきますが、日本人は文法にとらわれて躓きがちです。

don’t do nothing を神経質にdon’t do anything とか do nothing で正しく構築しようとしてしまうのですね。ネイティブにもよく”日本人は頭で文章を作ってから話す癖がある”と見破られる始末です。文法は強いんですが、He/She/It はDoes なんて三単現をよく知らないネイティブが結構いるのを知ると、日本人は文法(グラマー)に拘り過ぎてるところもあるようです。

日本語の語順は入れ替えるだけで英語が出来る訳ではない難しさが、決定的に慣れにくくしている面もあるかもしれませんが、日本の英語教育が神経質すぎたようにも感じます。文法はそこそこ、SpeakingやConversationが間違いを恐れず言葉に出す事が上達の近道なんですね。

 

-とりあえず運転免許と帰国の準備-

 

足掛け2年と言うところで、TOEFLのスコアも獲得し、フロリダの大学への引っ越しが目に前に迫って来るのですが、セメスター制と言って、2期、つまり9月と5月に始まる大学でした。既に11月を越えていたので、5月の入学まで6か月近くあります。アパートを引き払って日本に戻る事にし、その前に運転免許所を取る事にします。それまでは国際免許でしたが、一時帰国の後はフロリダに向けて車が必要になるだろうと言う事で、学校に在籍中であることと、住所のあるうちに免許を取ろうと言うわけです。

運転免許を取るにあたって、当時は筆記試験が20問位でした。標識の意味を覚えておけば、ほぼ間違いありません。正解率も80%位で、簡単な適性試験のようなものです。

実地試験は試験場の近隣を一周するだけ。試験場を右に出たら、次を左、また左、左、左、途中で縦列駐車して、試験場入口を右に入る。右左折する最短ルートの数分でおしまいです。

これで免許証が発行されてしまうのでした。

しかもおかしいのは、車は持ち込みと言う事。

人から車を貸りてそこまで行き、その車の助手席に試験官を乗せる。

オクラホマ州は16歳から免許が取れるので、高校入学祝いに親から車をプレゼントされる家庭が結構あるようですね。私の住んでいたホームステイ先でも、80年代のマスタングをプレゼントされていました。今でこそクラシックで高価ですが当時は15万円位でした。

そういう訳で、オクラホマは経験重視の運転免許制度でありました。

日本だって、地方によりこうした考え方に割り切っていく必要があると思うんですよね。

東京と北海道を同じ囲いに入れない、面倒でも地域に合う法整備をする緻密さを持って欲しいものです。

 

さて免許も取り、テレビや炊飯器など、所持品は友人宅に預け、ランドロード(アパートのオーナー)に会いに行きました。オーナーは当時70過ぎの女性で道を挟んだ向かいの棟の一室に居ます。ちょうど道を横切ろうとした時、赤と白のピックアップトラックが止まりました。なんと、中ならテンガロンハットを被ったオーナーが降りてきたではないですか。またテンガロンハットとピックアップトラックです。

「ごきげんいかが?」と言われ、返事そっちのけで「これはあなたのですか?」と聞いたら「新車に買い替えたの」と。今まではボロボロのステーションワゴンに乗っていたので、見違えるようです。ピカピカの綺麗なカラーリングの車で、しかもアメリカを背景に見ても大きい。よくこんなの乗れるなと思いつつ、頭の中は「またピックアップか」と半分あきれ、半分はその大きさに感激したものです。年齢云々じゃないんですね。

しかし一旦それが目に焼き付くと、いつしか私まで欲しくなったりするものです。

90年代前半はDODGE RAMもFORD F150も、モデルチェンジのタイミングでした。

 

 

それでは、次回は一時的に日本に戻ってからの話を書きたいと思います。

 

現在台風16号通過に伴い、千葉のガレージに張り付いております。

自分が飛ばされる、と言うより飛来物など気掛かりです。

そんな訳で、前回の続きをかいてみたいと思います。

 

さて皆さん、

留学や旅行などで外国生活してみる意味は、どんなところにあるとお感じですか?

 

一言で言うと、自分の国の長所や短所が分かる、とよく言われます。

例えばアメリカと比較すると、

高速道路が無料

ホテルに宿泊しても料金は部屋代であって、1人当たりの金額ではない事や

アパートを借りても礼金や更新料もない

チップを払う文化

食事の文化

と言う生活費の面や

治安から言えば、

銃社会なのは言わずもがなですが

気楽に夜中に出歩けないし

言い争いから発砲事件に繋がるケースも多い

現金をあまり持ち歩かないカード社会

交番が無い

 

こういう事を経験して、理屈じゃなくて感覚として見えてくる日本と言うのがあるんですよね。

 

もし、アメリカが高速道路を有料化したら、経済は相当衰退するんだろうな、とか

チップが無くなったら飲食店の失業率は増えるんだろうな、とか。

銃社会で無くなれば、快適に生活できるようになるかも知れないけど、人としての危機管理能力が下がる裏の面もあるのかな、とか。

以前、こんな事がありました。

コンビニエンスストアで買い物をしていたら、店の前にいた2人が急に口論を始め過熱し出したのでした。と思うと、1分足らずでパトカーが来て、警察官が2人を引き離した。

店員がすぐに電話して、巡回中のパトカーが駆け付けただけの事ですが、日本だったら誰が通報しただろうか、巡回しているパトカーがそんなにいるだろうか。

そう言う意味では、アメリカは巡回している事が仕事で、いざと言う時に早く駆け付けられる事に意義を見出しているから、交番はそれほど必要ではない訳で、交通違反の取り締まりをしている姿も日本と比べて見かけることがない。

治安が悪ければ危機意識が働くし、治安が良いがために大事になるまで気が付かない、なんて事もありそうです。

 

なので、危機感が薄く育った私には、アメリカの治安の悪さに慣れるまで時間が掛かったのでした。

 

外食では、チップとして飲食費の15%、夜なら20%は払うようにしていたので、結構高くつくのです。1,000円なら、税込み1,200円になる。夜なら更にです。

だから、外食は相当控えていたし、食べてもFast Foodの類が多かったです。Fast Foodと言っても、日本には無いGrandy’sと言うフランチャイズが主で、KFCのような柔らかいものではなくて、サクサクのフライドチキンが6ドルで食べ放題のランチ。

Fast Foodだからチップも掛かりません。それにしても、あのサクサクはいまだに思い出いします。ちなみに、オクラホマはFast Foodに関わらずどの店に行ってもコーラもコーヒーもお代わり無料でした。

 

犯罪件数やGDPを分析したところで、国の治安や経済を支えている根本から違うのだから、日本に置き換えて考えられる次元にはアメリカはない、事に少しずつ気付きます。

数値を一絡げにして比較しても問題は根深い所にあるんですね。

 

さて、

前回の記事で書いたように、フロリダ州パナマシティと言う町の州立の短大(Gulf Coast Community College=現Gulf Coast State College)に向け、TOEFLのスコアを獲得するまでの間、折角だからと休みの日はアメリカを堪能しました。

まずロデオ。オクラホマならではですが、オクラホマについて現地で習った事を少し説明してみます。

オクラホマとは、大陸のちょうど中部の少し南のある州で、インディアンが多く、草原の広がる事から牧場も多い地方です。

インディアンをネイティブアメリカン(アメリカ原住民)と呼びますが、白人がアメリカ大陸を開拓(占領)した際に、インディアンを奴隷化した訳ですが、最終的に居住区として生活が許されたのがオクラホマ州。米国内で時々見かける居住区(Reservation)の看板ですが、全米で一番多いようです。Broken Arrow(折れた矢)など、インディアンにちなんだ地名が多い理由でもあるようで、オクラホマと言う名前自体が、インディアン語で「赤い目」、赤い人間と言う意味でもあるそうです。

そういえば、ケビンコスナーの映画Dance with Wolvesで出てくるインディアンに付けられた名前も、こういうのが多かったですね。(“こぶしを握って立つ女”とか)

因みに、この映画は西海岸側なので、いわゆる西部が舞台です。

白人に徹底的に抵抗した「ジェロニモ」と言う酋長の名前を知っている人も多いと思いますが、最終的に強制移住させられ生涯を閉じたのもオクラホマでした。

 

更に牧場が多いことから、いわゆるカウボーイも多く、白人比率も高い。ブーツ、ベルトのバックル、テンガロンハット、そしてロデオの看板をよく見かけました。カントリーミュージックの良く似合う町でした。それでいて、人種差別や縄張り意識の高さも肌で感じていました。

 

ある時、レンタカーを借りて皆で州をドライブした時、広大で綺麗な牧場が目に入ったので脇に止めて記念撮影をしていました。牧場主がトラクターで近づいてきました。テンガロンハットにオーバーオールのお爺さん。絶好のタイミングとばかりに「一緒に」と声を掛けようとした時、”Get Out”と一言、散弾銃を向けられ、慌ててその場を離れた事がありました。

当時、ルイジアナ州のバトンルージュ、ハロウィーンの時期に他人のドアを叩いて撃たれて亡くなられた日本人留学生の事件が話題になりました。不用意に他人の敷地に近づいてはいけないんですね。

 

更にぞっとする事がありました。

夜中、机に向かっていた時、隣の空き地から銃声が聞こえました。10mも無いすぐそこです。以前、ホームステイ先で何度か聞いていたので、すぐにわかった。

自分の部屋は1階です。見ようと思えば左脇のブラインド―の隙間から窓越しに様子が見えます。隙間を覗いた瞬間、「もし目が合ったら?」と一瞬ためらう。

部屋の電気を消さないと!と考える。

いや、「もし殺人だったら、部屋の明かりが消えた瞬間、目撃した」と思われる。

ならば、何事もないかのように机に向かっていよう、と考えた。でも「今この時、ブラインド―越しに自分に狙いを定めていたら?」と思ったら、背筋が凍りつきました。もう出来る事は一つ。すぐにトイレに駆け込んでドアを閉めて待つ事しかなかったのです。

こう言う瞬間は頭がフル回転していて、「パン!」と聞こえてトイレに入るまで10秒にも満たないくらいです。ボケボケしていたら、もしかして,,,です。

トイレにそのまま何時間居たでしょうか。出た瞬間を狙って窓越しに構えているかも、と思うと、もう出ようとドアノブに掛けた手を離し、もう少し待つ、こんな事を繰り返します。

考えすぎだと思う人もいると思います。でも、慎重の上に慎重を重ねるのは性分でしょうか。

身の危険を感じたら、先に進まない勇気が結果的に身を守る事に繋がるかも知れないと言うのは体感で経験してきた事です。

夜が明けると、早速警察が来て色々と調べていましたが、「その場に居ました」なんて言うの、怖いんですよね。もし殺人事件だったら、誰が見ているか分からない、目撃者扱いされたくない、斜め前に危険な匂いのする人達が住んでいる現実もあり、横目で素通りして学校に向かったのです。

 

TOEFL勉強中も、友人達が車を買ったりした事もあり、同乗して行動範囲が広がります。

週末はボーリング、1ゲーム200円しない安さなので、しょっちゅうでした。夜のドライブと称して、ラングラー(JEEP)で意味もなく真北に向かおう、と言う事がありました。しかも一般道。

最初はクリスマスのネオンが綺麗なニコルズヒルズと言う住宅街を抜けます。

 

余談ですが、アメリカはクリスマスシーズンになると、皆で地域一帯を飾りつけたりしています。アメリカに行って知った習慣です。写真の通り、暖色をうまく使った拘りの庭やデコレーションを披露している家が並び、沢山の人が散歩がてら見に来るのですが、

どの町にもあるものなので、12月に渡米の方は是非、探してみては如何でしょう。

10年前ですが、カリフォルニアカリフォルニア ロサンゼルスだったら、トーランス近くのLomitaやPasadenaは綺麗でした。

 

その先からどんどん寂しい道になり、いつものボーリング場。

それで、この後はどんな道になるのかな?と日ごろから興味があったのです。

走るほど町の灯も無くなり、最後は街灯も無く、車のライトが無ければ真っ暗です。

時々道端でバチンと言いながら火花を飛ばす物体があって、何かと見てみると、オイルを吸い上げているやつがいます(下写真左側)。至る所に設置してあって、これがオイルジャックってやつかと感動したものです。森も林も何もない所は満天の星空の下で静寂の世界で、ソフトトップを畳んだラングラーでドライブだったので、臨場感たっぷりでした。一旦停まって、耳を澄ませてみようとエンジンを止めて、ライトを落としてみたら、驚くなかれ、無数のホタルが飛んでいました。脇に水が流れていましたが、澄んでいるんでしょうか。とにかく凄い数で、温かいからか、車にも、体にも留まる。じっと眺めていたいのですが、タイヤにも留まり始めたので、その場から立ち去る事にしました。

google map

 

更に進んでも何もありません。だからと言ってよく見ていないと、道が1m以上陥没している事があり、落ちると大変です。私が遭遇したのは、20mほどの長さに渡り1mほど陥没していたので、運よく飛び降りても20m先は1m高い道に追突するだけ。出来たばかりか看板も立っていませんでした。運よく落ちずに済みましたが、こういう落とし穴があるので田舎道は要注意かも知れないです。

もっと酷いのは舗装されていない道です。時々交差している未舗装を進んでいると、野生化すると言うか、草が生え始めました。両側は森に囲まれ始め、現れるオイルジャックも小型化して触れそうな所にさえあるほどのまさしく怪しげな林道になりました。ヘッドライトの先に何も見えなくなってぱっと森が開けた時、吊り橋が見えた。瞬間的に、また嫌な予感がして、陥没した道の時のように急停車しました。車を降りて近づいてみると、今度は数十メートル下に橋の足場らしいものが横たわっているじゃないですか。吊り橋の支柱とワイヤーが残ったままなので、一見では橋が架かっているように見える所が恐ろしい。

このまま進んでいたらひとたまりも無かったねぇ、と皆でほっと胸を撫でおろし眺めておりました。懐中電灯を取り出して照らしてみると、相当深い崖だという事を知って更にぞっとする訳ですが、落ちた橋の足場の横に車も横たわっているではないですか。今さっきの感じはないのですが、1人がきっと助からなかっただろうね、と何気なく呟いた。反射的に皆が顔を見合わせた瞬間、「此処に長居してはいけない」と同時に感じ合って、来た道を急いで戻ったのです。舗装走路に戻るまでは、バックミラーも見ない、誰もが決して振り向かいと決めて、無言で走り抜けた事がありました。

その時の教訓としては、道が野生化するイコール整備されていない&通れない理由がある。思えば、人は通れない事を知っていたのに、看板は立っていなかった。

国土が広すぎるために、手が届きにくいと言う一面があるようです。

こんな所にも命の危険が潜んでいます。

 

オクラホマには竜巻と言う自然災害も起こります。老朽化ではなく、この影響で橋が崩れた可能性もあるのです。

ある時、夏にも関わらず、突如として冬のような気温に下がった時があります。

日が落ちると竜巻は見えない。オープンにしているので車のヒーターを入れてもあまり効かないので、幌を閉じようと車を止めた。風がどんどん強くなるばかりで幌を閉めるにも、閉められない。同時に、どこからともなく異様な音が聞こえてくる。それでようやく竜巻が近くに来ていると皆が実感するのですが、都市部ではないので警報が鳴らないし、夜ではどこにいるのか分からない。逃げるにしても、森の騒ぐ逆方向と風下に向かって道を選ぶしかないのです。そこを脱するとまた夏の気温に戻ってホッとする。こうして日常で非日常を体験していくのですが、そこに住む人達は、きっとこういうことを理解したうえで生活していて、決して珍しい事ではないんですね。

日本に戻る度に、「顔が険しくなる」と言われたのは、危機感を察知しようとしているが故の事だったのかも知れません。

 

ドライブの話が長くなりましたが、他にスポーツ観戦や映画、特有の文化にも慣れてきました。

オクラホマの体験談をもう少し次回で紹介していきたいと思います。

いつもご覧頂きありがとうございます。

引き続き、学生時代の留学の話を書いてみようと思います。

 

前回は、オクラホマシティに到着、ホームステイが始まったところまでの話を書きました。

ホームステイをして1か月ほどで10月、私は21歳の誕生日はアメリカだったんですね。

ちょうど29年前の今頃、日本を離れてアメリカの地で何が何だか分からないまま生活が始まったところです。

後ろから不審な車が付いて来たり、銃声を聞いたりと言う怖い思いは初日からありました。

とは言え折角来たのだから、中古の自転車を手に入れて行動範囲を広げました。

アメリカでは自転車と言うとマウンテンバイク、中古で20ドル、日本のいわゆる「ママチャリ」は存在しません。中古品は自転車に限らず、衣類も家電も銃でも何でも中古品ならPAWN SHOP(パウンショップ)と言われている店があちこちにあります。

コーディロイのジャケット、アディダスのカントリーも買ったのを思いだしますが、

どれも数ドルの世界で、見ているだけでも面白いのです。

パウンショップ

https://goo.gl/maps/t2K7R5mdQAxHtFTD8

 

一通り身の回りに必需品が揃い、言葉を除けば不便の無い生活が始まります。

家ではCDを聞いては歌詞を書きだす練習を続けたものですが、日常ではなかなか聞き取れない。ランチにマクドナルドに行くと持ち帰るかどうか聞かれるわけですが、この「IN or OUT?」が分からない。何度聞いても分からない。まさかカウンターで持ち帰りなんて聞かれるとも思っていないので、思わず「YES」と言ってしまう。こんな簡単な英語が分かるまで数か月も掛かったりもするのです。

 

オクラホマに行ってショックを受けたのは、日本人がとても多いと言う事でした。

1-2才年上の人が多く、マスターコース取得の留学生がこんなに居るもんだと驚いたものですが、これがマイナーだと思っていたオクラホマでもそうなのかと少しガッカリ、半分は安心したものです。1か月を過ぎ、何となく慣れてきたころ、私は急にホームシックになりました。朝、目が覚めたら夢だった、なんて事を祈って眠った事もありました。そんな時は他の日本人の存在はありがたくなるものです。

学校が休みの日は日本人の寮で集まる事が多く、お互いに面白い話で何となくストレスを発散できたりしました。

 

渡米後2か月が過ぎ、ホームシックも解消したころ、ふと疑問に思うようになりました。アメリカに居ながらにして日本と同じような生活をしている自分にです。。

マスターコースを修得に来ている人たちは、あくまでも目的は卒業、私はまた修士課程を終えに渡米した訳ではない、と言う事。

これからの3年間、自分には何が出来るのか、と考えると、そうのんびりしていられない気がしてきたのです。36か月の間の、海外生活に慣れるまでの3か月は、10%近く費やす計算です。

ホームステイから出よう、と決心をしました。

ホームステイは1か月単位なので、2か月を過ぎ、3か月目の延長を止める事にしました。

机の引き出しに入れていた600ドルが無くなっていた、と言う事件もあって、なんとなく長居無用と言う空気もありました。家とは言っても部屋の鍵は掛けるべきでした。

後から知ったのですが、この家にホームステイした他の日本人留学生も同じ経験をしていたのです。やっぱり日本人の甘さでしょうか。

 

決めたアパートは220ドル位。当時のレートで20,000円弱。

学校から近い、安い、と言う理由で決めたアパートでした。

日本でアルバイトをしていた時は、1,000円の時給だったので、父の言っていた通り、日本の大学に通うより、学費に生活費を含めても決して高い金額ではなかったのです。

アパートになれば、自炊生活が始まるので、今までより更に安く済みます。

例えば、サーロインステーキ約220g(1/2ポンド)がスーパーで2枚200円もしない、さすが牧草地帯。鶏肉ならドラム1ダース(12本)で1ドルちょっと、150円位のものです。1日3食300円位で食事出来てしまう訳です。

小学生から中学生まで、ボーイスカウトをしていたのもあってか、料理は苦にならない性格だったので、あっという間に冷蔵庫に食材が並びました。

家具電化製品は付いていたので、買ったのは炊飯器だけ。

これもPawn ShopでNationalの小さい炊飯器を5ドルで買ったのを覚えています。

この炊飯器は帰るまでの3年間、壊れることなくほぼ毎日動いてくれました。

白米はスーパーに「錦」と書かれたスティック米。ポロポロのご飯ですが、準備次第で不満のないご飯にもなります。

洗濯はアパート内にあるランドリーで、昼夜問わず、敷地内で事足ります。

とにかく出来る事は自分でするように生活を変えていきます。

 

93年当時住んでいたレンガ風のアパートは今も変わりなく、左右に4棟存在しています。

唯一、当時のペンシルバニアアパートメントから、ビンテージアパートメントに名前が変わっています。

https://goo.gl/maps/9aBM1415mZJQBqNv7

 

周囲では、車を買い始め、日本人は百万円を越える人も居ますが、殆どは数十万円なのに対して、中国、台湾、香港、東南アジア、中東の留学生は数百万円の新車を買う、育ちの違いにちょっと意外でした。

日本人留学生は日本に帰って就職する、今のうちに海外を知っておきたい、と言う性格の留学が多かった。

そんな私も紛れもない後者でしたが、外国の留学生は、世界で仕事をしたいと言う感覚で来ていた事からも、生まれた国の違いがはっきり見えてきた気がしたのでした。

例えばその時、香港はあと少ししたらイギリス領から中国に返還される時期でした。台湾にとっても常に中国が気になる存在だし、今も昔も東南アジアも中東も不安定この上ない訳で、自分の国で生きる危機感がとてつもなく強い。

日本ではあまり感じなかったことですが、同じ土俵で生活すると外国事情がしっかり見えてくるものです。

アメリカのような外国人達が建国したような国にいると、日本の単一民族の甘さと言うか、無知というか、更に身が引き締まる思いだったりしたものです。

 

外国で初めて年を越しましたが、年末年始に休む日本とは違い、アメリカは1日休んですぐ学校が始まるため、メリハリが付かないんですね。

それでも、何もない町なのに年末のクリスマスの飾りつけは盛大だし、休むとなると徹底的にどこもやっていない。昔の日本の元日のようでした。

こんな年末年始を経験し、学校が休みのシーズンになると日本に一時帰国します。

理由は実家のアパレル業の手伝いです。これからの進路をどうするのか、と言う報告も兼ねて、と言う事もありますが、惰性的なアメリカ生活を見直す意味もあったのかも知れないです。この一時帰国時に決めた事は、再度渡米をしてオクラホマ州から引っ越しをする、と言う目標でした。とは言え、学生として何かしらの学校に属していない限り、ビザを取得する事は出来ません。これが無いと短期旅行でアメリカを訪れる事しか出来ない。

オクラホマに戻ると、予め目星を付けていたいくつかの大学を訪問します。もちろん、入学費や自分の語学力もさることながら、自分の興味の向く学部のある大学をいくつか決めておりました。フロリダ州、ジョージア州、テネシー州にある3つの大学。レンタカーを借りて回ったところ、フロリダ州のある短期大学に自分の可能性が見えた気がしたのでした。

最終的には簡単な理由ですが、治安が一番良かった、と言う事です。

元々はSOCIAL WORKと言う科目が充実していると言うのが3校の共通点でしたが、SOCIAL WORKとは何ぞや、と言うと何を読んでもイマイチぴんと来ない。だからこそ試してみたいと言うのが本音ですが、これを大前提にはしたくなかった。思ったものと違うからと言って、また方向転換はしていられない訳です。

計算尽くよりは、単純にこの町に住んでみたい、ここが好き、と感じる大学に行こう、と言う「勘」で決めた方角が自分を深められる事ってあります。

ジョージア州の大学はサバンナと言う歴史ある所でしたが、大学横の飲食店に入ってみると、ゴミで足の踏み場もない、と言う状況で、しかもドアを開けて入った途端、みんながギョロッ!と振り向いて怪しげな空気を感じた事もありました。

途中の道では、交差点で停まっていた車に突然パトカーが駆け寄り、警察官が運転手を引き釣り出す光景、州都アトランタのオリンピック前の異様な盛り上がりと緊迫状態がありました。

 

テネシー州はナッシュビル。ロックンロールのメッカと言うか、みんな愉快な感じでとても良かったですね。流石に州都だけあって、大都市な上に南部の血があって、治安に関しては相当心配だったりもしました。

 

そんな中で、フロリダ州のパナマシティと言う町は、とても小さい海沿いの町です。人混み

とは無縁で、高速道路も無く、大きなビルもない。白い砂浜が雪に見え、エメラルドグリーンの海を見て目を疑ったほど。大学は橋をくぐった湾に沿った静かな環境にあって、他とは全く真逆のイメージでした。問題の治安が気になりました。

夜になって、ダウンタウンや町を走ってみると、人気のない道を普通に人が歩いているではないですか。オクラホマでは夕暮れになると外には出られなくなったのに、22時になっても人が歩いている。もう少しドライブしようと人気のない道を車で走っているとHAPPY COATと言う小さい店が出てきた。

どうやら日本食の店らしく、まず入ってみようと思った。

大体、アメリカのこういう店は、アジア人経営の「なんちゃって日本食屋」なのは承知の上なので、割り切って入ったら、意外にも60歳前後の日本人夫婦のお店でした。

フロリダ州マイアミ近くから越してきたそうでフロリダ歴は10年以上。吉田さんと言う、いかにも職人気質のオーナーで口が悪い。

「こんな田舎町には何もない」そんな話の中で、殆ど日本人も見かけないと言う。居ても「年寄り」しかいないと。初めは自分達の事を言っているのかと思ったら、この町にはミリタリーがあるために、アメリカ人と結婚した日本人の奥さん達は数えるほどだけど居る、と言う事が分かった。

だけど、この吉田さん夫婦はみんなとは仲が悪いらしく、あまり突っ込んだ話までは出来ませんでした。

考えれば、同じ州内とは言え何故1,000キロ以上離れたマイアミから越してきたのか、10年前まではどこに居たのか、何故みんなと仲が悪いのか?気になるのはさておきます。

色々と見聞きした結果、この町に引っ越しをする事に決め、オクラホマに戻ります。

約4,000kmの長いドライブでしたが、まだまだアメリカのほんの一部をドライブしたに過ぎません。

 

 

大学に入学となると、新たに!-20と言うものが必要になります。

旅行者ではなく、米国で勉強するためのF1ビザと言うものを取得するために必要な入学許可のようなものです。

その為には、TOEFL(英語力)のスコアを上げなければなりません。

と言う事で、この大学の入学を視野に入れて、勉強を始めました。

半年ほどでしょうか、無事にオクラホマの大学の英語クラスも卒業、TOEFLも230と、もしかして今の基準とはスコアが異なるかもしれませんが、当時はこれでフロリダの大学の入学条件が整いました。当時はGULF COAST COMMUNITY COLLEGE(州立短大)でしたが、今はGULF COAST STATE COLLEGEと変更になっているようです。

https://www.gulfcoast.edu/admissions/admissions-international-students/index.html

 

あとは願書を取り寄せて、I-20の発行を待つことになりますが、セメスター制と言って、入学時期が4期あります。

翌年5月の入学に向け、また一旦日本に帰国する事になります。

 

オクラホマに渡米した後を駆け足で説明しましたが、勿論ずっとアパートに閉じこもって勉強していた訳ではありません。次回はこの帰国までの体験談を書いてみたいと思います。